↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/42

第二十六話「言えなかったこと」

 二〇二六年(令和八年)四月二十七日、月曜日。


 午前八時十五分。


 東京都立桜丘高校、三年四組。


「……でさ、結局あそこ行ったんだよね!」


「……えっ、マジ?」


「……マジマジ! めっちゃ混んでたけど!」


 週明けの教室は、いつもどおり賑やかだった。


 週末に遊びに行った場所。


 観てきた映画。


 気になっている店。


 生徒たちは、それぞれの話題で盛り上がっている。


 その中心にいたのは、橘莉子だった。


「……だから、今度みんなで行こうよ!」


「……いいじゃん!」


「……橘が言うなら間違いないって!」


「……何それ! 私、別にそんな詳しくないし!」


 莉子が笑う。


 つられるように、周囲も笑った。


 そこへ。


「……おはようございます」


 水瀬結衣が教室へ入ってきた。


 近くにいた女子生徒が、一瞬だけ顔を上げる。


「……あ、おはよ」


「……おはよう」


 短いやり取り。


 結衣は、自分の席へ向かった。


 莉子も、入口へ視線を向けていた。


 ほんの一瞬。


 結衣と目が合いそうになる。


「…………」


 莉子は、先に顔を逸らした。


「……で、さっきの話なんだけど!」


 何事もなかったように、友人たちとの会話へ戻る。


 結衣も、それ以上そちらを見なかった。


 その光景を、少し離れた席から見ていた生徒がいる。


 藤原悠真だった。


(……まただ)


 莉子が結衣に何か言ったわけではない。


 誰かに無視するよう指示したわけでもない。


 ただ、話しかけなかった。


 それだけだった。


 けれど。


「……やっぱ、橘って水瀬のこと苦手なんじゃね?」


 近くで、男子生徒が小声で言った。


「……だろうな。全然話さないし」


「……昔は仲良かったらしいけど」


「……へえ、そうなんだ」


 悠真は、顔を上げなかった。


 机の中で、スマートフォンが短く震えた。


 画面を確かめる。


 クラスの一部の生徒が参加しているグループチャット。


 また、新しいメッセージが届いていた。


『水瀬、今日も一人じゃん』


『橘に嫌われてるならしゃーなくね?』


 悠真は、画面を伏せた。


(……勝手に決めつけてるだけじゃん)


 そう思った。


 けれど、声には出さなかった。


     ◇


 二時間目の休み時間。


「……ねえ、昨日の写真送ってよ」


「……あ、まだ送ってなかったっけ?」


「……うん。あとでお願い!」


 莉子は、友人たちと話しながら教室を出ていった。


 しばらくして。


 近くにいた女子生徒の一人が、声を落とした。


「……ねえ。橘って、やっぱ水瀬のこと嫌いなのかな」


「……どうだろ。全然話さないよね」


「……話しかけてもないし」


「……何かあったんじゃない?」


「……でもさ、橘があんな感じなら、こっちも無理に話さなくてよくない?」


「……まあね」


 特別な悪意を込めた口調ではなかった。


 ただ、いつもの雑談の延長。


 それが、悠真には余計に嫌だった。


 誰も、莉子本人に確かめていない。


 結衣に理由を聞いたわけでもない。


 それなのに、まるで答えが決まっているかのように話している。


 教室の扉が開いた。


「……ただいまー」


 莉子が戻ってくる。


「あ、橘!」


「……ん?」


「……水瀬と何かあったの?」


「…………え?」


 莉子の足が止まった。


「……いや、別に」


「……でも、最近全然話してなくない?」


「……まあ、あんまり話してないけど」


「……やっぱ何かあったんだ?」


「……だから、別にそういうのじゃ……」


 莉子は、言いかけて口を閉じた。


 自分でも、どう説明すればいいのか分からなかった。


 水瀬とは、昔から知り合いだ。


 以前は、普通に話していた。


 けれど、今は違う。


 何となく話しかけにくい。


 今さら、何を話せばいいのかも分からない。


 だから、話さない。


 それだけのことだった。


「……まあ、最近はあんまり話すことないし」


 莉子は、そう答えた。


「……あー、なるほどね」


「……そっか」


 友人たちは、勝手に納得したようだった。


 莉子は、少し引っかかるものを感じた。


 けれど。


「……で、次の授業って移動だっけ?」


 話題を変えた。


 それ以上、何も言わなかった。


     ◇


 午後零時四十五分。


 昼休み。


 悠真は、自分の席でパンを食べながら、スマートフォンを見つめていた。


 例のグループチャット。


 週末から、結衣についての書き込みが続いていた。


『今日も誰とも喋ってなくね?』


『あれでよく学校来れるよな』


『体育のときも浮いてたじゃん』


 悠真の指が、画面の上で止まった。


 金曜日の体育。


 結衣は、なかなかパスをもらえなかった。


 同じチームには入っていた。


 けれど、そこにいるだけだった。


 山本先生が声をかけたあとも、大きくは変わらなかった。


(……先生も、気づいてたよな)


 悠真は、教室の向こうを見た。


 結衣は、一人で昼食を取っている。


 小さな弁当箱。


 机の端に置かれた水筒。


 時折、スマートフォンを見ることはあっても、誰かと会話する様子はない。


 だからといって、結衣がいつも一人というわけではない。


 放課後の体育館では、女子バレー部の仲間たちと普通に話している。


 笑っているところも見たことがある。


 それなのに、この教室では違った。


 スマートフォンが、また震えた。


『てか、水瀬って何考えてるか分かんなくね?』


 悠真は、画面を閉じようとした。


 しかし、指が止まった。


(……何考えてるか分かんないって……)


 だったら、話してみればいい。


 そう思った。


 けれど、自分だって話しかけていない。


 悠真は、唇を噛んだ。


 以前、一度だけ。


 結衣についての陰口が始まったとき、軽く止めようとしたことがあった。


「……別に、そこまで言わなくてもよくね?」


 そのとき、返ってきた言葉。


「……何、お前。水瀬のこと好きなの?」


「……えっ、マジ?」


「……藤原、水瀬のこと気になってんの?」


 笑われた。


 冗談だと言われた。


 けれど、悠真には笑えなかった。


 自分まで標的になるのが怖かった。


 それ以来、何も言えなくなった。


(……また、ああなるのかな)


 スマートフォンを握る手に、少し力が入る。


 金曜日の夜。


 悠真は、チャットの入力欄に言葉を打った。


『もうやめろよ』


 けれど、送れなかった。


 何度も読み返して。


 結局、消した。


 今も、同じだった。


 言いたいことはある。


 おかしいと思っている。


 でも、怖い。


(……俺が言ったって……)


 悠真は、俯いた。


 やめろと言えば、またからかわれるかもしれない。


 自分の言葉なんて、誰も聞いてくれないかもしれない。


 それでも、結衣への陰口は続いている。


 画面を閉じても。


 見ないふりをしても。


 何も変わらない。


「…………」


 悠真は、ゆっくりと顔を上げた。


(……じゃあ……)


 自分一人で止められないのなら。


(……誰かに、頼めばいいのか……)


 思い浮かんだのは、山本先生だった。


 体育の授業で、結衣が一人にならないよう声をかけていた。


 あのときの先生は、本気で何かを変えようとしているように見えた。


(……でも、先生に言ったってバレたら……)


 怖かった。


 やはり、怖かった。


 それでも。


 悠真は、スマートフォンを鞄へしまった。


 そして、机の上のパンを片づけた。


(……今日、話そう)


     ◇


 午後四時十分。


 職員室前の廊下。


 悠真は、扉の前を行ったり来たりしていた。


 立ち止まる。


 中を覗く。


 やっぱり、やめる。


 それを、もう三回ほど繰り返している。


(……何やってんだ、俺……)


 自分でも呆れた。


 職員室に入って、先生を呼ぶ。


 ただ、それだけのこと。


 なのに、足が動かなかった。


 そのとき。


「……あれ、藤原くん?」


「…………っ!」


 突然声をかけられ、悠真は肩を跳ねさせた。


 振り返る。


 そこにいたのは、瀬戸湊だった。


「……どうしたの? 誰か探してる?」


「……あ、えっと……」


 悠真は、少し迷った。


「……山本先生、いますか?」


「……山本先生? うん、いると思うよ」


 瀬戸は、職員室の中を覗いた。


「……あ、いたいた」


 そして、少し大きな声で呼んだ。


「……リン先生! 生徒が来てるよ!」


 奥の席から、凛が顔を上げた。


『……ん?』


 悠真を見つける。


『……悠真?』


 凛が、席を立った。


『……どうした。何かあったか?』


「……あ、いや……」


 悠真は、言葉を詰まらせた。


 瀬戸が、二人を見比べる。


「……じゃあ、僕はこれで」


 軽く手を振り、職員室へ戻っていった。


 凛は、悠真へ向き直った。


『……何か、話があるのか?』


「…………」


 悠真は、頷いた。


『……分かった』


 凛は、少しだけ声を落とした。


『……ここでは話しにくいか?』


「……はい」


『……そうか』


 凛は、職員室へ一度戻った。


 近くにいた早川奈緒へ、短く声をかける。


『……早川先生。少し生徒の相談を聞いてきます』


「……分かりました」


 そして、廊下へ戻った。


『……行こうか』


 悠真は、黙って頷いた。


     ◇


 空いていた面談室。


 凛は、悠真を椅子へ座らせた。


 自分も、向かい側に腰を下ろす。


『……それで、どうした?』


「…………」


 悠真は、膝の上で両手を握っていた。


 言葉が出てこない。


 凛は、しばらく待った。


『……急がなくていい』


「…………」


『……話せるところからで構わない』


 悠真は、小さく息を吸った。


「……先生」


『……ああ』


「……水瀬のことなんですけど……」


 凛の表情が、わずかに変わった。


『……結衣のことか』


「……はい」


 悠真は、鞄からスマートフォンを取り出した。


 画面を開く。


 指が、少し震えていた。


「……これ、見てもらってもいいですか」


『……ああ』


 差し出された画面。


 凛は、覗き込んだ。


 そこには、短い文章がいくつも並んでいた。


 名前。


 絵文字。


 誰かが送った言葉に対する、別の誰かの反応。


 凛には、細かな操作方法は分からなかった。


 けれど。


 書かれている内容は、分かった。


『…………』


 画面を見つめる。


『水瀬って、ほんと空気読めないよな』


『いるだけで気まずくなる』


『橘も避けてるし、察しろって感じ』


 次々と並ぶ言葉。


 凛の眉間に、深い皺が寄った。


『……これは……』


「……クラスのグループです」


『……グループ?』


「……全員じゃないですけど、何人か入ってるやつで……」


 悠真は、画面を指さした。


「……そこで、ずっと水瀬のこと言ってるんです」


 凛は、もう一度画面を見た。


『……結衣は、このことを知っているのか?』


「……分からないです」


『……そうか』


 凛は、ゆっくりと息を吐いた。


 頭の中に、金曜日の体育の授業が浮かぶ。


 なかなかパスをもらえなかった結衣。


 一人でボールを片づけていた姿。


 そして、話を聞こうとしても「大丈夫です」と答えたこと。


(……こういうことだったのか……)


 凛は、唇を引き結んだ。


『……悠真』


「……はい」


『……お前は、ここに何か書いたのか?』


「……いえ」


 悠真は、首を横に振った。


「……俺、見てるだけで……」


『……そうか』


「……でも、一回だけ……」


 悠真は、言いかけて止まった。


 凛は、待った。


「……前に、やめた方がいいって言ったことはあるんです」


『……ああ』


「……そしたら……」


 悠真は、膝の上へ視線を落とした。


「……水瀬のこと好きなのかって、からかわれて」


『…………』


「……別に、そういうんじゃなくて……」


 声が、小さくなっていく。


「……ただ、言いすぎだろって思っただけなんですけど……」


 凛は、何も言わなかった。


「……それから、怖くなって……」


 悠真の手が、ぎゅっと握られた。


「……何も、言えなくなって……」


『…………』


「……金曜日も、やめろって打ったんです」


 凛が、顔を上げた。


「……でも、送れなくて……」


 悠真は、唇を噛んだ。


「……俺、何もしてないんです」


『…………』


「……水瀬がああなってるのに、知ってたのに……」


 声が、少し震えた。


「……ずっと、見てるだけで……」


 凛は、目の前の少年を見つめていた。


 悠真の肩は、わずかに震えている。


 怖いのだ。


 今、こうして話していることさえ。


 凛は、静かに口を開いた。


『……悠真』


「……はい……」


『……話してくれて、ありがとう』


 悠真が、顔を上げた。


『……よく、来てくれた』


「…………」


『……怖かっただろう』


 悠真は、答えられなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 そして。


「……先生……」


『……ああ』


「……俺、どうしたらいいか分からないんです」


 悠真の目が、少し潤んでいた。


「……また自分がからかわれるのは嫌だし……」


「……でも、このままなのも嫌で……」


 俯いたまま、言葉を絞り出す。


「……俺じゃ、どうにもできなくて……」


 短い沈黙。


 悠真は、顔を上げた。


「……助けてください」


 凛は、息を止めた。


「……先生、俺……」


「……助けてほしいです」


『…………』


 凛は、まっすぐ悠真を見た。


 そして、頷いた。


『……分かった』


 短い返事だった。


『……私たち大人にも任せてくれ』


「…………」


『……お前一人で、何とかしなくていい』


 悠真の表情が、少しだけ崩れた。


『……悠真が話してくれたことも、勝手にほかの生徒へ明かさない。どう対応するかは、先生たちで考える』


「……はい……」


『……それと』


 凛は、少しだけ声を柔らかくした。


『……何もしていないなんてことはない』


「……え?」


『……今日、ここへ来ただろう』


「…………」


『……それだけでも、簡単なことじゃなかったはずだ』


 悠真は、俯いた。


 しばらくして。


「……はい……」


 小さな返事が返ってきた。


 凛は、頷いた。


『……ありがとう、悠真』


 その言葉に、悠真はようやく肩の力を抜いた。


     ◇


 午後四時四十五分。


 職員室。


「……それは、確認が必要ですね」


 早川奈緒は、凛の話を聞きながら、表情を引き締めた。


『……はい』


「……藤原くんは、どうしていますか?」


『……今は帰宅させました。必要があれば、また話を聞いてもいいと言ってくれています』


「……分かりました」


 早川は、机の上のメモへ視線を落とした。


「……まず、投稿の内容を整理しましょう。誰が、いつ、何を書いたのか」


『……はい』


「……それから、水瀬さんが今どんな状況にあるかも確認しないといけません」


『……そうですね』


「……ただ、本人が話したくないことまで無理に聞き出すのは避けましょう」


 凛は、頷いた。


 早川は、続けた。


「……それと、藤原くんのことです」


『……はい』


「……相談してくれた生徒が、今度は責められるようなことになってはいけません」


『……分かっています』


「……学年主任にも共有して、複数の教員で対応を考えましょう」


『……お願いします』


 凛は、深く頭を下げた。


 早川は、少しだけ息を吐いた。


「……山本先生」


『……はい』


「……こういうときほど、急がずに事実を確かめることが大切です」


『…………』


「……気持ちが先に出てしまうと、生徒たちも身構えますから」


 凛は、静かに頷いた。


『……はい』


 分かっていた。


 早川の言うことは、正しい。


 事実を確認する。


 誰か一人を決めつけない。


 生徒たちの話を聞く。


 それが必要なのだと、頭では理解していた。


 けれど。


 凛の頭からは、あの画面に並んだ言葉が離れなかった。


(……あんなものを……)


 顔を合わせれば、普通に挨拶する相手。


 同じ教室で、一緒に授業を受けている相手。


 その相手に向かって、あれほど簡単に言葉を投げつけられる。


 凛には、理解できなかった。


(……どうして……)


 拳で殴らなくても、人は傷つく。


 むしろ、見えないところから投げつけられる言葉の方が、深く残ることもある。


 凛は、拳を握った。


(……こんなこと……)


 許していいはずがない。


 そう思った。


     ◇


 午後五時五分。


 三年四組。


 凛は、忘れていた資料を取りに教室へ戻った。


 廊下には、部活動へ向かう生徒や、下校する生徒の声が響いている。


 教室の扉を開けようとしたときだった。


「……あの、橘さん」


 結衣の声が聞こえた。


 凛は、足を止めた。


 教室の中。


 結衣が、机の横に立っていた。


 その少し先には、莉子がいる。


「……何?」


 莉子が、振り返る。


 結衣は、少しだけ言いにくそうに口を開いた。


「……今日の英語のプリントなんだけど……」


「あ、ごめん莉子! ちょっと来て!」


 教室の入口から、別の女子生徒が声をかけた。


「あ、うん!」


 莉子は、そちらへ顔を向けた。


 そして、結衣へ短く言う。


「……ごめん、今ちょっと」


「……あ、うん」


 莉子は、そのまま友人の方へ歩いていった。


 結衣は、一人取り残された。


 少しだけ、肩を落とす。


 凛は、その姿を見ていた。


(……またか……)


 胸の奥に、嫌なものが込み上げる。


 金曜日の体育。


 今日の悠真の相談。


 そして、今の光景。


 すべてが、凛の中で一つにつながってしまった。


(……莉子……)


 結衣が、凛に気づいた。


「……あ、山本先生」


『……結衣』


 凛は、少しだけ表情を緩めた。


『……もう帰るのか?』


「……いえ、部活です」


『……そうか』


 凛は、頷いた。


『……気をつけてな』


「……はい。失礼します」


 結衣は、鞄を持って教室を出ていった。


 凛は、その背中を見送った。


 そして。


 廊下の向こうにいる莉子へ、視線を向けた。


     ◇


『……莉子』


「……え?」


 呼び止められた莉子が、振り返った。


「……山本先生?」


『……少し、話がある』


「……今ですか?」


『……ああ。少しだけでいい』


 莉子は、友人たちを振り返った。


「……ごめん、先帰ってて!」


「……え、どうしたの?」


「……先生に呼ばれた」


「……あー、了解!」


 友人たちは、軽く手を振って去っていった。


 莉子は、凛へ向き直った。


「……何ですか?」


『……ここでは話しにくい。少し、場所を変えよう』


「…………」


 莉子は、怪訝そうな顔をした。


 それでも、黙って後についていった。


     ◇


 空いていた小会議室。


 窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。


 莉子は、椅子には座らず、入口の近くに立っていた。


「……それで、何ですか?」


 凛は、莉子へ向き直った。


『……結衣のことだ』


「…………え?」


 莉子の眉が、わずかに動いた。


「……水瀬?」


『……ああ』


「……水瀬が、何か?」


 凛は、少し言葉を選んだ。


『……最近、結衣と話しているか?』


「…………」


 莉子は、首を傾げた。


「……別に、あんまり」


『……そうか』


「……それが、何か?」


『……避けているように見えるんだ』


 莉子の表情が、少し変わった。


「……え?」


『……結衣を、避けているんじゃないのか』


「…………」


 莉子は、しばらく黙っていた。


 やがて、少しだけ顔をしかめる。


「……何で、そんなこと聞くんですか?」


『……結衣が、教室で一人になっていることが多い』


「……それは……」


『……お前も、気づいているだろう』


「…………」


 莉子は、視線を逸らした。


 気づいていなかったわけではない。


 水瀬が教室で一人でいることが多いのは、知っていた。


 周囲が水瀬について、あまりよくないことを話しているのも聞いたことがある。


 自分も、話を合わせたことがある。


 けれど。


「……それ、私に関係ありますか?」


 凛の眉が、わずかに動いた。


『……関係がないとは思えない』


「……何でですか?」


『……莉子は、クラスの中心にいるだろう』


「…………」


『……お前の態度が、周りにも影響しているんじゃないのか』


 莉子は、目を見開いた。


「……は?」


 凛は、続けた。


『……結衣を避けることで、周りも同じように接しているんじゃないのか』


「……ちょっと待ってください」


 莉子の声が、少し強くなった。


「……何で、私がそんなこと言われなきゃいけないんですか?」


『……結衣が、つらい思いをしているからだ』


「……だから、何で私なんですか?」


 凛は、答えようとした。


 けれど、莉子が先に言った。


「……私、水瀬に何かしたわけじゃないです」


『…………』


「……悪口言ったり、何か嫌がらせしたりしたわけでもないし」


 凛は、言葉に詰まった。


 確かに。


 莉子が結衣本人へ直接何かしたところを、凛は見ていない。


 悠真の見せたチャットにも、複数の生徒が参加していた。


 莉子が中心になって陰口を書いていると確認できたわけでもない。


 それでも。


(……でも、避けているのは事実だろう……)


 凛は、莉子を見つめた。


『……本当に、何もしていないと言えるのか?』


「…………」


 莉子の表情が、固まった。


『……結衣があんな状態になっているのに、何も感じないのか?』


「…………っ」


 莉子は、唇を噛んだ。


 凛の言葉は、正しいことを言っているように聞こえた。


 けれど。


 自分の話を、何も聞いてもらえていない気がした。


 水瀬とは、昔から知り合いだった。


 今は、あまり話さない。


 それは事実だ。


 だけど、どうしてそうなったのか。


 自分でも、うまく説明できない。


 それなのに。


 先生は、最初から自分が悪いと決めている。


「……先生」


『……何だ』


「……誰から聞いたんですか?」


『…………』


 凛は、動きを止めた。


「……私が水瀬を避けてるって、誰が言ったんですか?」


『……それは、言えない』


「……何で?」


『……相談してくれた生徒のことは、守らなければならない』


 莉子の目が、わずかに細くなった。


「……相談?」


『…………』


「……誰か、先生に言ったってことですか?」


 凛は、答えなかった。


 悠真のことは、絶対に明かせない。


 しかし、その沈黙を。


 莉子は、別の意味に受け取った。


「……水瀬ですか?」


『……莉子』


「……水瀬が、何か言ったんですか?」


『……誰が話したかは、今は言えない』


「…………」


 莉子は、しばらく凛を見つめていた。


 そして、ふっと視線を落とした。


「……そうですか」


『……莉子、私は……』


「……もういいです」


 凛の言葉を、遮った。


「……私、別に水瀬のこと嫌いとか、そういうんじゃないんで」


『…………』


「……ただ、最近話してないだけです」


 それだけ言うと、莉子は鞄を持った。


「……失礼します」


『……待て、莉子』


「……何ですか?」


 莉子は、振り返った。


 その目には、はっきりとした反発があった。


 凛は、言葉を探した。


 何を言えばいいのか。


 どこから聞き直せばいいのか。


 しかし、うまく出てこなかった。


『……いや……』


「……じゃあ、帰ります」


 莉子は、扉を開けた。


 廊下へ出ていく。


 凛は、その背中を見送ることしかできなかった。


     ◇


 午後五時三十五分。


 帰り道。


 莉子は、一人で歩いていた。


 スマートフォンには、友人たちからのメッセージが届いている。


『先生、何だった?』


『怒られた?』


『大丈夫?』


 莉子は、画面を見つめた。


 いつもなら、すぐに返事をする。


 冗談を混ぜて。


 適当に笑って。


 何でもないことのように。


 けれど、今はそんな気分になれなかった。


(……何で、私なの?)


 凛の言葉が、頭から離れない。


『結衣が、教室で一人になっている』


『お前の態度が、周りにも影響しているんじゃないのか』


(……知らないし……)


 そう思った。


 自分は、水瀬に何かした覚えはない。


 ひどいことを言った覚えもない。


 ただ、話さなくなっただけ。


 昔みたいに、何でも話せるわけじゃなくなっただけ。


(……それって、そんなに悪いこと?)


 莉子は、歩く速度を少し落とした。


 ふと、教室での会話を思い出す。


『橘って、水瀬のこと嫌いなのかな』


『全然話さないじゃん』


 そんなことを言われたことがあった。


 そのたびに。


 はっきり否定したわけではなかった。


 周りが水瀬のことを悪く言っていても、強く止めたりはしなかった。


(…………)


 莉子は、小さく唇を噛んだ。


 気にならなかったわけじゃない。


 けれど、そこで「違う」と言えば、何かを聞かれる。


 どうして話さなくなったのか。


 本当はどう思っているのか。


 そんなこと、自分でも分からない。


(……だからって……)


 凛の厳しい表情が、浮かぶ。


(……先生まで、私が悪いって決めつけなくてもいいじゃん……)


 そして。


 もう一つの疑問が、頭をもたげた。


(……水瀬が、先生に何か言ったのかな……)


 もし、そうなら。


 自分の知らないところで、何を話したのだろう。


 水瀬は、自分のことをどう思っているのだろう。


 莉子は、スマートフォンを握り直した。


 画面には、友人からの新しいメッセージ。


『ねえ、ほんと大丈夫?』


 莉子は、短く返した。


『大丈夫』


 送信して、スマートフォンを鞄へしまう。


 けれど。


 大丈夫ではなかった。


 凛に問い詰められたことも。


 水瀬のことも。


 何一つ、納得できていない。


 莉子は、少しだけ俯いた。


(……明日、聞いてみようかな……)


 そう思った。


 直接、水瀬に。


 先生へ何を話したのか。


 どうして、自分が責められなければならなかったのか。


 その答えを、確かめたかった。


     ◇


 同じ頃。


 桜丘高校、職員室。


 凛は、自分の席に座っていた。


 机の上には、悠真から聞いた内容を書き留めたメモ。


 早川と確認することになった項目も、並んでいる。


 事実確認。


 本人への聞き取り。


 情報提供者の保護。


 学校としての対応。


 どれも、必要なことだった。


 凛は、その文字を見つめた。


(……早川先生は、落ち着いて確認しろと言っていた……)


 その通りだった。


 それなのに、自分は莉子を呼び止めた。


 問い詰めた。


 結衣を避けていることを、責めた。


 そして。


(……私は、莉子の話を聞いたか?)


 凛は、目を閉じた。


 莉子は、何度も聞いていた。


『何で私なんですか?』


『私、水瀬に何かしたわけじゃないです』


 あの言葉に、自分はちゃんと答えただろうか。


 相手の話を、聞こうとしただろうか。


(…………)


 凛は、ゆっくりと息を吐いた。


 悠真には、待てた。


 言葉が出てくるまで、急かさずに聞くことができた。


 なのに。


 莉子には、それができなかった。


(……何をしているんだ、私は……)


 机の上のメモを見つめる。


 悠真は、勇気を出して助けを求めてくれた。


 その勇気に、応えたかった。


 結衣を守りたかった。


 それは、本当だ。


 けれど。


 守りたいという気持ちが強すぎて、別の生徒を追い詰めてしまったのではないか。


 凛は、額に手を当てた。


(……明日、もう一度……)


 莉子と話さなければならない。


 今度こそ、ちゃんと聞かなければ。


 そう思った。


 しかし。


 その翌朝、三年四組で何が起こるのか。


 このときの凛は、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。