第二十話「知らなかった母校」
二〇〇〇年(平成十二年)四月二十五日、火曜日。
午後七時を少し回った頃。
山元家の食卓には、夕食の料理が並んでいた。
「……凛。おかわりは?」
『……あ、ううん。大丈夫』
リンは、小さく首を横に振った。
母の和子が、少し不思議そうにこちらを見る。
「珍しいわね。いつもなら、もう一杯くらい食べるのに」
『……今日は、あんまりお腹空いてなくて』
「……そう?」
和子は首を傾げた。
リンは、慌ててご飯を口へ運んだ。
(……しまった)
本来の山元凛は、空手で鍛え上げた身体の持ち主だ。
当然、食事の量も多かったらしい。
けれど、中身が入れ替わったからといって、リンの食欲まで突然増えるわけではない。
もっとも、この身体になってから、以前より空腹を感じることは増えた。
それでも、毎食山盛りのご飯を食べる習慣には、まだ慣れていなかった。
「……凛」
今度は、父の正志が声をかけてきた。
『……ん?』
「何か考え事か?」
『……え?』
「さっきから、あまり箸が進んでないぞ」
『……ああ、うん。ちょっと仕事のこと』
「……学校か」
『……うん』
リンは、味噌汁の椀へ視線を落とした。
目の前に座っている男性は、山元正志。
この身体の持ち主である山元凛の父親だ。
隣で食事をしている和子も、凛の母親。
けれど、リンにとっては違う。
自分の父親でも、母親でもない。
まだ出会ってから、それほど長い時間が経ったわけではなかった。
最初の頃よりは、ずっと自然に会話できるようになった。
それでも、ときどき分からなくなる。
どんなことなら気軽に話していいのか。
どこまで頼っていいのか。
家族として当然のように振る舞う二人を前に、妙に緊張することがあった。
「……生徒のことで何かあったのか?」
『……まあ、そんな感じ』
正志は、静かに頷いた。
「……三年生の担任だもんな。進路の相談も増える頃か」
『……うん。ちょうどそれ』
「……そうか」
リンは、少し迷った。
今日、佐伯と話したこと。
就職を選んだ理由。
大学でも空手を続けたいという、本当の気持ち。
そして、経済的な事情。
もちろん、生徒の名前や家庭の詳しいことを話すつもりはない。
それでも、何か参考になることが聞けるかもしれない。
『……ねえ』
「……ん?」
『……ちょっと聞いてもいい?』
「何だ?」
リンは、箸を置いた。
『……大学に行きたくても、お金のことで難しい人って、どうしたらいいと思う?』
正志は、少し考えた。
「……奨学金とか、そういう話か?」
『……うん。それもあるんだけど』
「……そうだな。大学によっては、授業料を減免してくれる制度もあるだろう」
『……うん』
「……あとは、特待生か」
『……特待生?』
「ああ。学業やスポーツの成績が優秀な学生を、大学が支援する制度だ」
『……へぇ』
リンは、少し身を乗り出した。
『……スポーツでも、そういうのあるんだ』
「……あるだろう」
正志は、何気なく続けた。
「……お前だって、そうだったじゃないか」
『…………え?』
リンの箸が止まった。
正志が顔を上げる。
「……何だ?」
『……えっ、いや……』
「……東央大学だよ。お前、空手の特待生で入っただろう」
『…………』
(……えええええ!?)
リンは、危うく声を上げそうになった。
(……凛さん、特待生だったの!?)
山元凛が大学の空手で全国準優勝したことは知っていた。
この身体が、優れた選手のものだということも。
けれど。
特待生として大学へ進学していたことなど、初耳だった。
『……あ、ああ! そうだったね!』
リンは、慌てて笑った。
正志が眉をひそめる。
「……忘れてたのか?」
『……いや、そうじゃなくて! ちょっと、ほら! 昔のこと思い出して!』
「……卒業したばかりだろう」
『……そ、そうだね!』
正志は、不思議そうな顔をした。
和子も、リンを見つめている。
(……まずいまずいまずい!)
リンは、慌てて味噌汁を飲んだ。
少し熱かった。
『……あつっ!』
「……もう、何やってるの」
和子が呆れたように笑った。
「……最近、本当に落ち着きがないわね」
『……あはは……』
リンは、曖昧に笑った。
正志は、話を続けた。
「……まあ、凛の場合は随分助けてもらったからな」
『……そう、だったね』
「授業料だけじゃない。寮費や部の費用も、特待生として面倒を見てもらった」
『……うん』
(……そこまで!?)
リンは、内心で目を丸くしていた。
学費。
寮費。
部費。
それらが免除されていたのなら、大学へ進むための負担は大幅に減る。
もちろん、すべての学生が利用できる制度ではないのだろう。
けれど。
(……佐伯さんにも、そういう方法があるのかな)
リンは、正志へ目を向けた。
『……ねえ、その特待生って、どうやって選ばれたんだっけ』
「……どうやって?」
『……うん。試験とか、推薦とか』
正志は、少し意外そうな顔をした。
「……鬼塚先生のこと、覚えてるだろう?」
『……おにづか……』
「……おいおい」
『……あっ、もちろん!』
リンは、慌てて頷いた。
(……誰!?)
和子が、懐かしそうに笑った。
「東央大学の空手部の監督よ。鬼塚宗一郎先生」
『……ああ、鬼塚先生!』
「……あなた、本当に大丈夫?」
『……大丈夫、大丈夫!』
リンは、笑ってごまかした。
正志は、小さく息を吐いた。
「……あの先生が、お前の試合を見て声をかけてくれたんだろう」
『……え?』
「……高校の頃だよ」
正志は、少し懐かしそうな顔をした。
「……お前、随分負けただろう」
『…………』
リンは、思わず顔を上げた。
負けた。
山元凛が。
全国準優勝まで辿り着いた、あの凛が。
「……強い相手には、なかなか勝てなくてな」
正志は、ゆっくり続けた。
「それでも、お前は諦めなかった」
『…………』
「……鬼塚先生が見ていた試合も、結局は負けたんだ」
リンは、黙って聞いていた。
「……だが、試合が終わったあと、あの先生が声をかけてくれてな」
『……何て?』
「……今はまだ粗いが、面白い選手だって」
『…………』
「……それから、大学で鍛えてみたいと言ってくれた」
和子も、静かに頷いた。
「……あのときは驚いたわね」
「……ああ」
「……負けた試合を見て声をかけてくださるなんて、思ってもみなかったもの」
リンは、二人の顔を見つめた。
高校時代の凛。
試合で敗北しながらも、諦めずに戦っていた。
その姿を見て、一人の大学監督が可能性を感じた。
そして、大学へ招いた。
(……凛さんも、最初から強かったわけじゃないんだ)
知らなかった。
あの豪快で、自信に満ちた女性にも、何度も負けた時期があった。
その先に、全国準優勝という実績があったのだ。
『……ねえ』
リンは、少しだけ声を落とした。
『……その鬼塚先生って、今も大学にいるの?』
「……いるだろう。卒業するときも、お世話になったんじゃないのか?」
『……あ、うん! そうだった!』
リンは、慌てて頷いた。
正志は、また少し不思議そうな顔をした。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
『……そっか』
リンは、箸を持ち直した。
(……東央大学、か)
佐伯が就職を選んだ理由。
大学で空手を続けたいという本音。
そして、山元凛が利用していた特待生制度。
ばらばらだった情報が、少しずつつながり始めていた。
◇
夕食後。
リンは、山元凛の部屋にいた。
『……東央大学……』
机に向かい、小さく呟く。
そして、部屋の本棚へ目を向けた。
空手に関する本。
大会の記録。
大学時代の写真が収められたアルバム。
これまでも何度か見かけていた。
けれど、じっくり開いたことはなかった。
(……ちょっとだけ、見せてもらお)
リンは、アルバムを手に取った。
表紙を開く。
そこには、道着姿の学生たちが写っていた。
中央付近には、山元凛の姿がある。
長い黒髪を後ろでまとめた、真剣な表情。
今、鏡に映る自分と同じ顔。
けれど、どこか違って見えた。
『……へぇ……』
ページをめくる。
大会の写真。
仲間たちと笑っている写真。
道場で稽古している写真。
そして、表彰状を手にした凛の姿。
全国大会、準優勝。
リンは、その写真をしばらく見つめた。
(……すごいなぁ)
自分がいた二〇二六年では、運動はあまり得意ではなかった。
できれば激しい運動を避けたい。
汗をかくのも好きではない。
そんな自分とは、まるで正反対。
なのに、今はその人の身体で暮らしている。
教師として。
空手部の関係者として。
家族の娘として。
(……凛さんの人生、借りてるんだよね)
リンは、そっと写真へ触れた。
今まで、何とか周囲に合わせようとしてきた。
知らないことをごまかしながら。
できないことを隠しながら。
それでも、少しずつ教師としての仕事を覚えてきた。
そして今日。
凛が積み上げてきた努力が、一人の生徒を助ける手掛かりになるかもしれないと知った。
(……もし、あたしにできることがあるなら)
リンは、アルバムを閉じた。
(……ちゃんと、やってみたい)
佐伯の未来を、勝手に決めるつもりはない。
大学へ進学させると約束するつもりもない。
ただ。
選べる道があるのなら、その存在を知ってほしい。
そのために、自分ができることを探したかった。
◇
翌日、四月二十六日、水曜日。
青葉高校、職員室。
『……小野寺先生、ちょっといいですか?』
「……はい。どうしました?」
リンは、東央大学の名前を口にした。
『……スポーツ特待生の制度って、今もあるんでしょうか』
「……東央大学ですか?」
『……はい』
「……山元先生の母校ですね」
『……あはは、そうです!』
リンは、少し笑った。
「……確か、空手部にも特待生制度があったはずですが」
『……本当ですか!?』
「……ええ。ただし、今年度の詳しい条件については、大学側へ確認した方が確実でしょうね」
『……ですよね』
小野寺は、机の上の資料を開いた。
「……大学によって、選考の条件も支援の内容も違いますから」
『……はい』
「……それに、競技実績があれば必ず利用できるわけでもありません」
『……分かってます』
リンは、真剣に頷いた。
『……でも、可能性があるなら、ちゃんと調べたいんです』
小野寺は、穏やかに微笑んだ。
「……そうですね」
そして、少し考えてから続けた。
「……まずは荒川先生にも相談してみてはどうでしょう」
『……荒川先生に?』
「ええ。空手部の指導者ですから、大学側の事情についても何かご存じかもしれません」
『……なるほど!』
リンは、勢いよく頷いた。
『……ありがとうございます!』
「……いえいえ」
小野寺は、資料を閉じた。
「……ただ、山元先生」
『……はい?』
「……まだ、その生徒へ具体的なお話はしていないんですよね?」
『……はい。調べることは了承してもらってますけど、大学の名前までは』
「……それなら、まず確認を進めてからの方がいいでしょう」
『……分かりました』
リンは、もう一度頭を下げた。
そして、職員室を出ていった。
◇
放課後。
武道場。
荒川は、部員たちの練習を見守っていた。
「……佐伯! 踏み込みが甘い!」
「押忍!」
「……もう一本!」
「押忍!」
佐伯が構え直す。
相手の動きを見据え、鋭く踏み込んだ。
リンは、道場の入り口からその様子を眺めていた。
(……本当に、頑張ってるんだよね)
昨日、佐伯が話してくれたこと。
大学で空手を続けてみたい。
もっと強くなれるのか、試してみたい。
けれど、家庭の事情を考えれば、簡単には選べない。
その言葉が、頭に残っていた。
やがて練習が終わる。
部員たちが片づけを始めたところで、リンは荒川へ声をかけた。
『……荒川先生』
「……山元か」
『……ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど』
「……何だ」
『……東央大学の空手部って、ご存じですよね?』
荒川は、リンを見た。
「……当然だ」
『……ですよね!』
「……お前の母校だろうが」
『……あはは……!』
リンは、曖昧に笑った。
『……その、鬼塚先生のことなんですけど』
荒川の表情が、少し変わった。
「……鬼塚さんか」
『……はい』
「……知っている。長い付き合いだ」
『……えっ、そうなんですか!?』
「……何を驚いている」
『……あ、いえ!』
リンは、慌てて笑った。
荒川は、武道場の奥へ視線を向けた。
「……大会でも顔を合わせるし、合同稽古で世話になったこともある」
『……へぇ……』
「……あの人は、選手を見る目が厳しい」
『……そうなんですか』
「……名前や評判だけで、簡単に選手を認めるような人ではない」
リンは、父の話を思い出した。
高校時代の凛。
負けた試合。
それでも、鬼塚は凛に声をかけた。
『……でも、強い選手じゃなくても、声をかけることってあるんですよね?』
荒川は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
『……え?』
「……今、どれだけ強いかだけを見ているわけじゃない」
荒川は、静かに続けた。
「……伸びる選手かどうか。そこを見ているんだろう」
『…………』
「……だからこそ、難しい」
リンは、頷いた。
佐伯は強い。
青葉高校の主将として、後輩たちからも信頼されている。
けれど、全国の大学生たちと比べて、どの程度の実力なのか。
リンには、分からない。
荒川は、リンへ視線を戻した。
「……で、何が聞きたい」
『……実は、大学へ進学したくても、事情があって難しい生徒がいて』
「……ほう」
『……本人とは、就職の準備を進めながら、進学できる方法も調べようって話をしてるんです』
「……そうか」
『……それで、東央大学にも特待生制度があるなら、一度詳しく聞いてみたいなって』
荒川は、しばらく黙っていた。
「……本人は、調べることを了承しているんだな?」
『……はい』
「……なら、まずは制度の確認だ」
『……はい』
「……ただし、期待だけ持たせるなよ」
『……分かってます』
リンは、真剣に頷いた。
『……まだ、何も決まってないですから』
荒川は、小さく頷いた。
「……ならいい」
そう言って、部員たちの方へ戻っていった。
リンは、その背中を見送った。
(……鬼塚先生、か)
山元凛を見いだした人物。
佐伯にも、何か可能性を感じてもらえるだろうか。
もちろん、まだ分からない。
だからこそ、まずは会って話を聞いてみたかった。
◇
その日の夜。
山元家。
夕食の片づけを終えた和子が、台所から声をかけてきた。
「……凛」
『……ん?』
「昨日の話だけど」
『……昨日?』
「東央大学のことよ」
『……ああ!』
リンは、顔を上げた。
和子は、少し考えるように首を傾げた。
「……何か、大学に用事があるの?」
『……えっと、ちょっと仕事のことで聞きたいことがあって』
「……そう」
『……うん』
和子は、手を拭きながら言った。
「……それなら、篠原さんに連絡してみたら?」
『……篠原さん?』
「……空手部の副顧問の」
『……あ、ああ!』
リンは、慌てて頷いた。
(……また知らない人!!)
和子は、そんなリンの様子を特に気にせず続けた。
「……ほら、大学に入った頃から、ずっとお世話になってたでしょう」
『……うん、そうだったね』
「……鬼塚先生に直接連絡するより、篠原さんに聞いた方が早いかもしれないわよ」
『……そっか』
リンは、少し考えた。
『……でも、電話番号って分かるかな』
「……篠原さんなら、電話番号残してるわよ」
『……えっ、本当?』
「……ええ。前に何度か、うちにも連絡くださったことがあるもの」
和子は、居間の棚へ向かった。
引き出しを開け、住所録を取り出す。
ページをめくりながら、しばらく探す。
「……あった」
『……おお!』
「……篠原圭介さん」
和子は、電話番号を指差した。
「……これよ」
『……ありがとう!』
リンは、手元のメモ帳へ番号を書き写した。
和子は、少し笑った。
「……懐かしいわね。篠原さんにも、随分お世話になったわよね」
『……うん』
「……凛が一年生の頃なんて、しょっちゅう電話をいただいてたじゃない」
『……あはは……』
(……何やらかしてたの、凛さん!?)
リンは、内心で冷や汗をかいた。
和子は、懐かしそうに続けた。
「……鬼塚先生に怒られたとか、練習で無茶したとか」
『……あ、ああ……』
「……でも、篠原さんはいつも気にかけてくださってたわね」
『……そうなんだ』
「……そうなんだって、あなたねえ」
『……あっ、いや! 懐かしいなって!』
和子は、少し不思議そうに笑った。
「……最近、本当に変なこと言うわね」
『……あはは……』
リンは、メモ帳を握りしめた。
(……危なかったぁ……)
けれど、これで連絡先は分かった。
あとは、電話をかけるだけ。
(……電話、かぁ)
リンは、少しだけ緊張した。
相手は、山元凛をよく知る人物。
当然、自分のことも知っていると思って話してくるはずだ。
(……大丈夫かな、あたし)
不安はあった。
それでも。
佐伯の顔が、頭に浮かぶ。
(……やるしかないよね)
リンは、そっと息を吐いた。
◇
翌日、四月二十七日、木曜日。
午後。
リンは、職員室の隅で電話を握っていた。
メモ帳には、和子から教わった番号が書かれている。
『……よし』
小さく呟く。
そして、番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やがて。
「……はい、篠原です」
男性の声が聞こえた。
『……あ、あの! 山元凛と申しますが……』
「……山元?」
『……はい!』
少しの沈黙。
そして。
「……お前、凛か!?」
『……あっ、はい!』
「……久しぶりじゃないか! どうしたんだ、急に!」
『……あ、あはは! お久しぶりです!』
(……誰!?)
リンは、受話器を握りながら必死に笑った。
「……いやぁ、卒業してからまだ一か月も経ってないのに、随分久しぶりな気がするな!」
『……そ、そうですね!』
「……元気にしてるか?」
『……はい! 元気です!』
「……高校の先生になったんだろ?」
『……はい!』
「……どうだ、教師生活は?」
『……えっと、毎日大変ですけど、楽しいです!』
「……ははは! そうかそうか!」
篠原は、楽しそうに笑った。
「……しかし、山元が教師かぁ。鬼塚先生も喜んでたぞ」
『……えっ』
「……卒業式のあとも、あいつはちゃんとやれるだろうかって話してたんだ」
『……そ、そうなんですか』
「……まあ、お前なら大丈夫だろうけどな」
『……ありがとうございます!』
リンは、思わず頭を下げそうになった。
受話器の向こうでは見えないというのに。
(……すごいなぁ、凛さん)
卒業して間もない大学の関係者が、こうして懐かしそうに話してくれる。
それだけ、山元凛は多くの人に親しまれていたのだろう。
リンは、少しだけ胸が温かくなった。
「……それで、今日はどうした?」
『……あっ、実はちょっと相談したいことがあって』
「……相談?」
『……はい』
リンは、言葉を選びながら説明した。
現在、高校三年生の担任をしていること。
その中に、空手を続けたい気持ちを持ちながら、進学が難しいと考えている生徒がいること。
そして、東央大学のスポーツ特待生制度について、詳しく話を聞きたいこと。
篠原は、黙って聞いていた。
「……なるほどな」
『……はい』
「……お前の教え子か」
『……そうです』
「……そいつ、空手は強いのか?」
『……えっと……』
リンは、少し迷った。
佐伯の実力を、正確に評価できるわけではない。
それでも、普段の姿を思い出す。
『……強いと思います』
「……ほう」
『……でも、それ以上に、すごく真面目で』
リンは、ゆっくり続けた。
『……後輩の面倒もよく見てるし、誰よりも練習してて』
『……空手が本当に好きなんだなって、見てて分かるんです』
篠原は、静かに聞いていた。
『……ただ、本人は大学進学なんて難しいって思ってるみたいで』
「……そうか」
『……だから、もし何か方法があるなら、知ってほしくて』
少しの沈黙。
やがて、篠原が口を開いた。
「……分かった」
『……えっ』
「……鬼塚先生に、一度話してみるよ」
『……本当ですか!?』
「ああ。ただ、会ってもらえるかどうかは、先生次第だ」
『……はい! もちろんです!』
「……返事が来たら、連絡する」
『……ありがとうございます!』
リンは、深く頭を下げた。
電話を切ったあと。
『……はぁぁぁ……』
大きく息を吐いた。
(……緊張したぁ……!)
山元凛を知っている人と話すのは、やはり怖い。
いつ、知らない思い出話を振られるか分からない。
けれど。
どうにか、話は伝えられた。
(……あとは、鬼塚先生次第か)
リンは、メモ帳を閉じた。
◇
翌日、四月二十八日、金曜日。
放課後。
リンが職員室で書類を整理していると、電話が鳴った。
「……山元先生、お電話です」
『……あっ、はい!』
受話器を受け取る。
『……お電話代わりました、山元です!』
「……山元か?」
『……あっ、篠原さん!』
「……昨日の件だけどな」
『……はい!』
リンは、思わず背筋を伸ばした。
「……鬼塚先生に話したよ」
『……どうでした!?』
「……それがな」
篠原は、少し笑った。
「……お前が相談したいって聞いて、先生、驚いてたぞ」
『……えっ』
「……あの山元が、自分から頼み事をしてきたのかって」
『……そ、そうなんですか』
「……ああ」
篠原は、少し声を落とした。
「……それでな」
『……はい』
「……山元の頼みなら、話くらい聞いてやるってさ」
『…………』
リンは、思わず息を止めた。
『……本当ですか!?』
「……ああ」
『……ありがとうございます!!』
「……おいおい、まだ何も決まってないぞ」
『……あっ、そうですよね!』
篠原は、楽しそうに笑った。
「……ただ、まずはお前一人で来いってことだ」
『……はい!』
「……生徒の話は、実際に聞いてから判断するってさ」
『……分かりました!』
リンは、勢いよく頷いた。
訪問の日程を確認する。
明日、四月二十九日、土曜日。
東央大学の空手道場。
篠原が迎えてくれるという。
『……本当にありがとうございます!』
「……まあ、久しぶりに顔も見たいしな」
『……はい!』
「……それじゃ、明日な」
『……はい! よろしくお願いします!』
電話を切ったリンは、しばらく受話器を見つめていた。
(……会ってくれるんだ)
東央大学。
鬼塚宗一郎。
山元凛を見いだし、全国準優勝まで導いた人物。
その監督が、自分の話を聞いてくれる。
まだ、佐伯を大学へ連れていけると決まったわけではない。
もちろん、特待生になれるとも限らない。
けれど。
(……ちょっとだけ、前に進んだ)
リンは、小さく笑った。
◇
四月二十九日、土曜日。
東央大学。
リンは、大学の正門前に立っていた。
『…………』
大きな門。
広い敷地。
行き交う学生たち。
そのどれもが、初めて見る景色だった。
けれど。
今の自分にとっては、母校ということになっている。
(……うわぁ……)
リンは、思わず周囲を見渡した。
(……ここが、凛さんの大学……)
昨日の夜、もう一度アルバムを開いてきた。
写真に写っていた建物。
大学の名前。
空手道部の仲間たち。
それらが、今、目の前にある。
リンは、小さく息を吐いた。
『……よし』
そして、門をくぐった。
◇
東央大学、空手道場。
扉を開けると、鋭い気合いが響いてきた。
「押忍!」
「もう一本!」
「はい!」
道場の中では、大学生たちが練習していた。
高校の武道場とは、どこか空気が違う。
一人ひとりの動きに、迫力があった。
(……うわ、すご……)
リンは、思わず足を止めた。
そのとき。
「……あれ?」
一人の大学生が、こちらを見た。
長身で、精悍な顔立ちの男性。
道着の帯を締め直しながら、目を丸くしている。
「……山元先輩!?」
『……えっ!?』
リンが顔を上げる。
男性は、驚いた様子で近づいてきた。
「……えっ、本当に山元先輩じゃないですか!」
『……あ、あはは! 久しぶり!』
(……誰!?)
リンは、内心で悲鳴を上げた。
男性は、嬉しそうに笑った。
「……どうしたんですか、急に!」
『……ちょっと、先生に用事があって!』
「……鬼塚先生に?」
『……うん!』
「……へぇ!」
男性は、まじまじとリンを見た。
そして。
「……っていうか、先輩」
『……ん?』
「……その髪、どうしたんですか!?」
『……えっ』
リンは、自分の髪に触れた。
強めにかけたパーマ。
くるくると曲がった毛先。
『……ああ、これ? ちょっとイメチェン!』
「……イメチェン!?」
男性は、目を見開いた。
「……山元先輩が!?」
『……そんなに驚く!?』
「……いや、驚きますよ!」
男性は、思わず笑った。
「……先輩、昔は髪型なんて気にしないって言ってたじゃないですか!」
『……あはは……』
(……言いそう……!)
リンは、何とか笑った。
すると、別の部員たちもこちらに気づいた。
「……えっ、山元先輩!?」
「……本当だ!」
「……お久しぶりです!」
『……あ、みんな久しぶりー!』
リンは、手を振った。
(……全員、誰か分かんないんだけど!?)
心の中では大混乱だった。
その様子を見て、最初の男性が笑った。
「……相変わらず人気ですね、山元先輩」
『……あはは、そうかなぁ』
「……そうですよ。先輩、後輩の面倒見もよかったですし」
『……そ、そう?』
「……何ですか、その反応」
『……いや、ちょっと懐かしくて!』
男性は、少し首を傾げた。
けれど、すぐに笑った。
「……まあ、卒業してからまだ一か月ですけどね」
『……そうだね!』
(……それ何回言われるんだろ……)
リンは、内心で苦笑した。
すると、道場の奥から声がした。
「……おーい、榊原!」
男性が振り返る。
「……はい!」
リンも、そちらを見る。
呼ばれた男性。
榊原。
(……あ、この人が榊原さんなんだ)
ようやく名前が分かった。
東央大学空手道部の現主将、榊原隼人。
山元凛の一学年下の後輩。
後に聞けば、全国大会でも活躍する実力者らしい。
けれど、今のリンには、ただの気さくな後輩にしか見えなかった。
「……先輩、ちょっと待っててください!」
『……うん!』
榊原は、道場の奥へ走っていった。
リンは、ほっと息を吐いた。
(……助かったぁ……)
これ以上、昔話をされたら困るところだった。
すると。
「……山元」
背後から、声がした。
振り返る。
そこには、三十歳前後の男性が立っていた。
落ち着いた表情。
優しそうな目元。
そして、どこか懐かしそうな笑顔。
「……久しぶりだな」
『……あっ』
リンは、少しだけ緊張した。
「……お前が電話したんだろ」
『……ああ! 篠原さん!』
「……はは。何だ、その反応」
『……いえ! お久しぶりです!』
篠原圭介。
東央大学空手道部の副顧問。
山元凛が入学した頃から、鬼塚の指導を補佐してきた人物だ。
篠原は、リンの髪を見て少し笑った。
「……しかし、随分変わったな」
『……あはは……』
「……昔のお前なら、絶対そんな髪型しなかっただろ」
『……そうかなぁ』
「……そうだよ」
篠原は、楽しそうに笑った。
「……まあ、似合ってるけどな」
『……ありがとう!』
リンは、少しだけ安心した。
篠原は、道場の奥へ視線を向ける。
「……鬼塚先生、もうすぐ来るから」
『……はい』
「……それまで、少し待っててくれ」
『……分かった』
リンは、頷いた。
篠原は、少しだけ真剣な顔になった。
「……山元」
『……ん?』
「……教え子のために、わざわざここまで来るとはな」
『…………』
「……お前、教師になってよかったな」
リンは、少し驚いた。
篠原は、穏やかに笑った。
「……昔から、誰かのためとなると無茶するところはあったけど」
『……あはは……』
「……今度は、教え子の進路か」
『…………』
リンは、少しだけ俯いた。
山元凛。
この人は、どんな大学生活を送っていたのだろう。
どんな仲間と笑って。
どんな失敗をして。
どれだけの努力を重ねてきたのだろう。
今、自分の目の前にいる人たちは、そのすべてを知っている。
けれど、自分だけが知らない。
(……凛さん)
リンは、そっと拳を握った。
(……あたし、ちゃんとやれるかな)
そのとき。
「……山元」
低い声が響いた。
リンは、顔を上げた。
道場の奥から、一人の男性が歩いてくる。
白髪交じりの短髪。
鋭い眼差し。
背筋の伸びた姿勢。
年齢は五十代半ばほど。
ただ歩いているだけなのに、周囲の空気が引き締まったように感じられた。
篠原が、すぐに姿勢を正した。
「……鬼塚先生」
リンも、反射的に背筋を伸ばす。
『……あっ、はい!』
男性は、リンの前で足を止めた。
鬼塚宗一郎。
東央大学空手道部監督。
山元凛を見いだし、全国準優勝まで育てた人物。
鬼塚は、リンの顔をじっと見た。
「……山元」
『……はい!』
「……随分、雰囲気が変わったな」
『……あはは……』
リンは、ぎこちなく笑った。
鬼塚の視線が、パーマをかけた髪へ向かう。
「……髪まで変えたか」
『……ちょっと、気分転換で!』
「……そうか」
鬼塚は、それ以上何も言わなかった。
そして、短く告げた。
「……来い。話を聞こう」
『……はい!』
リンは、篠原へ一度頭を下げた。
篠原は、小さく頷いた。
リンは、鬼塚のあとを追った。
◇
東央大学、空手道部の指導者室。
リンは、鬼塚と向かい合って座っていた。
机の上には、湯飲みが二つ。
壁には、大会の写真や賞状が飾られている。
その中に、山元凛が写っているものもあった。
リンは、思わず目を向けた。
鬼塚が、その視線に気づく。
「……懐かしいか」
『……えっ』
「……去年の大会だ」
『……ああ、はい!』
リンは、慌てて頷いた。
鬼塚は、少しだけ笑った。
「……あの頃は、よく稽古したな」
『……そうですね』
「……お前は、負けると余計に燃える奴だった」
『…………』
リンは、少しだけ顔を上げた。
「……何度倒されても、次の日にはまた道場に来ていた」
『……へぇ……』
「……へぇ?」
『……あっ、いや! 懐かしいなって!』
鬼塚は、少し不思議そうにリンを見た。
しかし、それ以上は追及しなかった。
「……まあいい」
鬼塚は、湯飲みを置いた。
「……篠原から聞いた。教え子の進路について相談があるそうだな」
『……はい』
リンは、背筋を伸ばした。
『……あたし、今、青葉高校で三年生の担任をしてるんです』
「……ああ」
『……その中に、空手部の主将をしている生徒がいて』
リンは、ゆっくり説明を始めた。
佐伯大輔。
空手部の主将。
後輩たちから信頼される生徒。
真面目で、練習にも手を抜かない。
そして、大学でも空手を続けてみたい気持ちがあること。
しかし、経済的な事情から就職を希望していること。
リンは、必要以上に家庭の詳細へ踏み込まないよう、言葉を選んだ。
『……本人は、就職するって決めてるんです』
「……そうか」
『……でも、大学でも空手を続けてみたいって気持ちもあって』
鬼塚は、黙って聞いていた。
『……それで、もし何か進学できる方法があるなら、一緒に調べようって話になったんです』
「……なるほど」
『……東央大学には、スポーツ特待生の制度がありますよね』
「……ある」
『……その子にも、可能性があるのかなって』
鬼塚は、しばらくリンを見つめた。
そして、静かに口を開いた。
「……山元」
『……はい』
「……お前は、その佐伯という生徒を、どれほど知っている」
『…………』
リンは、少し考えた。
空手の実力。
正直、細かいことは分からない。
山元凛の身体を借りているからといって、自分が空手の専門家になったわけではない。
けれど。
佐伯が後輩へ丁寧に教える姿は見た。
誰よりも真剣に練習する姿も見た。
進路について悩みながら、それでも責任を持って考えようとしていることも知った。
『……全部は、まだ分かりません』
リンは、正直に答えた。
鬼塚が、わずかに眉を動かした。
『……空手の実力も、あたしが細かく評価できるわけじゃないです』
「…………」
『……でも』
リンは、まっすぐ鬼塚を見た。
『……すごく真面目で、後輩からも頼りにされてて』
『……空手が、本当に好きなんだなって思うんです』
鬼塚は、黙って聞いていた。
『……それなのに、お金のことで諦めるしかないって思ってるなら』
リンは、少しだけ言葉を止めた。
『……何か、方法があるかもしれないって、教えてあげたいんです』
鬼塚は、しばらく何も言わなかった。
部屋の外から、道場の掛け声が聞こえてくる。
リンは、静かに待った。
やがて、鬼塚が口を開いた。
「……山元」
『……はい』
「……特待生は、誰でもなれるものではない」
『……はい』
「……空手が好きだというだけでも駄目だ」
『……分かってます』
「……大学として、支援する価値がある選手かどうかを見極める必要がある」
『……はい』
リンは、真剣に頷いた。
鬼塚は、そんなリンを見つめた。
「……昔のお前なら、もっと強引に頼んできただろうな」
『……えっ』
「……あいつは絶対に強くなる。だから入れてやってくれ、とな」
『……あはは……』
リンは、少し苦笑した。
確かに、本当の凛ならそう言ったかもしれない。
けれど、今の自分には言えない。
佐伯の実力を十分に知らない。
大学の特待生制度についても、すべて理解しているわけではない。
だからこそ、軽々しく約束してほしいとは言えなかった。
『……あたし、まだ分からないことが多いんです』
リンは、静かに答えた。
『……だから、ちゃんと知りたくて』
鬼塚は、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
そして、ゆっくり立ち上がった。
窓の外へ目を向ける。
道場では、学生たちが組み手の稽古を続けていた。
「……近いうちに、合同練習会をやる」
『……えっ』
「……俺が目をつけている高校生を、何人か集めて稽古をする予定だ」
『……合同練習会……』
「……ああ」
鬼塚は、窓の外を見つめたまま続けた。
「……大学生も参加する。選手として、どれだけ通用するかを見る機会でもある」
リンは、少し身を乗り出した。
『……それって……』
鬼塚は、ゆっくり振り返った。
「……山元」
『……はい』
「……お前がそこまで気にかけている生徒なんだろう」
『……はい』
鬼塚は、リンをまっすぐ見た。
そして、静かに告げた。
「……その佐伯って生徒を、一度連れてこい」




