第二十六話「言えなかったこと」
二〇二六年(令和八年)四月二十七日、月曜日。
午前八時十五分。
東京都立桜丘高校、三年四組。
「……でさ、結局あそこ行ったんだよね!」
「……えっ、マジ?」
「……マジマジ! めっちゃ混んでたけど!」
週明けの教室は、いつもどおり賑やかだった。
週末に遊びに行った場所。
観てきた映画。
気になっている店。
生徒たちは、それぞれの話題で盛り上がっている。
その中心にいたのは、橘莉子だった。
「……だから、今度みんなで行こうよ!」
「……いいじゃん!」
「……橘が言うなら間違いないって!」
「……何それ! 私、別にそんな詳しくないし!」
莉子が笑う。
つられるように、周囲も笑った。
そこへ。
「……おはようございます」
水瀬結衣が教室へ入ってきた。
近くにいた女子生徒が、一瞬だけ顔を上げる。
「……あ、おはよ」
「……おはよう」
短いやり取り。
結衣は、自分の席へ向かった。
莉子も、入口へ視線を向けていた。
ほんの一瞬。
結衣と目が合いそうになる。
「…………」
莉子は、先に顔を逸らした。
「……で、さっきの話なんだけど!」
何事もなかったように、友人たちとの会話へ戻る。
結衣も、それ以上そちらを見なかった。
その光景を、少し離れた席から見ていた生徒がいる。
藤原悠真だった。
(……まただ)
莉子が結衣に何か言ったわけではない。
誰かに無視するよう指示したわけでもない。
ただ、話しかけなかった。
それだけだった。
けれど。
「……やっぱ、橘って水瀬のこと苦手なんじゃね?」
近くで、男子生徒が小声で言った。
「……だろうな。全然話さないし」
「……昔は仲良かったらしいけど」
「……へえ、そうなんだ」
悠真は、顔を上げなかった。
机の中で、スマートフォンが短く震えた。
画面を確かめる。
クラスの一部の生徒が参加しているグループチャット。
また、新しいメッセージが届いていた。
『水瀬、今日も一人じゃん』
『橘に嫌われてるならしゃーなくね?』
悠真は、画面を伏せた。
(……勝手に決めつけてるだけじゃん)
そう思った。
けれど、声には出さなかった。
◇
二時間目の休み時間。
「……ねえ、昨日の写真送ってよ」
「……あ、まだ送ってなかったっけ?」
「……うん。あとでお願い!」
莉子は、友人たちと話しながら教室を出ていった。
しばらくして。
近くにいた女子生徒の一人が、声を落とした。
「……ねえ。橘って、やっぱ水瀬のこと嫌いなのかな」
「……どうだろ。全然話さないよね」
「……話しかけてもないし」
「……何かあったんじゃない?」
「……でもさ、橘があんな感じなら、こっちも無理に話さなくてよくない?」
「……まあね」
特別な悪意を込めた口調ではなかった。
ただ、いつもの雑談の延長。
それが、悠真には余計に嫌だった。
誰も、莉子本人に確かめていない。
結衣に理由を聞いたわけでもない。
それなのに、まるで答えが決まっているかのように話している。
教室の扉が開いた。
「……ただいまー」
莉子が戻ってくる。
「あ、橘!」
「……ん?」
「……水瀬と何かあったの?」
「…………え?」
莉子の足が止まった。
「……いや、別に」
「……でも、最近全然話してなくない?」
「……まあ、あんまり話してないけど」
「……やっぱ何かあったんだ?」
「……だから、別にそういうのじゃ……」
莉子は、言いかけて口を閉じた。
自分でも、どう説明すればいいのか分からなかった。
水瀬とは、昔から知り合いだ。
以前は、普通に話していた。
けれど、今は違う。
何となく話しかけにくい。
今さら、何を話せばいいのかも分からない。
だから、話さない。
それだけのことだった。
「……まあ、最近はあんまり話すことないし」
莉子は、そう答えた。
「……あー、なるほどね」
「……そっか」
友人たちは、勝手に納得したようだった。
莉子は、少し引っかかるものを感じた。
けれど。
「……で、次の授業って移動だっけ?」
話題を変えた。
それ以上、何も言わなかった。
◇
午後零時四十五分。
昼休み。
悠真は、自分の席でパンを食べながら、スマートフォンを見つめていた。
例のグループチャット。
週末から、結衣についての書き込みが続いていた。
『今日も誰とも喋ってなくね?』
『あれでよく学校来れるよな』
『体育のときも浮いてたじゃん』
悠真の指が、画面の上で止まった。
金曜日の体育。
結衣は、なかなかパスをもらえなかった。
同じチームには入っていた。
けれど、そこにいるだけだった。
山本先生が声をかけたあとも、大きくは変わらなかった。
(……先生も、気づいてたよな)
悠真は、教室の向こうを見た。
結衣は、一人で昼食を取っている。
小さな弁当箱。
机の端に置かれた水筒。
時折、スマートフォンを見ることはあっても、誰かと会話する様子はない。
だからといって、結衣がいつも一人というわけではない。
放課後の体育館では、女子バレー部の仲間たちと普通に話している。
笑っているところも見たことがある。
それなのに、この教室では違った。
スマートフォンが、また震えた。
『てか、水瀬って何考えてるか分かんなくね?』
悠真は、画面を閉じようとした。
しかし、指が止まった。
(……何考えてるか分かんないって……)
だったら、話してみればいい。
そう思った。
けれど、自分だって話しかけていない。
悠真は、唇を噛んだ。
以前、一度だけ。
結衣についての陰口が始まったとき、軽く止めようとしたことがあった。
「……別に、そこまで言わなくてもよくね?」
そのとき、返ってきた言葉。
「……何、お前。水瀬のこと好きなの?」
「……えっ、マジ?」
「……藤原、水瀬のこと気になってんの?」
笑われた。
冗談だと言われた。
けれど、悠真には笑えなかった。
自分まで標的になるのが怖かった。
それ以来、何も言えなくなった。
(……また、ああなるのかな)
スマートフォンを握る手に、少し力が入る。
金曜日の夜。
悠真は、チャットの入力欄に言葉を打った。
『もうやめろよ』
けれど、送れなかった。
何度も読み返して。
結局、消した。
今も、同じだった。
言いたいことはある。
おかしいと思っている。
でも、怖い。
(……俺が言ったって……)
悠真は、俯いた。
やめろと言えば、またからかわれるかもしれない。
自分の言葉なんて、誰も聞いてくれないかもしれない。
それでも、結衣への陰口は続いている。
画面を閉じても。
見ないふりをしても。
何も変わらない。
「…………」
悠真は、ゆっくりと顔を上げた。
(……じゃあ……)
自分一人で止められないのなら。
(……誰かに、頼めばいいのか……)
思い浮かんだのは、山本先生だった。
体育の授業で、結衣が一人にならないよう声をかけていた。
あのときの先生は、本気で何かを変えようとしているように見えた。
(……でも、先生に言ったってバレたら……)
怖かった。
やはり、怖かった。
それでも。
悠真は、スマートフォンを鞄へしまった。
そして、机の上のパンを片づけた。
(……今日、話そう)
◇
午後四時十分。
職員室前の廊下。
悠真は、扉の前を行ったり来たりしていた。
立ち止まる。
中を覗く。
やっぱり、やめる。
それを、もう三回ほど繰り返している。
(……何やってんだ、俺……)
自分でも呆れた。
職員室に入って、先生を呼ぶ。
ただ、それだけのこと。
なのに、足が動かなかった。
そのとき。
「……あれ、藤原くん?」
「…………っ!」
突然声をかけられ、悠真は肩を跳ねさせた。
振り返る。
そこにいたのは、瀬戸湊だった。
「……どうしたの? 誰か探してる?」
「……あ、えっと……」
悠真は、少し迷った。
「……山本先生、いますか?」
「……山本先生? うん、いると思うよ」
瀬戸は、職員室の中を覗いた。
「……あ、いたいた」
そして、少し大きな声で呼んだ。
「……リン先生! 生徒が来てるよ!」
奥の席から、凛が顔を上げた。
『……ん?』
悠真を見つける。
『……悠真?』
凛が、席を立った。
『……どうした。何かあったか?』
「……あ、いや……」
悠真は、言葉を詰まらせた。
瀬戸が、二人を見比べる。
「……じゃあ、僕はこれで」
軽く手を振り、職員室へ戻っていった。
凛は、悠真へ向き直った。
『……何か、話があるのか?』
「…………」
悠真は、頷いた。
『……分かった』
凛は、少しだけ声を落とした。
『……ここでは話しにくいか?』
「……はい」
『……そうか』
凛は、職員室へ一度戻った。
近くにいた早川奈緒へ、短く声をかける。
『……早川先生。少し生徒の相談を聞いてきます』
「……分かりました」
そして、廊下へ戻った。
『……行こうか』
悠真は、黙って頷いた。
◇
空いていた面談室。
凛は、悠真を椅子へ座らせた。
自分も、向かい側に腰を下ろす。
『……それで、どうした?』
「…………」
悠真は、膝の上で両手を握っていた。
言葉が出てこない。
凛は、しばらく待った。
『……急がなくていい』
「…………」
『……話せるところからで構わない』
悠真は、小さく息を吸った。
「……先生」
『……ああ』
「……水瀬のことなんですけど……」
凛の表情が、わずかに変わった。
『……結衣のことか』
「……はい」
悠真は、鞄からスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
指が、少し震えていた。
「……これ、見てもらってもいいですか」
『……ああ』
差し出された画面。
凛は、覗き込んだ。
そこには、短い文章がいくつも並んでいた。
名前。
絵文字。
誰かが送った言葉に対する、別の誰かの反応。
凛には、細かな操作方法は分からなかった。
けれど。
書かれている内容は、分かった。
『…………』
画面を見つめる。
『水瀬って、ほんと空気読めないよな』
『いるだけで気まずくなる』
『橘も避けてるし、察しろって感じ』
次々と並ぶ言葉。
凛の眉間に、深い皺が寄った。
『……これは……』
「……クラスのグループです」
『……グループ?』
「……全員じゃないですけど、何人か入ってるやつで……」
悠真は、画面を指さした。
「……そこで、ずっと水瀬のこと言ってるんです」
凛は、もう一度画面を見た。
『……結衣は、このことを知っているのか?』
「……分からないです」
『……そうか』
凛は、ゆっくりと息を吐いた。
頭の中に、金曜日の体育の授業が浮かぶ。
なかなかパスをもらえなかった結衣。
一人でボールを片づけていた姿。
そして、話を聞こうとしても「大丈夫です」と答えたこと。
(……こういうことだったのか……)
凛は、唇を引き結んだ。
『……悠真』
「……はい」
『……お前は、ここに何か書いたのか?』
「……いえ」
悠真は、首を横に振った。
「……俺、見てるだけで……」
『……そうか』
「……でも、一回だけ……」
悠真は、言いかけて止まった。
凛は、待った。
「……前に、やめた方がいいって言ったことはあるんです」
『……ああ』
「……そしたら……」
悠真は、膝の上へ視線を落とした。
「……水瀬のこと好きなのかって、からかわれて」
『…………』
「……別に、そういうんじゃなくて……」
声が、小さくなっていく。
「……ただ、言いすぎだろって思っただけなんですけど……」
凛は、何も言わなかった。
「……それから、怖くなって……」
悠真の手が、ぎゅっと握られた。
「……何も、言えなくなって……」
『…………』
「……金曜日も、やめろって打ったんです」
凛が、顔を上げた。
「……でも、送れなくて……」
悠真は、唇を噛んだ。
「……俺、何もしてないんです」
『…………』
「……水瀬がああなってるのに、知ってたのに……」
声が、少し震えた。
「……ずっと、見てるだけで……」
凛は、目の前の少年を見つめていた。
悠真の肩は、わずかに震えている。
怖いのだ。
今、こうして話していることさえ。
凛は、静かに口を開いた。
『……悠真』
「……はい……」
『……話してくれて、ありがとう』
悠真が、顔を上げた。
『……よく、来てくれた』
「…………」
『……怖かっただろう』
悠真は、答えられなかった。
ただ、小さく頷いた。
そして。
「……先生……」
『……ああ』
「……俺、どうしたらいいか分からないんです」
悠真の目が、少し潤んでいた。
「……また自分がからかわれるのは嫌だし……」
「……でも、このままなのも嫌で……」
俯いたまま、言葉を絞り出す。
「……俺じゃ、どうにもできなくて……」
短い沈黙。
悠真は、顔を上げた。
「……助けてください」
凛は、息を止めた。
「……先生、俺……」
「……助けてほしいです」
『…………』
凛は、まっすぐ悠真を見た。
そして、頷いた。
『……分かった』
短い返事だった。
『……私たち大人にも任せてくれ』
「…………」
『……お前一人で、何とかしなくていい』
悠真の表情が、少しだけ崩れた。
『……悠真が話してくれたことも、勝手にほかの生徒へ明かさない。どう対応するかは、先生たちで考える』
「……はい……」
『……それと』
凛は、少しだけ声を柔らかくした。
『……何もしていないなんてことはない』
「……え?」
『……今日、ここへ来ただろう』
「…………」
『……それだけでも、簡単なことじゃなかったはずだ』
悠真は、俯いた。
しばらくして。
「……はい……」
小さな返事が返ってきた。
凛は、頷いた。
『……ありがとう、悠真』
その言葉に、悠真はようやく肩の力を抜いた。
◇
午後四時四十五分。
職員室。
「……それは、確認が必要ですね」
早川奈緒は、凛の話を聞きながら、表情を引き締めた。
『……はい』
「……藤原くんは、どうしていますか?」
『……今は帰宅させました。必要があれば、また話を聞いてもいいと言ってくれています』
「……分かりました」
早川は、机の上のメモへ視線を落とした。
「……まず、投稿の内容を整理しましょう。誰が、いつ、何を書いたのか」
『……はい』
「……それから、水瀬さんが今どんな状況にあるかも確認しないといけません」
『……そうですね』
「……ただ、本人が話したくないことまで無理に聞き出すのは避けましょう」
凛は、頷いた。
早川は、続けた。
「……それと、藤原くんのことです」
『……はい』
「……相談してくれた生徒が、今度は責められるようなことになってはいけません」
『……分かっています』
「……学年主任にも共有して、複数の教員で対応を考えましょう」
『……お願いします』
凛は、深く頭を下げた。
早川は、少しだけ息を吐いた。
「……山本先生」
『……はい』
「……こういうときほど、急がずに事実を確かめることが大切です」
『…………』
「……気持ちが先に出てしまうと、生徒たちも身構えますから」
凛は、静かに頷いた。
『……はい』
分かっていた。
早川の言うことは、正しい。
事実を確認する。
誰か一人を決めつけない。
生徒たちの話を聞く。
それが必要なのだと、頭では理解していた。
けれど。
凛の頭からは、あの画面に並んだ言葉が離れなかった。
(……あんなものを……)
顔を合わせれば、普通に挨拶する相手。
同じ教室で、一緒に授業を受けている相手。
その相手に向かって、あれほど簡単に言葉を投げつけられる。
凛には、理解できなかった。
(……どうして……)
拳で殴らなくても、人は傷つく。
むしろ、見えないところから投げつけられる言葉の方が、深く残ることもある。
凛は、拳を握った。
(……こんなこと……)
許していいはずがない。
そう思った。
◇
午後五時五分。
三年四組。
凛は、忘れていた資料を取りに教室へ戻った。
廊下には、部活動へ向かう生徒や、下校する生徒の声が響いている。
教室の扉を開けようとしたときだった。
「……あの、橘さん」
結衣の声が聞こえた。
凛は、足を止めた。
教室の中。
結衣が、机の横に立っていた。
その少し先には、莉子がいる。
「……何?」
莉子が、振り返る。
結衣は、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「……今日の英語のプリントなんだけど……」
「あ、ごめん莉子! ちょっと来て!」
教室の入口から、別の女子生徒が声をかけた。
「あ、うん!」
莉子は、そちらへ顔を向けた。
そして、結衣へ短く言う。
「……ごめん、今ちょっと」
「……あ、うん」
莉子は、そのまま友人の方へ歩いていった。
結衣は、一人取り残された。
少しだけ、肩を落とす。
凛は、その姿を見ていた。
(……またか……)
胸の奥に、嫌なものが込み上げる。
金曜日の体育。
今日の悠真の相談。
そして、今の光景。
すべてが、凛の中で一つにつながってしまった。
(……莉子……)
結衣が、凛に気づいた。
「……あ、山本先生」
『……結衣』
凛は、少しだけ表情を緩めた。
『……もう帰るのか?』
「……いえ、部活です」
『……そうか』
凛は、頷いた。
『……気をつけてな』
「……はい。失礼します」
結衣は、鞄を持って教室を出ていった。
凛は、その背中を見送った。
そして。
廊下の向こうにいる莉子へ、視線を向けた。
◇
『……莉子』
「……え?」
呼び止められた莉子が、振り返った。
「……山本先生?」
『……少し、話がある』
「……今ですか?」
『……ああ。少しだけでいい』
莉子は、友人たちを振り返った。
「……ごめん、先帰ってて!」
「……え、どうしたの?」
「……先生に呼ばれた」
「……あー、了解!」
友人たちは、軽く手を振って去っていった。
莉子は、凛へ向き直った。
「……何ですか?」
『……ここでは話しにくい。少し、場所を変えよう』
「…………」
莉子は、怪訝そうな顔をした。
それでも、黙って後についていった。
◇
空いていた小会議室。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。
莉子は、椅子には座らず、入口の近くに立っていた。
「……それで、何ですか?」
凛は、莉子へ向き直った。
『……結衣のことだ』
「…………え?」
莉子の眉が、わずかに動いた。
「……水瀬?」
『……ああ』
「……水瀬が、何か?」
凛は、少し言葉を選んだ。
『……最近、結衣と話しているか?』
「…………」
莉子は、首を傾げた。
「……別に、あんまり」
『……そうか』
「……それが、何か?」
『……避けているように見えるんだ』
莉子の表情が、少し変わった。
「……え?」
『……結衣を、避けているんじゃないのか』
「…………」
莉子は、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ顔をしかめる。
「……何で、そんなこと聞くんですか?」
『……結衣が、教室で一人になっていることが多い』
「……それは……」
『……お前も、気づいているだろう』
「…………」
莉子は、視線を逸らした。
気づいていなかったわけではない。
水瀬が教室で一人でいることが多いのは、知っていた。
周囲が水瀬について、あまりよくないことを話しているのも聞いたことがある。
自分も、話を合わせたことがある。
けれど。
「……それ、私に関係ありますか?」
凛の眉が、わずかに動いた。
『……関係がないとは思えない』
「……何でですか?」
『……莉子は、クラスの中心にいるだろう』
「…………」
『……お前の態度が、周りにも影響しているんじゃないのか』
莉子は、目を見開いた。
「……は?」
凛は、続けた。
『……結衣を避けることで、周りも同じように接しているんじゃないのか』
「……ちょっと待ってください」
莉子の声が、少し強くなった。
「……何で、私がそんなこと言われなきゃいけないんですか?」
『……結衣が、つらい思いをしているからだ』
「……だから、何で私なんですか?」
凛は、答えようとした。
けれど、莉子が先に言った。
「……私、水瀬に何かしたわけじゃないです」
『…………』
「……悪口言ったり、何か嫌がらせしたりしたわけでもないし」
凛は、言葉に詰まった。
確かに。
莉子が結衣本人へ直接何かしたところを、凛は見ていない。
悠真の見せたチャットにも、複数の生徒が参加していた。
莉子が中心になって陰口を書いていると確認できたわけでもない。
それでも。
(……でも、避けているのは事実だろう……)
凛は、莉子を見つめた。
『……本当に、何もしていないと言えるのか?』
「…………」
莉子の表情が、固まった。
『……結衣があんな状態になっているのに、何も感じないのか?』
「…………っ」
莉子は、唇を噛んだ。
凛の言葉は、正しいことを言っているように聞こえた。
けれど。
自分の話を、何も聞いてもらえていない気がした。
水瀬とは、昔から知り合いだった。
今は、あまり話さない。
それは事実だ。
だけど、どうしてそうなったのか。
自分でも、うまく説明できない。
それなのに。
先生は、最初から自分が悪いと決めている。
「……先生」
『……何だ』
「……誰から聞いたんですか?」
『…………』
凛は、動きを止めた。
「……私が水瀬を避けてるって、誰が言ったんですか?」
『……それは、言えない』
「……何で?」
『……相談してくれた生徒のことは、守らなければならない』
莉子の目が、わずかに細くなった。
「……相談?」
『…………』
「……誰か、先生に言ったってことですか?」
凛は、答えなかった。
悠真のことは、絶対に明かせない。
しかし、その沈黙を。
莉子は、別の意味に受け取った。
「……水瀬ですか?」
『……莉子』
「……水瀬が、何か言ったんですか?」
『……誰が話したかは、今は言えない』
「…………」
莉子は、しばらく凛を見つめていた。
そして、ふっと視線を落とした。
「……そうですか」
『……莉子、私は……』
「……もういいです」
凛の言葉を、遮った。
「……私、別に水瀬のこと嫌いとか、そういうんじゃないんで」
『…………』
「……ただ、最近話してないだけです」
それだけ言うと、莉子は鞄を持った。
「……失礼します」
『……待て、莉子』
「……何ですか?」
莉子は、振り返った。
その目には、はっきりとした反発があった。
凛は、言葉を探した。
何を言えばいいのか。
どこから聞き直せばいいのか。
しかし、うまく出てこなかった。
『……いや……』
「……じゃあ、帰ります」
莉子は、扉を開けた。
廊下へ出ていく。
凛は、その背中を見送ることしかできなかった。
◇
午後五時三十五分。
帰り道。
莉子は、一人で歩いていた。
スマートフォンには、友人たちからのメッセージが届いている。
『先生、何だった?』
『怒られた?』
『大丈夫?』
莉子は、画面を見つめた。
いつもなら、すぐに返事をする。
冗談を混ぜて。
適当に笑って。
何でもないことのように。
けれど、今はそんな気分になれなかった。
(……何で、私なの?)
凛の言葉が、頭から離れない。
『結衣が、教室で一人になっている』
『お前の態度が、周りにも影響しているんじゃないのか』
(……知らないし……)
そう思った。
自分は、水瀬に何かした覚えはない。
ひどいことを言った覚えもない。
ただ、話さなくなっただけ。
昔みたいに、何でも話せるわけじゃなくなっただけ。
(……それって、そんなに悪いこと?)
莉子は、歩く速度を少し落とした。
ふと、教室での会話を思い出す。
『橘って、水瀬のこと嫌いなのかな』
『全然話さないじゃん』
そんなことを言われたことがあった。
そのたびに。
はっきり否定したわけではなかった。
周りが水瀬のことを悪く言っていても、強く止めたりはしなかった。
(…………)
莉子は、小さく唇を噛んだ。
気にならなかったわけじゃない。
けれど、そこで「違う」と言えば、何かを聞かれる。
どうして話さなくなったのか。
本当はどう思っているのか。
そんなこと、自分でも分からない。
(……だからって……)
凛の厳しい表情が、浮かぶ。
(……先生まで、私が悪いって決めつけなくてもいいじゃん……)
そして。
もう一つの疑問が、頭をもたげた。
(……水瀬が、先生に何か言ったのかな……)
もし、そうなら。
自分の知らないところで、何を話したのだろう。
水瀬は、自分のことをどう思っているのだろう。
莉子は、スマートフォンを握り直した。
画面には、友人からの新しいメッセージ。
『ねえ、ほんと大丈夫?』
莉子は、短く返した。
『大丈夫』
送信して、スマートフォンを鞄へしまう。
けれど。
大丈夫ではなかった。
凛に問い詰められたことも。
水瀬のことも。
何一つ、納得できていない。
莉子は、少しだけ俯いた。
(……明日、聞いてみようかな……)
そう思った。
直接、水瀬に。
先生へ何を話したのか。
どうして、自分が責められなければならなかったのか。
その答えを、確かめたかった。
◇
同じ頃。
桜丘高校、職員室。
凛は、自分の席に座っていた。
机の上には、悠真から聞いた内容を書き留めたメモ。
早川と確認することになった項目も、並んでいる。
事実確認。
本人への聞き取り。
情報提供者の保護。
学校としての対応。
どれも、必要なことだった。
凛は、その文字を見つめた。
(……早川先生は、落ち着いて確認しろと言っていた……)
その通りだった。
それなのに、自分は莉子を呼び止めた。
問い詰めた。
結衣を避けていることを、責めた。
そして。
(……私は、莉子の話を聞いたか?)
凛は、目を閉じた。
莉子は、何度も聞いていた。
『何で私なんですか?』
『私、水瀬に何かしたわけじゃないです』
あの言葉に、自分はちゃんと答えただろうか。
相手の話を、聞こうとしただろうか。
(…………)
凛は、ゆっくりと息を吐いた。
悠真には、待てた。
言葉が出てくるまで、急かさずに聞くことができた。
なのに。
莉子には、それができなかった。
(……何をしているんだ、私は……)
机の上のメモを見つめる。
悠真は、勇気を出して助けを求めてくれた。
その勇気に、応えたかった。
結衣を守りたかった。
それは、本当だ。
けれど。
守りたいという気持ちが強すぎて、別の生徒を追い詰めてしまったのではないか。
凛は、額に手を当てた。
(……明日、もう一度……)
莉子と話さなければならない。
今度こそ、ちゃんと聞かなければ。
そう思った。
しかし。
その翌朝、三年四組で何が起こるのか。
このときの凛は、まだ知らなかった。




