↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/49

第二十話「知らなかった母校」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月二十五日、火曜日。


 午後七時を少し回った頃。


 山元家の食卓には、夕食の料理が並んでいた。


「……凛。おかわりは?」


『……あ、ううん。大丈夫』


 リンは、小さく首を横に振った。


 母の和子が、少し不思議そうにこちらを見る。


「珍しいわね。いつもなら、もう一杯くらい食べるのに」


『……今日は、あんまりお腹空いてなくて』


「……そう?」


 和子は首を傾げた。


 リンは、慌ててご飯を口へ運んだ。


(……しまった)


 本来の山元凛は、空手で鍛え上げた身体の持ち主だ。


 当然、食事の量も多かったらしい。


 けれど、中身が入れ替わったからといって、リンの食欲まで突然増えるわけではない。


 もっとも、この身体になってから、以前より空腹を感じることは増えた。


 それでも、毎食山盛りのご飯を食べる習慣には、まだ慣れていなかった。


「……凛」


 今度は、父の正志が声をかけてきた。


『……ん?』


「何か考え事か?」


『……え?』


「さっきから、あまり箸が進んでないぞ」


『……ああ、うん。ちょっと仕事のこと』


「……学校か」


『……うん』


 リンは、味噌汁の椀へ視線を落とした。


 目の前に座っている男性は、山元正志。


 この身体の持ち主である山元凛の父親だ。


 隣で食事をしている和子も、凛の母親。


 けれど、リンにとっては違う。


 自分の父親でも、母親でもない。


 まだ出会ってから、それほど長い時間が経ったわけではなかった。


 最初の頃よりは、ずっと自然に会話できるようになった。


 それでも、ときどき分からなくなる。


 どんなことなら気軽に話していいのか。


 どこまで頼っていいのか。


 家族として当然のように振る舞う二人を前に、妙に緊張することがあった。


「……生徒のことで何かあったのか?」


『……まあ、そんな感じ』


 正志は、静かに頷いた。


「……三年生の担任だもんな。進路の相談も増える頃か」


『……うん。ちょうどそれ』


「……そうか」


 リンは、少し迷った。


 今日、佐伯と話したこと。


 就職を選んだ理由。


 大学でも空手を続けたいという、本当の気持ち。


 そして、経済的な事情。


 もちろん、生徒の名前や家庭の詳しいことを話すつもりはない。


 それでも、何か参考になることが聞けるかもしれない。


『……ねえ』


「……ん?」


『……ちょっと聞いてもいい?』


「何だ?」


 リンは、箸を置いた。


『……大学に行きたくても、お金のことで難しい人って、どうしたらいいと思う?』


 正志は、少し考えた。


「……奨学金とか、そういう話か?」


『……うん。それもあるんだけど』


「……そうだな。大学によっては、授業料を減免してくれる制度もあるだろう」


『……うん』


「……あとは、特待生か」


『……特待生?』


「ああ。学業やスポーツの成績が優秀な学生を、大学が支援する制度だ」


『……へぇ』


 リンは、少し身を乗り出した。


『……スポーツでも、そういうのあるんだ』


「……あるだろう」


 正志は、何気なく続けた。


「……お前だって、そうだったじゃないか」


『…………え?』


 リンの箸が止まった。


 正志が顔を上げる。


「……何だ?」


『……えっ、いや……』


「……東央大学だよ。お前、空手の特待生で入っただろう」


『…………』


(……えええええ!?)


 リンは、危うく声を上げそうになった。


(……凛さん、特待生だったの!?)


 山元凛が大学の空手で全国準優勝したことは知っていた。


 この身体が、優れた選手のものだということも。


 けれど。


 特待生として大学へ進学していたことなど、初耳だった。


『……あ、ああ! そうだったね!』


 リンは、慌てて笑った。


 正志が眉をひそめる。


「……忘れてたのか?」


『……いや、そうじゃなくて! ちょっと、ほら! 昔のこと思い出して!』


「……卒業したばかりだろう」


『……そ、そうだね!』


 正志は、不思議そうな顔をした。


 和子も、リンを見つめている。


(……まずいまずいまずい!)


 リンは、慌てて味噌汁を飲んだ。


 少し熱かった。


『……あつっ!』


「……もう、何やってるの」


 和子が呆れたように笑った。


「……最近、本当に落ち着きがないわね」


『……あはは……』


 リンは、曖昧に笑った。


 正志は、話を続けた。


「……まあ、凛の場合は随分助けてもらったからな」


『……そう、だったね』


「授業料だけじゃない。寮費や部の費用も、特待生として面倒を見てもらった」


『……うん』


(……そこまで!?)


 リンは、内心で目を丸くしていた。


 学費。


 寮費。


 部費。


 それらが免除されていたのなら、大学へ進むための負担は大幅に減る。


 もちろん、すべての学生が利用できる制度ではないのだろう。


 けれど。


(……佐伯さんにも、そういう方法があるのかな)


 リンは、正志へ目を向けた。


『……ねえ、その特待生って、どうやって選ばれたんだっけ』


「……どうやって?」


『……うん。試験とか、推薦とか』


 正志は、少し意外そうな顔をした。


「……鬼塚先生のこと、覚えてるだろう?」


『……おにづか……』


「……おいおい」


『……あっ、もちろん!』


 リンは、慌てて頷いた。


(……誰!?)


 和子が、懐かしそうに笑った。


「東央大学の空手部の監督よ。鬼塚宗一郎先生」


『……ああ、鬼塚先生!』


「……あなた、本当に大丈夫?」


『……大丈夫、大丈夫!』


 リンは、笑ってごまかした。


 正志は、小さく息を吐いた。


「……あの先生が、お前の試合を見て声をかけてくれたんだろう」


『……え?』


「……高校の頃だよ」


 正志は、少し懐かしそうな顔をした。


「……お前、随分負けただろう」


『…………』


 リンは、思わず顔を上げた。


 負けた。


 山元凛が。


 全国準優勝まで辿り着いた、あの凛が。


「……強い相手には、なかなか勝てなくてな」


 正志は、ゆっくり続けた。


「それでも、お前は諦めなかった」


『…………』


「……鬼塚先生が見ていた試合も、結局は負けたんだ」


 リンは、黙って聞いていた。


「……だが、試合が終わったあと、あの先生が声をかけてくれてな」


『……何て?』


「……今はまだ粗いが、面白い選手だって」


『…………』


「……それから、大学で鍛えてみたいと言ってくれた」


 和子も、静かに頷いた。


「……あのときは驚いたわね」


「……ああ」


「……負けた試合を見て声をかけてくださるなんて、思ってもみなかったもの」


 リンは、二人の顔を見つめた。


 高校時代の凛。


 試合で敗北しながらも、諦めずに戦っていた。


 その姿を見て、一人の大学監督が可能性を感じた。


 そして、大学へ招いた。


(……凛さんも、最初から強かったわけじゃないんだ)


 知らなかった。


 あの豪快で、自信に満ちた女性にも、何度も負けた時期があった。


 その先に、全国準優勝という実績があったのだ。


『……ねえ』


 リンは、少しだけ声を落とした。


『……その鬼塚先生って、今も大学にいるの?』


「……いるだろう。卒業するときも、お世話になったんじゃないのか?」


『……あ、うん! そうだった!』


 リンは、慌てて頷いた。


 正志は、また少し不思議そうな顔をした。


 けれど、それ以上は何も言わなかった。


『……そっか』


 リンは、箸を持ち直した。


(……東央大学、か)


 佐伯が就職を選んだ理由。


 大学で空手を続けたいという本音。


 そして、山元凛が利用していた特待生制度。


 ばらばらだった情報が、少しずつつながり始めていた。


     ◇


 夕食後。


 リンは、山元凛の部屋にいた。


『……東央大学……』


 机に向かい、小さく呟く。


 そして、部屋の本棚へ目を向けた。


 空手に関する本。


 大会の記録。


 大学時代の写真が収められたアルバム。


 これまでも何度か見かけていた。


 けれど、じっくり開いたことはなかった。


(……ちょっとだけ、見せてもらお)


 リンは、アルバムを手に取った。


 表紙を開く。


 そこには、道着姿の学生たちが写っていた。


 中央付近には、山元凛の姿がある。


 長い黒髪を後ろでまとめた、真剣な表情。


 今、鏡に映る自分と同じ顔。


 けれど、どこか違って見えた。


『……へぇ……』


 ページをめくる。


 大会の写真。


 仲間たちと笑っている写真。


 道場で稽古している写真。


 そして、表彰状を手にした凛の姿。


 全国大会、準優勝。


 リンは、その写真をしばらく見つめた。


(……すごいなぁ)


 自分がいた二〇二六年では、運動はあまり得意ではなかった。


 できれば激しい運動を避けたい。


 汗をかくのも好きではない。


 そんな自分とは、まるで正反対。


 なのに、今はその人の身体で暮らしている。


 教師として。


 空手部の関係者として。


 家族の娘として。


(……凛さんの人生、借りてるんだよね)


 リンは、そっと写真へ触れた。


 今まで、何とか周囲に合わせようとしてきた。


 知らないことをごまかしながら。


 できないことを隠しながら。


 それでも、少しずつ教師としての仕事を覚えてきた。


 そして今日。


 凛が積み上げてきた努力が、一人の生徒を助ける手掛かりになるかもしれないと知った。


(……もし、あたしにできることがあるなら)


 リンは、アルバムを閉じた。


(……ちゃんと、やってみたい)


 佐伯の未来を、勝手に決めるつもりはない。


 大学へ進学させると約束するつもりもない。


 ただ。


 選べる道があるのなら、その存在を知ってほしい。


 そのために、自分ができることを探したかった。


     ◇


 翌日、四月二十六日、水曜日。


 青葉高校、職員室。


『……小野寺先生、ちょっといいですか?』


「……はい。どうしました?」


 リンは、東央大学の名前を口にした。


『……スポーツ特待生の制度って、今もあるんでしょうか』


「……東央大学ですか?」


『……はい』


「……山元先生の母校ですね」


『……あはは、そうです!』


 リンは、少し笑った。


「……確か、空手部にも特待生制度があったはずですが」


『……本当ですか!?』


「……ええ。ただし、今年度の詳しい条件については、大学側へ確認した方が確実でしょうね」


『……ですよね』


 小野寺は、机の上の資料を開いた。


「……大学によって、選考の条件も支援の内容も違いますから」


『……はい』


「……それに、競技実績があれば必ず利用できるわけでもありません」


『……分かってます』


 リンは、真剣に頷いた。


『……でも、可能性があるなら、ちゃんと調べたいんです』


 小野寺は、穏やかに微笑んだ。


「……そうですね」


 そして、少し考えてから続けた。


「……まずは荒川先生にも相談してみてはどうでしょう」


『……荒川先生に?』


「ええ。空手部の指導者ですから、大学側の事情についても何かご存じかもしれません」


『……なるほど!』


 リンは、勢いよく頷いた。


『……ありがとうございます!』


「……いえいえ」


 小野寺は、資料を閉じた。


「……ただ、山元先生」


『……はい?』


「……まだ、その生徒へ具体的なお話はしていないんですよね?」


『……はい。調べることは了承してもらってますけど、大学の名前までは』


「……それなら、まず確認を進めてからの方がいいでしょう」


『……分かりました』


 リンは、もう一度頭を下げた。


 そして、職員室を出ていった。


     ◇


 放課後。


 武道場。


 荒川は、部員たちの練習を見守っていた。


「……佐伯! 踏み込みが甘い!」


「押忍!」


「……もう一本!」


「押忍!」


 佐伯が構え直す。


 相手の動きを見据え、鋭く踏み込んだ。


 リンは、道場の入り口からその様子を眺めていた。


(……本当に、頑張ってるんだよね)


 昨日、佐伯が話してくれたこと。


 大学で空手を続けてみたい。


 もっと強くなれるのか、試してみたい。


 けれど、家庭の事情を考えれば、簡単には選べない。


 その言葉が、頭に残っていた。


 やがて練習が終わる。


 部員たちが片づけを始めたところで、リンは荒川へ声をかけた。


『……荒川先生』


「……山元か」


『……ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど』


「……何だ」


『……東央大学の空手部って、ご存じですよね?』


 荒川は、リンを見た。


「……当然だ」


『……ですよね!』


「……お前の母校だろうが」


『……あはは……!』


 リンは、曖昧に笑った。


『……その、鬼塚先生のことなんですけど』


 荒川の表情が、少し変わった。


「……鬼塚さんか」


『……はい』


「……知っている。長い付き合いだ」


『……えっ、そうなんですか!?』


「……何を驚いている」


『……あ、いえ!』


 リンは、慌てて笑った。


 荒川は、武道場の奥へ視線を向けた。


「……大会でも顔を合わせるし、合同稽古で世話になったこともある」


『……へぇ……』


「……あの人は、選手を見る目が厳しい」


『……そうなんですか』


「……名前や評判だけで、簡単に選手を認めるような人ではない」


 リンは、父の話を思い出した。


 高校時代の凛。


 負けた試合。


 それでも、鬼塚は凛に声をかけた。


『……でも、強い選手じゃなくても、声をかけることってあるんですよね?』


 荒川は、少しだけ目を細めた。


「……ああ」


『……え?』


「……今、どれだけ強いかだけを見ているわけじゃない」


 荒川は、静かに続けた。


「……伸びる選手かどうか。そこを見ているんだろう」


『…………』


「……だからこそ、難しい」


 リンは、頷いた。


 佐伯は強い。


 青葉高校の主将として、後輩たちからも信頼されている。


 けれど、全国の大学生たちと比べて、どの程度の実力なのか。


 リンには、分からない。


 荒川は、リンへ視線を戻した。


「……で、何が聞きたい」


『……実は、大学へ進学したくても、事情があって難しい生徒がいて』


「……ほう」


『……本人とは、就職の準備を進めながら、進学できる方法も調べようって話をしてるんです』


「……そうか」


『……それで、東央大学にも特待生制度があるなら、一度詳しく聞いてみたいなって』


 荒川は、しばらく黙っていた。


「……本人は、調べることを了承しているんだな?」


『……はい』


「……なら、まずは制度の確認だ」


『……はい』


「……ただし、期待だけ持たせるなよ」


『……分かってます』


 リンは、真剣に頷いた。


『……まだ、何も決まってないですから』


 荒川は、小さく頷いた。


「……ならいい」


 そう言って、部員たちの方へ戻っていった。


 リンは、その背中を見送った。


(……鬼塚先生、か)


 山元凛を見いだした人物。


 佐伯にも、何か可能性を感じてもらえるだろうか。


 もちろん、まだ分からない。


 だからこそ、まずは会って話を聞いてみたかった。


     ◇


 その日の夜。


 山元家。


 夕食の片づけを終えた和子が、台所から声をかけてきた。


「……凛」


『……ん?』


「昨日の話だけど」


『……昨日?』


「東央大学のことよ」


『……ああ!』


 リンは、顔を上げた。


 和子は、少し考えるように首を傾げた。


「……何か、大学に用事があるの?」


『……えっと、ちょっと仕事のことで聞きたいことがあって』


「……そう」


『……うん』


 和子は、手を拭きながら言った。


「……それなら、篠原さんに連絡してみたら?」


『……篠原さん?』


「……空手部の副顧問の」


『……あ、ああ!』


 リンは、慌てて頷いた。


(……また知らない人!!)


 和子は、そんなリンの様子を特に気にせず続けた。


「……ほら、大学に入った頃から、ずっとお世話になってたでしょう」


『……うん、そうだったね』


「……鬼塚先生に直接連絡するより、篠原さんに聞いた方が早いかもしれないわよ」


『……そっか』


 リンは、少し考えた。


『……でも、電話番号って分かるかな』


「……篠原さんなら、電話番号残してるわよ」


『……えっ、本当?』


「……ええ。前に何度か、うちにも連絡くださったことがあるもの」


 和子は、居間の棚へ向かった。


 引き出しを開け、住所録を取り出す。


 ページをめくりながら、しばらく探す。


「……あった」


『……おお!』


「……篠原圭介さん」


 和子は、電話番号を指差した。


「……これよ」


『……ありがとう!』


 リンは、手元のメモ帳へ番号を書き写した。


 和子は、少し笑った。


「……懐かしいわね。篠原さんにも、随分お世話になったわよね」


『……うん』


「……凛が一年生の頃なんて、しょっちゅう電話をいただいてたじゃない」


『……あはは……』


(……何やらかしてたの、凛さん!?)


 リンは、内心で冷や汗をかいた。


 和子は、懐かしそうに続けた。


「……鬼塚先生に怒られたとか、練習で無茶したとか」


『……あ、ああ……』


「……でも、篠原さんはいつも気にかけてくださってたわね」


『……そうなんだ』


「……そうなんだって、あなたねえ」


『……あっ、いや! 懐かしいなって!』


 和子は、少し不思議そうに笑った。


「……最近、本当に変なこと言うわね」


『……あはは……』


 リンは、メモ帳を握りしめた。


(……危なかったぁ……)


 けれど、これで連絡先は分かった。


 あとは、電話をかけるだけ。


(……電話、かぁ)


 リンは、少しだけ緊張した。


 相手は、山元凛をよく知る人物。


 当然、自分のことも知っていると思って話してくるはずだ。


(……大丈夫かな、あたし)


 不安はあった。


 それでも。


 佐伯の顔が、頭に浮かぶ。


(……やるしかないよね)


 リンは、そっと息を吐いた。


     ◇


 翌日、四月二十七日、木曜日。


 午後。


 リンは、職員室の隅で電話を握っていた。


 メモ帳には、和子から教わった番号が書かれている。


『……よし』


 小さく呟く。


 そして、番号を押した。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。


 二回。


 三回。


 やがて。


「……はい、篠原です」


 男性の声が聞こえた。


『……あ、あの! 山元凛と申しますが……』


「……山元?」


『……はい!』


 少しの沈黙。


 そして。


「……お前、凛か!?」


『……あっ、はい!』


「……久しぶりじゃないか! どうしたんだ、急に!」


『……あ、あはは! お久しぶりです!』


(……誰!?)


 リンは、受話器を握りながら必死に笑った。


「……いやぁ、卒業してからまだ一か月も経ってないのに、随分久しぶりな気がするな!」


『……そ、そうですね!』


「……元気にしてるか?」


『……はい! 元気です!』


「……高校の先生になったんだろ?」


『……はい!』


「……どうだ、教師生活は?」


『……えっと、毎日大変ですけど、楽しいです!』


「……ははは! そうかそうか!」


 篠原は、楽しそうに笑った。


「……しかし、山元が教師かぁ。鬼塚先生も喜んでたぞ」


『……えっ』


「……卒業式のあとも、あいつはちゃんとやれるだろうかって話してたんだ」


『……そ、そうなんですか』


「……まあ、お前なら大丈夫だろうけどな」


『……ありがとうございます!』


 リンは、思わず頭を下げそうになった。


 受話器の向こうでは見えないというのに。


(……すごいなぁ、凛さん)


 卒業して間もない大学の関係者が、こうして懐かしそうに話してくれる。


 それだけ、山元凛は多くの人に親しまれていたのだろう。


 リンは、少しだけ胸が温かくなった。


「……それで、今日はどうした?」


『……あっ、実はちょっと相談したいことがあって』


「……相談?」


『……はい』


 リンは、言葉を選びながら説明した。


 現在、高校三年生の担任をしていること。


 その中に、空手を続けたい気持ちを持ちながら、進学が難しいと考えている生徒がいること。


 そして、東央大学のスポーツ特待生制度について、詳しく話を聞きたいこと。


 篠原は、黙って聞いていた。


「……なるほどな」


『……はい』


「……お前の教え子か」


『……そうです』


「……そいつ、空手は強いのか?」


『……えっと……』


 リンは、少し迷った。


 佐伯の実力を、正確に評価できるわけではない。


 それでも、普段の姿を思い出す。


『……強いと思います』


「……ほう」


『……でも、それ以上に、すごく真面目で』


 リンは、ゆっくり続けた。


『……後輩の面倒もよく見てるし、誰よりも練習してて』


『……空手が本当に好きなんだなって、見てて分かるんです』


 篠原は、静かに聞いていた。


『……ただ、本人は大学進学なんて難しいって思ってるみたいで』


「……そうか」


『……だから、もし何か方法があるなら、知ってほしくて』


 少しの沈黙。


 やがて、篠原が口を開いた。


「……分かった」


『……えっ』


「……鬼塚先生に、一度話してみるよ」


『……本当ですか!?』


「ああ。ただ、会ってもらえるかどうかは、先生次第だ」


『……はい! もちろんです!』


「……返事が来たら、連絡する」


『……ありがとうございます!』


 リンは、深く頭を下げた。


 電話を切ったあと。


『……はぁぁぁ……』


 大きく息を吐いた。


(……緊張したぁ……!)


 山元凛を知っている人と話すのは、やはり怖い。


 いつ、知らない思い出話を振られるか分からない。


 けれど。


 どうにか、話は伝えられた。


(……あとは、鬼塚先生次第か)


 リンは、メモ帳を閉じた。


     ◇


 翌日、四月二十八日、金曜日。


 放課後。


 リンが職員室で書類を整理していると、電話が鳴った。


「……山元先生、お電話です」


『……あっ、はい!』


 受話器を受け取る。


『……お電話代わりました、山元です!』


「……山元か?」


『……あっ、篠原さん!』


「……昨日の件だけどな」


『……はい!』


 リンは、思わず背筋を伸ばした。


「……鬼塚先生に話したよ」


『……どうでした!?』


「……それがな」


 篠原は、少し笑った。


「……お前が相談したいって聞いて、先生、驚いてたぞ」


『……えっ』


「……あの山元が、自分から頼み事をしてきたのかって」


『……そ、そうなんですか』


「……ああ」


 篠原は、少し声を落とした。


「……それでな」


『……はい』


「……山元の頼みなら、話くらい聞いてやるってさ」


『…………』


 リンは、思わず息を止めた。


『……本当ですか!?』


「……ああ」


『……ありがとうございます!!』


「……おいおい、まだ何も決まってないぞ」


『……あっ、そうですよね!』


 篠原は、楽しそうに笑った。


「……ただ、まずはお前一人で来いってことだ」


『……はい!』


「……生徒の話は、実際に聞いてから判断するってさ」


『……分かりました!』


 リンは、勢いよく頷いた。


 訪問の日程を確認する。


 明日、四月二十九日、土曜日。


 東央大学の空手道場。


 篠原が迎えてくれるという。


『……本当にありがとうございます!』


「……まあ、久しぶりに顔も見たいしな」


『……はい!』


「……それじゃ、明日な」


『……はい! よろしくお願いします!』


 電話を切ったリンは、しばらく受話器を見つめていた。


(……会ってくれるんだ)


 東央大学。


 鬼塚宗一郎。


 山元凛を見いだし、全国準優勝まで導いた人物。


 その監督が、自分の話を聞いてくれる。


 まだ、佐伯を大学へ連れていけると決まったわけではない。


 もちろん、特待生になれるとも限らない。


 けれど。


(……ちょっとだけ、前に進んだ)


 リンは、小さく笑った。


     ◇


 四月二十九日、土曜日。


 東央大学。


 リンは、大学の正門前に立っていた。


『…………』


 大きな門。


 広い敷地。


 行き交う学生たち。


 そのどれもが、初めて見る景色だった。


 けれど。


 今の自分にとっては、母校ということになっている。


(……うわぁ……)


 リンは、思わず周囲を見渡した。


(……ここが、凛さんの大学……)


 昨日の夜、もう一度アルバムを開いてきた。


 写真に写っていた建物。


 大学の名前。


 空手道部の仲間たち。


 それらが、今、目の前にある。


 リンは、小さく息を吐いた。


『……よし』


 そして、門をくぐった。


     ◇


 東央大学、空手道場。


 扉を開けると、鋭い気合いが響いてきた。


「押忍!」


「もう一本!」


「はい!」


 道場の中では、大学生たちが練習していた。


 高校の武道場とは、どこか空気が違う。


 一人ひとりの動きに、迫力があった。


(……うわ、すご……)


 リンは、思わず足を止めた。


 そのとき。


「……あれ?」


 一人の大学生が、こちらを見た。


 長身で、精悍な顔立ちの男性。


 道着の帯を締め直しながら、目を丸くしている。


「……山元先輩!?」


『……えっ!?』


 リンが顔を上げる。


 男性は、驚いた様子で近づいてきた。


「……えっ、本当に山元先輩じゃないですか!」


『……あ、あはは! 久しぶり!』


(……誰!?)


 リンは、内心で悲鳴を上げた。


 男性は、嬉しそうに笑った。


「……どうしたんですか、急に!」


『……ちょっと、先生に用事があって!』


「……鬼塚先生に?」


『……うん!』


「……へぇ!」


 男性は、まじまじとリンを見た。


 そして。


「……っていうか、先輩」


『……ん?』


「……その髪、どうしたんですか!?」


『……えっ』


 リンは、自分の髪に触れた。


 強めにかけたパーマ。


 くるくると曲がった毛先。


『……ああ、これ? ちょっとイメチェン!』


「……イメチェン!?」


 男性は、目を見開いた。


「……山元先輩が!?」


『……そんなに驚く!?』


「……いや、驚きますよ!」


 男性は、思わず笑った。


「……先輩、昔は髪型なんて気にしないって言ってたじゃないですか!」


『……あはは……』


(……言いそう……!)


 リンは、何とか笑った。


 すると、別の部員たちもこちらに気づいた。


「……えっ、山元先輩!?」


「……本当だ!」


「……お久しぶりです!」


『……あ、みんな久しぶりー!』


 リンは、手を振った。


(……全員、誰か分かんないんだけど!?)


 心の中では大混乱だった。


 その様子を見て、最初の男性が笑った。


「……相変わらず人気ですね、山元先輩」


『……あはは、そうかなぁ』


「……そうですよ。先輩、後輩の面倒見もよかったですし」


『……そ、そう?』


「……何ですか、その反応」


『……いや、ちょっと懐かしくて!』


 男性は、少し首を傾げた。


 けれど、すぐに笑った。


「……まあ、卒業してからまだ一か月ですけどね」


『……そうだね!』


(……それ何回言われるんだろ……)


 リンは、内心で苦笑した。


 すると、道場の奥から声がした。


「……おーい、榊原!」


 男性が振り返る。


「……はい!」


 リンも、そちらを見る。


 呼ばれた男性。


 榊原。


(……あ、この人が榊原さんなんだ)


 ようやく名前が分かった。


 東央大学空手道部の現主将、榊原隼人。


 山元凛の一学年下の後輩。


 後に聞けば、全国大会でも活躍する実力者らしい。


 けれど、今のリンには、ただの気さくな後輩にしか見えなかった。


「……先輩、ちょっと待っててください!」


『……うん!』


 榊原は、道場の奥へ走っていった。


 リンは、ほっと息を吐いた。


(……助かったぁ……)


 これ以上、昔話をされたら困るところだった。


 すると。


「……山元」


 背後から、声がした。


 振り返る。


 そこには、三十歳前後の男性が立っていた。


 落ち着いた表情。


 優しそうな目元。


 そして、どこか懐かしそうな笑顔。


「……久しぶりだな」


『……あっ』


 リンは、少しだけ緊張した。


「……お前が電話したんだろ」


『……ああ! 篠原さん!』


「……はは。何だ、その反応」


『……いえ! お久しぶりです!』


 篠原圭介。


 東央大学空手道部の副顧問。


 山元凛が入学した頃から、鬼塚の指導を補佐してきた人物だ。


 篠原は、リンの髪を見て少し笑った。


「……しかし、随分変わったな」


『……あはは……』


「……昔のお前なら、絶対そんな髪型しなかっただろ」


『……そうかなぁ』


「……そうだよ」


 篠原は、楽しそうに笑った。


「……まあ、似合ってるけどな」


『……ありがとう!』


 リンは、少しだけ安心した。


 篠原は、道場の奥へ視線を向ける。


「……鬼塚先生、もうすぐ来るから」


『……はい』


「……それまで、少し待っててくれ」


『……分かった』


 リンは、頷いた。


 篠原は、少しだけ真剣な顔になった。


「……山元」


『……ん?』


「……教え子のために、わざわざここまで来るとはな」


『…………』


「……お前、教師になってよかったな」


 リンは、少し驚いた。


 篠原は、穏やかに笑った。


「……昔から、誰かのためとなると無茶するところはあったけど」


『……あはは……』


「……今度は、教え子の進路か」


『…………』


 リンは、少しだけ俯いた。


 山元凛。


 この人は、どんな大学生活を送っていたのだろう。


 どんな仲間と笑って。


 どんな失敗をして。


 どれだけの努力を重ねてきたのだろう。


 今、自分の目の前にいる人たちは、そのすべてを知っている。


 けれど、自分だけが知らない。


(……凛さん)


 リンは、そっと拳を握った。


(……あたし、ちゃんとやれるかな)


 そのとき。


「……山元」


 低い声が響いた。


 リンは、顔を上げた。


 道場の奥から、一人の男性が歩いてくる。


 白髪交じりの短髪。


 鋭い眼差し。


 背筋の伸びた姿勢。


 年齢は五十代半ばほど。


 ただ歩いているだけなのに、周囲の空気が引き締まったように感じられた。


 篠原が、すぐに姿勢を正した。


「……鬼塚先生」


 リンも、反射的に背筋を伸ばす。


『……あっ、はい!』


 男性は、リンの前で足を止めた。


 鬼塚宗一郎。


 東央大学空手道部監督。


 山元凛を見いだし、全国準優勝まで育てた人物。


 鬼塚は、リンの顔をじっと見た。


「……山元」


『……はい!』


「……随分、雰囲気が変わったな」


『……あはは……』


 リンは、ぎこちなく笑った。


 鬼塚の視線が、パーマをかけた髪へ向かう。


「……髪まで変えたか」


『……ちょっと、気分転換で!』


「……そうか」


 鬼塚は、それ以上何も言わなかった。


 そして、短く告げた。


「……来い。話を聞こう」


『……はい!』


 リンは、篠原へ一度頭を下げた。


 篠原は、小さく頷いた。


 リンは、鬼塚のあとを追った。


     ◇


 東央大学、空手道部の指導者室。


 リンは、鬼塚と向かい合って座っていた。


 机の上には、湯飲みが二つ。


 壁には、大会の写真や賞状が飾られている。


 その中に、山元凛が写っているものもあった。


 リンは、思わず目を向けた。


 鬼塚が、その視線に気づく。


「……懐かしいか」


『……えっ』


「……去年の大会だ」


『……ああ、はい!』


 リンは、慌てて頷いた。


 鬼塚は、少しだけ笑った。


「……あの頃は、よく稽古したな」


『……そうですね』


「……お前は、負けると余計に燃える奴だった」


『…………』


 リンは、少しだけ顔を上げた。


「……何度倒されても、次の日にはまた道場に来ていた」


『……へぇ……』


「……へぇ?」


『……あっ、いや! 懐かしいなって!』


 鬼塚は、少し不思議そうにリンを見た。


 しかし、それ以上は追及しなかった。


「……まあいい」


 鬼塚は、湯飲みを置いた。


「……篠原から聞いた。教え子の進路について相談があるそうだな」


『……はい』


 リンは、背筋を伸ばした。


『……あたし、今、青葉高校で三年生の担任をしてるんです』


「……ああ」


『……その中に、空手部の主将をしている生徒がいて』


 リンは、ゆっくり説明を始めた。


 佐伯大輔。


 空手部の主将。


 後輩たちから信頼される生徒。


 真面目で、練習にも手を抜かない。


 そして、大学でも空手を続けてみたい気持ちがあること。


 しかし、経済的な事情から就職を希望していること。


 リンは、必要以上に家庭の詳細へ踏み込まないよう、言葉を選んだ。


『……本人は、就職するって決めてるんです』


「……そうか」


『……でも、大学でも空手を続けてみたいって気持ちもあって』


 鬼塚は、黙って聞いていた。


『……それで、もし何か進学できる方法があるなら、一緒に調べようって話になったんです』


「……なるほど」


『……東央大学には、スポーツ特待生の制度がありますよね』


「……ある」


『……その子にも、可能性があるのかなって』


 鬼塚は、しばらくリンを見つめた。


 そして、静かに口を開いた。


「……山元」


『……はい』


「……お前は、その佐伯という生徒を、どれほど知っている」


『…………』


 リンは、少し考えた。


 空手の実力。


 正直、細かいことは分からない。


 山元凛の身体を借りているからといって、自分が空手の専門家になったわけではない。


 けれど。


 佐伯が後輩へ丁寧に教える姿は見た。


 誰よりも真剣に練習する姿も見た。


 進路について悩みながら、それでも責任を持って考えようとしていることも知った。


『……全部は、まだ分かりません』


 リンは、正直に答えた。


 鬼塚が、わずかに眉を動かした。


『……空手の実力も、あたしが細かく評価できるわけじゃないです』


「…………」


『……でも』


 リンは、まっすぐ鬼塚を見た。


『……すごく真面目で、後輩からも頼りにされてて』


『……空手が、本当に好きなんだなって思うんです』


 鬼塚は、黙って聞いていた。


『……それなのに、お金のことで諦めるしかないって思ってるなら』


 リンは、少しだけ言葉を止めた。


『……何か、方法があるかもしれないって、教えてあげたいんです』


 鬼塚は、しばらく何も言わなかった。


 部屋の外から、道場の掛け声が聞こえてくる。


 リンは、静かに待った。


 やがて、鬼塚が口を開いた。


「……山元」


『……はい』


「……特待生は、誰でもなれるものではない」


『……はい』


「……空手が好きだというだけでも駄目だ」


『……分かってます』


「……大学として、支援する価値がある選手かどうかを見極める必要がある」


『……はい』


 リンは、真剣に頷いた。


 鬼塚は、そんなリンを見つめた。


「……昔のお前なら、もっと強引に頼んできただろうな」


『……えっ』


「……あいつは絶対に強くなる。だから入れてやってくれ、とな」


『……あはは……』


 リンは、少し苦笑した。


 確かに、本当の凛ならそう言ったかもしれない。


 けれど、今の自分には言えない。


 佐伯の実力を十分に知らない。


 大学の特待生制度についても、すべて理解しているわけではない。


 だからこそ、軽々しく約束してほしいとは言えなかった。


『……あたし、まだ分からないことが多いんです』


 リンは、静かに答えた。


『……だから、ちゃんと知りたくて』


 鬼塚は、少しだけ目を細めた。


「……そうか」


 そして、ゆっくり立ち上がった。


 窓の外へ目を向ける。


 道場では、学生たちが組み手の稽古を続けていた。


「……近いうちに、合同練習会をやる」


『……えっ』


「……俺が目をつけている高校生を、何人か集めて稽古をする予定だ」


『……合同練習会……』


「……ああ」


 鬼塚は、窓の外を見つめたまま続けた。


「……大学生も参加する。選手として、どれだけ通用するかを見る機会でもある」


 リンは、少し身を乗り出した。


『……それって……』


 鬼塚は、ゆっくり振り返った。


「……山元」


『……はい』


「……お前がそこまで気にかけている生徒なんだろう」


『……はい』


 鬼塚は、リンをまっすぐ見た。


 そして、静かに告げた。


「……その佐伯って生徒を、一度連れてこい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。