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第十八話「進路希望、就職」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月二十日、木曜日。


 東京都立青葉高校。


 朝の職員室で、リンは一枚の用紙を見つめていた。


『……進路希望調査、かぁ』


 用紙には、進学、就職、その他という選択肢が並んでいる。


 その下には、志望する学校や職種を記入する欄。


 さらに、保護者の確認欄まであった。


『……結構、ちゃんとしてるんだなぁ』


「……山元先生?」


 声をかけてきたのは、小野寺修一だった。


『……あ、おはようございます!』


「おはようございます。進路希望調査の用紙ですね」


『……はい! 今日、みんなに配ろうと思ってて』


「そうですか。三年生にとっては、大切な時期ですからね」


 小野寺は、リンの隣へ立った。


「進学と就職では、これから必要になる準備も違います。希望は早めに把握しておいた方がいいでしょう」


『……なるほど』


「ただ、まだ四月ですからね。希望が決まっていない生徒もいると思います」


『……あ、そうですよね』


「そういう場合は、無理に決めさせなくて構いません」


 小野寺は、穏やかに笑った。


「今の考えを聞いて、そこから一緒に整理していくことが大切です」


『……はい!』


 リンは、用紙へ目を落とした。


 高校三年生。


 進学するのか。


 就職するのか。


 これからの人生を、少しずつ決めていく時期だ。


(……あたしも、進路で悩んだなぁ)


 大学へ進むこと。


 教師になること。


 体育という教科を選んだこと。


 どれも、最初から決まっていたわけではない。


 けれど。


(……二〇〇〇年の高校生って、どんな感じなんだろ)


 自分が高校三年生だった時代から、二十年以上も前。


 大学もある。


 専門学校もある。


 もちろん、就職する生徒もいる。


 それは分かっている。


 ただ、進路を決めるまでの仕組みや、学校の役割には違いがあるらしい。


『……小野寺先生』


「はい?」


『……就職する子って、どうやって会社を探すんですか?』


「学校に届く求人票を確認するのが基本ですね」


『……求人票』


「ええ。進路指導室に資料がありますから、あとで一緒に確認しましょうか」


『……ありがとうございます!』


 リンは、勢いよく頭を下げた。


 小野寺は、少し笑った。


「……それと、山元先生」


『……はい?』


「……その髪、少し落ち着きましたね」


『……あっ、分かります!?』


 リンは、自分の毛先をつまんだ。


 強めにかけたパーマは、相変わらずくるくると曲がっている。


 ただ、美容室を出た直後よりは、少しだけ馴染んできた気がする。


『……昨日、ちゃんと教わったとおりにセットしてみたんです!』


「……そうですか」


『……はい!』


 小野寺は、少しだけ困ったように笑った。


「……まあ、身だしなみには気をつけてくださいね」


『……はーい!』


 リンは、明るく返事をした。


 その姿を見て、小野寺は小さく息を吐いた。


 どうやら、この新任教師は、今日も元気らしい。


     ◇


 三年二組。


 朝のホームルーム。


『……はい! 今日は、みんなに大事なお知らせがありまーす!』


 リンは、進路希望調査の用紙を持ち上げた。


「えー、何?」


「また何か提出するの?」


「凛ちゃん、宿題増やさないでよー!」


 森田翔平が、早速声を上げる。


『……森田さん! まだ何も言ってないでしょ!』


「だって、先生が大事なお知らせって言うと、だいたい面倒なやつじゃん!」


『……失礼な!』


 教室に笑い声が広がった。


 リンは、軽く咳払いをする。


『……今日は、進路希望調査の用紙を配ります!』


「……進路?」


「……あー、もうそんな時期か」


「……やば、全然決めてない」


 生徒たちが、ざわざわと話し始めた。


 リンは、用紙を配りながら説明する。


『……大学、短大、専門学校、就職。今の時点で考えている進路を書いてね!』


「凛ちゃん!」


『……はい、森田さん!』


「俺、まだ何も決めてねえんだけど!」


『……じゃあ、これから考えよう!』


「え、それでいいの?」


『……もちろん! まだ決まってないって書いてもいいんだよ!』


「……マジか」


『……ただし!』


 リンは、人差し指を立てた。


『……何も考えなくていいって意味じゃないからね!』


「……うわ、やっぱ面倒だ!」


『……森田くーん?』


「……はい、考えまーす!」


 再び、教室が笑いに包まれた。


 窓際では、片岡美奈が友人たちと用紙を見比べていた。


「ねえ、私さ、やっぱ服とかメイクの仕事したいんだよね」


「えー、美奈っぽい!」


「でも、どんな学校行けばいいか分かんないし」


「専門学校とか?」


「そうそう! それも考えてる!」


 リンは、その会話を聞きながら微笑んだ。


(……片岡さん、ファッション好きなんだ)


 そういえば、昨日も真っ先に自分のパーマを褒めてくれた。


 髪型だけでなく、服装や流行にも詳しいのだろう。


 別の席では、小川真理が静かに用紙へ向き合っている。


 真理の髪は、今日もくるくると曲がっていた。


 けれど、以前ほど無理に髪を引っ張る姿は見られなかった。


 リンは、それに気づいて少し嬉しくなった。


 ただ、特別な声はかけなかった。


 昨日、真理とは短い会話を交わした。


 それで、すべてが解決したわけではない。


 きっと、これからも嫌なことはある。


 自分の髪を好きになれない日だってあるだろう。


 だからこそ、焦らずに見守りたかった。


『……じゃあ、提出は来週ね! 保護者の人にも確認してもらってください!』


「はーい!」


「……先生、親に何も言ってないんだけど」


『……これを機会に話してみよう!』


「……うわぁ」


 生徒たちが、それぞれ用紙を鞄へしまっていく。


 リンは、教卓から四十人を見渡した。


 大学へ行きたい生徒。


 就職したい生徒。


 まだ何も決まっていない生徒。


 将来に期待している生徒もいれば、不安を抱えている生徒もいるだろう。


(……この子たちにとっては、これからなんだよね)


 二〇〇〇年。


 リンにとっては、生まれるよりも前の時代。


 自分が暮らしていた二〇二六年から見れば、遠い過去だ。


 けれど、目の前の生徒たちにとっては違う。


 来年も。


 再来年も。


 その先の二十六年間も。


 まだ、何も決まっていない未来なのだ。


(……何か、不思議だなぁ)


 リンは、少しだけ教室を見渡した。


 この子たちは、これからどんな大人になるのだろう。


 どんな仕事をして。


 どんな人と出会って。


 どんな人生を歩んでいくのだろう。


 もちろん、リンには分からない。


 未来から来たからといって、一人ひとりの人生を知っているわけではない。


 だからこそ。


(……ちゃんと、向き合わないとね)


 リンは、出席簿を閉じた。


『……じゃあ、今日も一日頑張ろー!』


「はーい!」


     ◇


 放課後。


 リンは、体育館の隣にある武道場を訪れていた。


 中から、鋭い掛け声が響いてくる。


「押忍!」


「もう一本!」


「はい!」


 畳ではなく、板張りの床。


 整列した空手部員たちが、荒川剛の指導を受けていた。


「……佐伯!」


「押忍!」


「今の動き、もう一度見せろ!」


「押忍!」


 呼ばれたのは、佐伯大輔だった。


 空手部の主将。


 三年生。


 真面目で、礼儀正しく、後輩たちからの信頼も厚い。


 佐伯は、荒川の前へ出た。


 そして、鋭く踏み込む。


「……はっ!」


 短い気合い。


 無駄のない動き。


 リンには、技術の細かい良し悪しは分からない。


 けれど。


(……すご……)


 その動きには、思わず目を奪われた。


 山元凛の身体なら、同じことができるのかもしれない。


 しかし、中身は空手未経験のリンだ。


 見ているだけで、身体が勝手に動くわけではない。


(……本物の凛さん、こんなのやってたんだよね……)


 改めて、身体の持ち主への尊敬が湧いてきた。


 佐伯が動きを終える。


 荒川が頷いた。


「……よし。今の間合いを覚えておけ」


「押忍!」


 後輩たちが、佐伯の動きを見つめる。


 その中には、相原菜月の姿もあった。


「……佐伯先輩、今の踏み込み、もう一度お願いできますか?」


「いいぞ」


 佐伯は、すぐに頷いた。


「まず、足の位置を見ておけ」


「はい!」


 佐伯は、後輩が分かるまで丁寧に動きを繰り返した。


 荒川は、その様子を黙って見守っている。


 リンは、少しだけ微笑んだ。


(……良い先輩なんだなぁ)


 厳しい練習の中でも、後輩を置き去りにしない。


 自分の技術だけを磨くのではなく、周囲にも目を向けている。


 そんな佐伯の姿は、リンにとって頼もしく映った。


 やがて練習が終わる。


「……全員、整列!」


 佐伯の声で、部員たちが並ぶ。


「ありがとうございました!」


 全員が、深く頭を下げた。


 リンも、思わず背筋を伸ばした。


(……何か、見てるだけで緊張する……)


 片づけが始まると、荒川がリンへ近づいてきた。


「……山元」


『……あっ、荒川先生! お疲れさまです!』


「……今日は見学か」


『……はい! ちょっと様子を見に来ました!』


「……そうか」


 荒川は、部員たちへ目を向けた。


「……三年生は、進路も考えなければならん時期だ」


『……あ、今日ちょうど進路希望調査を配ったんです!』


「……そうか」


 荒川は、小さく頷いた。


「……佐伯も、そろそろ将来について考えなければならんな」


 その言葉を聞いていた佐伯が、わずかに顔を上げた。


「……はい」


「……空手だけやっていればよいわけではないからな」


「……押忍」


 佐伯は、いつもどおり返事をした。


 けれど。


(……あれ?)


 リンは、ほんの一瞬だけ、佐伯の表情が曇ったように感じた。


 すぐに、いつもの落ち着いた顔へ戻った。


 気のせいかもしれない。


 リンは、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 帰り道。


 リンは、駅前のコンビニに立ち寄った。


『……あー、疲れたぁ』


 今日は進路希望調査の説明もあった。


 空手部の見学もした。


 何より、教師として覚えなければならないことが多すぎる。


(……甘いものでも買おっかな)


 リンは、お菓子売り場へ向かった。


 そして。


『……あっ!』


 見覚えのある商品を見つけた。


 ジャイアントカプリコ。


 いちご味。


『……懐かしー!』


 リンは、思わず手に取った。


 子どもの頃から、何度も食べたお菓子だ。


 軽い食感のチョコレート。


 アイスクリームみたいな形。


 あの、独特の甘さ。


(……久しぶりに食べたいなぁ)


 そう思って、値札を見る。


『…………』


 リンは、動きを止めた。


 もう一度、値札を見る。


『……百円?』


 そこには、確かにそう書かれていた。


 百円。


 消費税は別。


『……えっ』


 リンは、商品を見た。


 値札を見た。


 もう一度、商品を見た。


『……百円!?』


 思わず声が大きくなった。


 近くにいた客が、ちらりとこちらを見る。


 リンは慌てて口を押さえた。


(……うそでしょ!?)


 百円。


 税込でも百五円。


 二〇二六年では、もっと高かった。


 子どもの頃は気軽に買っていたお菓子も、今では値札を見て少し考えることがある。


 なのに。


(……やっす!!)


 リンは、目を輝かせた。


(……あ、そっか! ここ二〇〇〇年だった!)


 そうだった。


 物価が違う。


 消費税だって、まだ五パーセント。


 リンは、カプリコを手に持ったまま、にやにやしてしまった。


『……二本買っちゃおっかな』


 小さく呟く。


 その直後、ふと我に返る。


(……いやいや、落ち着けあたし)


 安いからといって、何でも買えばいいわけではない。


 そもそも、このお金は山元凛のものだ。


 勝手に使いすぎるのもよくない。


(……一本だけ!)


 リンは、カプリコを一つ持ってレジへ向かった。


 税込百五円。


 支払いを済ませ、店を出る。


 包装を開けて、一口。


『……んー!』


 思わず笑顔になった。


『……おいしー!』


 味は、二十六年経っても大きく変わらないように感じた。


 リンは、夕暮れの道を歩きながら、もう一口かじった。


(……平成、こういうところは最高だなぁ)


 少なくとも、お菓子の値段については。


 そんなことを考えながら、リンは家路についた。


     ◇


 翌日、四月二十一日、金曜日。


 職員室。


 リンは、提出された進路希望調査の用紙を確認していた。


 まだ全員分は揃っていない。


 けれど、早めに提出した生徒のものから、内容を見ておこうと思ったのだ。


『……大学、専門学校、就職……』


 一枚ずつ、目を通していく。


 進路が決まっていない生徒もいる。


 具体的な学校名まで書いている生徒もいる。


 そして。


『……あれ?』


 リンの手が止まった。


 佐伯大輔。


 進路希望。


 第一希望。


 就職。


『…………』


 リンは、用紙を見つめた。


(……佐伯さん、就職なんだ)


 昨日の空手部での姿が、頭に浮かぶ。


 鋭い動き。


 後輩たちからの信頼。


 真剣な表情。


(……てっきり、大学でも空手続けるのかと思ってた)


 もちろん、空手が得意だからといって、大学へ進むとは限らない。


 競技を続けない選択だってある。


 それでも。


 昨日、荒川に進路の話を振られたときの佐伯の表情が、少し気になった。


『…………』


 リンは、進路希望用紙を机へ置いた。


(……勝手に決めつけちゃ駄目だよね)


 自分が大学へ進んだからといって、佐伯も同じ道を望んでいるとは限らない。


 まずは、本人の話を聞いてみよう。


 そう考え、リンは用紙を揃えた。


     ◇


 その日の午前。


 リンは、進路指導室を訪れていた。


「……山元先生、どうぞ」


『……失礼しまーす!』


 小野寺が、資料を広げて待っていた。


「昨日お話しした、高校生の就職についてですね」


『……はい!』


 リンは、椅子へ座った。


 小野寺は、棚からファイルを取り出した。


「まず、こちらが昨年度の求人資料です」


『……おお』


「今年度の求人については、これから順次届きます。募集条件や仕事内容を確認しながら、希望する生徒と相談していくことになります」


『……なるほど』


「高校生の就職は、学校を通して手続きを進める部分も多いですからね」


『……へぇ……』


 リンは、真剣にメモを取った。


 令和では、スマートフォンで求人サイトを見ることもできる。


 会社のホームページを調べたり、口コミを探したりもできる。


 けれど、二〇〇〇年では事情が違う。


 学校に届く求人票。


 進路指導の資料。


 教師からの説明。


 そうしたものが、今よりも大きな役割を担っているのだろう。


『……先生』


「はい?」


『……会社のことって、ほかにはどうやって調べるんですか?』


「そうですね。学校に届いている資料のほかに、所在地や電話番号を確認したい場合は、こういうものもありますよ」


 小野寺は、立ち上がった。


 棚へ向かう。


 何やら、大きな本を取り出した。


 そして。


 どさっ。


 机の上に、分厚い本が置かれた。


『…………』


 リンは、その本を見た。


 分厚い。


 とにかく、分厚い。


 辞書を何冊か重ねたような存在感だった。


『……先生』


「はい?」


『……何ですか、この鈍器みたいな本』


「……鈍器?」


 小野寺が首を傾げる。


『……いえ、何でもないです!』


「……タウンページですよ」


『……たうんぺーじ?』


「ええ。会社やお店の電話番号を、業種別に調べられる電話帳です」


『…………』


 リンは、ゆっくり表紙を見た。


 それから、小野寺を見る。


『……あの、先生』


「はい」


『……これ、全部電話番号なんですか?』


「そうですよ」


『……この厚さで!?』


「……ええ」


『……えっ、何件載ってるんですか!?』


「……さあ、数えたことはありませんが」


 リンは、恐る恐るページを開いた。


 細かい文字。


 ずらりと並ぶ会社名。


 住所。


 電話番号。


 また会社名。


 また電話番号。


『……うわぁ……!』


 思わず声が漏れた。


『……これ、全部人が調べて載せてるんですか!?』


「……そういう電話帳ですからね」


『……すご……』


 リンは、ぱらぱらとページをめくった。


 めくっても。


 めくっても。


 めくっても。


 電話番号。


『……終わらないんだけど!?』


「山元先生、最初から全部見る必要はありませんよ」


『……えっ』


「業種別の見出しがありますから」


『……あっ、そういう仕組み!?』


 小野寺は、少し不思議そうにリンを見ていた。


「……山元先生、タウンページを見るのは初めてですか?」


『……え、えへへ……』


「……ご自宅にもありませんでした?」


『……あった、かもしれません……!』


 リンは、曖昧に笑った。


(……二〇〇〇年、恐るべし……!)


 そして、ふと思いついた。


『……先生!』


「はい?」


『……これ、知らないお店の電話番号も分かるんですよね?』


「ええ、掲載されていれば」


『……じゃあ、知らない会社でも電話できるんですか!?』


「……はい。そのための電話帳ですから」


『……すっご!!』


 リンは、目を輝かせた。


『……これ、昔のインターネットじゃん!!』


「……インターネット?」


『…………あ』


 小野寺が首を傾げる。


「……まあ、インターネットでも電話番号を調べられることはありますけどね」


『……あ、そうですよね! あはは……!』


 リンは、慌てて笑った。


(……そうだった! インターネット自体はもうあるんだった!)


 小野寺は、タウンページを開いた。


「では、実際に調べてみましょうか」


『……はい!』


 リンは、改めて分厚い本を見た。


 そして、小さく呟いた。


『……でも、これ……』


「はい?」


『……検索する前に腕が鍛えられそうですね……』


「……山元先生?」


『……何でもありません!』


 小野寺は、少し困ったように笑った。


 リンも、つられて笑った。


 けれど、やがて表情を引き締めた。


『……あの、先生』


「はい」


『……進路希望で就職って書いてる子がいたんですけど』


「ええ」


『……その子が、どういう仕事をしたいのか、まだちゃんと聞けてなくて』


 小野寺は、静かに頷いた。


「……まずは、本人の希望を聞いてみることですね」


『……はい』


「就職を希望しているからといって、理由は一つではありません」


「早く社会へ出たい生徒もいますし、希望する仕事が決まっている生徒もいます」


「家庭の事情で、進学を考えにくい生徒もいるでしょう」


『…………』


 リンは、少し考えた。


 佐伯の顔が浮かぶ。


 空手部の主将。


 後輩たちから信頼される生徒。


 そして、進路希望に書かれた「就職」の二文字。


『……そうですよね』


 小野寺は、穏やかに続けた。


「……担任が先に答えを決めてしまわないことです」


『……はい』


「本人が何を望んでいるのか。何に困っているのか。それを聞いてから、一緒に考えていけばいいんですよ」


 リンは、ゆっくり頷いた。


『……ありがとうございます』


「いえいえ」


 小野寺は、机の上の資料を揃えた。


「……そうだ。あとで進路指導担当の先生の連絡先を送っておきましょうか」


『……え?』


「校内でも確認できますが、急ぎで連絡が必要なときに分かるように」


『……あ、ありがとうございます!』


「携帯のメールで送っておきますね」


『……はい!』


 リンは、頭を下げた。


 小野寺は、微笑んだ。


「では、また何か分からないことがあれば聞いてください」


『……はい!』


 リンは、進路指導室をあとにした。


 頭の中には、まだタウンページの衝撃が残っていた。


(……あんな分厚い本が普通に置いてあるなんて……)


 そして、もう一つ。


 佐伯の進路について。


(……まずは、本人の話を聞かないとね)


 リンは、廊下を歩きながら小さく頷いた。


     ◇


 昼休み。


 三年二組。


 リンは、自分の携帯電話を見つめていた。


『……おかしいなぁ』


 小野寺は、午前中にメールを送ってくれたはずだった。


 進路指導担当者の電話番号。


 何かあったときに確認できるようにと、教えてくれたものだ。


 けれど。


 受信箱を開いても、メールがない。


『……あれぇ?』


 リンは、何度か画面を操作した。


 しかし、結果は同じだった。


(……送れてないのかな。それとも、この携帯、壊れてる?)


 山元凛の携帯電話。


 まだ、使い慣れていない。


 ボタンも多い。


 画面も小さい。


 令和のスマートフォンとは、まるで違う。


(……こういうの、誰か詳しい子いないかな)


 リンは、教室を見渡した。


 すると、窓際で友人たちと話している美奈の姿が目に入った。


(……片岡さんなら、分かるかな)


『……片岡さん!』


 リンが声をかける。


 美奈が振り返った。


「んー? 何、凛ちゃん!」


『……ちょっと、携帯見てもらっていい?』


「え、いいけど。どうしたの?」


 美奈が近づいてくる。


 リンは、携帯を見せた。


『……小野寺先生が電話番号をメールで送ってくれたらしいんだけど、全然届かなくてさ』


「……うん」


『……もしかして壊れてるのかなって。片岡さん、分かる?』


 美奈は、携帯を覗き込んだ。


 そして、何気なく尋ねた。


「……センター問い合わせした?」


『……え?』


「センター問い合わせ」


『……何それ?』


「…………」


 美奈が固まった。


 リンも固まった。


「……えっ、凛ちゃん、センター問い合わせ知らないの!?」


『……う、うん』


「マジ!?」


『……そんなに変!?』


「いや、変っていうか……」


 美奈は、笑いをこらえながら携帯を指差した。


「メールってさ、センターに止まってることあるじゃん?」


『……メールが、止まる!?』


「そうそう! だから問い合わせて、届いてるか確認すんの!」


『……えっ、メールって勝手に届くんじゃないの!?』


「届かないときもあるって!」


 リンは、携帯電話を見つめた。


(……何、その仕組み!?)


 美奈が、操作を教え始める。


「ほら、ここから問い合わせてみて」


『……ここ?』


「そうそう」


『……で、次は?』


「ここ押して」


『……はい!』


「……凛ちゃん、何かめっちゃ真剣じゃん!」


『……だって分かんないんだもん!』


「……あはは!」


 美奈は、楽しそうに笑った。


 リンが言われたとおりに操作すると。


 しばらくして。


 携帯から、小さな音が鳴った。


『……あっ!』


「来た?」


『……来た!!』


「でしょー!」


 リンは、目を輝かせた。


『……すごい! 片岡さん、天才!!』


「いや、これ普通だから!」


『……ありがとう! 助かったぁ!』


「凛ちゃんって、たまにめっちゃ抜けてるよね!」


『……うぅ、面目ない……』


 リンは、受信したメールを見つめた。


(……令和って、便利だったんだなぁ)


 そして、ふと顔を上げた。


『……ねえ、片岡さん』


「ん?」


『……これって、毎回やらないと駄目なの?』


「……だから、届かないときだけでいいんだって!」


『……なるほど!』


「……ほんとに分かってる?」


『……たぶん!』


「たぶんって!」


 美奈の笑い声が、教室に響いた。


 リンも、つられて笑った。


 すると、近くにいた森田が顔を上げる。


「……何? 凛ちゃん、携帯も使えねえの?」


『……森田さん! 聞こえてるよ!』


「いや、普通センター問い合わせくらい知ってるだろ!」


『……うるさーい!』


 教室に、また笑い声が広がった。


 リンは、少しだけ頬を膨らませた。


(……平成の携帯、難しすぎ!!)


 けれど。


 今日もまた、一つ新しいことを覚えた。


 今度メールが届かなくても、きっと大丈夫だ。


 たぶん。


     ◇


 放課後。


 リンは、佐伯を呼び止めた。


『……佐伯さん、ちょっといい?』


「……はい。何でしょうか」


 佐伯は、いつものように背筋を伸ばした。


『……進路希望調査、見たんだけど』


「……はい」


『……就職希望なんだね』


「……はい」


 リンは、少し迷った。


『……空手、すごく頑張ってるから、てっきり大学でも続けるのかと思ってた』


 佐伯は、少しだけ笑った。


「……高校までで、十分やりましたから」


『…………』


 リンは、その表情を見つめた。


 礼儀正しい笑顔。


 落ち着いた口調。


 いつもの佐伯だった。


 けれど。


(……本当に、そうなのかな)


 リンは、すぐに問い詰めることはしなかった。


『……そっか』


「……はい」


『……じゃあ、就職のこと、何か聞きたいことある?』


 佐伯は、少し驚いたようだった。


「……よろしいんですか」


『……もちろん!』


 リンは笑った。


『……先生なんだから、相談くらい乗るよ!』


 佐伯は、少しだけ表情を和らげた。


「……ありがとうございます」


 そして、就職活動についていくつか質問をした。


 求人票はいつ頃届くのか。


 どのように会社を選ぶのか。


 学校を通じて応募する場合、何が必要なのか。


 リンは、午前中に小野寺から教わったことを思い出しながら答えた。


 ただし、分からないこともあった。


『……ごめん、そこはまだちゃんと分かってなくて』


「……そうですか」


『……でも、進路指導の先生にも確認できるから! 分かったら伝えるね』


「……ありがとうございます」


 佐伯は、丁寧に頭を下げた。


 リンは、その姿を見て思った。


 この生徒は、きっと真面目なのだ。


 空手でも。


 進路でも。


 自分で考え、準備しようとしている。


 だからこそ、気になった。


 大学へ進学しない理由。


 空手を続けない理由。


 それを、まだ聞けていない。


     ◇


 夕方。


 空手部の練習が終わったあと、リンは武道場で荒川と顔を合わせた。


「……山元」


『……あ、お疲れさまです!』


「……今日は、もう帰るのか」


『……はい! ちょっと進路のことで調べものしてたので』


「……進路か」


 荒川は、少しだけ考えた。


『……荒川先生』


「……何だ」


『……佐伯さんって、すごい選手ですよね』


 荒川は、すぐには答えなかった。


 それから、静かに頷いた。


「……ああ」


『……後輩の面倒もよく見てるし、頼りにされてるなって思いました』


「……主将だからな」


 荒川は、武道場へ目を向けた。


「……あいつは、真面目すぎるところがある」


『……え?』


「……自分のことより、周りのことを先に考える」


 リンは、少し驚いた。


「……それが長所でもあるが、短所にもなる」


『…………』


 荒川は、静かに続けた。


「……空手では、強い選手だ」


「……だが、選手として強いことと、将来を決められることは別だ」


 リンは、その言葉を聞いた。


 荒川は、いつも厳しい。


 部員たちに妥協を許さない。


 けれど、ただ強さだけを見ているわけではないらしい。


『……そう、ですよね』


「……何か気になることでもあるのか」


『……いえ』


 リンは、少しだけ笑った。


『……あたしも、ちゃんと生徒のことを考えなきゃなって』


 荒川は、リンを見た。


「……教師なら当然だ」


『……はい!』


「……それと、山元」


『……はい?』


 荒川は、リンの髪へ目を向けた。


「……その髪、まだ慣れんな」


『……えー! もう三日目ですよ!』


「……三日で慣れるか」


『……ひどい!』


 荒川は、小さく鼻を鳴らした。


 リンは、思わず笑ってしまった。


 厳しい顧問。


 けれど、少しだけ人間味のある一面を知った気がした。


     ◇


 帰り際。


 校舎を出ようとしたリンは、昇降口で佐伯の姿を見つけた。


『……あ、佐伯さん!』


 佐伯が振り返る。


「……凛先生」


『……お疲れさま!』


「……お疲れさまです」


 佐伯は、鞄を肩にかけていた。


 練習を終えたばかりなのだろう。


 額には、まだ少し汗が残っている。


『……今日は、いろいろ話してくれてありがとうね』


「……いえ、こちらこそ」


 佐伯は、丁寧に頭を下げた。


 リンは、少し迷った。


 聞いていいのだろうか。


 これ以上、踏み込まない方がいいのだろうか。


 小野寺の言葉を思い出す。


 ――担任が先に答えを決めてしまわないこと。


 分かっている。


 けれど、本人の気持ちを知るためには、聞かなければならないこともある。


『……ねえ、佐伯さん』


「……はい」


『……空手、好き?』


 佐伯は、少し驚いたようだった。


 それから、笑った。


「……もちろんです」


『……そっか』


 リンは、頷いた。


 そして、もう一つだけ尋ねた。


『……じゃあ、高校を卒業したあとも、続けたいって思ったことはない?』


 佐伯は、すぐには答えなかった。


 さっきまでの笑顔が、少しだけ消えた。


「…………」


 リンは、黙って待った。


 急かさない。


 答えを決めつけない。


 ただ、佐伯の言葉を待った。


 やがて。


「……先生」


『……うん』


 佐伯は、静かに口を開いた。


「……やりたいことと、できることって、同じじゃないですよね」


『…………』


 リンは、言葉を失った。


 佐伯は、それ以上何も言わなかった。


「……失礼します」


 頭を下げる。


 そして、昇降口を出ていった。


 リンは、その背中を見送った。


 空手が好き。


 それは、嘘ではないのだろう。


 けれど。


 続けたいかと聞かれたとき、佐伯は答えなかった。


(……何か、あるんだ)


 リンは、静かに思った。


 大学へ進学すること。


 空手を続けること。


 それが、佐伯にとって簡単な選択ではないのかもしれない。


 自分が令和で当たり前だと思っていたこと。


 自由に進路を選ぶこと。


 好きなことを続けること。


 それらは、誰にとっても同じように手に入るものではない。


『…………』


 リンは、自分の手元を見た。


 今日、小野寺から教わった進路指導の資料。


 求人票。


 会社の調べ方。


 タウンページ。


 センター問い合わせ。


 知らないことばかりだった。


 けれど、今日一番分からなかったのは。


 目の前の生徒が、何を諦めようとしているのかということだった。


(……佐伯さん)


 リンは、ゆっくり顔を上げた。


 夕暮れの校門へ、佐伯の背中が遠ざかっていく。


 その姿を見つめながら、リンは思った。


 やりたいことと、できること。


 その二つが違うのなら。


 せめて、何がその間を隔てているのか。


 知りたい。


 そして、もし何かできることがあるのなら。


 今度こそ、ちゃんと考えてから動きたい。


 リンは、静かに拳を握った。


 まだ、答えは分からない。


 だからこそ、まずは聞くことから始めようと思った。

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