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第二十二話「届くはずのなかった場所」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月二十九日、土曜日。


 東央大学、空手道部指導者室。


「……その佐伯って生徒を、一度連れてこい」


『…………え?』


 リンは、思わず目を見開いた。


 目の前に座る鬼塚宗一郎は、変わらず落ち着いた表情をしている。


 まるで、ごく当たり前のことを口にしたかのようだった。


『……ほ、本当にいいんですか!?』


「……ああ」


『……ありがとうございます!』


 リンは、勢いよく頭を下げた。


 鬼塚は、そんなリンをしばらく見つめていた。


「……山元」


『……はい!』


「……勘違いするなよ」


『……え?』


「……俺はまだ、その佐伯という選手を知らん」


 鬼塚は、静かに続けた。


「……お前から話を聞いただけだ。実力も、技術も、どんな試合をする選手なのかも分からん」


『……はい』


「……だから、連れてきたからといって、特別扱いはしない」


『……もちろんです!』


 リンは、真剣に頷いた。


『……あたしも、特待生にしてくださいってお願いしに来たわけじゃないんです』


「……ほう」


『……その子に、何か選べる道があるなら、知ってほしくて』


 鬼塚は、少しだけ目を細めた。


『……それに、本人がどうするかは、まだ決めてないので』


「……そうか」


 鬼塚は、ゆっくり頷いた。


「……なら、まずは本人の意思を確認してこい」


『……はい!』


「……近いうちに行う合同練習会には、何人か高校生を呼んでいる」


『……はい』


「……大学生たちとの稽古もある。楽な場所ではないぞ」


『……分かりました』


「……詳しい日程や参加条件は、篠原から連絡させる」


『……ありがとうございます!』


 リンは、もう一度深く頭を下げた。


 鬼塚は、その様子を見ながら、小さく息を吐いた。


「……しかし、山元」


『……はい?』


「……お前が教え子の進路を気にして、わざわざここまで来るとはな」


『……あはは……』


「……昔のお前なら、まず自分が道着を着て、相手の実力を確かめようとしただろう」


『……そ、そうですかね』


「……そういう奴だった」


 鬼塚は、わずかに笑った。


 リンも、つられるように笑う。


 けれど、胸の奥には別の感情があった。


(……凛さんって、本当にどんな人だったんだろ)


 この大学へ来てから、何度も思った。


 榊原も、篠原も、鬼塚も。


 みんな、自分の知らない山元凛を知っている。


 どんな選手だったのか。


 どんな大学生活を送っていたのか。


 どれほど努力してきたのか。


 そして、どれだけの人に大切にされていたのか。


 リンは、その一つひとつを、少しずつ知り始めていた。


「……山元」


『……はい』


「……いい教師になれよ」


『…………』


 鬼塚は、静かにそう言った。


 リンは、少しだけ驚いた。


 そして。


『……はい!』


 今度は、迷わず返事をした。


     ◇


 指導者室を出ると、廊下には篠原圭介が待っていた。


「……どうだった?」


『……篠原さん!』


 リンは、思わず笑顔になった。


『……佐伯さんを、合同練習会に連れてきていいって!』


「……そうか」


 篠原は、少しだけ目を見開いた。


 それから、穏やかに笑った。


「……よかったな」


『……はい!』


「……ただし、まだ何も決まったわけじゃないぞ」


『……分かってます!』


 リンは、頷いた。


『……まずは本人に話してみます』


「……ああ。それがいい」


 篠原は、少し考えてから続けた。


「……しかし、鬼塚先生も珍しいな」


『……え?』


「……いや、何でもない」


『……ええ!? 何ですか、それ!』


 篠原は、楽しそうに笑った。


「……まあ、後で分かるさ」


『……もう!』


 リンは、少し頬を膨らませた。


 その反応を見て、篠原はさらに笑った。


「……ははは! お前、随分変わったな」


『……そ、そうですか?』


「……ああ。でも、悪くない」


『…………』


「……教師、頑張れよ」


『……はい!』


 リンは、笑顔で頷いた。


 そして、東央大学をあとにした。


     ◇


 五月一日、月曜日。


 青葉高校、武道場。


 放課後。


「……佐伯! 踏み込みが浅い!」


「押忍!」


「……もう一本!」


「押忍!」


 部員たちの気合いが響いていた。


 リンは、武道場の入り口から練習を見守っていた。


 佐伯が、何度も突きを繰り返していた。


(……佐伯さん)


 リンは、そっと息を吐いた。


 鬼塚から言われた言葉。


 合同練習会への招待。


 まだ、佐伯本人には伝えていない。


 今日、荒川へ報告したうえで、話すつもりだった。


 やがて、練習が一区切りついた。


 荒川剛が、部員たちへ休憩を指示する。


「……五分休憩!」


「押忍!」


 部員たちが、それぞれ水分補給を始める。


 リンは、荒川へ近づいた。


『……荒川先生』


「……山元か」


『……ちょっと、ご報告があって』


「……何だ」


 リンは、少しだけ笑った。


『……この前の東央大学の件なんですけど』


 荒川が、顔を上げた。


「……ああ」


『……土曜日に、鬼塚先生にお会いしてきました!』


「……そうか」


『……はい!』


「……で、どうだった」


 リンは、少し身を乗り出した。


『……それがですね!』


 思わず声が弾む。


『……佐伯さんを、一度連れてこいって言っていただけたんです!』


「…………」


 荒川の動きが止まった。


『……荒川先生?』


「……今、何と言った?」


『……え?』


「……鬼塚さんが、佐伯を連れてこいと?」


『……はい!』


 荒川は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……あの鬼塚さんが、連れてこいと言うとはな」


『……えっ?』


 リンは、首を傾げた。


『……そんなに珍しいことなんですか?』


「……ああ」


 荒川は、ゆっくり頷いた。


「……あの人は、そう簡単に選手を呼ぶような人じゃない」


『……そうなんですか』


「……俺も長い付き合いだが、実際に選手を見る前から、ああいう言葉をもらえることは滅多にない」


『…………』


 リンは、少しだけ目を見開いた。


 荒川は、続けた。


「……ましてや、まだ会ったこともない高校生だ」


『……はい』


「……普通なら、まず実績や試合内容を詳しく聞かれるだろう」


 リンは、土曜日のことを思い出した。


 鬼塚は、佐伯の競技実績について、それほど詳しく尋ねなかった。


 むしろ、リンがどれほど佐伯を知っているのか。


 佐伯がどんな生徒なのか。


 そのことを確認していた。


『……じゃあ、どうして……』


 荒川は、リンを見た。


「……山元」


『……はい』


「……お前、大学で相当なものを残してきたんだな」


『…………』


 リンは、言葉を失った。


 荒川は、静かに続けた。


「……鬼塚さんは、お前をよく知っている」


『……はい』


「……そのお前が、自分の教え子のために頭を下げに来た」


『…………』


「……だから、一度見てみたいと思ったんだろう」


 リンは、俯いた。


 山元凛。


 自分が今、身体を借りている人物。


 あの人が、この大学で積み上げてきたもの。


 努力。


 実績。


 そして、人とのつながり。


 そのすべてが、今、一人の生徒の可能性を広げようとしている。


(……凛さん)


 リンは、そっと拳を握った。


(……本当に、すごい人だったんだ)


 荒川は、小さく息を吐いた。


「……いいか、山元」


『……はい』


「……これは佐伯にとって、大きな機会だ」


『……はい』


「……だが、そこから先はあいつ次第だ」


『……分かってます』


 リンは、顔を上げた。


『……あたしも、そう思います』


 荒川は、静かに頷いた。


「……なら、本人に話してみるか」


『……はい!』


     ◇


 放課後。


 青葉高校、進路相談室。


 佐伯大輔は、リンと荒川の前に座っていた。


「……先生、何でしょうか」


 少し緊張した表情。


 リンは、穏やかに笑った。


『……佐伯さん。この前の進路の話、覚えてる?』


「……はい」


『……就職の準備を進めながら、大学へ行く方法も調べてみようって話』


「……はい」


 佐伯は、静かに頷いた。


「……何か、分かったんですか?」


『……うん。少しだけね』


 リンは、荒川へ一度視線を向けた。


 荒川は、黙って頷いた。


 リンは、佐伯へ向き直る。


『……佐伯さん。東央大学って、知ってる?』


「…………え?」


 佐伯が、目を見開いた。


「……東央大学、ですか?」


『……うん』


「……もちろん、知ってますけど……」


 佐伯は、少し困惑したように続けた。


「……全国でもトップクラスの強豪ですよ」


『……そうみたいだね』


「……あそこは、俺なんかが目指せる大学じゃありません」


『…………』


 リンは、静かに頷いた。


『……そう思ってたんだね』


「……はい」


 佐伯は、俯いた。


「……高校の大会でも、まだ結果を残せていませんし」


『……うん』


「……それに、うちの事情もありますから」


 リンは、少しだけ息を吸った。


『……実はね』


 佐伯が顔を上げる。


『……この前、東央大学へ行ってきたんだ』


「……え?」


『……空手部の監督さんに、会ってきたの』


「……監督……?」


『……鬼塚宗一郎先生』


「…………っ!?」


 佐伯の表情が、一変した。


「……鬼塚先生!?」


『……うん』


「……あの、鬼塚先生ですか!?」


『……た、多分、その鬼塚先生!』


 リンは、思わず少し慌てた。


 佐伯は、荒川へ視線を向けた。


「……荒川先生……」


「……本当だ」


 荒川は、静かに頷いた。


「……山元先生が、東央大学へ足を運んだ」


「…………」


 佐伯は、言葉を失っていた。


 リンは、続けた。


『……それでね。佐伯さんのことを少しお話ししたの』


「……俺の……?」


『……うん』


 リンは、笑った。


『……そしたら、近々、合同練習会があるんだって』


「……合同練習会……」


『……東央大学の選手と、鬼塚先生が興味を持ってる高校生たちが参加するみたい』


「…………」


 佐伯は、じっとリンを見つめた。


 そして。


『……そこに、佐伯さんを一度連れてきていいって』


「…………え?」


 佐伯の声が、かすれた。


『……鬼塚先生が、そう言ってくれたの』


「…………」


 佐伯は、口を開いた。


 けれど、言葉が出てこない。


 しばらくして、ようやく呟いた。


「……本当に……俺が……?」


『……うん』


「……東央大学の、合同練習会に……?」


『……そうだよ』


 佐伯は、俯いた。


 拳を握る。


 そして、ゆっくり顔を上げた。


「……先生」


『……ん?』


「……それって、どういうことなんでしょうか」


『……どういうこと?』


「……俺に、大学へ進める可能性があるってことなんですか?」


 リンは、少しだけ考えた。


 そして、正直に答えた。


『……まだ、そこまでは分からない』


「…………」


『……鬼塚先生も、佐伯さんの実力を見たわけじゃないから』


「……はい」


『……だから、参加したからって、特待生になれるわけじゃないんだ』


「……そう、ですよね」


 佐伯は、小さく頷いた。


 その表情には、喜びと不安が入り混じっていた。


 リンは、続けた。


『……でも、実際に見てもらえる機会はできたよ』


「…………」


『……だから、もし佐伯さんが行ってみたいなら、先生たちも応援したい』


 佐伯は、しばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……でも、俺……」


『……うん』


「……もし行ったところで、特待生になれなかったら……」


 リンは、静かに聞いていた。


「……結局、就職するなら、意味がないんじゃないかって……」


『…………』


 リンは、少し考えた。


 その気持ちは、分からなくもなかった。


 佐伯にとって、大学進学は簡単に選べるものではない。


 経済的な事情。


 家族への思い。


 就職するという決断。


 それらを、練習会の招待だけで覆せるわけではなかった。


 リンが口を開こうとした、そのとき。


「……佐伯」


 荒川が、静かに声をかけた。


「……はい」


「……お前がたとえ、大学進学という選択をしなかったとしてもだ」


 佐伯が顔を上げる。


 荒川は、まっすぐ佐伯を見た。


「……高校最後の大会を前に、東央大学の選手たちと稽古できる。それだけでも、十分に意味があると思わんか?」


「…………」


「……全国でも指折りの強豪だ。普段、お前が相手にしている選手とは、技術も経験も違う」


「……はい」


「……そこで何を感じ、何を持ち帰るか。それは進路とは別の話だ」


 佐伯は、黙って聞いていた。


 荒川は、静かに続ける。


「……大学に進むか、就職するか。その答えを今すぐ出す必要はない」


「…………」


「……まずは空手家として、挑戦してこい」


 佐伯は、しばらく俯いていた。


 リンも、黙って待った。


 荒川は、それ以上何も言わなかった。


 やがて。


「……押忍」


 佐伯が、小さく返事をした。


 そして、顔を上げる。


「……俺、行ってみたいです」


『…………!』


 リンの表情が明るくなった。


「……東央大学で、自分がどこまで通用するのか、試してみたいです」


 荒川は、静かに頷いた。


「……そうか」


「……はい」


 佐伯は、拳を握った。


「……行かせてください」


『……うん!』


 リンは、笑顔で頷いた。


『……一緒に頑張ろうね、佐伯さん!』


「……はい!」


 佐伯も、少しだけ笑った。


 その笑顔には、先ほどまでの迷いが少し薄れていた。


 まだ、進路は決まっていない。


 けれど。


 今まで届くはずがないと思っていた場所へ。


 一歩、近づいた。


     ◇


 その日の放課後。


 武道場。


 佐伯は、いつもどおり練習へ戻っていた。


 しかし。


「……佐伯先輩」


「……ん?」


 相原菜月が、少し不思議そうな顔で近づいてきた。


「……何かあったんですか?」


「……何が?」


「……さっきから、何か落ち着かない感じですよ」


「……そうか?」


「……そうです!」


 菜月は、腕を組んだ。


「……絶対、何かありましたよね?」


 佐伯は、少し苦笑した。


「……まあ、ちょっとな」


「……何ですか?」


「……実は、東央大学の合同練習会に参加できるかもしれないんだ」


「…………」


 菜月が、動きを止めた。


「…………え?」


「……東央大学の」


「……東央大学!?」


 菜月の声が、武道場に響いた。


 近くの部員たちが、思わず振り返る。


「……ちょ、声が大きい!」


「……だって、東央大学ですよ!?」


「……そうだけど」


「……全国でもめちゃくちゃ強いところじゃないですか!」


「……ああ」


 佐伯は、少し照れたように笑った。


「……まだ、何も決まってないけどな」


「……でも、すごいじゃないですか!」


 菜月は、目を輝かせた。


 そして、ふと思いついたように言った。


「……あっ!」


「……ん?」


「……私も行ってみたいです!」


「……え?」


「……大学生の稽古、見てみたいです!」


 佐伯は、少し困ったように笑った。


「……いや、俺だって参加できるかもしれないって段階だし」


「……でも!」


 菜月は、食い下がる。


「……見学だけでも、勉強になるじゃないですか!」


 そのとき。


「……相原」


 背後から、低い声がした。


 菜月が、びくりと肩を揺らす。


「……は、はい!」


 荒川だった。


 荒川は、腕を組んで二人を見ていた。


「……見学だけで満足するのか?」


「……え?」


「……大学側が認めてくれれば、お前も稽古に参加できるかもしれんぞ」


「…………ええ!?」


 菜月の目が、大きく見開かれた。


「……本当ですか!?」


「……まだ分からん。大学側に確認する必要がある」


「……はい!」


「……ただし、遊びに行くわけじゃないぞ」


「……押忍!」


 菜月は、勢いよく頭を下げた。


 佐伯は、その様子を見て苦笑した。


「……菜月、お前、まだ決まってないからな」


「……分かってます!」


「……本当に分かってるか?」


「……分かってますって!」


 菜月は、満面の笑みを浮かべた。


 そんな二人を見て、荒川は小さく息を吐いた。


「……まったく」


 けれど、その表情はどこか穏やかだった。


     ◇


 翌日。


 青葉高校、職員室。


 リンは、小野寺修一へ東央大学の件を報告していた。


「……なるほど。合同練習会ですか」


『……はい!』


「……鬼塚先生から、直接お話があったんですね」


『……そうなんです!』


 リンは、少し嬉しそうに頷いた。


『……佐伯さんも、行ってみたいって言ってくれました!』


「……それは、よかったですね」


 小野寺は、穏やかに笑った。


 しかし、すぐに少し真剣な表情になった。


「……ただ、山元先生」


『……はい?』


「……ここから先は、いくつか確認が必要ですね」


『……確認、ですか?』


「……はい」


 小野寺は、机の上のメモ帳を開いた。


「……まず、大学側の正式な受け入れ条件と日程です」


『……はい』


「……それから、本人の意思。これは確認できていますね」


『……はい!』


「……次に、保護者の方への説明と了承」


『……あっ』


 リンは、小さく声を上げた。


 小野寺は、頷いた。


「……練習会とはいえ、校外での活動ですから」


『……そうですよね』


「……学校側としても、参加の手続きや責任の所在を確認する必要があります」


『……はい』


「……荒川先生とも、よく相談してください」


『……分かりました』


 リンは、真剣に頷いた。


 小野寺は、さらに続けた。


「……それと、特待生制度についても、詳しい条件を確認しておきましょう」


『……はい』


「……仮に佐伯くんが大学へ進学したいと考えた場合、どの程度の支援が受けられるのか」


『……そうですね』


「……授業料だけなのか、寮費やその他の費用も対象になるのか」


『……はい』


「……それから、正式な選考がいつ、どのように行われるのか」


 リンは、メモを取り始めた。


 小野寺は、そんなリンを見て少し笑った。


「……大変でしょう?」


『……はい……』


 リンは、思わず苦笑した。


『……正直、こんなに確認することがあるとは思ってませんでした』


「……そうですね」


 小野寺は、穏やかに頷いた。


「……でも、生徒の進路に関わることですから」


『……はい』


「……山元先生。機会をつくることと、進路を決めることは別です」


『…………』


 リンは、顔を上げた。


「……佐伯くんが今回の練習会へ参加することは、とてもいい経験になるでしょう」


『……はい』


「……ですが、それで就職の準備を止めてしまう必要はありません」


『……そうですよね』


「……最後にどちらを選ぶかは、本人とご家族が考えることです」


 リンは、ゆっくり頷いた。


『……分かりました』


 小野寺は、微笑んだ。


「……山元先生も、随分熱心ですね」


『……えっ』


「……佐伯くんのために、大学まで足を運ばれたんでしょう?」


『……あ、はい』


「……いいことだと思います」


 リンは、少しだけ照れたように笑った。


『……ありがとうございます』


 小野寺は、静かに続けた。


「……ただ、一人で抱え込まないでくださいね」


『…………』


「……進路指導は、担任だけでするものではありませんから」


 リンは、少しだけ目を見開いた。


 そして、頷いた。


『……はい!』


     ◇


 その日の夕方。


 青葉高校、武道場。


 部活動が終わり、部員たちは少しずつ帰宅していた。


 道場には、夕方の光が差し込んでいる。


 佐伯は、一人で自主練習を続けていた。


「……ふっ!」


 鋭く踏み込む。


 突きを放つ。


 構え直す。


「……ふっ!」


 もう一度。


 そして、もう一度。


 いつもと同じ稽古。


 いつもと同じ動き。


 けれど、頭の中は違っていた。


 今までは、高校最後の大会までに、少しでも強くなれればいいと思っていた。


 その先には、就職が待っている。


 だから、大学の強豪選手たちは、自分とは違う世界の人間だった。


 テレビや雑誌で見る存在。


 大会結果で名前を知る存在。


 自分が同じ道場に立つなど、考えたこともなかった。


 けれど。


 今は違う。


 東央大学。


 全国でも指折りの強豪。


 そこへ、自分が行けるかもしれない。


 しかも、ただ見学するだけではない。


 実際に、稽古へ参加する。


 大学生たちと、拳を交える。


 佐伯は、ゆっくり息を吐いた。


「……どこまで、通用するんだろうな」


 小さく呟く。


 当然、不安はある。


 自分より強い選手は、いくらでもいるだろう。


 何もできずに終わるかもしれない。


 けれど。


 荒川の言葉が、頭に浮かんだ。


「……そこで何を感じ、何を持ち帰るか。それは進路とは別の話だ」


 佐伯は、拳を握った。


 そして、もう一度構えた。


「……押忍!」


 鋭く踏み込む。


 突きが、空を切った。


 その動きには、先ほどまでとは少し違う力がこもっていた。


 大学へ進めるかどうかは、まだ分からない。


 就職するという考えも、変わってはいない。


 それでも。


 今まで、届くはずがないと思っていた場所。


 その場所へ、一歩だけ近づいた。


 佐伯は、静かに笑った。


「……一度くらい、本気で目指してみてもいいよな」


 道場には、夕方の光が差し込んでいた。


 その中で、佐伯は再び拳を構えた。

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