第二十一話「十五秒の作戦会議」
二〇二六年(令和八年)四月二十二日、水曜日。
午前七時二十分。
通勤途中のコンビニエンスストアで、凛は小さな菓子を手に取っていた。
『……キットカットか』
赤い包装。
見慣れた商品名。
二十六年前にも、よく目にしていた菓子だった。
朝食用のパンと飲み物を買うついでに、何となく一つ選んだ。
しかし。
店を出て、袋から取り出した瞬間。
『…………ん?』
凛は、足を止めた。
手のひらに載ったキットカットを、じっと見つめる。
『……小さくないか?』
気のせいだろうか。
以前は、もう少し大きかったような気がする。
包装を裏返してみる。
しかし、記載されている情報を見ても、昔の大きさまでは分からない。
(……私の記憶違いか?)
凛は、しばらく考えた。
そして、鞄からスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させる。
カメラを起動する。
手元のキットカットを撮影。
それから、LINEを開いた。
相手は三浦聡美。
この時代に来てから、自分の事情を理解し、何かと助けてくれている女性だ。
最初の頃は、文字を打つだけでも随分苦労した。
画面を指でなぞる操作にも慣れず、意図しない場所を押してしまうことが何度もあった。
けれど、今では写真を添付して送るくらいなら、一人でできる。
『……よし』
凛は、撮影した写真を選んだ。
そして、文章を入力する。
『……送信』
画面に、緑色の吹き出しが表示された。
そこには、キットカットの写真と一緒に、こう書かれていた。
『聡美、キットカットが随分小さくなっている。2000年にはもっと大きかったはずだ。何故だ。』
凛は、満足そうに頷いた。
しばらく歩いていると、スマートフォンが震えた。
聡美からの返信だった。
「知らないよww 凛の時代より物価上がってるからじゃない?w」
『……物価か』
凛は、小さく呟いた。
確かに、二十六年前と比べて、商品の値段が変わっていることは珍しくない。
買い物をするたび、驚かされることがある。
しかし、値段だけではない。
給料も違う。
先日、山本リンの給与について知ったときには、思わず目を疑った。
凛は、再び文字を打ち始めた。
『そうか。物価も給料も上がっているみたいだな。私は山本リンさんの基本給を聞いて驚いたぞ(笑)』
送信。
すると、今度はすぐに返信が来た。
「かっこわらいって……古っ!!」
『…………?』
凛は、眉をひそめた。
何が古いというのだろう。
笑っていることを表しているのだから、間違ってはいないはずだ。
『何がおかしい。笑っているという意味だろう。』
「そういうとこほんと好きwwwww」
『…………』
凛は、しばらく画面を見つめた。
(……何がそんなに面白いんだ?)
首を傾げる。
聡美と話していると、ときどき自分だけが何かを理解できていない気分になる。
もっとも、聡美はいつも楽しそうだ。
それなら、それでいいのかもしれない。
凛は、スマートフォンを鞄へしまった。
そして、キットカットの包装を開ける。
一口かじった。
『……ん』
甘いチョコレート。
軽い食感。
懐かしい味だった。
(……味は変わらんな)
凛は、少しだけ笑った。
それから、再び駅へ向かって歩き始めた。
◇
午前八時十分。
東京都立桜丘高校。
三年四組。
教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。
友人同士で話している生徒。
机に突っ伏している生徒。
スマートフォンの画面を見つめている生徒。
二十六年前とは、教室の風景も随分違う。
けれど。
『……おはよう』
「おはようございまーす」
「山本先生、おはようございます!」
『……ああ。おはよう』
こうして生徒たちに挨拶をする時間だけは、どちらの時代も変わらなかった。
凛は、教卓へ出席簿を置いた。
そのとき。
窓際の席に座っていた男子生徒が、慌ててスマートフォンを伏せるのが見えた。
藤原悠真。
三年四組の生徒だ。
普段は目立つことを好まず、授業中も静かに過ごしている。
凛が近づくと、悠真は少しだけ顔を上げた。
『……藤原』
「……はい」
『……おはよう』
「……おはようございます」
悠真は、短く答えた。
凛は、その机へ目を向けた。
『……何か気になることでもあったのか?』
「……え?」
『……随分、真剣な顔をしていたからな』
「……ああ」
悠真は、伏せたスマートフォンへ一瞬だけ視線を落とした。
「……別に、何でもないです」
『……そうか』
凛は、それ以上聞かなかった。
ただ、画面を伏せる直前。
そこに、水瀬結衣の名前が表示されていたような気がした。
(……水瀬?)
結衣は、同じ三年四組の生徒。
女子バレーボール部のマネージャーでもある。
今朝も普段どおり登校している。
特に変わった様子は見られないが、悠真の反応は少し気になった。
『……何か困ったことがあれば、言ってくれ』
「……はい」
悠真は、小さく頷いた。
凛は、教卓へ戻った。
しばらくして、始業前のチャイムが鳴る。
『……よし。席に着け』
生徒たちが、少しずつ自分の席へ戻っていく。
『……出席を取るぞ』
凛は、出席簿を開いた。
名前を呼ぶ。
返事が返ってくる。
その繰り返し。
最初の頃は、全員の名前と顔を一致させるだけでも苦労した。
だが、今ではかなり覚えられるようになってきた。
(……少しずつだが、慣れてきたな)
凛は、出席簿から顔を上げた。
窓の外には、春の青空が広がっていた。
◇
三時間目。
体育館。
三年四組の体育の授業では、バレーボールの基本練習が行われていた。
『……よし。次は二人一組になって、パスを続けるぞ』
「はーい!」
『……回数だけを意識するな。相手が取りやすい位置へ返すんだ』
生徒たちが、二人ずつに分かれていく。
ボールが床を打つ音が響き始めた。
凛は、コートの間を歩きながら、一組ずつ様子を確認していった。
『……そうだ。今の高さなら取りやすい』
「ありがとうございます!」
『……腕だけで打とうとするな。膝も使ってみろ』
「はい!」
以前の凛なら、動きの悪い生徒がいれば、すぐに細かく指導していただろう。
しかし、最近は少し意識を変えている。
生徒によって、得意なことも苦手なことも違う。
何より、同じ説明をすれば全員が理解できるわけでもない。
それを、ようやく実感し始めていた。
体育館の端では、一組の女子生徒がパスを続けていた。
そのうちの一人が、ボールを取り損ねる。
「あっ……!」
ボールが床へ落ちた。
「……ごめん」
「大丈夫、大丈夫」
凛は、そちらへ近づいた。
『……高瀬』
声をかけられた女子生徒が、顔を上げた。
「……はい」
高瀬美月。
三年四組の生徒だ。
比較的おとなしく、教室でも自分から目立とうとすることは少ない。
『……今のボール、どこへ来ると思った?』
「……もう少し、右かなって」
『……そうか』
凛は、床に落ちたボールを拾った。
『……だったら、今度は相手の腕の向きも見てみろ。少し早く動けるかもしれん』
「……はい」
『……焦らなくていい。もう一度やってみよう』
美月は、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
凛は、ボールを渡した。
美月が構える。
パスが返ってくる。
今度は、先ほどより少し早く足が動いた。
「……あっ」
ボールが、きれいに上がる。
「……できた!」
相手の女子生徒が笑った。
美月も、少しだけ笑みを浮かべた。
凛は、満足そうに頷いた。
『……いいぞ。今の感覚を覚えておけ』
「……はい!」
そのまま、次の組へ移ろうとしたとき。
「……先生」
美月に呼び止められた。
『……ん?』
「……先生って、スポーツ苦手な人のこと、どう思いますか?」
『…………』
凛は、少し意外そうに美月を見た。
『……どう、とは?』
「……いや、その……」
美月は、少し言葉を探した。
「……できないと、迷惑かなって」
『……迷惑?』
「……はい。ペアの子とかに」
凛は、隣にいる女子生徒へ目を向けた。
女子生徒は、慌てて首を横に振った。
「……えっ、全然そんなことないよ!」
美月は、少し困ったように笑った。
「……うん。分かってるけど」
凛は、少し考えた。
そして、静かに答えた。
『……高瀬』
「……はい」
『……得意な人間がいれば、苦手な人間もいる。当たり前のことだ』
「…………」
『……大切なのは、相手に迷惑をかけないことだけじゃない』
凛は、ボールへ目を向けた。
『……二人で練習しているんだろう。だったら、二人で上手くなればいい』
美月は、少しだけ目を見開いた。
「……二人で……」
『……ああ』
凛は、頷いた。
『……失敗することも、練習のうちだ』
美月は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
『……うん。続けてみろ』
凛は、その場を離れた。
背後では、二人が再びパスを始めている。
「……いくよ、美月」
「……うん!」
凛は、その声を聞きながら歩いた。
(……できないことを、気にしていたのか)
ふと、以前の自分を思い出す。
山元凛は、運動が得意だった。
だからこそ、努力すればできるようになると、当たり前のように考えていた。
けれど。
それが、誰にとっても簡単なことではないと、この時代で学び始めている。
(……教える側も、まだまだ勉強だな)
凛は、小さく息を吐いた。
◇
昼休み。
三年四組の教室。
凛は、午後の連絡事項を伝えるため、教室へ立ち寄っていた。
窓際では、何人かの生徒が弁当を広げている。
別の机では、スマートフォンの画面を囲みながら笑い声が上がっていた。
凛は、教卓にプリントを置いた。
『……午後の進路説明について、連絡がある』
近くにいた生徒たちが顔を上げる。
『……配布した資料は忘れずに持ってくるように』
「はーい」
『……あと、教室を移動するときは、机の上を片づけておけ』
「分かりましたー」
凛は、頷いた。
そのとき、教室の後ろで一人の女子生徒が友人と話しているのが見えた。
高瀬美月だった。
午前中の体育では、少し自信のなさそうな様子を見せていた。
けれど、今は友人の話を聞きながら、穏やかに笑っている。
(……普段は、ああいう顔をするんだな)
凛は、何となく目を向けた。
すると、美月がこちらに気づいた。
「……あ、山本先生」
『……高瀬。さっきの体育は、よく頑張っていたな』
「……ありがとうございます」
美月は、少し照れたように笑った。
その隣にいた女子生徒が口を挟む。
「……先生、美月って運動めっちゃ苦手なんですよ」
「……ちょっと!」
美月が、慌てて友人の腕を軽く叩いた。
「……そんな言わなくてもいいじゃん!」
「……だって本当じゃん!」
二人は、笑い合っている。
凛も、少しだけ笑った。
『……苦手でも構わん。真面目に取り組んでいることが大事だ』
「……ほら、先生もこう言ってるし!」
美月が、少し得意そうに言った。
友人が笑う。
「……はいはい」
その様子を見て、凛は安心した。
しかし。
美月が机の上のスマートフォンへ視線を落とした瞬間、表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
先ほどまでの笑顔が消えた。
凛が気づいたときには、美月はすでにスマートフォンを伏せていた。
『……高瀬?』
「……え?」
『……いや、何でもない』
「……そうですか?」
『……ああ』
凛は、それ以上聞かなかった。
何かを見たのかもしれない。
あるいは、単に気のせいかもしれない。
今は、判断できなかった。
凛は、教卓のプリントを持ち直した。
『……それじゃあ、午後も遅れないようにな』
「はーい!」
生徒たちの返事を背に、教室を出る。
廊下へ出た凛は、少しだけ考えた。
(……高瀬も、藤原も……)
朝の悠真。
昼の美月。
二人とも、スマートフォンを見たあとに、どこか表情が変わった。
もちろん、偶然かもしれない。
けれど。
(……この時代は、教室の外にも色々あるんだな)
凛は、そう思った。
自分が高校生だった頃にも、友人関係の悩みはあった。
誰かに見せたくない手紙。
誰にも聞かれたくない電話。
秘密にしていたい約束。
けれど、今はそれらが、小さな画面の中にある。
教師の目に見えない場所で、何かが進んでいることもあるのだろう。
(……気をつけて見ておこう)
凛は、小さく頷いた。
◇
放課後。
体育館。
女子バレーボール部の練習が始まっていた。
「……はい、もう一本!」
「お願い!」
「……ナイス!」
ボールが床を打つ音。
シューズが擦れる音。
部員たちの掛け声。
凛は、コートの脇で練習を見守っていた。
少し離れた場所には、藤沢和彦がいる。
今日の練習時間は、あらかじめ決められた予定どおり。
無理な延長はしない。
休憩も確保している。
それだけでも、以前とは違っていた。
しかし。
「……あっ!」
一人の部員がレシーブを乱した。
ボールは、トスを上げようとした選手の手前へ落ちる。
「……ごめん!」
「……大丈夫!」
短い声が交わされる。
だが、そのあとに少しだけ気まずい沈黙が残った。
朝倉紗奈が、口を開きかける。
「……今のは、もう少し――」
しかし。
そこで言葉を止めた。
「…………」
紗奈は、少し困ったような顔をした。
その様子を、凛は見ていた。
(……朝倉)
以前の紗奈なら、迷わず指示を出していただろう。
もっと早く動くこと。
声を出すこと。
ボールを落とさないこと。
正しいことを、はっきり伝えていた。
しかし、今は違う。
自分の言葉が、部員たちにどう受け取られるのかを気にしている。
強く言いすぎないように。
また誰かを追い詰めないように。
その結果、何も言えなくなっているようにも見えた。
(……難しいな)
凛は、小さく息を吐いた。
自分にも、覚えがある。
正しいと思って言った言葉が、相手を苦しめてしまうこと。
そのことを知ったあと、何をどう言えばいいのか分からなくなること。
やがて、練習が一区切りついた。
部員たちが水分補給を始める。
そのとき。
「……ねえ、ちょっといい?」
宮野千夏が、紗奈へ声をかけた。
「……何?」
「……この前、みんなで話したやつ」
「……ああ」
「……今日、試してみない?」
紗奈は、少し考えた。
「……十五秒のやつ?」
「……うん」
千夏が頷く。
「……ミスしたとき、短く確認するって話」
その声を聞いて、近くにいた部員たちも顔を上げた。
「……あ、それ!」
「……やってみたいかも」
「……でも、十五秒って短くない?」
部員たちの間で、小さな笑いが起きた。
千夏も笑う。
「……だから、長々と反省会しないために十五秒なんでしょ」
紗奈は、少しだけ表情を緩めた。
「……そうだね」
そして、凛たちの方を見た。
「……山本先生、藤沢先生」
『……ん?』
「……この前、みんなで話してた方法を試してもいいですか?」
凛は、藤沢へ視線を向けた。
藤沢は、静かに頷いた。
「……いいと思いますよ。ただし、練習の流れを止めすぎないようにしましょう」
「……はい!」
紗奈が頷く。
すると、マネージャーの水瀬結衣が手を上げた。
「……じゃあ、私が時間を計ります!」
「……お願い、結衣」
「はい!」
結衣は、ストップウォッチを取り出した。
凛は、その様子を見ながら首を傾げた。
『……十五秒で、そんなに話せるのか?』
紗奈が、少し笑った。
「……やってみないと分からないです」
『…………』
凛は、思わず言葉を止めた。
確かに、そのとおりだった。
(……やってみないと、分からない)
凛は、小さく頷いた。
『……そうだな』
◇
練習再開。
部員たちは、再びコートへ入った。
最初の数本は、問題なくつながった。
しかし。
「……あっ!」
レシーブが大きく乱れた。
ボールは、予定していた位置へ届かない。
攻撃につなげられず、床へ落ちた。
紗奈が、すぐに声をかける。
「……一回、話そう!」
部員たちが集まる。
結衣がストップウォッチを構えた。
「……始めます!」
十五秒。
話し合いが始まった。
「……ごめん、私のレシーブが悪かった」
「……いや、私ももっと前に出ればよかったし」
「……でも、あのボールは難しかったよ」
「……ううん、私が……」
「……ごめん」
「……こっちこそ」
そのとき。
「……十五秒です!」
結衣が声を上げた。
「…………」
全員が、顔を見合わせた。
「……え?」
「……終わり?」
「……何も決まってなくない?」
誰かが呟いた。
千夏が、思わず笑った。
「……謝って終わったね」
「……本当だ」
部員たちの間に、小さな笑いが広がる。
紗奈も、困ったように笑った。
「……これじゃ、意味ないか」
その様子を見ていた凛は、腕を組んだ。
(……まあ、そうなるか)
十五秒という時間は、思った以上に短い。
原因を考え、互いの意見を聞き、次の動きを決める。
それをすべて十五秒で終わらせるのは、簡単ではない。
凛は、口を開きかけた。
『……だったら、まず――』
しかし。
「……山本先生」
藤沢が、静かに声をかけた。
『……はい?』
「……少し、見ていましょう」
『…………』
凛は、藤沢を見た。
藤沢は、コートへ視線を向けている。
「……せっかく生徒たちが考えた方法ですから」
『……ですが、今のままでは……』
「……ええ。だからこそ、ですね」
『…………』
凛は、口を閉じた。
そして、もう一度コートへ目を向ける。
そこでは、部員たちが何やら相談を続けていた。
「……でも、何を話せばいいんだろう」
「……十五秒じゃ、全部は無理だよね」
「……そもそも、毎回謝ってたら終わっちゃうし」
千夏が、少し考えた。
「……ねえ」
「……ん?」
「……誰が悪かったか、じゃなくてさ」
紗奈が、顔を上げる。
「……うん」
「……次に同じボールが来たら、どうするか。それだけ決めるのは?」
「……次に?」
「……うん。例えば、今みたいにレシーブが短くなったら、誰が前へ出るかとか」
紗奈は、少し考えた。
「……なるほど」
すると、結衣も口を開いた。
「……じゃあ、最後に一つだけ、次にやることを決めるのはどうですか?」
「……一つだけ?」
「……はい! あれもこれも直そうとすると、十五秒じゃ足りないので」
千夏が頷いた。
「……それ、いいかも」
紗奈も、少しだけ笑った。
「……じゃあ、次はそれでやってみよう」
部員たちが頷く。
その様子を見ていた藤沢が、小さく口を開いた。
「……山本先生」
『……はい』
「……ミーティングをすること自体が目的になってはいけませんからね」
『……はい』
「……一つでも、次のプレーにつながるものがあれば、それで十分な場合もあります」
凛は、コートを見つめた。
部員たちは、すでに次の練習へ向かっている。
(……一つだけ、か)
自分なら、もっと詳しく原因を考えさせただろう。
なぜ失敗したのか。
どの動きが間違っていたのか。
どうすれば改善できるのか。
そのすべてを確認したくなる。
けれど。
彼女たちは、十五秒で一つのことを決めようとしている。
それが、今の彼女たちにとって必要な方法なのかもしれない。
凛は、静かに頷いた。
◇
練習は続いた。
しばらくして、再び連携が乱れる。
「……あっ!」
ボールが、二人の間へ落ちた。
紗奈が、すぐに口を開いた。
「……今の、もっと早く――」
しかし。
途中で言葉を止めた。
「…………」
部員たちが、紗奈を見る。
紗奈は、少しだけ息を吸った。
そして。
「……今の、どうしたらよかったと思う?」
静かに尋ねた。
部員たちは、少し驚いたように顔を見合わせた。
すぐには答えが返ってこない。
紗奈も、黙って待った。
凛は、その様子を見つめていた。
(……紗奈……)
以前の紗奈なら、自分の考えをすぐに伝えていただろう。
それが主将の仕事だと思っていた。
けれど、今は違う。
仲間が考える時間をつくろうとしている。
沈黙が続く。
凛は、思わず一歩踏み出しかけた。
何を話せばいいのか。
どう動けばいいのか。
自分が教えた方が早い。
そう思った。
しかし。
藤沢は、何も言わなかった。
ただ、静かにコートを見ている。
凛は、足を止めた。
(……待ってみるか)
すると。
「……あの」
一人の部員が、小さく手を上げた。
「……私、もう少し前に出た方がよかったかも」
紗奈が、顔を向ける。
「……うん」
「……でも、どっちが取るか迷って」
すると、隣の部員が答えた。
「……私も声を出してなかった」
千夏が頷く。
「……じゃあ、次は早めに声をかけよう」
紗奈も頷いた。
「……うん。それでやってみよう」
結衣が、ストップウォッチを見た。
「……十四秒です!」
「……おっ!」
「……できた!」
部員たちの間に、少しだけ笑顔が広がった。
紗奈も、ほっとしたように笑った。
「……よし。もう一本!」
「はい!」
練習が再開する。
同じようなボールが、再び二人の間へ飛んできた。
「……私!」
「お願い!」
今度は、先に声が出た。
一人がボールを拾う。
もう一人が、すぐに次の動きへ入る。
トスが上がった。
スパイク。
ボールが、相手コートへ落ちた。
「……よし!」
「……ナイス!」
歓声が上がる。
それは、特別に難しいプレーではなかった。
試合を決める一本でもない。
ただ、先ほど失敗した連携が、少しだけ上手くいった。
それだけだった。
けれど。
凛は、その様子をじっと見つめていた。
(……できたな)
自分が指示したわけではない。
自分が正解を教えたわけでもない。
部員たちが話し合い、自分たちで決めたことを試した。
そして、結果につながった。
(……そうか)
凛は、ゆっくり息を吐いた。
(……私が答えを出さなくても、よかったんだ)
藤沢が、隣で小さく笑った。
「……いいですね」
『……はい』
凛も、静かに頷いた。
◇
翌日、四月二十三日、木曜日。
放課後。
女子バレーボール部では、前日に試した十五秒ミーティングを、再び練習へ取り入れていた。
もちろん、すべてが上手くいくわけではない。
「……あっ、ごめん!」
「……大丈夫。次、私が前に出る!」
「……うん、お願い!」
短い確認。
そして、すぐに次のプレー。
昨日より、少しだけ流れがよくなっていた。
しかし。
「……そこ、もっと早く動いて!」
紗奈の声が、体育館に響いた。
部員の一人が、びくりと肩を揺らす。
紗奈は、すぐには気づかなかった。
すると、千夏が近づいてきた。
「……紗奈」
「……ん?」
「……今、ちょっと怖かった」
「……えっ?」
紗奈は、目を見開いた。
「……そんなつもりじゃ……」
「……うん。分かってる」
千夏は、穏やかに頷いた。
「……でも、ちょっとね」
紗奈は、少し黙った。
そして、先ほど声をかけた部員を見る。
その部員は、少し気まずそうに立っていた。
「……ごめん」
紗奈が、静かに言った。
「……責めたかったわけじゃないんだ」
「……うん」
「……次、どう動いたらいいか、一緒に考えよう」
部員は、少しだけ表情を緩めた。
「……はい」
千夏も、ほっとしたように笑った。
凛は、その光景を見守っていた。
人は、一度反省しただけで変われるわけではない。
長年の習慣は、簡単には消えない。
紗奈も、まだ指示することと意見を聞くことの間で迷っている。
けれど。
昨日なら、言えなかった言葉がある。
昨日なら、聞けなかった意見がある。
その小さな違いが、確かに生まれていた。
やがて、練習終了の時間になった。
「……今日はここまでにしましょう」
藤沢が声をかける。
「はい!」
部員たちが、一斉に返事をした。
片づけが始まる。
紗奈と千夏は、ネットの近くで話していた。
「……まだ、上手くできてないね」
「……うん」
「……十五秒で全部決めるの、結構難しい」
「……そりゃそうでしょ」
千夏が笑った。
紗奈も、少し笑う。
「……でも、昨日よりはよかったと思う」
「……私も」
少し離れた場所で、結衣が記録用のノートを閉じた。
「……明日も、続けてみますか?」
紗奈が頷く。
「……うん。でも、無理に毎回やる必要はないと思う」
「……そうだね」
千夏も頷いた。
「……必要なときだけ、ちゃんと話そう」
「……うん」
三人は、顔を見合わせて笑った。
その様子を、凛は静かに見つめていた。
すると、隣に藤沢が立った。
「……山本先生」
『……はい』
「……少し、変わりましたね」
凛は、部員たちへ目を向けた。
『……あの子たちが、ですか?』
藤沢は、小さく笑った。
「……それもありますが」
『……え?』
「……先生も、ですよ」
『…………』
凛は、少しだけ驚いた。
藤沢は、静かに続けた。
「……以前の山本先生なら、きっと途中で指示を出していたでしょう」
『……そう、ですね』
「……でも、昨日は待っていましたね」
『…………』
凛は、少しだけ目を伏せた。
『……正直に言えば、何度も口を出したくなりました』
「……でしょうね」
『……私の方が、早く答えを出せると思ったんです』
藤沢は、頷いた。
「……そういうことも、あるでしょう」
『……はい』
「……ですが、早く答えを出すことが、いつも生徒のためになるとは限りません」
『…………』
凛は、部員たちを見た。
片づけをしながら、笑い合っている少女たち。
以前は、主将の指示を待つことが多かった。
今は、自分たちで言葉を交わしている。
もちろん、まだ完璧ではない。
これからも、失敗するだろう。
意見がぶつかることもあるだろう。
けれど。
そのたびに、話し合えばいい。
自分たちで考えればいい。
凛は、静かに頷いた。
『……そうですね』
そして、少しだけ笑った。
『……私も、まだ勉強中です』
藤沢は、穏やかに微笑んだ。
「……教師は、何年やっても勉強ですよ」
『……はい』
凛は、もう一度コートへ目を向けた。
紗奈が、部員たちへ声をかけている。
「……明日も、よろしくね!」
「……はい!」
「……頑張ろう!」
その声は、以前と少しだけ違って聞こえた。
強く引っ張るだけではない。
仲間と一緒に進もうとする声。
凛は、静かに微笑んだ。
(……十五秒、か)
たった十五秒。
けれど、その短い時間の中にも、人が変わるきっかけはある。
教えることだけが、教師の仕事ではない。
待つこと。
信じること。
そして、生徒たちが自分で答えを見つけられるよう、支えること。
凛は、少しずつ、その意味を理解し始めていた。
体育館の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
部員たちの笑い声が、柔らかく響いていた。




