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第二十三話「強者の背中」

 二〇〇〇年(平成十二年)五月上旬。


 東京都内、東央大学。


『……着いた!』


 正門の前で、リンは小さく声を上げた。


 先日、一人で訪れたばかりの大学。


 今日は、その隣に三人の姿があった。


 青葉高校空手部顧問、荒川剛。


 三年生の佐伯大輔。


 そして、二年生の相原菜月。


「……うわぁ」


 菜月は、大学の正門を見上げていた。


「……佐伯先輩! 大学って、やっぱり広いですね!」


「……まだ門の前だぞ」


「……そうですけど!」


 菜月は、楽しそうに笑った。


 一方、佐伯は口数が少なかった。


 手に持った道着の袋を握り直し、正門の奥を見つめている。


『……佐伯さん』


「……はい」


『……緊張してる?』


「……正直、かなり」


『……そっか』


 リンは、小さく笑った。


『……でも、今日は来られてよかったね』


「……はい」


 佐伯は、少しだけ表情を緩めた。


 あれから、篠原を通じて大学側との連絡が進んだ。


 練習会の日程と参加条件を確認し、学校側の手続きも済ませた。


 佐伯の保護者にも事情を説明している。


 菜月についても、大学側から参加の了承を得られた。


 ただし、佐伯とは参加する目的が違う。


 菜月は進学候補として招かれたわけではなく、荒川の引率のもとで稽古に参加することを認められたのだった。


「……いいか、お前ら」


 荒川が、二人へ声をかけた。


「……はい!」


「押忍!」


「……今日は普段の部活動とは違う。大学側の指示に従え」


「押忍!」


「……それから相原」


「……はい?」


「……あまり騒ぐなよ」


「……ええ!? まだ何もしてませんよ!」


「……だから、先に言ってるんだ」


「……ひどい!」


 佐伯が、思わず笑った。


 リンも、口元を緩める。


 荒川は、そんな三人を見て小さく息を吐いた。


「……行くぞ」


     ◇


 東央大学、空手道場。


 扉を開けた瞬間。


「……っ!」


 佐伯が、息を呑んだ。


 道場の中では、すでに多くの選手たちが身体を動かしていた。


 床を踏み込む音。


 道着が鋭く鳴る音。


 短い気合い。


 一つひとつの動作が、青葉高校の練習とは明らかに違っていた。


「……すご」


 菜月が、小さく呟いた。


 先ほどまでの明るい表情が、少しだけ真剣になる。


「……あの人、めっちゃ速い……」


 視線の先では、男子大学生が鋭い踏み込みから突きを放っていた。


 相手は後退しながら、わずかな動きでそれをかわしている。


「……今の、どうやって避けたんですかね」


 菜月は、食い入るように見つめていた。


「……菜月」


「……はい?」


「……まず挨拶だろ」


「あっ!」


 佐伯に言われ、菜月は慌てて姿勢を正した。


 そのとき。


「……おっ、山元!」


 道場の奥から、男性が近づいてきた。


 篠原圭介だった。


『……篠原さん!』


「……ちゃんと連れてきたな」


『……はい!』


 リンは、笑顔で頷いた。


『……こちらが佐伯さんです!』


 佐伯が、一歩前へ出る。


「……青葉高校三年、佐伯大輔です! 本日はよろしくお願いします!」


 深く頭を下げた。


 篠原は、穏やかに頷く。


「……篠原圭介だ。よろしくな」


「押忍!」


『……それから、こちらが相原さんです』


「……青葉高校二年、相原菜月です! よろしくお願いします!」


「……ああ。よろしく」


 篠原は、菜月の元気な挨拶に少し笑った。


 荒川とも挨拶を交わし、参加者の案内を始める。


「……今日は何校か高校生が来てる。まずは全体で稽古して、そのあと組み手に入る予定だ」


「……はい!」


「……大学生も相手になるから、無理はするなよ」


 佐伯は、真剣に頷いた。


 すると、道場の奥から別の声がした。


「……あれ、山元先輩?」


『……え?』


 リンが振り向く。


 そこには、背の高い男子学生が立っていた。


「……やっぱり! 山元先輩じゃないですか!」


『……榊原くん!』


 リンは、先日の記憶を頼りに名前を呼んだ。


 榊原隼人。


 東央大学空手道部の主将。


 山元凛の一学年下にあたる、現在の四年生だ。


「……今日は引率ですか?」


『……うん! うちの生徒を連れてきたんだ』


「……へえ」


 榊原は、佐伯たちへ目を向けた。


「……よろしくな」


「……っ!」


 佐伯の動きが止まった。


「……さ、榊原隼人先輩……?」


「……ん?」


 榊原が首を傾げる。


「……俺のこと、知ってるの?」


「……もちろんです!」


 佐伯は、思わず声を大きくした。


「……去年の全国大学選手権、個人組手ベスト四の……!」


「……おお、詳しいな」


 榊原は、楽しそうに笑った。


「……ありがとな」


「……い、いえ!」


 佐伯は、慌てて頭を下げた。


 その横で、菜月が小さく呟く。


「……佐伯先輩、めっちゃ緊張してる」


「……聞こえてるぞ」


「……あっ」


 榊原が笑う。


「……ははは! いい後輩だな」


『……そうなんです』


 リンも、つられて笑った。


 そのとき。


「……集合!」


 低く、よく通る声が道場に響いた。


 鬼塚宗一郎だった。


 大学生たちの動きが、一斉に止まる。


 高校生たちも、慌てて整列した。


 リンたちも、道場の端へ移動する。


 鬼塚は、集まった選手たちを見渡した。


「……今日は各校から参加者を呼んでいる」


 道場が静まり返る。


「……大学生も高校生も、相手の肩書に遠慮する必要はない」


「押忍!」


「……だが、自分の実力を見誤るな。無理な攻撃はするな」


「押忍!」


「……勝った負けただけで終わるなら、ここに来た意味はないぞ」


 佐伯は、顔を上げた。


 鬼塚の視線が、一瞬だけこちらへ向いたような気がした。


「……始め!」


「押忍!」


 道場に、力強い返事が響いた。


     ◇


 合同練習が始まった。


 最初は、全体での基本稽古。


 突き。


 蹴り。


 踏み込み。


 そして、相手との距離を測る練習。


「……佐伯、もう少し腰を落とせ」


「押忍!」


「……相原、足だけ先に出るな」


「押忍!」


 大学生たちからも、次々と指導が飛ぶ。


 佐伯は、必死についていった。


 同じ突きの練習でも、周囲の選手たちは動作が速い。


 しかも、ただ速いだけではなかった。


 踏み込む直前の姿勢。


 足を止める位置。


 次の動きへ移るまでの短さ。


 一つひとつに、無駄がない。


「……っ、はあ……!」


 佐伯は、汗を拭った。


 その隣では、菜月も息を弾ませている。


「……やばい……」


「……どうした?」


「……めっちゃ楽しいです!」


「…………」


 佐伯は、思わず菜月を見た。


「……お前、すごいな」


「……え?」


「……いや、何でもない」


 佐伯は、小さく笑った。


 やがて、基本稽古が終わる。


 水分補給を挟み、組み手の練習へ移った。


 そこで。


「……佐伯大輔」


「……押忍!」


 鬼塚から、名前を呼ばれた。


 佐伯が前へ出る。


「……最初は榊原とやれ」


「…………え?」


 佐伯の動きが止まった。


「……榊原」


「……はい」


 榊原が、軽く手を上げる。


「……了解です」


「…………」


 佐伯は、思わず息を呑んだ。


 憧れていた選手。


 全国大学選手権ベスト四。


 その相手と、いきなり組み手をする。


「……佐伯くん」


 榊原が近づいてきた。


「……はい!」


「……そんなに固くならなくていいぞ」


「……す、すみません!」


「……謝らなくていいって」


 榊原は、笑った。


 そして、少しだけ声を落とす。


「……でもさ」


「……はい」


「……始まる前から、負けた顔すんな」


「…………!」


 佐伯は、目を見開いた。


 榊原は、静かに続けた。


「……せっかく来たんだろ。何か一つでも持って帰れよ」


「……押忍!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 そして、道場の中央へ進む。


 リンは、思わず両手を握りしめた。


『……佐伯さん……』


 隣で、荒川が静かに見守っている。


「……見てろ、山元」


『……はい』


「……あいつが、どこまでやれるか」


 リンは、頷いた。


     ◇


「……始め!」


 声が響いた。


 佐伯は、すぐに構えた。


 榊原も、軽く腰を落とす。


 互いに距離を測る。


 佐伯は、右足を踏み出しかけた。


 その瞬間。


「……っ!」


 榊原が、わずかに前へ出た。


 佐伯は、反射的に後退する。


 しかし。


 榊原は、攻撃していなかった。


 ただ、一歩動いただけだった。


(……何だ、今の……)


 佐伯は、息を呑んだ。


 まるで、先に攻撃されると分かっていたかのように身体が動いた。


 もう一度、距離を詰める。


「……はっ!」


 佐伯が、突きを放った。


 だが。


 榊原は、わずかに身体をずらした。


 突きが空を切る。


 次の瞬間。


「……っ!」


 佐伯の胴へ、鋭い突きが入った。


「……やめ!」


 得点。


 榊原は、何事もなかったように構え直す。


「……もう一回、来い」


「……押忍!」


 佐伯は、再び踏み込んだ。


 今度は、先ほどより速く。


 しかし。


 榊原は、もうそこにはいなかった。


「……っ!」


 再び、攻撃を受ける。


 佐伯は、歯を食いしばった。


(……速い……!)


 いや。


 速いだけではない。


 自分が動く前から、次の攻撃を読まれている。


 佐伯は、構えを立て直した。


 そして、もう一度。


「……はっ!」


 踏み込む。


 榊原が、わずかに後退する。


 佐伯は、そこで止まらなかった。


 さらに一歩。


 突きを伸ばす。


「……おっ」


 榊原の表情が、少しだけ変わった。


 だが、その突きも届かなかった。


 直後。


 榊原の攻撃が、佐伯を捉えた。


「……やめ!」


 組み手が終わる。


 佐伯は、肩で息をしていた。


「……はあ……はあ……」


 榊原は、静かに近づいてきた。


「……お疲れ」


「……ありがとうございました!」


 佐伯が、深く頭を下げる。


 榊原は、その肩を軽く叩いた。


「……最初より、最後の踏み込みの方がよかったぞ」


「…………!」


「……でも、まだ前に出るタイミングが分かりやすいな」


「……はい!」


「……相手を動かしてから、入ってみろ」


「……押忍!」


 佐伯は、もう一度頭を下げた。


 榊原は、笑顔で頷いた。


「……頑張れよ」


     ◇


 その後も、佐伯の組み手は続いた。


 二人目は、東央大学の三年生。


 榊原とは違い、積極的に前へ出てくる選手だった。


 佐伯も、負けじと踏み込む。


 しかし、攻撃の出始めを読まれ、得点を許す。


「……やめ!」


 佐伯は、歯を食いしばった。


(……また、先に入られた……)


 先ほど、榊原から言われたこと。


 相手を動かしてから攻撃する。


 佐伯は、一度距離を取った。


 小さく前へ出る。


 大学生が、反応する。


(……今度は……)


 そこで、踏み込まずに止まった。


 相手の足が、わずかに動く。


 その瞬間を狙い、佐伯が攻撃する。


「……はっ!」


 突きが伸びた。


 しかし、大学生は落ち着いて対応する。


 逆に、鋭い反撃が入った。


「……やめ!」


 再び、失点。


 佐伯は、悔しそうに息を吐いた。


 だが。


(……少しだけ、見えた……)


 今度は、相手が動く瞬間を自分でつくろうとした。


 結果は変わらなかった。


 それでも、先ほどとは違う。


 佐伯は、静かに構え直した。


     ◇


 三人目は、他校から参加していた高校三年生だった。


 佐伯と同じ学年。


 しかし、踏み込みも攻撃の組み立ても、明らかに洗練されている。


「……よろしくお願いします!」


「……押忍!」


 互いに礼をする。


 組み手開始。


 相手は、いきなり前へ出てこなかった。


 細かく距離を変えながら、佐伯の反応をうかがっている。


(……さっきとは、また違う……)


 佐伯は、ゆっくり息を吐いた。


 相手の足を見る。


 肩の動きを見る。


 そして、わずかな隙を探す。


「……はっ!」


 佐伯が、先に仕掛けた。


 相手は後退する。


 そのまま反撃。


「……っ!」


 佐伯は、ぎりぎりで身体を引いた。


 攻撃が、目の前を通り過ぎる。


(……避けた……!)


 しかし、次の動きが遅れた。


 相手が、再び踏み込む。


 得点。


「……やめ!」


 佐伯は、悔しそうに唇を噛んだ。


 けれど。


 今度は、相手の攻撃を一度かわすことができた。


 そして、相手がどの距離から仕掛けてくるのか、少しだけ分かり始めていた。


 組み手が終わる。


 結果は、敗北。


 三人と戦い、一度も勝てなかった。


 佐伯は、息を切らしながら道場の端へ戻った。


「……はあ……はあ……」


 リンが、すぐに近づく。


『……佐伯さん! お疲れさま!』


「……ありがとうございます……」


『……大丈夫?』


「……はい」


 佐伯は、汗を拭った。


『……すごかったよ』


「……いえ……」


 佐伯は、小さく首を振った。


「……全然、歯が立ちませんでした」


『…………』


 リンは、言葉を探した。


 そのとき。


「……佐伯」


 荒川が、静かに声をかけた。


「……はい」


「……最初の組み手と、最後の組み手。自分で何が違ったと思う?」


「…………」


 佐伯は、少し考えた。


「……最初は、相手を見る余裕もありませんでした」


「……ああ」


「……でも、最後は……」


 佐伯は、自分の拳を見つめた。


「……少しだけ、相手の動きが見えた気がします」


 荒川は、頷いた。


「……そうか」


 佐伯は、顔を上げた。


「……もっと、やりたいです」


 その声には、悔しさがにじんでいた。


「……もっと、強くなりたいです」


 荒川は、静かに笑った。


「……なら、今日覚えたことを忘れるな」


「……押忍!」


     ◇


 午後。


 合同練習が一区切りついたころ。


「……佐伯」


 鬼塚が、声をかけた。


「……押忍!」


 佐伯は、すぐに姿勢を正した。


 鬼塚は、しばらく佐伯を見つめていた。


「……これがお前の実力だ」


「……押忍」


「……お前は弱い」


「…………」


 佐伯は、黙って頭を下げた。


 言い返すことなど、できなかった。


 実際に戦って、その差を思い知ったばかりだった。


 しかし。


「……だが、面白い」


「…………え?」


 佐伯が、顔を上げた。


 鬼塚は、静かに続ける。


「……最初は、相手が動いただけで下がっていたな」


「……はい」


「……二人目では、自分から相手を動かそうとした」


「…………」


「……最後には、相手の攻撃を一度かわした」


 佐伯は、目を見開いた。


 鬼塚は、すべて見ていた。


 自分が、何を考えたのか。


 どう変えようとしたのか。


 そして、何ができなかったのか。


「……結果は全敗だ」


「……押忍」


「……だが、同じ負け方を繰り返そうとはしなかった」


 鬼塚は、腕を組んだ。


「……お前は弱い。だが、面白い」


「…………」


 そして、ふと視線を移した。


 リンの方へ。


「……かつての誰かみたいにな」


『…………!』


 リンは、思わず息を呑んだ。


 鬼塚の視線。


 その言葉。


 誰のことを言っているのか、考えるまでもなかった。


(……凛さん……)


 リンは、そっと胸元へ手を当てた。


 鬼塚は、再び佐伯へ向き直る。


「……佐伯」


「……はい!」


「……まだ、続けたいか」


 佐伯は、少しの間黙っていた。


 そして、まっすぐ答えた。


「……押忍!」


 拳を握る。


「……もっと、強くなりたいです!」


 鬼塚は、静かに頷いた。


「……なら、次に来るまでに、今日の課題を直してこい」


「…………!」


 佐伯は、目を見開いた。


「……次に……?」


「……一度見ただけで決めるつもりはない」


 鬼塚は、それ以上詳しく説明しなかった。


「……帰ったら、荒川とよく稽古しろ」


「……押忍!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 リンは、その姿を見つめていた。


 特待生の話は出なかった。


 進学できると決まったわけでもない。


 けれど。


 佐伯には、もう一度ここへ来る理由ができた。


 そして、自分の力で進むべき道を見つけ始めていた。


     ◇


 その頃。


 道場の反対側では、女子選手たちの組み手が行われていた。


 菜月は、壁際に座り、その様子をじっと見つめていた。


 午前中は、自分も大学生たちと一緒に基本稽古へ参加した。


 そのときから、分かっていた。


 この大学の選手たちは、強い。


 動きが速く、技術も正確だ。


 しかし。


「……あれ?」


 菜月が、小さく呟いた。


 視線の先では、一人の女子選手が組み手をしていた。


 大学四年生。


 女子部員たちの中でも、ひときわ鋭い蹴りを放つ選手だった。


「……すご……」


 菜月は、思わず見入った。


 鋭い踏み込み。


 力強い蹴り。


 相手の攻撃を受け止めることなく、先に得点を奪っていく。


 けれど。


 何度か見ているうちに、菜月は首を傾げた。


「…………ん?」


 女子選手が、再び蹴りを放つ。


 相手は、反応できない。


 得点。


「…………」


 菜月は、自分の左手を見た。


 そして、もう一度女子選手へ目を向ける。


 次の組み手。


 再び、蹴り。


「……あ」


 菜月の目が、少しだけ大きくなった。


(……今の……)


 もう一度。


 女子選手が、足を上げる。


 その瞬間。


 菜月は、思わず身を乗り出した。


(……やっぱり……)


 何かが、見えた。


 自分でも、まだ確信はない。


 ただ。


 もし、あの動きに合わせられたら。


 あの瞬間を、狙えたら。


(……いける、かも……?)


 菜月は、じっと女子選手を見つめていた。


 胸の奥が、少しずつ熱くなっていく。


 もっと見たい。


 もっと確かめたい。


 そして。


(……戦ってみたい……!)


 気がつけば、菜月は立ち上がっていた。


     ◇


 午後の組み手が終わりに近づいたころ。


「……鬼塚先生!」


 突然、道場に声が響いた。


 何人かの選手が振り返る。


 鬼塚も、ゆっくり顔を上げた。


「……何だ」


 そこに立っていたのは、菜月だった。


 小柄な高校生。


 けれど、その表情は真剣だった。


「……私、あの人と試合したいです!」


 菜月が、女子選手の方を指さした。


「…………」


 一瞬。


 道場が静まり返った。


「……相原!?」


 荒川が、思わず声を上げた。


「……お前、何を言ってるんだ!」


「……え?」


「……え、じゃない!」


 篠原も、慌てて近づいてくる。


「……ちょっと待て、君! 相手は大学四年生だぞ!」


「……分かってます!」


 菜月は、力強く頷いた。


「……だから、やってみたいんです!」


「……いや、だからって……!」


 篠原は、困ったように鬼塚を見た。


 周囲の大学生たちも、怪訝そうな表情を浮かべている。


「……何、あの子」


「……高校生だろ?」


「……あの先輩を指名したの?」


 小さな声が広がる。


 指名された女子選手も、眉をひそめていた。


 けれど。


 鬼塚だけは、菜月をじっと見ていた。


「……なぜだ」


「……え?」


「……なぜ、あいつとやりたい」


 菜月は、少し考えた。


 そして、指名した女子選手へ目を向ける。


「……あのひと、すっごく強いんですけど」


「……だが?」


「……なんか、攻略法わかっちゃったっぽくて」


「…………は?」


 女子選手の表情が変わった。


「……ちょっと、あんた」


 菜月が振り向く。


「……はい?」


「……私を舐めてるの?」


「……え? 舐めてないですよ?」


 菜月は、きょとんとした顔で答えた。


「……だから、試してみたいんです!」


「…………っ!」


 女子選手が、一歩前へ出ようとする。


 荒川は、慌てて菜月の肩をつかんだ。


「……相原! いい加減にしろ!」


「……でも、先生!」


「……でもじゃない!」


 篠原も、頭を抱えていた。


「……鬼塚先生、すみません。こちらの――」


「……いい」


 鬼塚が、静かに言った。


「…………え?」


 荒川と篠原が、同時に顔を上げる。


 鬼塚は、菜月を見つめていた。


 そして。


「……面白い」


 口元が、わずかに緩んだ。


「……一本先取の一回きりだ」


「…………!」


 菜月の顔が、一気に明るくなった。


「……ありがとうございます!」


 勢いよく頭を下げる。


 鬼塚は、指名された女子選手へ目を向けた。


「……付き合ってやれ」


「……はい」


 女子選手は、短く答えた。


 その表情には、怒りが残っていた。


 荒川は、額に手を当てる。


「……まったく、お前という奴は……」


 菜月は、そんな荒川へ笑顔を向けた。


「……先生! 頑張ってきます!」


「……まずは、きちんと礼をしろ!」


「……押忍!」


 菜月は、慌てて姿勢を正した。


     ◇


 道場の中央。


 菜月と女子大学生が、向かい合った。


 互いに礼をする。


 そして、構えた。


 佐伯は、少し離れた場所でその様子を見つめていた。


「……菜月……」


 まさか、あの後輩が大学四年生を指名するとは思わなかった。


 しかも、女子部員の中でも特に強い選手だ。


 榊原も、隣で腕を組んでいる。


「……すげぇ子だな」


「……すみません……」


 佐伯は、思わず頭を下げた。


 榊原が笑う。


「……何でお前が謝るんだよ」


「……いえ……」


「……でも、面白そうじゃん」


 その言葉に、佐伯は顔を上げた。


 鬼塚が、二人を見渡す。


「……始め!」


 声が響いた。


 菜月は、構えたまま動かなかった。


 女子大学生も、すぐには仕掛けない。


 互いに距離を測る。


「…………」


 菜月は、相手の足元を見ていた。


 右足。


 左足。


 重心の位置。


 そして、両手の構え。


(……来る……)


 女子選手が、わずかに前へ出た。


 菜月は、半歩下がる。


 女子選手は、距離を詰めた。


 しかし、まだ蹴らない。


(……まだ……)


 菜月は、息を整えた。


 相手は、自分より速い。


 力も強い。


 正面から攻撃しても、簡単に返されるだろう。


 だから。


 狙うのは、一つだけ。


 女子選手が、さらに踏み込む。


 菜月は、わずかに身体をひねった。


 その動きに、女子選手が反応する。


 右脚が動いた。


 鋭い中段蹴り。


 その瞬間。


 左手が、わずかに下がった。


(……今っ!)


 菜月の身体が、弾けるように動いた。


 踏み込む。


 軸足を回す。


 上段への蹴り。


「…………っ!?」


 女子選手の目が、大きく見開かれた。


 顔の横へ、菜月の足が迫る。


 読まれていた。


 自分が蹴りを出す瞬間。


 構えの左手が、わずかに下がる癖。


 それを、この高校生は見抜いていた。


 だが。


「……っ!」


 女子選手の中段蹴りが、先に菜月の胴へ届いた。


「……やめ!」


 鬼塚の声が響いた。


 菜月の足は、女子選手の顔のすぐ手前で止まっていた。


 判定は、女子大学生の勝利。


「…………」


 道場が、静まり返った。


 ほんの一瞬。


 菜月の蹴りが、届きかけた。


 誰もが、その瞬間を見ていた。


「……今の……」


 篠原が、小さく呟いた。


 荒川は、何も答えなかった。


 ただ、菜月を見つめている。


 佐伯も、目を見開いたままだった。


「……菜月……」


 榊原が、小さく笑った。


「……なるほどな」


 指名された女子選手は、ゆっくり構えを解いた。


 自分が勝った。


 それは間違いない。


 けれど。


 今の上段蹴り。


 あれが、あとわずかに早ければ。


 そう思った瞬間、女子選手は小さく息を吐いた。


「……ありがとうございました!」


 菜月が、深く頭を下げた。


 女子選手は、少しだけ間を置いた。


 そして。


「……ありがとうございました」


 静かに礼を返した。


 菜月は、悔しそうに拳を握った。


「……あとちょっとだったのに……」


 その声を聞いて、女子選手は苦笑した。


「……本当に、あんたって子は……」


 菜月は、顔を上げた。


「……はい?」


「……何でもない」


 女子選手は、それだけ言って離れていった。


     ◇


「……お前」


 鬼塚が、菜月へ声をかけた。


「……はい?」


 菜月が振り向く。


 鬼塚は、しばらくその顔を見つめていた。


「……名前は」


 菜月は、少しだけ背筋を伸ばした。


 そして、元気よく答えた。


「菜月。相原菜月。高校二年です!」


「……相原か」


 鬼塚は、静かに頷いた。


 それから。


「……来年、待ってるぞ」


「…………え?」


 菜月の動きが止まった。


「……えっ?」


 鬼塚は、すでに次の指示を出そうとしている。


「……あ、あの!」


「……何だ」


「……来年って……!」


 鬼塚は、振り返った。


「……そのままの意味だ」


「……ええええっ!?」


 菜月の声が、道場に響いた。


 周囲の大学生たちが、思わず笑う。


 荒川は、片手で顔を覆った。


「……相原……」


 篠原も、呆気に取られていた。


「……鬼塚先生が、あんなことを……」


 菜月は、慌てて荒川へ駆け寄った。


「……先生! 今の、どういう意味ですか!?」


「……俺に聞くな!」


「……でも!」


「……とにかく、片づけろ!」


「……押忍!」


 菜月は、勢いよく返事をした。


 そして、慌てて道場の端へ走っていく。


 その背中を見ながら、リンは小さく笑った。


『……すごいね、相原さん』


 隣にいた佐伯が、静かに頷く。


「……はい」


 その声には、驚きと、少しの悔しさが混じっていた。


 けれど。


 何よりも、後輩への尊敬があった。


     ◇


 夕方。


 東央大学の正門前。


 合同練習会を終えた四人は、帰り道についていた。


「……はああ……」


 菜月が、大きく息を吐いた。


「……悔しい……!」


 佐伯が、隣で笑った。


「……まだ言ってるのか」


「……だって、あとちょっとだったんですよ!」


「……そうだな」


「……あの中段蹴り、もう少し早く気づいてたら……!」


 菜月は、拳を握った。


 荒川が、静かに口を開く。


「……相原」


「……はい?」


「……お前、今日のあの態度は何だ」


「…………」


 菜月が、ぴたりと口を閉じた。


「……相手は大学四年生だぞ。しかも、鬼塚さんにいきなり直談判とは」


「……すみません……」


「……勝負をしたいという気持ちは分かる。だが、礼儀は忘れるな」


「……はい」


 菜月は、素直に頭を下げた。


「……気をつけます」


 荒川は、小さく息を吐いた。


「……まったく」


 そして、少しだけ笑った。


「……だが、よく見ていたな」


「…………!」


 菜月が顔を上げる。


「……あの選手の癖。俺も気づかなかった」


「……えっ?」


「……お前は、どうして分かった」


 菜月は、少し考えた。


「……何回か見てたら、なんか気になって」


「……それだけか?」


「……はい」


 荒川は、呆れたように笑った。


「……そうか」


 佐伯が、菜月へ目を向けた。


「……菜月」


「……はい?」


「……お前、すげぇな」


「…………え?」


 菜月が、目を丸くした。


「……あの人の癖、見抜いてたんだろ」


「……まあ、はい」


「……俺には、全然分からなかった」


 菜月は、少しだけ頬を赤くした。


「……でも、負けました」


 佐伯は、笑った。


「……それは俺も同じだろ」


「…………」


 菜月も、思わず笑った。


「……そうですね!」


 リンは、その二人を見つめていた。


 佐伯は、何度も負けた。


 菜月は、たった一度の勝負で敗れた。


 けれど、二人とも、大学へ来たときとは違う顔をしている。


 勝てなかった悔しさ。


 知らなかった技術。


 自分に足りないもの。


 そして、もっと強くなりたいという気持ち。


(……よかった)


 リンは、そっと笑った。


(……連れてきて、本当によかった)


 そのとき。


「……佐伯」


 荒川が、声をかけた。


「……はい」


「……今日のことは、忘れるなよ」


「……押忍!」


「……相原もだ」


「……押忍!」


 二人の返事が重なった。


 荒川は、満足そうに頷いた。


 佐伯は、もう一度大学の正門を振り返った。


 朝、ここへ来たとき。


 自分がこの場所に立つなど、夢のようだった。


 そして今。


 自分の未熟さを、思い知らされた。


 大学生たちの強さ。


 同じ高校生との実力差。


 何度も負けた悔しさ。


 けれど、それ以上に。


 もっと強くなりたいと思った。


 もう一度、ここへ来たい。


 今度は、少しでも戦える自分になっていたい。


「……荒川先生」


「……何だ」


 佐伯は、拳を握った。


「……次は、一本くらい取ってみせます」


 荒川は、少しだけ笑った。


「……期待してるぞ」


「……押忍!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 そして、顔を上げる。


 夕暮れの空の下。


 東央大学の正門が、静かにそびえていた。


 その場所は、もう届くはずのない世界ではなかった。

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