第二十四話「見えない教室」
二〇二六年(令和八年)四月二十四日、金曜日。
午前八時十分。
東京都立桜丘高校、三年四組。
『……おはよう』
「おはようございまーす」
「山本先生、おはようございます!」
『……ああ。おはよう』
凛は、教卓へ出席簿を置いた。
教室では、いつもどおりの朝が始まっていた。
友人同士で笑い合う生徒。
昨日の宿題を確認している生徒。
スマートフォンの画面を見ながら、何やら盛り上がっている生徒たち。
その中を、凛はゆっくり見渡した。
そして、一人の女子生徒に目が留まった。
水瀬結衣。
窓際から少し離れた席で、教科書を鞄から取り出している。
周囲では、何人かの女子生徒が楽しそうに話していた。
「……昨日のやつ見た?」
「……見た見た!」
「……めっちゃ面白かったよね!」
結衣が、顔を上げた。
少しだけ、そちらへ視線を向ける。
すると。
「……あ、そういえばさ」
女子生徒の一人が、声を落とした。
ほかの生徒たちも、自然と顔を寄せ合う。
結衣は、しばらくその様子を見ていた。
そして、何も言わずに教科書へ視線を戻した。
『…………』
凛は、少しだけ眉をひそめた。
(……今のは……)
偶然かもしれない。
単に、話題を変えただけなのかもしれない。
けれど、似たような光景を以前にも見たことがあった。
結衣が近づくと、会話が途切れる。
結衣が何かを言っても、返事が短い。
誰も大きな声で悪口を言っているわけではない。
しかし。
(……何か、おかしい)
凛は、出席簿へ目を落とした。
そのとき。
「……先生」
声が聞こえた。
『……ん?』
顔を上げると、藤原悠真が立っていた。
「……今日の体育って、体育館ですか?」
『……ああ。バスケットボールをやる予定だ』
「……分かりました」
悠真は、小さく頷いた。
そして、自分の席へ戻ろうとした。
『……悠真』
「……はい?」
『……この前、何か気になることがあるように見えたが』
「…………」
悠真の動きが、一瞬だけ止まった。
『……もう大丈夫なのか?』
「……ああ」
悠真は、曖昧に笑った。
「……別に、何でもないです」
『……そうか』
「……はい」
悠真は、そのまま席へ戻った。
凛は、その背中を見送った。
(……何でもない、か)
最近、その言葉をよく聞く気がする。
もちろん、本当に何でもないこともあるだろう。
けれど。
誰かがそう答えたからといって、必ずしも何も起きていないわけではない。
凛は、もう一度教室を見渡した。
結衣は、静かに教科書を開いていた。
周囲の笑い声が響く中、一人だけ違う場所にいるように見えた。
◇
三時間目。
体育館。
「……よし。今日はバスケットボールだ」
「やったー!」
「……先生、試合しますか?」
『……いきなり試合はしない。まずはパスと動き方の練習からだ』
「えー!」
『……えー、じゃない』
凛が真顔で答えると、生徒たちの間に笑いが起きた。
『……ボールを持っている人間だけが動くなよ。周りも動かなければ、パスはつながらん』
「はーい!」
『……まずは四、五人のグループをつくってくれ』
生徒たちが、一斉に動き始めた。
「こっち入って!」
「あと一人!」
「一緒にやろー!」
友人同士で声をかけ合い、自然とグループができていく。
凛は、全体の人数を確認していた。
そのとき。
『…………』
体育館の端に、結衣が立っていた。
周囲を見渡している。
けれど、自分から誰かに声をかける様子はない。
少し離れたところでは、女子生徒たちがすでに輪をつくっていた。
結衣が一歩近づきかける。
しかし、その輪が小さく閉じる。
結衣は、足を止めた。
(……またか)
凛は、ゆっくり近づいた。
『……結衣』
「……はい」
『……まだ決まっていないのか?』
「……あ、はい」
結衣は、少し困ったように笑った。
「……すみません」
『……謝ることじゃない』
凛は、周囲を見渡した。
そして、一つのグループへ声をかける。
『……そこの班、結衣も一緒に頼む』
「……あ、はい」
女子生徒の一人が、短く答えた。
その隣の生徒が、一瞬だけ顔をしかめる。
ほんのわずかな変化だった。
だが、凛は見逃さなかった。
『……何か問題があるのか?』
「……え?」
『……結衣が入ることに』
「……いえ、別に」
女子生徒は、慌てて首を振った。
「……大丈夫です」
『……そうか』
凛は、結衣へ目を向けた。
『……ここで練習してくれ』
「……はい」
結衣は、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
『……ああ』
凛は、次のグループへ移った。
やがて、パス練習が始まる。
体育館に、ボールが床を打つ音が響いた。
『……そうだ。受け取ったら、すぐに次の相手を見る』
「……はい!」
『……パスを出したら、その場に立ち止まるな』
凛は、グループの間を歩いていった。
途中で、結衣のいる班へ目を向ける。
「……はい!」
「……こっち!」
「……ナイス!」
パスが回っている。
しかし。
結衣は、輪の端に立っていた。
両手を胸の前へ構えている。
パスを受ける準備はできていた。
けれど、ボールは結衣の手前を通り、別の生徒へ渡っていく。
「……はい、次!」
「……こっち!」
結衣が、小さく声を出した。
「……あの、こっちも……」
しかし、誰も反応しなかった。
ボールは、また別の生徒へ。
『…………』
凛は、足を止めた。
(……これは……)
先ほど、自分は結衣を班に入れた。
人数も揃った。
練習も始まっている。
表面上は、何も問題がないように見える。
けれど。
(……結衣は、練習できていない)
凛は、その班へ近づいた。
『……一度止めよう』
「……はい」
生徒たちが、ボールを止める。
『……今の練習で、全員がボールに触れたか?』
「…………」
何人かが顔を見合わせた。
「……あ」
一人が、小さく声を上げる。
凛は、続けた。
『……パスは、自分たちだけでつなげばいいわけじゃない』
「……はい」
『……周りを見て、全員が参加できるように考えてくれ』
「……分かりました」
『……じゃあ、もう一度』
練習が再開する。
今度は、結衣にもボールが回った。
「……水瀬さん!」
「……はい!」
結衣が、パスを受ける。
次の相手へ返す。
「……はい!」
ボールが、きれいにつながった。
凛は、静かに頷いた。
しかし。
少し離れてから振り返ると、結衣はまた輪の端へ戻っていた。
今度はボールが回っている。
それでも、周囲の生徒たちと目を合わせることはほとんどない。
(……そういうことか)
凛は、ゆっくり息を吐いた。
同じ班に入ること。
一緒に練習すること。
それだけで、人間関係まで変わるわけではない。
自分が見ている間は、誰も露骨に結衣を外さない。
だが、それは結衣が輪の中へ入れたことと同じではなかった。
(……私は、人数を揃えただけだったんだな)
凛は、結衣の姿を見つめた。
◇
授業終了後。
「……はい、片づけるぞ!」
「はーい!」
生徒たちが、ボールや用具を片づけ始めた。
凛は、出席簿へ簡単な記録をつけていた。
そのとき、体育館の端に結衣の姿が見えた。
一人で、転がっていたバスケットボールを拾っている。
ほかの生徒たちは、すでに更衣室へ向かい始めていた。
少し離れた場所に、橘莉子が立っていた。
莉子は、結衣の方を見ている。
その表情は、どこか迷っているように見えた。
「……莉子!」
友人の声が響いた。
「……早く行こう!」
莉子が、振り返る。
「……あ、うん」
もう一度、結衣へ視線を向ける。
ほんの一瞬。
何かを言おうとしたようにも見えた。
しかし。
「……行こ」
莉子は、友人と一緒に体育館を出ていった。
『…………』
凛は、その姿を見送った。
そして、結衣へ近づいた。
『……結衣』
「……はい」
『……片づけ、手伝おう』
「……えっ」
結衣が、少し驚いたように顔を上げた。
『……そのボール、こちらへ持ってきてくれ』
「……あ、はい」
結衣は、両手でボールを抱えた。
凛は、用具入れの扉を開ける。
結衣が、ボールを戻した。
『……ありがとう』
「……いえ」
結衣は、小さく笑った。
『……さっきの練習、どうだった?』
「……え?」
『……やりにくいところはなかったか?』
「…………」
結衣は、少しだけ目を伏せた。
「……大丈夫です」
『……そうか』
凛は、頷いた。
結衣は、もう一度小さく頭を下げる。
「……失礼します」
『……ああ』
結衣は、体育館を出ていった。
凛は、その背中を見つめた。
(……大丈夫、か)
同じ言葉。
何度も聞いた返事だった。
◇
昼休み。
三年四組。
藤原悠真は、自分の席でスマートフォンを見つめていた。
画面には、クラスの一部の生徒が参加しているグループチャットが表示されている。
新しいメッセージが届いていた。
「今日の体育、水瀬結衣また余ってたじゃんw」
「先生に入れてもらってたし」
「気まずすぎ笑」
「つーか自分で組めばよくね?」
悠真は、黙って画面を見つめた。
誰が送ったのか。
分かっている。
同じ教室にいる生徒たちだった。
笑い声が聞こえた。
顔を上げると、少し離れた机で男子生徒たちがスマートフォンを囲んでいる。
悠真は、すぐに目を逸らした。
(……またかよ)
返信欄を開く。
けれど、何も打てない。
以前、一度だけ結衣をかばおうとしたことがあった。
誰かが結衣の悪口を言っていたとき。
「……別に、水瀬は悪いことしてなくない?」
そう言っただけだった。
しかし。
「……え、藤原って水瀬のこと好きなの?」
「……じゃあ付き合えば?」
周囲に笑われた。
それ以来、結衣の話題にはできるだけ関わらないようにしている。
今も、そうだった。
悠真は、返信欄を閉じた。
そのとき。
『……悠真』
「……っ!」
悠真は、慌ててスマートフォンを伏せた。
顔を上げる。
そこには、凛が立っていた。
『……少しいいか?』
「……はい」
『……午後の進路説明、資料は持っているな?』
「……あ、はい」
『……忘れないようにな』
「……分かりました」
凛は、頷いた。
そして、少しだけ悠真の表情を見た。
『……顔色がよくないぞ』
「……え?」
『……体調でも悪いのか?』
「……いや、大丈夫です」
『……そうか』
凛は、それ以上尋ねなかった。
悠真は、小さく息を吐いた。
しかし。
「……先生」
気づけば、声をかけていた。
凛が振り向く。
『……ん?』
「…………」
悠真は、口を開いた。
けれど。
何を言えばいいのか、分からなかった。
あのグループのこと。
結衣のこと。
自分が何もしていないこと。
全部、頭の中にある。
しかし、それを言葉にした瞬間。
自分まで、何かを言われるかもしれない。
「……何でもないです」
『…………』
凛は、少しだけ悠真を見つめた。
そして、静かに頷いた。
『……分かった』
悠真は、俯いた。
凛が離れていく。
その背中を見ながら、悠真は、もう一度スマートフォンへ目を向けた。
画面には、まだグループチャットの通知が残っていた。
◇
午後。
職員室。
「……山本先生?」
早川奈緒が、声をかけた。
凛は、机の上の資料から顔を上げる。
『……あ、早川先生』
「……どうしたの? 何か考え事?」
『……少し、相談したいことがあって』
「……うん。何?」
早川は、椅子を凛の方へ向けた。
凛は、少し言葉を選んだ。
『……三年四組の、水瀬についてなんですが』
「……水瀬さん?」
『……はい』
早川の表情が、少し真剣になる。
「……何かあった?」
『……今日の体育の授業で、グループをつくったんです』
「……うん」
『……そのとき、水瀬だけが残ってしまって』
「…………」
『……私が別の班に入れたんですが、練習が始まっても、ほとんどパスが回らなかったんです』
早川は、黙って聞いていた。
『……声をかけると、そのあとは普通に練習していました』
「……そう」
『……でも、それだけじゃない気がするんです』
凛は、少しだけ俯いた。
『……朝も、水瀬が近づくと周囲の会話が途切れたように見えて』
「…………」
『……それに、以前から一人でいることが多かったので』
早川は、ゆっくり頷いた。
「……なるほどね」
『……私の気のせいかもしれません』
「……うん」
『……でも、何もないと決めつけるのも違うと思って』
早川は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……相談してくれて、よかったと思う」
『…………』
「……こういうことって、一つだけ見たら、たまたまにも見えるから」
『……はい』
「……でも、何度も似たようなことが起きているなら、気にしておいた方がいい」
凛は、頷いた。
『……そうですよね』
「……ただ、今の段階で、誰かが意地悪してるって決めつけるのは早いかな」
『……はい』
「……山本先生が見たことを、まず整理しておこう」
早川は、机の上のメモ用紙を取った。
「……いつ、どこで、何があったか」
『……はい』
「……それから、水瀬さんの様子。ほかの先生が気づいていることも、必要に応じて確認した方がいいと思う」
『……分かりました』
凛は、真剣に頷いた。
早川は、少しだけ首を傾げた。
「……ところで、山本先生」
『……はい?』
「……水瀬さん本人は、何て言ってるの?」
『…………』
凛は、言葉に詰まった。
「……教室のことで、何か相談されてる?」
『……いえ』
「……そう」
『……何度か、困っていないか尋ねたことはあります』
「……うん」
『……でも、いつも大丈夫だと』
早川は、静かに頷いた。
「……そっか」
『……はい』
「……じゃあ、水瀬さんが今、どうしてほしいと思っているのかは、まだ分からないね」
『…………』
凛は、ゆっくり目を伏せた。
確かに、そのとおりだった。
結衣が一人でいることには気づいていた。
周囲の反応にも、違和感を覚え始めていた。
けれど。
結衣自身が、何を感じているのか。
どうしてほしいと思っているのか。
そのことは、ほとんど知らなかった。
『……そう、ですね』
早川は、穏やかに続けた。
「……話したくないこともあるだろうから、無理に聞き出す必要はないよ」
『……はい』
「……でも、何かあったときに相談できる相手だって思ってもらえるといいね」
『……はい』
「……それと、本人が話さないからって、何もしなくていいわけじゃないから」
凛が、顔を上げる。
「……先生たちで、見ておくべきこともあると思う」
『…………』
凛は、静かに頷いた。
『……ありがとうございます』
「……ううん」
早川は、微笑んだ。
「……一人で抱えないでね」
『……はい』
凛も、少しだけ笑った。
◇
放課後。
体育館。
女子バレーボール部の練習が始まっていた。
「……はい、もう一本!」
「……お願い!」
「……ナイス!」
ボールが床を打つ音。
シューズが擦れる音。
部員たちの掛け声。
凛は、コートの脇で練習を見守っていた。
少し離れた場所には、藤沢和彦がいる。
練習は、予定どおりの時間で進んでいた。
連携が乱れたときには、必要に応じて短い確認を挟む。
先日試した十五秒ミーティングも、少しずつ部員たちのものになり始めていた。
「……一回、確認しよう!」
「……うん!」
「……次、前のボールは私が取る!」
「……お願い!」
短いやり取り。
そして、すぐに練習へ戻る。
凛は、その様子を見ながら小さく頷いた。
そのとき。
「……結衣!」
宮野千夏が、コートの外へ声をかけた。
「……さっきの連携、記録してくれてる?」
「……うん!」
水瀬結衣が、ノートを持って顔を上げた。
「……前のボールで、二回続けて迷ってたよ!」
「……あー、やっぱり」
千夏が、苦笑した。
「……じゃあ、次はそこ意識しよう」
「……うん!」
結衣は、笑顔で頷いた。
その横から、朝倉紗奈が声をかける。
「……結衣、次の練習まで何分?」
「……あと三分!」
「……ありがとう!」
「……ううん!」
結衣は、楽しそうに答えた。
凛は、その様子を静かに見ていた。
(……教室とは、随分違うな)
結衣は、部活では自分から声を出している。
周囲の部員たちも、自然に結衣へ話しかける。
誰かが話しかけると、結衣は笑って答える。
その笑顔には、無理をしているような様子は見えなかった。
けれど。
(……だからといって、教室でも大丈夫とは限らない)
凛は、そう思った。
部活で笑えていること。
教室で一人になっていること。
その二つは、同時に起こり得る。
どちらか一方だけを見て、結衣のすべてを判断することはできない。
凛は、もう一度コートへ目を向けた。
結衣は、ノートへ練習内容を書き込んでいた。
◇
練習終了後。
部員たちは、用具の片づけを始めていた。
「……結衣、こっちのボールもお願い!」
「……はーい!」
「……ありがと!」
「……ううん!」
結衣は、笑顔で返事をした。
凛は、少しだけ様子を見てから声をかけた。
『……結衣』
「……はい?」
『……片づけが終わったら、少し話せるか?』
「……あ、はい」
結衣は、小さく頷いた。
やがて、片づけが終わる。
部員たちが更衣室へ向かう中、凛は結衣を体育館脇の人通りが少ない場所へ呼んだ。
周囲から二人の会話が聞こえにくい位置だった。
『……急に呼び止めて、すまんな』
「……いえ」
結衣は、少し緊張した様子で立っていた。
『……部活、頑張っているな』
「……ありがとうございます」
『……十五秒の確認も、上手く手伝ってくれている』
「……あ、はい。みんなが話しやすくなったので、私も嬉しいです」
『……そうか』
凛は、頷いた。
そして、少しだけ間を置いた。
『……結衣』
「……はい」
『……最近、教室で困っていることはないか?』
「…………」
結衣の表情が、わずかに変わった。
笑顔が消える。
視線が、足元へ落ちた。
『……今日の体育で、少し気になったことがあってな』
「…………」
『……もし何かあるなら、話を聞きたいと思ったんだ』
結衣は、しばらく黙っていた。
そして。
「……大丈夫です」
『…………』
また、同じ返事だった。
凛は、結衣を見つめた。
以前なら、そこで安心していたかもしれない。
本人が大丈夫と言っている。
ならば、問題はない。
そう考えていたかもしれない。
けれど。
今は、それだけで終わらせる気にはなれなかった。
『……そうか』
凛は、静かに頷いた。
『……今すぐ話さなくてもいい』
「…………」
『……だが、困っているなら、私は話を聞きたい』
結衣が、少しだけ顔を上げた。
『……話しにくいことなら、無理にここで話す必要もない』
「…………」
『……早川先生でも、ほかの先生でもいい。話しやすい相手に相談してくれ』
結衣は、しばらく凛を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
凛は、少しだけ笑った。
『……それだけだ。引き止めて悪かったな』
「……いえ」
結衣は、首を横に振った。
そして。
「……先生」
『……ん?』
「……ありがとうございます」
その声は、小さかった。
けれど、はっきり聞こえた。
『……ああ』
凛は、頷いた。
結衣は、もう一度頭を下げた。
「……失礼します」
『……気をつけて帰れよ』
「……はい」
結衣は、更衣室の方へ歩いていった。
凛は、その背中を見送った。
結局、結衣は何も話さなかった。
何が起きているのかも、まだ分からない。
けれど。
(……これで終わりにはできないな)
凛は、静かに息を吐いた。
部活では、部員たちが考える時間を待つことを学んだ。
しかし、今の結衣に対して、ただ待っているだけでいいとは思えなかった。
本人が話せない理由があるのかもしれない。
教師に知られたくない事情があるのかもしれない。
あるいは、本当に大したことではないのかもしれない。
まだ、決めつけることはできない。
だからこそ。
見たことを確かめる。
必要な相手と情報を共有する。
そして、結衣が安心して学校にいられるよう、できることを考える。
(……私は、担任なんだからな)
凛は、ゆっくり頷いた。
◇
同日、午後九時すぎ。
都内の住宅街。
藤原悠真の自室。
「…………」
悠真は、ベッドに腰かけていた。
片手には、スマートフォン。
画面には、例のグループチャットが表示されている。
新しいメッセージが、いくつも届いていた。
「今日も水瀬ぼっちだったな」
「体育のときマジ気まずかった」
「先生がいるとみんな優しくなるの草」
悠真は、黙って画面を見つめた。
昼間の体育館。
結衣が、一人で立っていた姿。
山本先生が声をかけたあと、ようやくグループに入ったこと。
全部、見ていた。
結衣が、自分から誰かに何かしたわけではない。
少なくとも、今日の体育では。
ただ、一人で立っていた。
それだけだった。
(……何が面白いんだよ)
悠真は、眉をひそめた。
返信欄を開く。
指が、ゆっくり動いた。
「もうやめろよ」
そこまで打って、止まった。
送信ボタンが、画面の端に表示されている。
押せばいい。
たったそれだけ。
けれど。
以前、自分が結衣をかばったときのことを思い出す。
笑われた。
からかわれた。
それ以来、何も言わなくなった。
もし今、送信したら。
また、自分の名前が話題に上がるかもしれない。
結衣と同じように、周囲から距離を置かれるかもしれない。
「…………」
悠真は、打ち込んだ文字を見つめた。
そして。
一文字ずつ、消した。
返信欄が空白になる。
悠真は、スマートフォンを伏せた。
部屋が、静かになった。
しばらくして。
ぶるっ。
スマートフォンが震えた。
また、新しい通知。
「…………」
悠真は、顔を上げなかった。
画面を伏せても。
そこに書かれた言葉まで、消えるわけではなかった。




