第二十三話「強者の背中」
二〇〇〇年(平成十二年)五月上旬。
東京都内、東央大学。
『……着いた!』
正門の前で、リンは小さく声を上げた。
先日、一人で訪れたばかりの大学。
今日は、その隣に三人の姿があった。
青葉高校空手部顧問、荒川剛。
三年生の佐伯大輔。
そして、二年生の相原菜月。
「……うわぁ」
菜月は、大学の正門を見上げていた。
「……佐伯先輩! 大学って、やっぱり広いですね!」
「……まだ門の前だぞ」
「……そうですけど!」
菜月は、楽しそうに笑った。
一方、佐伯は口数が少なかった。
手に持った道着の袋を握り直し、正門の奥を見つめている。
『……佐伯さん』
「……はい」
『……緊張してる?』
「……正直、かなり」
『……そっか』
リンは、小さく笑った。
『……でも、今日は来られてよかったね』
「……はい」
佐伯は、少しだけ表情を緩めた。
あれから、篠原を通じて大学側との連絡が進んだ。
練習会の日程と参加条件を確認し、学校側の手続きも済ませた。
佐伯の保護者にも事情を説明している。
菜月についても、大学側から参加の了承を得られた。
ただし、佐伯とは参加する目的が違う。
菜月は進学候補として招かれたわけではなく、荒川の引率のもとで稽古に参加することを認められたのだった。
「……いいか、お前ら」
荒川が、二人へ声をかけた。
「……はい!」
「押忍!」
「……今日は普段の部活動とは違う。大学側の指示に従え」
「押忍!」
「……それから相原」
「……はい?」
「……あまり騒ぐなよ」
「……ええ!? まだ何もしてませんよ!」
「……だから、先に言ってるんだ」
「……ひどい!」
佐伯が、思わず笑った。
リンも、口元を緩める。
荒川は、そんな三人を見て小さく息を吐いた。
「……行くぞ」
◇
東央大学、空手道場。
扉を開けた瞬間。
「……っ!」
佐伯が、息を呑んだ。
道場の中では、すでに多くの選手たちが身体を動かしていた。
床を踏み込む音。
道着が鋭く鳴る音。
短い気合い。
一つひとつの動作が、青葉高校の練習とは明らかに違っていた。
「……すご」
菜月が、小さく呟いた。
先ほどまでの明るい表情が、少しだけ真剣になる。
「……あの人、めっちゃ速い……」
視線の先では、男子大学生が鋭い踏み込みから突きを放っていた。
相手は後退しながら、わずかな動きでそれをかわしている。
「……今の、どうやって避けたんですかね」
菜月は、食い入るように見つめていた。
「……菜月」
「……はい?」
「……まず挨拶だろ」
「あっ!」
佐伯に言われ、菜月は慌てて姿勢を正した。
そのとき。
「……おっ、山元!」
道場の奥から、男性が近づいてきた。
篠原圭介だった。
『……篠原さん!』
「……ちゃんと連れてきたな」
『……はい!』
リンは、笑顔で頷いた。
『……こちらが佐伯さんです!』
佐伯が、一歩前へ出る。
「……青葉高校三年、佐伯大輔です! 本日はよろしくお願いします!」
深く頭を下げた。
篠原は、穏やかに頷く。
「……篠原圭介だ。よろしくな」
「押忍!」
『……それから、こちらが相原さんです』
「……青葉高校二年、相原菜月です! よろしくお願いします!」
「……ああ。よろしく」
篠原は、菜月の元気な挨拶に少し笑った。
荒川とも挨拶を交わし、参加者の案内を始める。
「……今日は何校か高校生が来てる。まずは全体で稽古して、そのあと組み手に入る予定だ」
「……はい!」
「……大学生も相手になるから、無理はするなよ」
佐伯は、真剣に頷いた。
すると、道場の奥から別の声がした。
「……あれ、山元先輩?」
『……え?』
リンが振り向く。
そこには、背の高い男子学生が立っていた。
「……やっぱり! 山元先輩じゃないですか!」
『……榊原くん!』
リンは、先日の記憶を頼りに名前を呼んだ。
榊原隼人。
東央大学空手道部の主将。
山元凛の一学年下にあたる、現在の四年生だ。
「……今日は引率ですか?」
『……うん! うちの生徒を連れてきたんだ』
「……へえ」
榊原は、佐伯たちへ目を向けた。
「……よろしくな」
「……っ!」
佐伯の動きが止まった。
「……さ、榊原隼人先輩……?」
「……ん?」
榊原が首を傾げる。
「……俺のこと、知ってるの?」
「……もちろんです!」
佐伯は、思わず声を大きくした。
「……去年の全国大学選手権、個人組手ベスト四の……!」
「……おお、詳しいな」
榊原は、楽しそうに笑った。
「……ありがとな」
「……い、いえ!」
佐伯は、慌てて頭を下げた。
その横で、菜月が小さく呟く。
「……佐伯先輩、めっちゃ緊張してる」
「……聞こえてるぞ」
「……あっ」
榊原が笑う。
「……ははは! いい後輩だな」
『……そうなんです』
リンも、つられて笑った。
そのとき。
「……集合!」
低く、よく通る声が道場に響いた。
鬼塚宗一郎だった。
大学生たちの動きが、一斉に止まる。
高校生たちも、慌てて整列した。
リンたちも、道場の端へ移動する。
鬼塚は、集まった選手たちを見渡した。
「……今日は各校から参加者を呼んでいる」
道場が静まり返る。
「……大学生も高校生も、相手の肩書に遠慮する必要はない」
「押忍!」
「……だが、自分の実力を見誤るな。無理な攻撃はするな」
「押忍!」
「……勝った負けただけで終わるなら、ここに来た意味はないぞ」
佐伯は、顔を上げた。
鬼塚の視線が、一瞬だけこちらへ向いたような気がした。
「……始め!」
「押忍!」
道場に、力強い返事が響いた。
◇
合同練習が始まった。
最初は、全体での基本稽古。
突き。
蹴り。
踏み込み。
そして、相手との距離を測る練習。
「……佐伯、もう少し腰を落とせ」
「押忍!」
「……相原、足だけ先に出るな」
「押忍!」
大学生たちからも、次々と指導が飛ぶ。
佐伯は、必死についていった。
同じ突きの練習でも、周囲の選手たちは動作が速い。
しかも、ただ速いだけではなかった。
踏み込む直前の姿勢。
足を止める位置。
次の動きへ移るまでの短さ。
一つひとつに、無駄がない。
「……っ、はあ……!」
佐伯は、汗を拭った。
その隣では、菜月も息を弾ませている。
「……やばい……」
「……どうした?」
「……めっちゃ楽しいです!」
「…………」
佐伯は、思わず菜月を見た。
「……お前、すごいな」
「……え?」
「……いや、何でもない」
佐伯は、小さく笑った。
やがて、基本稽古が終わる。
水分補給を挟み、組み手の練習へ移った。
そこで。
「……佐伯大輔」
「……押忍!」
鬼塚から、名前を呼ばれた。
佐伯が前へ出る。
「……最初は榊原とやれ」
「…………え?」
佐伯の動きが止まった。
「……榊原」
「……はい」
榊原が、軽く手を上げる。
「……了解です」
「…………」
佐伯は、思わず息を呑んだ。
憧れていた選手。
全国大学選手権ベスト四。
その相手と、いきなり組み手をする。
「……佐伯くん」
榊原が近づいてきた。
「……はい!」
「……そんなに固くならなくていいぞ」
「……す、すみません!」
「……謝らなくていいって」
榊原は、笑った。
そして、少しだけ声を落とす。
「……でもさ」
「……はい」
「……始まる前から、負けた顔すんな」
「…………!」
佐伯は、目を見開いた。
榊原は、静かに続けた。
「……せっかく来たんだろ。何か一つでも持って帰れよ」
「……押忍!」
佐伯は、深く頭を下げた。
そして、道場の中央へ進む。
リンは、思わず両手を握りしめた。
『……佐伯さん……』
隣で、荒川が静かに見守っている。
「……見てろ、山元」
『……はい』
「……あいつが、どこまでやれるか」
リンは、頷いた。
◇
「……始め!」
声が響いた。
佐伯は、すぐに構えた。
榊原も、軽く腰を落とす。
互いに距離を測る。
佐伯は、右足を踏み出しかけた。
その瞬間。
「……っ!」
榊原が、わずかに前へ出た。
佐伯は、反射的に後退する。
しかし。
榊原は、攻撃していなかった。
ただ、一歩動いただけだった。
(……何だ、今の……)
佐伯は、息を呑んだ。
まるで、先に攻撃されると分かっていたかのように身体が動いた。
もう一度、距離を詰める。
「……はっ!」
佐伯が、突きを放った。
だが。
榊原は、わずかに身体をずらした。
突きが空を切る。
次の瞬間。
「……っ!」
佐伯の胴へ、鋭い突きが入った。
「……やめ!」
得点。
榊原は、何事もなかったように構え直す。
「……もう一回、来い」
「……押忍!」
佐伯は、再び踏み込んだ。
今度は、先ほどより速く。
しかし。
榊原は、もうそこにはいなかった。
「……っ!」
再び、攻撃を受ける。
佐伯は、歯を食いしばった。
(……速い……!)
いや。
速いだけではない。
自分が動く前から、次の攻撃を読まれている。
佐伯は、構えを立て直した。
そして、もう一度。
「……はっ!」
踏み込む。
榊原が、わずかに後退する。
佐伯は、そこで止まらなかった。
さらに一歩。
突きを伸ばす。
「……おっ」
榊原の表情が、少しだけ変わった。
だが、その突きも届かなかった。
直後。
榊原の攻撃が、佐伯を捉えた。
「……やめ!」
組み手が終わる。
佐伯は、肩で息をしていた。
「……はあ……はあ……」
榊原は、静かに近づいてきた。
「……お疲れ」
「……ありがとうございました!」
佐伯が、深く頭を下げる。
榊原は、その肩を軽く叩いた。
「……最初より、最後の踏み込みの方がよかったぞ」
「…………!」
「……でも、まだ前に出るタイミングが分かりやすいな」
「……はい!」
「……相手を動かしてから、入ってみろ」
「……押忍!」
佐伯は、もう一度頭を下げた。
榊原は、笑顔で頷いた。
「……頑張れよ」
◇
その後も、佐伯の組み手は続いた。
二人目は、東央大学の三年生。
榊原とは違い、積極的に前へ出てくる選手だった。
佐伯も、負けじと踏み込む。
しかし、攻撃の出始めを読まれ、得点を許す。
「……やめ!」
佐伯は、歯を食いしばった。
(……また、先に入られた……)
先ほど、榊原から言われたこと。
相手を動かしてから攻撃する。
佐伯は、一度距離を取った。
小さく前へ出る。
大学生が、反応する。
(……今度は……)
そこで、踏み込まずに止まった。
相手の足が、わずかに動く。
その瞬間を狙い、佐伯が攻撃する。
「……はっ!」
突きが伸びた。
しかし、大学生は落ち着いて対応する。
逆に、鋭い反撃が入った。
「……やめ!」
再び、失点。
佐伯は、悔しそうに息を吐いた。
だが。
(……少しだけ、見えた……)
今度は、相手が動く瞬間を自分でつくろうとした。
結果は変わらなかった。
それでも、先ほどとは違う。
佐伯は、静かに構え直した。
◇
三人目は、他校から参加していた高校三年生だった。
佐伯と同じ学年。
しかし、踏み込みも攻撃の組み立ても、明らかに洗練されている。
「……よろしくお願いします!」
「……押忍!」
互いに礼をする。
組み手開始。
相手は、いきなり前へ出てこなかった。
細かく距離を変えながら、佐伯の反応をうかがっている。
(……さっきとは、また違う……)
佐伯は、ゆっくり息を吐いた。
相手の足を見る。
肩の動きを見る。
そして、わずかな隙を探す。
「……はっ!」
佐伯が、先に仕掛けた。
相手は後退する。
そのまま反撃。
「……っ!」
佐伯は、ぎりぎりで身体を引いた。
攻撃が、目の前を通り過ぎる。
(……避けた……!)
しかし、次の動きが遅れた。
相手が、再び踏み込む。
得点。
「……やめ!」
佐伯は、悔しそうに唇を噛んだ。
けれど。
今度は、相手の攻撃を一度かわすことができた。
そして、相手がどの距離から仕掛けてくるのか、少しだけ分かり始めていた。
組み手が終わる。
結果は、敗北。
三人と戦い、一度も勝てなかった。
佐伯は、息を切らしながら道場の端へ戻った。
「……はあ……はあ……」
リンが、すぐに近づく。
『……佐伯さん! お疲れさま!』
「……ありがとうございます……」
『……大丈夫?』
「……はい」
佐伯は、汗を拭った。
『……すごかったよ』
「……いえ……」
佐伯は、小さく首を振った。
「……全然、歯が立ちませんでした」
『…………』
リンは、言葉を探した。
そのとき。
「……佐伯」
荒川が、静かに声をかけた。
「……はい」
「……最初の組み手と、最後の組み手。自分で何が違ったと思う?」
「…………」
佐伯は、少し考えた。
「……最初は、相手を見る余裕もありませんでした」
「……ああ」
「……でも、最後は……」
佐伯は、自分の拳を見つめた。
「……少しだけ、相手の動きが見えた気がします」
荒川は、頷いた。
「……そうか」
佐伯は、顔を上げた。
「……もっと、やりたいです」
その声には、悔しさがにじんでいた。
「……もっと、強くなりたいです」
荒川は、静かに笑った。
「……なら、今日覚えたことを忘れるな」
「……押忍!」
◇
午後。
合同練習が一区切りついたころ。
「……佐伯」
鬼塚が、声をかけた。
「……押忍!」
佐伯は、すぐに姿勢を正した。
鬼塚は、しばらく佐伯を見つめていた。
「……これがお前の実力だ」
「……押忍」
「……お前は弱い」
「…………」
佐伯は、黙って頭を下げた。
言い返すことなど、できなかった。
実際に戦って、その差を思い知ったばかりだった。
しかし。
「……だが、面白い」
「…………え?」
佐伯が、顔を上げた。
鬼塚は、静かに続ける。
「……最初は、相手が動いただけで下がっていたな」
「……はい」
「……二人目では、自分から相手を動かそうとした」
「…………」
「……最後には、相手の攻撃を一度かわした」
佐伯は、目を見開いた。
鬼塚は、すべて見ていた。
自分が、何を考えたのか。
どう変えようとしたのか。
そして、何ができなかったのか。
「……結果は全敗だ」
「……押忍」
「……だが、同じ負け方を繰り返そうとはしなかった」
鬼塚は、腕を組んだ。
「……お前は弱い。だが、面白い」
「…………」
そして、ふと視線を移した。
リンの方へ。
「……かつての誰かみたいにな」
『…………!』
リンは、思わず息を呑んだ。
鬼塚の視線。
その言葉。
誰のことを言っているのか、考えるまでもなかった。
(……凛さん……)
リンは、そっと胸元へ手を当てた。
鬼塚は、再び佐伯へ向き直る。
「……佐伯」
「……はい!」
「……まだ、続けたいか」
佐伯は、少しの間黙っていた。
そして、まっすぐ答えた。
「……押忍!」
拳を握る。
「……もっと、強くなりたいです!」
鬼塚は、静かに頷いた。
「……なら、次に来るまでに、今日の課題を直してこい」
「…………!」
佐伯は、目を見開いた。
「……次に……?」
「……一度見ただけで決めるつもりはない」
鬼塚は、それ以上詳しく説明しなかった。
「……帰ったら、荒川とよく稽古しろ」
「……押忍!」
佐伯は、深く頭を下げた。
リンは、その姿を見つめていた。
特待生の話は出なかった。
進学できると決まったわけでもない。
けれど。
佐伯には、もう一度ここへ来る理由ができた。
そして、自分の力で進むべき道を見つけ始めていた。
◇
その頃。
道場の反対側では、女子選手たちの組み手が行われていた。
菜月は、壁際に座り、その様子をじっと見つめていた。
午前中は、自分も大学生たちと一緒に基本稽古へ参加した。
そのときから、分かっていた。
この大学の選手たちは、強い。
動きが速く、技術も正確だ。
しかし。
「……あれ?」
菜月が、小さく呟いた。
視線の先では、一人の女子選手が組み手をしていた。
大学四年生。
女子部員たちの中でも、ひときわ鋭い蹴りを放つ選手だった。
「……すご……」
菜月は、思わず見入った。
鋭い踏み込み。
力強い蹴り。
相手の攻撃を受け止めることなく、先に得点を奪っていく。
けれど。
何度か見ているうちに、菜月は首を傾げた。
「…………ん?」
女子選手が、再び蹴りを放つ。
相手は、反応できない。
得点。
「…………」
菜月は、自分の左手を見た。
そして、もう一度女子選手へ目を向ける。
次の組み手。
再び、蹴り。
「……あ」
菜月の目が、少しだけ大きくなった。
(……今の……)
もう一度。
女子選手が、足を上げる。
その瞬間。
菜月は、思わず身を乗り出した。
(……やっぱり……)
何かが、見えた。
自分でも、まだ確信はない。
ただ。
もし、あの動きに合わせられたら。
あの瞬間を、狙えたら。
(……いける、かも……?)
菜月は、じっと女子選手を見つめていた。
胸の奥が、少しずつ熱くなっていく。
もっと見たい。
もっと確かめたい。
そして。
(……戦ってみたい……!)
気がつけば、菜月は立ち上がっていた。
◇
午後の組み手が終わりに近づいたころ。
「……鬼塚先生!」
突然、道場に声が響いた。
何人かの選手が振り返る。
鬼塚も、ゆっくり顔を上げた。
「……何だ」
そこに立っていたのは、菜月だった。
小柄な高校生。
けれど、その表情は真剣だった。
「……私、あの人と試合したいです!」
菜月が、女子選手の方を指さした。
「…………」
一瞬。
道場が静まり返った。
「……相原!?」
荒川が、思わず声を上げた。
「……お前、何を言ってるんだ!」
「……え?」
「……え、じゃない!」
篠原も、慌てて近づいてくる。
「……ちょっと待て、君! 相手は大学四年生だぞ!」
「……分かってます!」
菜月は、力強く頷いた。
「……だから、やってみたいんです!」
「……いや、だからって……!」
篠原は、困ったように鬼塚を見た。
周囲の大学生たちも、怪訝そうな表情を浮かべている。
「……何、あの子」
「……高校生だろ?」
「……あの先輩を指名したの?」
小さな声が広がる。
指名された女子選手も、眉をひそめていた。
けれど。
鬼塚だけは、菜月をじっと見ていた。
「……なぜだ」
「……え?」
「……なぜ、あいつとやりたい」
菜月は、少し考えた。
そして、指名した女子選手へ目を向ける。
「……あのひと、すっごく強いんですけど」
「……だが?」
「……なんか、攻略法わかっちゃったっぽくて」
「…………は?」
女子選手の表情が変わった。
「……ちょっと、あんた」
菜月が振り向く。
「……はい?」
「……私を舐めてるの?」
「……え? 舐めてないですよ?」
菜月は、きょとんとした顔で答えた。
「……だから、試してみたいんです!」
「…………っ!」
女子選手が、一歩前へ出ようとする。
荒川は、慌てて菜月の肩をつかんだ。
「……相原! いい加減にしろ!」
「……でも、先生!」
「……でもじゃない!」
篠原も、頭を抱えていた。
「……鬼塚先生、すみません。こちらの――」
「……いい」
鬼塚が、静かに言った。
「…………え?」
荒川と篠原が、同時に顔を上げる。
鬼塚は、菜月を見つめていた。
そして。
「……面白い」
口元が、わずかに緩んだ。
「……一本先取の一回きりだ」
「…………!」
菜月の顔が、一気に明るくなった。
「……ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。
鬼塚は、指名された女子選手へ目を向けた。
「……付き合ってやれ」
「……はい」
女子選手は、短く答えた。
その表情には、怒りが残っていた。
荒川は、額に手を当てる。
「……まったく、お前という奴は……」
菜月は、そんな荒川へ笑顔を向けた。
「……先生! 頑張ってきます!」
「……まずは、きちんと礼をしろ!」
「……押忍!」
菜月は、慌てて姿勢を正した。
◇
道場の中央。
菜月と女子大学生が、向かい合った。
互いに礼をする。
そして、構えた。
佐伯は、少し離れた場所でその様子を見つめていた。
「……菜月……」
まさか、あの後輩が大学四年生を指名するとは思わなかった。
しかも、女子部員の中でも特に強い選手だ。
榊原も、隣で腕を組んでいる。
「……すげぇ子だな」
「……すみません……」
佐伯は、思わず頭を下げた。
榊原が笑う。
「……何でお前が謝るんだよ」
「……いえ……」
「……でも、面白そうじゃん」
その言葉に、佐伯は顔を上げた。
鬼塚が、二人を見渡す。
「……始め!」
声が響いた。
菜月は、構えたまま動かなかった。
女子大学生も、すぐには仕掛けない。
互いに距離を測る。
「…………」
菜月は、相手の足元を見ていた。
右足。
左足。
重心の位置。
そして、両手の構え。
(……来る……)
女子選手が、わずかに前へ出た。
菜月は、半歩下がる。
女子選手は、距離を詰めた。
しかし、まだ蹴らない。
(……まだ……)
菜月は、息を整えた。
相手は、自分より速い。
力も強い。
正面から攻撃しても、簡単に返されるだろう。
だから。
狙うのは、一つだけ。
女子選手が、さらに踏み込む。
菜月は、わずかに身体をひねった。
その動きに、女子選手が反応する。
右脚が動いた。
鋭い中段蹴り。
その瞬間。
左手が、わずかに下がった。
(……今っ!)
菜月の身体が、弾けるように動いた。
踏み込む。
軸足を回す。
上段への蹴り。
「…………っ!?」
女子選手の目が、大きく見開かれた。
顔の横へ、菜月の足が迫る。
読まれていた。
自分が蹴りを出す瞬間。
構えの左手が、わずかに下がる癖。
それを、この高校生は見抜いていた。
だが。
「……っ!」
女子選手の中段蹴りが、先に菜月の胴へ届いた。
「……やめ!」
鬼塚の声が響いた。
菜月の足は、女子選手の顔のすぐ手前で止まっていた。
判定は、女子大学生の勝利。
「…………」
道場が、静まり返った。
ほんの一瞬。
菜月の蹴りが、届きかけた。
誰もが、その瞬間を見ていた。
「……今の……」
篠原が、小さく呟いた。
荒川は、何も答えなかった。
ただ、菜月を見つめている。
佐伯も、目を見開いたままだった。
「……菜月……」
榊原が、小さく笑った。
「……なるほどな」
指名された女子選手は、ゆっくり構えを解いた。
自分が勝った。
それは間違いない。
けれど。
今の上段蹴り。
あれが、あとわずかに早ければ。
そう思った瞬間、女子選手は小さく息を吐いた。
「……ありがとうございました!」
菜月が、深く頭を下げた。
女子選手は、少しだけ間を置いた。
そして。
「……ありがとうございました」
静かに礼を返した。
菜月は、悔しそうに拳を握った。
「……あとちょっとだったのに……」
その声を聞いて、女子選手は苦笑した。
「……本当に、あんたって子は……」
菜月は、顔を上げた。
「……はい?」
「……何でもない」
女子選手は、それだけ言って離れていった。
◇
「……お前」
鬼塚が、菜月へ声をかけた。
「……はい?」
菜月が振り向く。
鬼塚は、しばらくその顔を見つめていた。
「……名前は」
菜月は、少しだけ背筋を伸ばした。
そして、元気よく答えた。
「菜月。相原菜月。高校二年です!」
「……相原か」
鬼塚は、静かに頷いた。
それから。
「……来年、待ってるぞ」
「…………え?」
菜月の動きが止まった。
「……えっ?」
鬼塚は、すでに次の指示を出そうとしている。
「……あ、あの!」
「……何だ」
「……来年って……!」
鬼塚は、振り返った。
「……そのままの意味だ」
「……ええええっ!?」
菜月の声が、道場に響いた。
周囲の大学生たちが、思わず笑う。
荒川は、片手で顔を覆った。
「……相原……」
篠原も、呆気に取られていた。
「……鬼塚先生が、あんなことを……」
菜月は、慌てて荒川へ駆け寄った。
「……先生! 今の、どういう意味ですか!?」
「……俺に聞くな!」
「……でも!」
「……とにかく、片づけろ!」
「……押忍!」
菜月は、勢いよく返事をした。
そして、慌てて道場の端へ走っていく。
その背中を見ながら、リンは小さく笑った。
『……すごいね、相原さん』
隣にいた佐伯が、静かに頷く。
「……はい」
その声には、驚きと、少しの悔しさが混じっていた。
けれど。
何よりも、後輩への尊敬があった。
◇
夕方。
東央大学の正門前。
合同練習会を終えた四人は、帰り道についていた。
「……はああ……」
菜月が、大きく息を吐いた。
「……悔しい……!」
佐伯が、隣で笑った。
「……まだ言ってるのか」
「……だって、あとちょっとだったんですよ!」
「……そうだな」
「……あの中段蹴り、もう少し早く気づいてたら……!」
菜月は、拳を握った。
荒川が、静かに口を開く。
「……相原」
「……はい?」
「……お前、今日のあの態度は何だ」
「…………」
菜月が、ぴたりと口を閉じた。
「……相手は大学四年生だぞ。しかも、鬼塚さんにいきなり直談判とは」
「……すみません……」
「……勝負をしたいという気持ちは分かる。だが、礼儀は忘れるな」
「……はい」
菜月は、素直に頭を下げた。
「……気をつけます」
荒川は、小さく息を吐いた。
「……まったく」
そして、少しだけ笑った。
「……だが、よく見ていたな」
「…………!」
菜月が顔を上げる。
「……あの選手の癖。俺も気づかなかった」
「……えっ?」
「……お前は、どうして分かった」
菜月は、少し考えた。
「……何回か見てたら、なんか気になって」
「……それだけか?」
「……はい」
荒川は、呆れたように笑った。
「……そうか」
佐伯が、菜月へ目を向けた。
「……菜月」
「……はい?」
「……お前、すげぇな」
「…………え?」
菜月が、目を丸くした。
「……あの人の癖、見抜いてたんだろ」
「……まあ、はい」
「……俺には、全然分からなかった」
菜月は、少しだけ頬を赤くした。
「……でも、負けました」
佐伯は、笑った。
「……それは俺も同じだろ」
「…………」
菜月も、思わず笑った。
「……そうですね!」
リンは、その二人を見つめていた。
佐伯は、何度も負けた。
菜月は、たった一度の勝負で敗れた。
けれど、二人とも、大学へ来たときとは違う顔をしている。
勝てなかった悔しさ。
知らなかった技術。
自分に足りないもの。
そして、もっと強くなりたいという気持ち。
(……よかった)
リンは、そっと笑った。
(……連れてきて、本当によかった)
そのとき。
「……佐伯」
荒川が、声をかけた。
「……はい」
「……今日のことは、忘れるなよ」
「……押忍!」
「……相原もだ」
「……押忍!」
二人の返事が重なった。
荒川は、満足そうに頷いた。
佐伯は、もう一度大学の正門を振り返った。
朝、ここへ来たとき。
自分がこの場所に立つなど、夢のようだった。
そして今。
自分の未熟さを、思い知らされた。
大学生たちの強さ。
同じ高校生との実力差。
何度も負けた悔しさ。
けれど、それ以上に。
もっと強くなりたいと思った。
もう一度、ここへ来たい。
今度は、少しでも戦える自分になっていたい。
「……荒川先生」
「……何だ」
佐伯は、拳を握った。
「……次は、一本くらい取ってみせます」
荒川は、少しだけ笑った。
「……期待してるぞ」
「……押忍!」
佐伯は、深く頭を下げた。
そして、顔を上げる。
夕暮れの空の下。
東央大学の正門が、静かにそびえていた。
その場所は、もう届くはずのない世界ではなかった。




