第十九話「選べない理由」
二〇〇〇年(平成十二年)四月二十四日、月曜日。
東京都立青葉高校。
三年二組の教室では、朝から進路の話題が飛び交っていた。
「ねえ、もう進路希望出した?」
「出したよー」
「えっ、早くない?」
「だって今日までじゃん!」
そんな会話が交わされる中、小川真理は机の上の用紙を見つめていた。
進路希望調査。
第一希望。
その欄には、まだ何も書かれていない。
(……どうしよう)
真理は、鉛筆を握り直した。
大学。
短大。
専門学校。
就職。
選択肢は、いくつもある。
けれど、どれにも丸をつけられなかった。
少し離れた席から、楽しそうな声が聞こえてくる。
「私、やっぱファッション関係の仕事がいいんだよね!」
片岡美奈だった。
「えー、美奈なら似合いそう!」
「でしょ? 専門学校とか調べてみようかなって!」
「いいじゃん! 美奈、おしゃれだもん!」
「ありがとー!」
美奈は、明るく笑っていた。
真理は、その声を聞きながら、そっと視線を落とした。
(……いいな、美奈ちゃん)
美奈は、いつもおしゃれだった。
髪型も。
持ち物も。
制服の着こなしだって。
特別なことをしているわけではないのに、どこか垢抜けて見える。
何より、自分の好きなものを堂々と口にできる。
(……私も、好きなんだけどな)
真理は、机の端に置いたノートを開いた。
授業で使う普通のノート。
その最後のページには、小さな絵がいくつも描かれていた。
ワンピース。
ブラウス。
スカート。
雑誌で見かけた服を参考に、自分なりに形を変えたものだった。
(……この袖、もうちょっと短い方が可愛いと思うんだけど)
真理は、鉛筆で線を引き直した。
袖口を少し広げる。
襟の形を変える。
腰のあたりに、細いリボンを描き足す。
(……うん。こっちの方が好き)
ほんの少し、嬉しくなった。
服を見るのが好きだった。
雑誌を眺めるのも好きだった。
こんな服があったらいいなと、想像するのも好きだった。
けれど。
「……ねえ、小川さん」
「……っ!」
突然声をかけられ、真理は慌ててノートを閉じた。
隣の席の女子生徒だった。
「進路希望、もう書いた?」
「……あ、ううん。まだ」
「私もー。何にしようかな」
「……そうだね」
真理は、小さく笑った。
相手はそれ以上気にする様子もなく、別の友人へ話しかけていった。
真理は、閉じたノートを見つめた。
(……見られなかった)
ほっとした。
同時に、少しだけ胸が痛くなった。
別に、悪いことを描いていたわけではない。
それなのに、誰かに見られるのが怖かった。
(……美奈ちゃんみたいに、おしゃれじゃないし)
真理は、自分の髪に触れた。
くるくると曲がった毛先。
どれだけ整えても、思いどおりにならない髪。
昔から、何度もからかわれてきた。
可愛くない。
変な髪。
そんな言葉を、何度も聞いた。
(……こんな髪じゃ、何を着ても似合わない)
つい先日。
凛先生が、強いパーマをかけて教室に現れた。
自分と同じように、くるくるした髪。
けれど、先生はとても楽しそうだった。
美奈も、ほかの生徒たちも、その髪型を褒めていた。
あのとき、真理は少しだけ思った。
自分の髪も、そんなに悪いものではないのかもしれない。
でも。
(……先生は、可愛いから)
同じ髪型でも、自分とは違う。
自分が同じようにおしゃれをしても、きっと似合わない。
それに。
(……美奈ちゃんと同じ夢なんて書いたら……)
真似をしていると思われるかもしれない。
自分には似合わないと言われるかもしれない。
また、笑われるかもしれない。
真理は、進路希望調査へ視線を戻した。
第一希望。
空白の欄。
そこへ、鉛筆を近づける。
しばらく迷ってから。
小さな文字を書いた。
――特になし。
それだけだった。
真理は、用紙を裏返した。
そして、誰にも見られないように、ノートを鞄の奥へしまった。
◇
「……はーい! 進路希望調査、集めるよー!」
朝のホームルーム。
リンは、教卓の前で両手を叩いた。
「凛ちゃーん!」
『……はい、森田さん!』
「俺、結局まだ決まってねえ!」
『……うん、知ってる!』
「えっ、知ってんの!?」
『……先週も同じこと言ってたでしょ!』
教室に笑い声が広がった。
「だって、大学とか就職とか言われてもさー」
『……だから、まだ決まってないって書いていいんだよ』
「……マジで?」
『……ただし、これからちゃんと考えること!』
「……へーい!」
『……返事は元気よく!』
「はいっ!」
リンは、満足そうに頷いた。
『……よろしい!』
また、教室に笑い声が広がる。
次々と提出される進路希望調査。
リンは、一枚ずつ受け取りながら、生徒たちへ声をかけていった。
『……片岡さん、ありがとう!』
「はーい!」
『……小川さんも、ありがとう!』
「……はい」
真理は、小さく頭を下げて席へ戻った。
リンは、その表情に特別な違和感を覚えなかった。
提出期限に間に合ってよかった。
その程度に思っていた。
やがて、ほとんどの用紙が集まる。
『……じゃあ、まだ出してない人は、忘れないようにね!』
「はーい!」
『……それじゃ、今日も一日頑張ろー!』
いつものように、明るい声。
いつものように、賑やかな教室。
リンは、集まった用紙を抱えて教室を出た。
◇
職員室。
空き時間になり、リンは進路希望調査を確認していた。
『……大学、専門学校、就職……』
一枚ずつ、目を通していく。
森田翔平。
進路未定。
(……うん。知ってた)
リンは、少し笑った。
片岡美奈。
専門学校希望。
希望分野、ファッション関係。
(……片岡さん、ちゃんと書いたんだ)
先週の会話を思い出す。
服やメイクの仕事がしたい。
そんな夢を、楽しそうに話していた。
(……頑張ってほしいな)
リンは、次の用紙を手に取った。
小川真理。
第一希望。
特になし。
『…………』
少しだけ、手を止める。
(……小川さんは、まだ決まってないのかな)
真理は、普段から大人しい。
進路についても、あまり話しているところを見たことがない。
けれど、まだ四月だ。
将来の夢が決まっていない生徒だって、当然いる。
(……これから考えていけばいいよね)
リンは、その用紙をほかの書類と重ねた。
そして、次の一枚。
佐伯大輔。
第一希望、就職。
希望職種、未定。
『…………』
金曜日の会話が、頭に浮かんだ。
――やりたいことと、できることって、同じじゃないですよね。
(……佐伯さん)
空手部の主将。
後輩たちから信頼される、真面目な生徒。
それなのに、進路の話になると、どこか寂しそうな顔をする。
(……ちゃんと話、聞いてみよう)
リンは、佐伯の用紙をそっと机に置いた。
◇
昼休み。
リンは、佐伯へ声をかけた。
『……佐伯さん、ちょっと時間ある?』
「……はい。大丈夫です」
『……進路のことで、もう少し話したいんだけど』
「……分かりました」
佐伯は、素直に頷いた。
リンは、人目の少ない空き教室へ案内した。
窓際には、午後の日差しが差し込んでいる。
廊下からは、生徒たちの賑やかな声が聞こえていた。
しかし、教室の中は静かだった。
『……ごめんね、お昼休みに』
「……いえ」
佐伯は、椅子へ座った。
リンも、向かい側へ腰を下ろす。
『……この前、就職のことを聞いてくれたよね』
「……はい」
『……今日は、どうして就職を選んだのか、もう少し聞いてもいいかな』
佐伯は、少しだけ表情を曇らせた。
「…………」
リンは、急かさなかった。
答えにくいことなのかもしれない。
話したくない事情があるのかもしれない。
だから、黙って待った。
やがて、佐伯が口を開いた。
「……早く働いた方がいいと思ったので」
『……働いた方がいい?』
「……はい」
佐伯は、自分の手元へ視線を落とした。
「……うち、そんなに余裕があるわけじゃないんです」
『…………』
「……大学に行くとなると、お金もかかりますし」
リンは、静かに頷いた。
「……家でも、進路の話はしました」
『……うん』
「……親は、好きにしろって言ってくれたんですけど」
佐伯は、少し笑った。
「……そう簡単には、いかないですから」
『…………』
「……俺が働けば、少しは家の助けになりますし」
リンは、言葉を探した。
家庭の経済事情。
進学に必要な費用。
そして、働くことで家計を支えたいという思い。
どれも、軽く扱ってよいものではない。
『……そっか』
リンは、ゆっくり頷いた。
『……話してくれて、ありがとう』
佐伯は、少しだけ顔を上げた。
「……いえ」
しばらく、沈黙が続いた。
リンは、考えた。
大学に行く方法。
空手を続ける方法。
何かあるはずだ。
そう思った。
『……でも、大学って奨学金とか――』
そこまで言いかけて。
リンは、口を閉じた。
(……あ)
奨学金。
名前は知っている。
自分がいた時代にもあった。
けれど、二〇〇〇年当時の制度について、詳しく知っているわけではない。
どんな条件で利用できるのか。
いくら借りられるのか。
返済はどうなるのか。
何も確認していない。
そんな状態で、簡単に勧めていいのだろうか。
佐伯は、少しだけ笑った。
「……先生」
『……うん』
「……大学って、授業料だけじゃないですから」
『…………』
「……それに、借りたお金は返さないといけませんよね」
リンは、言葉を失った。
当たり前のことだった。
借りたお金は、返さなければならない。
学費だけでなく、通学に必要な費用もある。
場合によっては、家を離れて暮らすことになるかもしれない。
そうなれば、生活費も必要だ。
そして、その間は働いて家計を助けることも難しくなる。
(……そうだよね)
リンは、唇を結んだ。
何か方法があるはずだと思った。
けれど、その方法が本当に佐伯のためになるのか、まだ分からない。
『……うん』
リンは、ゆっくり頷いた。
『……簡単に言っていいことじゃなかったね』
「……いえ」
『……ごめん』
佐伯は、首を横に振った。
「……先生が気にかけてくださるのは、ありがたいです」
『…………』
「……でも、俺はもう就職するつもりでいますから」
佐伯は、いつものように丁寧に頭を下げた。
リンは、それ以上何も言わなかった。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴る。
『……今日は、話してくれてありがとう』
「……はい」
『……就職のことで分からないことがあったら、また聞いてね』
「……ありがとうございます」
佐伯は、立ち上がった。
そして、教室を出ていった。
リンは、一人になった教室で、小さく息を吐いた。
『……難しいなぁ』
自分は、二〇二六年から来た。
二十六年先の社会を知っている。
便利な機械も。
新しい文化も。
これから変わっていく世の中も。
けれど。
(……目の前の子の進路も、簡単には分かんないんだ)
未来を知っていることと、人の未来を決められることは違う。
リンは、そのことを思い知らされていた。
◇
午後。
進路指導室。
「……奨学金、ですか」
『……はい』
リンは、小野寺と向かい合って座っていた。
机の上には、大学進学に関する資料が並んでいる。
「制度はいくつかありますよ」
『……本当ですか!?』
「ええ。ただし、条件がありますからね」
小野寺は、資料を開いた。
「家計の状況や成績などによって、利用できる制度も変わります」
『……なるほど』
「それに、奨学金だけで必要な費用をすべて賄えるとは限りません」
『……そう、ですよね』
「大学によっては授業料の減免制度もありますが、これも確認が必要です」
リンは、真剣にメモを取った。
奨学金。
授業料減免。
推薦制度。
競技実績によって利用できる制度がある場合もある。
けれど、どれも簡単な話ではなかった。
『……思ってたより、いろいろあるんですね』
「……そうですね」
『……でも、条件も多いんだ……』
小野寺は、穏やかに頷いた。
「……それに、進学することだけを考えればいいわけではありません」
『……え?』
「……入学してからの生活もありますからね」
『…………』
「……四年間、あるいはそれ以上。学業を続けられる環境かどうかも大切です」
リンは、資料へ目を落とした。
大学に入る。
それだけが目標ではない。
卒業するまで、生活を続けていかなければならない。
佐伯は、そこまで考えていたのかもしれない。
「……山元先生」
『……はい』
小野寺は、リンを見た。
「……少し、聞いてもいいですか」
『……はい!』
「……山元先生は、その生徒に大学へ行ってほしいのですか?」
『……えっ』
リンは、思わず顔を上げた。
大学へ行ってほしいのか。
そう聞かれると、すぐには答えられなかった。
(……あたしは……)
佐伯は、空手が好きだと言った。
強い選手だった。
まだ競技を続けられるかもしれない。
だから、大学へ進学する方法を探していた。
けれど。
佐伯自身は、大学へ行きたいとはっきり言ったわけではない。
(……また、勝手に決めようとしてた?)
リンは、少し俯いた。
『……あたしは……』
言葉を探す。
そして、ゆっくり顔を上げた。
『……大学へ行ってほしいっていうより……』
「……はい」
『……諦めるしかないって思ってるなら、ほかに方法がないか知ってほしいんです』
小野寺は、静かに頷いた。
『……就職が本当にやりたいことなら、それでいいと思います』
『……でも、お金がないからって理由だけで、好きなことを諦めてるなら……』
リンは、少し言葉を止めた。
『……何か、できることがあるんじゃないかなって』
小野寺は、しばらくリンを見つめた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「……それなら、まず選択肢を整理してみましょう」
『……はい!』
「……ただし、本人の気持ちを一番に考えることです」
『……分かりました』
「……就職も、進学も、どちらにも良い面と大変な面がありますからね」
リンは、ゆっくり頷いた。
大学へ行くことが、正解とは限らない。
就職することが、諦めとは限らない。
大切なのは、本人が納得して選べること。
(……うん)
リンは、メモを握り直した。
(……ちゃんと、調べよう)
◇
放課後。
武道場から、鋭い気合いが響いていた。
「押忍!」
「もう一本!」
「はい!」
リンは、入り口近くから練習を見つめていた。
佐伯は、いつもどおりだった。
後輩へ声をかける。
動きを見せる。
自分の練習にも、手を抜かない。
その姿は、誰が見ても立派な主将だった。
(……本当に、空手好きなんだろうな)
リンは、静かに思った。
朝から晩まで、空手のことばかり考えているように見える。
それだけ真剣に取り組んできたものを、卒業と同時に手放す。
佐伯は、そのつもりでいる。
けれど。
(……あんな顔してたら、諦めきれてないんじゃないかって思っちゃうよ)
やがて練習が終わる。
部員たちが片づけを始めたところで、荒川が近づいてきた。
「……山元」
『……あ、お疲れさまです!』
「……また見学か」
『……はい』
リンは、少しだけ笑った。
『……佐伯さん、やっぱりすごいですね』
「……ああ」
荒川は、短く頷いた。
『……大学でも、十分やっていけるんじゃないですか?』
荒川は、リンを見た。
「……何だ、急に」
『……いえ、その……』
リンは、少し言葉を選んだ。
『……空手を続けられる進路って、どんなものがあるのかなって』
荒川は、しばらく黙っていた。
そして、武道場へ目を向けた。
「……大学で続ける道はある」
『……はい』
「……だが、それだけじゃない。競技を続けるにも、環境がいる」
『…………』
「……指導者も、練習場所も、金も必要だ」
リンは、頷いた。
荒川は、静かに続けた。
「……山元。あいつに才能があることくらい、俺が一番よく分かっている」
『……だったら、どうして……』
リンは、思わず口にした。
なぜ、もっと進学を勧めないのだろう。
なぜ、競技を続けろと言わないのだろう。
荒川は、リンを見た。
「……俺があいつの学費を払うわけではないからだ」
『…………』
リンは、言葉を失った。
荒川の声は、厳しかった。
けれど、怒っているわけではなかった。
「……続けろと言うのは簡単だ」
「……だが、その言葉に責任を持てるか」
『…………』
「……大学へ行けば、すべてが解決するわけではない」
「……競技を続けることが、本人にとって一番良いとも限らん」
リンは、俯いた。
荒川は、少しだけ声を落とした。
「……俺だって、あいつにはもっと強くなってほしいと思っている」
『……え?』
「……あれだけ真面目にやってきたんだ」
「……まだ伸びる余地もある」
荒川は、武道場の奥を見た。
佐伯が、後輩と話している。
「……だが、俺の願望であいつの人生を決めるわけにはいかん」
『…………』
リンは、その言葉を聞いていた。
荒川は、厳しい教師だ。
生徒に妥協を許さない。
練習でも、礼儀でも。
けれど、だからといって、生徒の将来まで自分の思いどおりにしようとしているわけではない。
(……そっか)
リンは、少しだけ顔を上げた。
『……荒川先生』
「……何だ」
『……あたし、ちゃんと調べてみようと思います』
「…………」
『……大学へ行く方法があるかどうかも、就職のことも』
荒川は、リンを見た。
『……それで、本人に選んでもらえたらって』
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、荒川が小さく頷いた。
「……それなら、止めん」
『……はい!』
「……ただし」
『……はい?』
「……希望だけ見せて、あとは知らんという真似はするなよ」
リンは、背筋を伸ばした。
『……分かりました!』
荒川は、小さく鼻を鳴らした。
「……ならいい」
そう言って、部員たちの方へ戻っていった。
リンは、その背中を見送った。
(……厳しいなぁ)
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ。
(……ちゃんと考えてるんだ)
佐伯のことを。
競技のことを。
そして、その先の人生のことを。
リンは、少しだけ荒川を見る目が変わった気がした。
◇
翌日、四月二十五日、火曜日。
昼休み。
リンは、再び佐伯と向き合っていた。
昨日と同じ空き教室。
ただ、今日は少しだけ雰囲気が違っていた。
『……佐伯さん、昨日のことなんだけど』
「……はい」
リンは、机の上に資料を置いた。
大学進学について調べたこと。
就職について確認したこと。
どちらも、まだ途中だった。
『……あたし、大学に行った方がいいって言いたいわけじゃないんだ』
佐伯が顔を上げた。
「……はい」
『……就職を選んだ理由も、ちゃんと考えたうえでのことなんだって分かった』
リンは、ゆっくり続けた。
『……でも、まだ聞けてないことがあるなって思って』
「……何でしょうか」
リンは、佐伯を見た。
『……佐伯さん自身は、本当はどうしたい?』
佐伯は、すぐには答えなかった。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
少し離れた校庭では、生徒たちが走っていた。
佐伯は、しばらくその音を聞いていた。
そして、静かに口を開いた。
「……就職するって決めたのは、俺です」
『……うん』
「……家族に、そうしろって言われたわけじゃありません」
『……そっか』
「……親は、俺の好きにしていいって言ってくれました」
佐伯は、少しだけ笑った。
「……でも、だからって、何でも好きにできるわけじゃないですから」
『…………』
「……家のことを考えたら、働いた方がいいと思ったんです」
リンは、頷いた。
それは、佐伯が自分で考えて出した答えなのだろう。
簡単な気持ちで決めたわけではない。
だからこそ、否定するつもりはなかった。
『……うん』
リンは、静かに答えた。
『……それも、佐伯さんの大事な考えだと思う』
佐伯は、少し驚いたようだった。
リンは続けた。
『……でも、金曜日に空手の話をしたとき、ちょっと寂しそうに見えたから』
「…………」
『……本当に、それだけでいいのかなって思っちゃった』
佐伯は、俯いた。
しばらく、沈黙が続いた。
リンは、何も言わなかった。
答えを急かしたくなかった。
そして。
「……先生」
『……うん』
佐伯が、ぽつりと口を開いた。
「……大学で空手を続けている人を見ると、羨ましいと思うことはあります」
『…………』
「……強い大学の選手って、やっぱりすごいですから」
佐伯は、少しだけ笑った。
「……ああいう人たちと、もっと練習してみたいなって」
リンは、黙って聞いた。
「……俺も、もっと強くなれるのかなって」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
佐伯は、ゆっくり拳を握った。
「……高校で終わりにするには、まだ足りない気がするんです」
『…………』
「……でも、だからって、大学へ行きたいって簡単には言えません」
佐伯は、顔を上げた。
「……家族のこともありますし」
『……うん』
「……それに、就職するって決めたのも、本当なんです」
リンは、静かに頷いた。
就職するという決意。
大学で空手を続けたいという憧れ。
どちらも、佐伯の本当の気持ちなのだ。
どちらかが嘘というわけではない。
(……そっか)
リンは、ようやく少しだけ分かった気がした。
佐伯は、夢を持っていないわけではない。
ただ、その夢だけを選ぶことができないのだ。
『……佐伯さん』
「……はい」
リンは、少しだけ笑った。
『……じゃあ、一つだけお願いしてもいい?』
「……何でしょう」
『……就職の準備は、ちゃんと進めよう』
佐伯は、頷いた。
「……はい」
『……そのうえで』
リンは、机の上の資料へ手を置いた。
『……大学で空手を続ける方法があるかどうかも、一緒に調べてみない?』
「…………」
佐伯は、驚いたようにリンを見た。
『……調べたからって、大学へ行かなきゃいけないわけじゃないよ』
『……就職するって決めた気持ちも、大事にしていい』
リンは、まっすぐ佐伯を見た。
『……でも、知らないまま諦めるのは、ちょっと勿体ない気がするんだ』
「…………」
『……最後に決めるのは、佐伯さんなんだから』
佐伯は、しばらく黙っていた。
窓の外から、風が吹き込む。
机の上の資料が、少しだけ揺れた。
やがて。
「……調べるだけなら」
佐伯が、小さく答えた。
リンは、ぱっと笑顔になった。
『……うん! 調べるだけ!』
佐伯も、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます、先生」
『……どういたしまして!』
リンは、明るく答えた。
けれど、分かっていた。
これで何かが解決したわけではない。
進学できるかどうかも。
空手を続けられるかどうかも。
まだ、何も分からない。
それでも。
佐伯は、初めて自分の本当の気持ちを少しだけ話してくれた。
それが、リンには嬉しかった。
◇
放課後。
職員室。
リンは、自分の机に二種類の資料を並べていた。
一つは、高校生の就職に関する資料。
もう一つは、大学進学に関する資料。
『……うーん……』
リンは、腕を組んだ。
どちらにも、たくさんの情報が載っている。
求人。
推薦。
学費。
奨学金。
授業料。
通学費。
確認しなければならないことは、山ほどあった。
(……簡単じゃないなぁ)
リンは、小さく息を吐いた。
けれど。
(……調べるだけなら、できるもんね)
それなら、今の自分にもできる。
分からないことは、小野寺に聞けばいい。
荒川にも相談できる。
一人で全部抱え込む必要はない。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
『……よしっ!』
リンは、ペンを握った。
佐伯大輔。
第一希望、就職。
その文字を、もう一度見つめる。
そして、隣へ大学進学の資料を置いた。
二つの道。
どちらを選ぶかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも。
佐伯が自分で選べるように。
リンは、そのための準備を始めようとしていた。
机の端には、回収した進路希望調査の用紙が重ねられている。
何気なく、一枚の端が見えていた。
小川真理。
第一希望、特になし。
リンは、その用紙には目を留めなかった。
今は、佐伯の資料を整理することで頭がいっぱいだった。
その一枚に、まだ誰にも語られていない夢が隠されていることも。
その夢が、いつか多くの人々を魅了するものになることも。
リンは、まだ知らない。
ただ、目の前の一人の生徒が、自分の未来を選べるように。
今できることを、少しずつ始めていた。
夕方の職員室に、紙をめくる音が響く。
就職。
進学。
そして、まだ用紙には書かれていない、いくつもの未来。
生徒たちが選ぶ道は、きっと一つではない。
リンは、もう一度ペンを走らせた。
その小さな一歩が、誰かの未来を広げることを願いながら。




