第四話 崩れる仮面
旧鳳栄ホテルの別館は、本館から見れば影のような建物だった。
正面玄関から離れ、庭園の奥にある細い石畳を抜けた先。かつては宴会用の食器や展示品、改装前の家具を保管していたらしいが、いまは改修工事を待つだけの施設になっている。
窓の多くは板で塞がれ、壁面には雨筋が何本も残っていた。
夜の十時四十八分。
相沢蓮は、別館の前に立っていた。
今夜の彼は白石美琴ではない。
短い黒髪のウィッグの上から、深くフードをかぶっている。顔には目立たない程度の化粧を施しているが、女らしく見せるためのものではない。肌の印象を変え、年齢を曖昧にするための薄い偽装だった。
黒いジャケット。
細身のパンツ。
汚れても構わない靴。
仕事帰りの男にも、夜間の警備員にも、急ぎの用事を抱えた誰かにも見える。
そして、どの人物にも見えない。
それが今夜の狙いだった。
蓮は、スマートフォンの画面を見た。
昨夜、知らない番号から届いたメッセージが表示されている。
『三枝の正体を知りたいなら、明日二十三時。旧鳳栄ホテル別館・保管庫前へ』
送り主は不明。
しかし、旧鳳栄ホテルのことを知っている。
三枝という名を知っている。
蓮がその紙片を持っていることを知っている。
そして何より、蓮がここへ来ることを知っている。
罠だ。
最初からわかっていた。
それでも、来ないという選択はなかった。
川島宗一の周辺で何が起きているのか。
三枝とは誰なのか。
なぜ自分がこの紙片を持つことになったのか。
知らなければ、次に何を奪われるのかもわからない。
蓮は、ジャケットの内ポケットに触れた。
紙片は、まだそこにある。
昨夜、第七倉庫で半分に破れた紙。
蓮の手元に残った部分には、かすれた文字がある。
――三枝。
その下には、数字のようなもの。
そして、紙の端に残る赤い汚れ。
旧鳳栄ホテルの寄付販売会で使われていた朱肉と似た色。
蓮は、建物の脇にある裏口へ回った。
鍵はかかっていない。
それが、最初から不自然だった。
改修前とはいえ、ホテルの所有する施設だ。夜間に誰でも入れるような状態にしておくはずがない。
誰かが、蓮をここへ入れた。
あるいは。
入る者を待っている。
蓮は一度だけ後ろを振り返った。
石畳の先には、静かな庭園がある。
本館の明かりが遠くに見える。ガラス張りのロビーに、客らしい人影がいくつか動いていた。
ここだけが、別の時間に取り残されているようだった。
蓮は裏口を押した。
古い蝶番が、低く軋んだ。
*
別館の内部には、湿った木材と埃の匂いが残っていた。
照明は半分しか点いていない。
廊下の天井には細い蛍光灯が等間隔に並び、そのいくつかが点滅している。壁には古い案内板がかかっていた。
第一保管室。
厨房備品庫。
展示資料庫。
旧応接室。
搬入通路。
どの文字も、年月に削られて薄くなっている。
蓮は足音を消して歩いた。
こういう場所は、静かすぎる。
静かすぎる場所では、小さな物音が異様に大きく聞こえる。
靴底が床を擦る音。
ジャケットの布が動く音。
自分の息が少し速くなる音。
そして、遠くで何かが落ちる音。
蓮は立ち止まった。
建物の奥。
保管庫の方角から、金属がぶつかるような音がした。
誰かがいる。
それも、一人ではない。
蓮は壁際へ寄った。
今夜の目的は、誰かと戦うことではない。
情報を確認し、危険ならすぐに離れる。
それだけのはずだった。
だが、昨夜の第七倉庫で、蓮は学んだ。
自分の周囲で起きていることは、すでに「情報を確認して帰る」程度の段階ではない。
川島の周辺。
旧鳳栄ホテル。
三枝。
黒いレインコートの男たち。
高瀬誠司。
すべてが、蓮の手の届かないところで繋がっている。
そして蓮は、その中央へ少しずつ引きずり込まれている。
廊下の先に、小さな非常灯が見えた。
その下に、保管庫の扉がある。
扉には鍵がかかっていない。
蓮は息を止め、ゆっくりとノブを回した。
中は、広い倉庫だった。
壁際には木箱が積まれ、中央には古い棚が並んでいる。ホテルで使われていた食器や、額縁、展示台、椅子、書類箱が無造作に置かれていた。
その奥に、一つだけ新しい机がある。
机の上には、白い封筒。
黒い手帳。
そして、小さな録音機。
蓮は動かなかった。
あまりにも、置かれ方が整いすぎている。
誰かが見つけてほしいものを、見つけやすい場所に置いている。
罠だ。
しかし、蓮の足は止まらなかった。
机の上にある黒い手帳へ近づく。
手帳の表紙には、何も書かれていない。
蓮は手を伸ばしかけた。
「触らない方がいい」
背後から、低い声がした。
蓮の肩が固まる。
聞き間違えるはずがない。
高瀬誠司。
蓮はゆっくり振り返った。
倉庫の入口近くに、高瀬が立っていた。
濃紺のスーツ。
黒いコート。
短い髪。
あの日のホテルで見たままの姿。
蓮は、すぐに笑った。
「また会いましたね」
「ええ」
「あなた、本当にどこにでもいますね」
「あなたが危ない場所に行くからです」
「それは私の自由でしょう」
「そうですね」
「だったら、放っておいてください」
「できません」
「なぜ」
「ここに、あなたを呼び出した人間がいるからです」
蓮は、高瀬を睨んだ。
「知っていたんですか」
「メッセージが届きました」
「誰から」
「わかりません」
「私にも届いた」
「知っています」
蓮の目が細くなる。
「どうして」
「あなたが来ると思ったから」
「勝手に決めつけないでください」
「来ました」
高瀬の声は、いつも通り静かだった。
蓮は、その静けさが嫌だった。
自分が動揺している時ほど、高瀬は変わらない。
怒鳴らない。
追い詰めるように近づかない。
ただ、そこに立っている。
それだけで、蓮の逃げ道を少しずつ狭くしていく。
「高瀬さん」
「はい」
「あなたは、三枝が誰か知っているんですか」
「まだ」
「まだ?」
「調べている途中です」
「だったら、ここに何しに来たんです」
「あなたと同じです」
「私と一緒にしないでください」
「あなたは何を知りたい」
高瀬が聞いた。
蓮は答えなかった。
自分が何を知りたいのか。
三枝の正体。
川島の取引。
黒いレインコートの男たち。
高瀬の本当の身元。
すべて知りたい。
だが、本当に知りたいのは、もっと単純なことだった。
自分が誰に捨てられようとしているのか。
昨夜、第七倉庫で蓮を呼び出した者たちは、紙片だけを回収しようとしていたわけではない。
蓮が余計なことを見たから。
高瀬と接触したから。
組織の外側にある情報を持ってしまったから。
自分は、もう安全な仲間ではない。
そのことを、蓮は知っていた。
「私に構わないでください」
蓮は言った。
「私は、ここにいるべき人間じゃない」
「それは、そうかもしれない」
高瀬はすぐに否定しなかった。
「でも、今は一人で動かない方がいい」
「あなたと一緒にいる方が危険です」
「そうでしょうね」
「否定しないんですか」
「あなたを追っている人間が、私の存在を知っている可能性がある」
蓮の表情が固まった。
「第七倉庫の連中」
「おそらく」
「あなたのせいで、私が狙われている」
「違います」
「違わないでしょう」
「あなたは、私に会う前から狙われていた」
高瀬の言葉が、倉庫の空気に残った。
蓮は反論できなかった。
その通りだった。
高瀬が現れる前から、蓮は犯罪に関わっていた。
偽名を使っていた。
人の情報を抜き取っていた。
組織の命令に従っていた。
高瀬が蓮の人生を壊したのではない。
蓮自身が、壊れやすい場所に立っていた。
それを認めるのは、ひどく悔しかった。
「机の上を見ましょう」
高瀬が言った。
「一緒に?」
「あなたが勝手に触れば、指紋を残すかもしれない」
「今さらです」
「それでも」
蓮は少し黙った。
そして、机の方へ戻った。
高瀬は蓮の横には立たない。
少し後ろ、手が届かない程度の距離を保っている。
監視している。
しかし、脅してはいない。
蓮は黒い手帳を見た。
表紙の端が少し浮いている。
中身は、破られたページの束だった。
「開けますよ」
「待って」
高瀬が言った。
彼は机の端に置かれた録音機へ視線を向ける。
「それ、何だと思いますか」
「録音機でしょう」
「誰かが聞いているかもしれない」
「じゃあ、どうするんです」
「触らない」
「何もできないじゃないですか」
「何もできないことが、安全な場合もあります」
蓮は苛立った。
「あなたは、ずっとそうやって安全なことばかり言う」
「安全じゃない場所に来ている人間に、危ないことを勧めるわけがない」
「私は、もう危ない場所にいるんです」
「知っています」
「だったら、手帳くらい見せてください」
蓮は机の方へ手を伸ばした。
その時、倉庫の照明が一斉に消えた。
暗闇。
蛍光灯の唸りも止まる。
数秒後、非常灯だけが赤く点いた。
「動かないで」
高瀬の声がした。
「何ですか」
「わからない」
「誰かがいる」
「ええ」
倉庫の奥で、木箱が擦れる音がした。
蓮は息を止めた。
赤い非常灯の中では、物の形が歪んで見える。木箱も棚も、影だけが大きく膨らんでいる。
誰かが、棚の向こうを歩いている。
高瀬が、蓮の前へ出た。
「出口へ行きます」
「手帳は」
「後で」
「でも」
「今は、人の方が先です」
蓮は唇を噛んだ。
高瀬の背中を見た。
この男は、いつも同じことを言う。
物より人。
証拠より危険。
勝つことより、誰かが傷つかないこと。
そんな理屈で、この世界を渡れるのか。
蓮にはわからなかった。
しかし、今の蓮には他の選択肢もなかった。
二人は出口へ向かった。
だが、倉庫の扉は閉まっていた。
外から何かが差し込まれているのか、ノブを回しても動かない。
「鍵が」
蓮が言った。
「外側から固定された」
高瀬は扉の隙間を確認した。
「別の出口を探す」
「どこに」
「搬入口があるはずです」
「本当に?」
「案内板に書いてありました」
蓮は、赤い非常灯の下で高瀬を見た。
「ちゃんと見てるんですね」
「見ています」
「私のことも、建物のことも」
「仕事ですから」
蓮は、少しだけ笑った。
「便利な言葉ですね」
「また言いましたね」
高瀬は言った。
こんな状況で、同じ会話をしている。
それが奇妙だった。
扉の向こうには誰かがいる。
倉庫は閉じ込められている。
赤い非常灯しか点いていない。
なのに、高瀬の声を聞くと、蓮は少しだけ息ができた。
それが一番怖かった。
*
搬入口へ続く通路は、倉庫の奥にあった。
積まれた家具の間を抜け、古い展示台を避けて進む。床には長年の埃が積もり、二人の靴跡がはっきり残っていく。
蓮はそれを見た。
自分たちがどこを通ったか、後から誰でもわかる。
逃げ道を残している。
高瀬も気づいているはずだ。
しかし、高瀬は歩みを止めない。
「靴跡」
蓮が言った。
「残ります」
「追われます」
「追われます」
「それでいいんですか」
「ここで立ち止まる方が危険です」
蓮は、黙ってついていくしかなかった。
通路の先には、古い搬入用のシャッターがあった。
しかし、シャッターは半分しか開いていない。
人がかがめば通れる程度の隙間。
外には、暗い裏庭が見える。
雨が降り始めていた。
細い雨。
石畳を静かに濡らす程度の雨。
「先に出てください」
高瀬が言った。
「あなたが先でいいでしょう」
「あなたは狙われている」
「あなたもです」
「私はいい」
「よくない」
蓮は、思わず言っていた。
高瀬が少しだけ蓮を見る。
赤い非常灯の光が、彼の顔の輪郭を硬くしている。
何も言わない。
ただ、その視線の意味を蓮は読めなかった。
蓮は先にシャッターの下をくぐった。
身体を低くする。
しかし、今夜着けている補正具が、腰回りを動かしにくくしている。
ジャケットの下では、体の線を変えるためのインナーが固定されている。普段なら、立つ、歩く、座る程度の動作に問題はない。
だが、狭い場所をくぐるには不向きだった。
身体を曲げるたびに、胸と腹部が圧迫される。
呼吸が浅くなる。
蓮はシャッターの下で一度止まりそうになった。
「大丈夫ですか」
高瀬の声が後ろからした。
「大丈夫」
「無理をしないで」
「大丈夫だって」
「息が苦しそうです」
「関係ない」
蓮は、いつものように言った。
だが、その声はうまく出なかった。
高瀬は何も言わず、シャッターを少し持ち上げた。
蓮が通れるだけの隙間を広げる。
その瞬間、ジャケットの裾が鉄板に引っかかった。
布が裂けるような音。
蓮の身体が前へ倒れた。
高瀬が、とっさに腕を掴む。
蓮のフードがずれる。
黒いウィッグの固定が外れる。
頭の後ろで留めていたピンが外れ、短く整えられていた地毛がのぞいた。
蓮は反射的に手で頭を押さえた。
「離せ!」
「転びます」
「放せ!」
高瀬は腕を離さない。
蓮の身体を拘束するためではない。
濡れた石畳へ倒れ込まないように支えている。
しかし、蓮にとっては同じだった。
触れられること自体が嫌だった。
外側の偽装に触れられることが、何より嫌だった。
「見ないでください」
蓮は低く言った。
高瀬の手が止まる。
「何を」
「頭を」
雨が、蓮の髪を濡らす。
フードの下から外れたウィッグが、半分だけ肩へ落ちている。
高瀬は、それを見た。
だが、驚いた声を上げなかった。
「あなたは」
「言うな」
「……」
「何も言うな」
蓮は、ほとんど命令するように言った。
自分でも、声が震えているとわかった。
真琴は、その震えを聞いた。
高瀬誠司としての顔を保ったまま、目の前の人物を見る。
白石美琴。
いや、白石美琴という名を使っていた人物。
ホテルで出会った時は、柔らかな髪と化粧で印象を作っていた。今夜は短い髪と低い声で、別の誰かになろうとしている。
だが、外側が崩れた瞬間、そこにいたのはただ一人の人間だった。
追い詰められ、息を乱し、見られたくないものを隠そうとしている人間。
真琴は、質問を飲み込んだ。
性別を問いただす必要はない。
外見を暴く必要もない。
今、必要なのは、ここから出ることだった。
「わかりました」
高瀬は言った。
「何も言いません」
「嘘だ」
「言いません」
「あなたは、全部見てる」
「見ています」
蓮は顔を上げた。
「だから、見ないでください」
高瀬は少しだけ黙った。
「今は、出口だけを見ます」
その言葉に、蓮は何も返せなかった。
高瀬は、落ちかけていたウィッグを拾わなかった。
ただ、蓮が自分で拾えるよう、足元の雨水を避ける位置へ軽く押しやった。
蓮はそれを拾い、フードの中へ押し込んだ。
もう元には戻らない。
濡れた髪。
崩れた固定。
裂けたジャケット。
それでも、蓮は立ち上がった。
「行きます」
高瀬は頷いた。
二人は裏庭へ出た。
*
別館の裏庭は、本館の庭園と違って手入れされていなかった。
伸びた枝。
雑草。
壊れた石灯籠。
雨に濡れた古いベンチ。
裏庭の先には、旧厨房へ続く細い通路がある。
そこを抜ければ、本館の搬入口近くへ出られる。
人のいる場所まで、あと少し。
蓮はそう思った。
その時、背後でシャッターが大きく鳴った。
誰かが、内側から押し上げた。
黒い影が、雨の中へ現れる。
二人。
昨夜、第七倉庫にいた黒いレインコートの男たちと同じような服装。
顔は見えない。
だが、蓮はわかった。
同じ連中だ。
「走って」
高瀬が言った。
「またですか」
「またです」
蓮は走り出した。
雨で濡れた石畳は滑る。
ジャケットの裂けた裾が脚に絡む。
体の線を作るために着けていた補正具が、走るたびにずれる。胸部と腰回りを固定していたインナーが不自然に引っ張られ、呼吸がさらに浅くなった。
蓮は、無理に姿勢を保とうとした。
誰かに見られるための姿勢。
歩く時のための形。
しかし、いま必要なのは、走るための身体だった。
見せるための形ではなく、逃げるための動き。
蓮の身体は、その二つの間で壊れかけていた。
高瀬が前を走る。
裏庭を抜け、厨房の脇を曲がり、狭い通路へ入る。
蓮は後ろを見る。
黒いレインコートの男たちが追ってくる。
一人は距離を詰めている。
もう一人は、別の道へ回ろうとしている。
逃げ道を読んでいる。
「右へ!」
蓮が言った。
高瀬は迷わず右へ曲がる。
そこには、古い温室があった。
ガラスの多くが割れ、鉄骨だけが残っている。
中へ入れば、少しだけ身を隠せる。
二人は温室の中へ飛び込んだ。
雨音がガラスに当たり、細かい破片のように響く。
高瀬が蓮の手首を掴んだ。
「こっち」
「放して」
「静かに」
蓮は、反射的に振り払おうとした。
しかし、高瀬の手は強くない。
ただ、蓮が棚にぶつからないように方向を示しているだけだった。
温室の奥には、古い園芸用具と、空のプランターが積まれている。
二人はその陰へ身を寄せた。
外を、黒いレインコートの影が通り過ぎる。
雨音が大きい。
互いの呼吸だけが、近くに聞こえる。
蓮は壁に背をつけた。
胸が苦しい。
息を吸っても、空気が入りきらない。
高瀬が、蓮の様子を見る。
「苦しいんですか」
「違う」
「違わない」
「大丈夫」
「立てますか」
「立てる」
「そのままでは危ない」
高瀬の視線が、蓮のジャケットの裂け目へ向いた。
雨に濡れた布が身体に張りつき、内側の補正具の固定部分が少しだけ見えている。
蓮はすぐに腕で隠した。
「見るな」
「見ていません」
「見てる」
「あなたが倒れそうだから見ています」
「関係ない」
「関係あります」
蓮は、目を閉じた。
また同じ言葉だ。
関係ある。
関係ない。
助ける。
放っておけない。
高瀬はいつも、それを繰り返す。
「その固定具、外した方がいい」
高瀬が言った。
蓮の目が開く。
「何で」
「呼吸を妨げている」
「外せない」
「なぜ」
「外したら」
蓮は言葉を止めた。
外したら、作っていた輪郭が崩れる。
白石美琴ではなくなる。
今夜の別の男でもなくなる。
ただの相沢蓮になる。
誰にも見せたくない、不安定な姿になる。
「外したら、何ですか」
高瀬が聞いた。
蓮は答えなかった。
高瀬は、追及しなかった。
「あなたが自分で外せるなら、そちらを向きます」
「……」
「私は見ません」
「どうして信じろって言うんですか」
「言っていません」
高瀬は、少し離れた場所へ移動した。
背を向ける。
温室の割れたガラス越しに、外の様子を確認している。
「見ない」
高瀬は言った。
「あなたが決めてください」
蓮はしばらく動かなかった。
雨音。
遠くの足音。
自分の呼吸。
そして、高瀬の背中。
彼は本当にこちらを見ていない。
蓮は、震える指でジャケットの内側へ手を入れた。
補正具の留め具を探す。
何度も使ってきたもの。
普段なら、鏡の前で迷わず外せる。
だが、今は手がうまく動かない。
焦っている。
息が苦しい。
雨で指先が冷えている。
ようやく留め具に触れる。
一つ外す。
胸の奥に空気が入る。
もう一つ外す。
身体を締めつけていた感覚が、少しずつ緩む。
作り込んでいた輪郭が、衣服の下で変わる。
胸部と腰回りに入れていたパッドも、固定を失ってずれる。
それは、誰かに見せるための形だった。
いま、その形だけがほどけていく。
蓮は、目を閉じた。
恥ずかしい。
しかし、それ以上に、少しだけ楽だった。
「終わりました」
蓮は言った。
高瀬が振り返る。
だが、蓮の顔しか見なかった。
「呼吸は」
「さっきよりは」
「歩けますか」
「歩けます」
「なら、出ましょう」
高瀬は、それだけ言った。
何も聞かない。
何も暴かない。
その態度が、蓮には余計に苦しかった。
自分なら、もっと見たがる。
相手が隠しているものを知りたがる。
弱みを掴みたがる。
高瀬はそうしない。
それが、蓮には理解できなかった。
*
温室を出た時、黒いレインコートの男たちはまだ近くにいた。
裏庭の出口を塞ぐように、二つの影が立っている。
蓮と高瀬は、温室の反対側へ回った。
そこには、古い石段がある。
本館の地下倉庫へ続く、使われていない通路。
「下へ行くんですか」
蓮が聞いた。
「他に道がない」
「地下は危ない」
「地上も危ない」
「あなた、本当に最悪の選択肢ばかり選びますね」
「今は、まだましな方です」
高瀬は石段を下り始めた。
蓮は後を追う。
地下通路は暗かった。
非常灯だけが点いている。
壁には古い配管が走り、天井から水滴が落ちている。足元には、使われなくなった木箱や、破れたシートが積まれていた。
蓮は、地上の雨音が遠ざかるのを感じた。
代わりに、自分たちの足音が響く。
隠れる場所がない。
逃げる方向も少ない。
だが、追ってくる者にとっても同じだ。
「高瀬さん」
蓮が小さく言った。
「何ですか」
「あなた、さっきから私のことを白石さんって呼んでますよね」
「そうですね」
「本当の名前じゃない」
「知っています」
「だったら、どうして」
高瀬は少しだけ歩みを緩めた。
「今、あなたが一番反応する名前だからです」
蓮は、何も言えなかった。
「嫌なら、呼びません」
「……」
「何と呼べばいい」
蓮は、足を止めそうになった。
本当の名前を言えばいい。
相沢蓮。
ただ、それだけの名前。
けれど、その名を高瀬に渡した瞬間、本当に何かが変わる気がした。
白石美琴を名乗っていた頃は、いつでも捨てられた。
今夜の男の姿も、明日には消せる。
だが、本名は、捨てるたびに少しずつ自分を失う。
蓮は、唇を開いた。
「……蓮」
高瀬が立ち止まる。
「何ですか」
「蓮でいい」
声は小さかった。
地下通路の水滴の音に紛れそうな声。
それでも、高瀬には届いた。
「蓮さん」
高瀬は言った。
その呼び方を聞いた瞬間、蓮は胸の奥が少しだけ痛くなった。
白石美琴ではない。
今夜作った別の男でもない。
相沢蓮。
その名前で呼ばれることが、こんなに不安になるとは思わなかった。
「余計なことを言った」
蓮はすぐに言った。
「忘れてください」
「無理です」
「どうして」
「聞いたことを忘れる仕事ではないので」
「また仕事ですか」
「仕事です」
蓮は、少し笑った。
高瀬も、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
しかし、その瞬間、地下通路の奥で足音がした。
黒いレインコートの男たちが、別の入口から回り込んできた。
「見つけたぞ」
低い声。
蓮の笑みが消える。
高瀬は蓮の前へ出た。
「後ろへ」
「嫌です」
「蓮さん」
「あなた一人に任せるのは嫌です」
高瀬が一瞬だけ蓮を見る。
蓮は自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
高瀬を助けたいわけではない。
ただ、ここで高瀬がいなくなれば、自分は完全に一人になる。
そのことが怖かった。
「紙を出せ」
レインコートの男が言った。
蓮は内ポケットを押さえた。
紙片は、まだある。
三枝。
ただの名前かもしれない。
それでも、向こうは欲しがっている。
「誰が送ったんです」
蓮が聞いた。
「答える必要はない」
「三枝って誰ですか」
「黙れ」
「川島の関係者ですか」
男の目が、わずかに動いた。
それだけで、蓮にはわかった。
当たっている。
川島宗一の周辺にいる誰か。
旧鳳栄ホテルの取引を知っている人間。
そして、おそらくは、川島の書類を巡る争いに関わっている人間。
「三枝は、川島の取引相手なんですね」
「黙れ!」
男が一歩踏み込んだ。
高瀬が前へ出る。
狭い通路で、三人の距離が縮まる。
「警察に連絡しました」
高瀬が言った。
「もうすぐ来ます」
「またそれか」
「前にも聞きましたか」
高瀬の声は静かだった。
男が苛立ったように腕を振る。
高瀬はそれを避け、通路の壁へ押し返す。
派手な格闘ではない。
誰かが誰かの進路を塞ぎ、押しのけ、逃げ道を奪うだけの短い攻防。
しかし、地下通路は狭い。
一度身体がぶつかれば、誰かが転ぶ。
蓮は後ろへ下がった。
その時、もう一人の男が横から回り込んだ。
蓮の肩を掴む。
「紙を寄越せ」
「放せ!」
蓮は振り払おうとする。
しかし、相手の力が強い。
ジャケットの裂けた部分を掴まれ、布が引っ張られる。
肩のあたりで、ウィッグの固定が完全に外れた。
黒い髪が、床へ落ちる。
男の手が、その髪を掴んだ。
蓮は息を止めた。
「何だ、これ」
男が言った。
その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭の中が真っ白になった。
高瀬ではない。
知らない男。
敵。
自分を消そうとしている相手。
その相手に、外側の偽装を掴まれている。
「離せ!」
蓮は叫んだ。
男はウィッグを引いた。
蓮の頭から、完全に外れる。
短い地毛が露わになる。
雨と汗で崩れた化粧が、目元から頬へ薄く滲んでいる。
白石美琴の顔でもない。
今夜作った別の男の顔でもない。
ただ、蓮の顔がそこにあった。
蓮は一瞬、動けなくなった。
相手に見られた。
隠していたものが、強引に外された。
もう戻せない。
その時、高瀬が男の腕を掴んだ。
「離せ」
声が低くなる。
男は振り返る。
「何だ、おまえ」
「今すぐ離せ」
「探偵気取りか」
「探偵です」
高瀬は、初めてはっきりと言った。
「黒瀬調査室の黒瀬真琴。あなたたちの顔も、動きも、ここへ入った経路も記録している」
蓮は顔を上げた。
黒瀬真琴。
高瀬誠司ではない。
高瀬は偽名だった。
探偵。
そこまでは、蓮も疑っていた。
しかし、男の名を使っていた人物が、黒瀬真琴という名前を名乗る。
その情報だけが、蓮の頭の中でまだ結びつかない。
黒いレインコートの男が、蓮のウィッグを手放した。
床に落ちた髪が、濡れたコンクリートに広がる。
高瀬――黒瀬真琴は、男の腕を押さえ、通路の壁へぶつけた。
もう一人の男は、逃げ道を探す。
蓮は、床に落ちた紙片を見つけた。
争いの拍子に、内ポケットから落ちている。
三枝と書かれた紙。
男の一人が、それへ手を伸ばす。
蓮は先に拾った。
そして、反対側の通路へ走った。
「蓮さん!」
真琴の声がした。
蓮は振り返らない。
また逃げる。
また、逃げるしかない。
その時、背後で鈍い音がした。
誰かが真琴を押し倒した音。
蓮の足が止まる。
自分は逃げられる。
ここで曲がれば、別館の地下出口へ出られる。
真琴は、蓮を追ってきた。
蓮を疑っていた。
蓮の偽装を見た。
置いていけばいい。
そうすれば、また別の名前になれる。
また消えられる。
蓮は、それまでなら迷わなかった。
だが、背後から聞こえたのは、真琴が短く息を詰める音だった。
苦痛の声ではない。
それでも、蓮の足を止めるには十分だった。
蓮は、苛立ったように息を吐いた。
「最悪だ」
誰に向けた言葉かわからない。
自分に向けた言葉かもしれない。
蓮は戻った。
*
地下通路では、真琴が男の一人と押し合っていた。
もう一人は、蓮を追おうとしていたが、蓮が戻ってきたことに気づく。
蓮は近くにあった古い消火器を掴んだ。
使い方を考える余裕はない。
ただ、男の足元へ転がす。
金属の音が響く。
男が反射的に足を引く。
その隙に、真琴が体勢を立て直す。
「走って!」
真琴が言った。
「今度は置いていかないでください!」
蓮は叫んだ。
「あなたが先に逃げたでしょう!」
「戻りました!」
「それは見ています!」
こんな状況で、なぜ会話が続くのか。
蓮は自分でもわからなかった。
二人は再び通路の奥へ走った。
黒いレインコートの男たちは、追ってこなかった。
遠くで何かを蹴る音。
怒鳴り声。
そして、別の出口へ向かう足音。
逃げたのか。
警察の気配を察したのか。
どちらにしても、今は近くにいない。
蓮と真琴は、地下通路の先にある小さな機械室へ入った。
扉を閉める。
内側から、壊れた棚を押しつける。
完全には塞げない。
だが、少しだけ時間を稼げる。
機械室は狭かった。
古いボイラー。
錆びた配管。
壁にかかった工具。
床に積もった埃。
蓮は壁に背をつけ、しゃがみ込んだ。
手には、濡れた紙片。
足元には、外された黒いウィッグ。
顔の化粧は、もうほとんど残っていない。
真琴は数歩離れた場所に立っていた。
彼女も濡れている。
スーツの肩には埃がつき、髪は少し乱れている。
高瀬誠司という姿を作っていたものは、まだ残っている。
低い声。
短い髪。
男物のスーツ。
だが、彼女は自分で言った。
黒瀬真琴。
探偵。
蓮は、しばらく何も言えなかった。
真琴も、すぐには話さなかった。
外の音を聞いている。
扉の前に誰かが来ないか。
足音が近づかないか。
男たちが戻らないか。
しばらくして、真琴が言った。
「怪我は」
「ありません」
「本当に」
「大丈夫です」
「またその答えですね」
蓮は、少しだけ笑った。
「数えてるじゃないですか」
「数えていません」
「嘘です」
「今のは、本当に数えていません」
蓮は笑いかけて、すぐに顔を伏せた。
笑っている場合ではない。
自分の姿は崩れている。
ウィッグは床に落ちている。
化粧は雨で消えている。
補正具も外している。
ジャケットは裂けている。
白石美琴は、ここにはいない。
今夜の別の男も、ここにはいない。
相沢蓮だけがいる。
真琴は、蓮を見ている。
しかし、ホテルで高瀬として会った時のように、何かを暴こうとする目ではなかった。
「黒瀬真琴」
蓮が言った。
「はい」
「高瀬誠司は、偽名だったんですね」
「そうです」
「最初から私を騙していた」
「仕事のためです」
「便利な言葉ですね」
「また言いましたね」
「もう言わない」
「言ってもいいです」
蓮は、真琴を見た。
「あなた、女なんですか」
言った後で、蓮はすぐに後悔した。
聞くべきではなかった。
自分が、外見だけで何かを決めつけられるのを嫌がっているのに。
真琴は少し黙った。
怒ったようには見えない。
「私は黒瀬真琴です」
真琴は言った。
「探偵です。それ以上は、今は関係ない」
蓮は目を伏せた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
「でも」
「あなたが混乱しているのはわかります」
真琴は続けた。
「でも、私が男に見えたことも、女に見えたことも、今の事件の本筋ではない」
蓮は、その言葉を聞いて黙った。
自分なら、もっと違う言い方をする。
相手が隠していたものを見つければ、そこに執着する。
真琴はしない。
それが、やはり理解できなかった。
「あなたは」
真琴が言った。
「何をしている人ですか」
蓮は笑った。
「今さらですか」
「今さらです」
「犯罪者です」
真琴の表情は変わらない。
「何をした」
「人の金を盗んだ。名前を使った。情報を渡した。嘘をついた」
「今は」
「今は、よくわかりません」
蓮は紙片を見た。
「この紙を持ってから、何が本当で何が嘘なのか、わからなくなった」
「三枝とは誰ですか」
「知りません」
「川島宗一との関係は」
「知りません」
「黒いレインコートの男たちは」
「知らない」
「本当に?」
蓮は、真琴を見た。
「本当に知らない」
その声には、嘘がなかった。
真琴は少しだけ頷いた。
「わかりました」
「信じるんですか」
「まだ信じてはいません」
「じゃあ、何で」
「あなたが知らないと言った時の顔が、作ったものではなかった」
蓮は、目を逸らした。
作ったものではない顔。
そんな言い方をされると、何も言えなくなる。
「でも」
真琴が続ける。
「あなたが過去に犯罪をしていないという意味ではない」
「そうでしょうね」
「あなたが何を盗み、誰に渡してきたかは、これから確認する」
「捕まえるんですか」
「必要なら」
「必要なら」
「今は、あなたも狙われている」
蓮は、床に落ちたウィッグを見た。
「あなたは、私を助けるんですね」
「今は」
「どうして」
「あなたが死ねば、誰かがまた嘘を残す」
蓮は顔を上げた。
「何ですか、それ」
「あなたが死ねば、あなたがしたことの後始末を、また別の誰かがする」
真琴の声は低かった。
「被害を受けた人。あなたを使った人。あなたが使った偽名の持ち主。あなたを追う人。皆が、それぞれ別の形で困る」
蓮は黙る。
「あなたが自分をどう思っていても、あなたが消えれば終わるわけじゃない」
真琴は言った。
「だから、生きて説明してください」
その言葉が、蓮の胸に残った。
生きて説明する。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
これまでの蓮は、いつも消えるために生きていた。
別の名前になる。
別の場所へ移る。
別の顔になる。
痕跡を残さない。
誰にも説明しない。
誰にも見つからない。
誰にも、自分のことを知らせない。
それが安全だと思っていた。
だが真琴は、逆のことを言う。
逃げるな。
消えるな。
生きて、説明しろ。
蓮には、その方がずっと怖かった。
*
機械室の外で、遠くからサイレンの音が聞こえた。
警察か。
消防か。
ホテル側が通報したのか。
真琴が壁際へ寄り、スマートフォンを確認する。
「九条さんです」
「誰ですか」
「助手」
「あなた、一人じゃないんですね」
「一人では仕事になりません」
「高瀬誠司も、黒瀬真琴も、全部あなたの側なんですね」
「高瀬は偽名です」
「真琴は本名?」
真琴は少しだけ目を細めた。
「確認したいなら、調べてください」
蓮は、思わず笑った。
昨夜、真琴が言った言葉だ。
自分を調べればいい。
自分で確認すればいい。
真琴は、同じやり方で蓮に返している。
「九条さんが、本館側に警察が来たと言っています」
真琴が言った。
「地下出口の一つが見つかったらしい。ここもそのうち確認される」
「じゃあ、ここにいれば」
「見つかります」
「私は捕まる」
「可能性はあります」
「あなたは、それでいいんですか」
「証拠があれば」
蓮は笑みを消した。
「容赦ないですね」
「探偵ですから」
「また便利な言葉だ」
「本当です」
真琴は扉の方を見る。
「でも、外にいる連中が先にあなたを見つけるよりは、警察に見つかる方がいい」
蓮は、紙片を握る。
三枝。
この紙があれば、自分は狙われ続ける。
警察に渡せば、自分の過去も出る。
組織へ渡せば、消される。
捨てれば、何もわからないまま逃げることになる。
どの選択肢も、安全ではない。
「蓮さん」
真琴が言った。
「何ですか」
「紙を見せてください」
蓮は、しばらく動かなかった。
真琴の視線は、紙片に向いている。
奪おうとしているようには見えない。
ただ、見せてほしいと言っている。
蓮は紙片を差し出した。
真琴は受け取る。
濡れた紙を慎重に開く。
非常灯の赤い光では読みにくい。
真琴はスマートフォンのライトを弱く点けた。
紙片には、かすれた文字がある。
――三枝。
その下。
数字に見えたものは、よく見ると住所の一部だった。
『三枝倉庫 第二保管区画』
そして、右端には別の文字が残っている。
『川島資料』
真琴は息を止めた。
「三枝は、人名ではない」
「何ですか」
「倉庫の名前か、会社名」
「三枝倉庫」
「おそらく」
真琴は紙片を見つめる。
「川島の資料が、そこに保管されている」
「じゃあ、黒い連中は」
「その資料を探している。あなたが持っている紙が、保管場所へ繋がる手がかりだった」
蓮は、少しだけ笑った。
「それだけのことだったんですか」
「それだけではありません」
真琴は答えた。
「川島がホテルで誰かと会う予定だった。別館の保管庫に何かを残した。第七倉庫で、あなたから紙を奪おうとした人間がいた」
「全部繋がってる」
「ええ」
「でも、誰が何をしてるんです」
「それを調べる」
蓮は、真琴の顔を見た。
「あなたは、また行くんですか」
「行きます」
「三枝倉庫へ?」
「必要なら」
「危ないですよ」
「知っています」
「危険な場所に行くなって、いつも私に言ってるのに」
「あなたは一人で行くから危ない」
「あなたは一人じゃないんですか」
真琴は少しだけ黙った。
「九条さんがいます」
「でも、現場には一人で来る」
「仕事ですから」
蓮は、思わず顔をしかめた。
「その言葉、もう禁止にしましょう」
真琴は、一瞬だけ笑った。
短い笑みだった。
高瀬誠司としていた時には見せなかった表情。
その顔を見て、蓮は初めて、真琴が自分と同じ年頃の女性なのだと理解した。
ただし、その理解に何の意味があるのか、蓮にはまだわからなかった。
*
機械室の外で、誰かが走る音がした。
真琴の表情が変わる。
足音は、警察のものではない。
急いでいるが、複数いる。
そして、足音が建物の構造を知っている者の動きだ。
「来た」
真琴が小さく言った。
「黒い連中?」
「たぶん」
「どうするんです」
真琴は周囲を見る。
機械室には、古い配管が走っている。
奥には小さな点検口がある。
人が一人ずつなら通れそうな隙間。
「ここから出ます」
「また狭いところですか」
「他に道がない」
「本当に最悪ですね」
「そうですね」
蓮は、外されたウィッグを見た。
持っていくか。
置いていくか。
今の自分にとっては、ただの髪の塊に見える。
けれど、それを置いていけば、今夜ここにいた誰かが、また一つの姿を失う気がした。
蓮はウィッグを拾い、ジャケットの内側へ押し込んだ。
真琴は何も言わない。
「行きますよ」
真琴が言った。
「待って」
蓮は、紙片を見た。
「これ、あなたが持っていてください」
真琴が顔を上げる。
「なぜ」
「私が持っていたら、また狙われる」
「私が持っていても狙われます」
「あなたなら、狙われる理由を知っている」
「蓮さんは」
「私は、知らない」
真琴は少し黙った。
そして、紙片を受け取った。
「預かります」
「返してくださいね」
「必要なら」
「そこは、返すって言ってください」
「証拠品になるかもしれないので」
「本当に容赦ない」
「あなたが盗んだものなら、返せません」
「盗んでないものです」
「それは確認します」
蓮は、少しだけ笑った。
笑える状況ではない。
それでも、真琴との会話が続くと、ほんの少しだけ自分がまだ生きている気がした。
真琴は点検口の蓋を外した。
中は細い保守用通路になっている。
湿気と油の匂い。
低い天井。
人が体をかがめて進むしかない狭さ。
「先に行きます」
真琴が言う。
「いや、私が」
「危ない」
「あなたも同じことを言われるのは嫌でしょう」
真琴は、少しだけ目を見開いた。
蓮は続ける。
「私が先に行く。何かあれば戻る」
「蓮さん」
「大丈夫です」
真琴が言いかける。
蓮は笑った。
「数えないでください」
真琴は一瞬黙り、それから言った。
「わかりました。先に行ってください」
蓮は点検口へ身体を入れた。
狭い。
だが、さっき補正具を外したため、身体は少し動かしやすい。
これまでなら、外見を維持するために無理をしていた。
いまは、誰にどう見られるかより、進めるかどうかの方が大事だった。
そのことに気づいて、蓮は少しだけ苦笑した。
自分はいつも、形を作ることに必死だった。
誰かに見せる顔。
誰かに信じさせる声。
誰かに安心させる姿勢。
しかし、その形は、必要な時に自分を助けてくれない。
息が苦しい時。
走らなければならない時。
狭いところを抜けなければならない時。
作った形は、ただ重かった。
蓮は前へ進んだ。
背後で、真琴が続く。
しばらく進むと、通路の先に格子が見えた。
外の空気が入ってくる。
本館の地下駐車場へ繋がっているらしい。
「出口です」
蓮が言った。
その瞬間、背後で大きな音がした。
機械室の扉が破られる音。
誰かが入った。
「急いで!」
真琴の声。
蓮は格子を押した。
古い鍵がかかっている。
しかし、錆びついた金具を何度か押すと、外れた。
格子が開く。
蓮は先に外へ出た。
地下駐車場は薄暗かった。
数台の車が停まっている。
その奥に、白いワゴン車が見えた。
「九条さん!」
真琴が言った。
ワゴン車の運転席から、男が降りてくる。
年上の男性。
落ち着いた表情。
蓮を一度見てから、真琴へ視線を向ける。
「無事ですか」
「今は」
「彼が」
「蓮さん」
真琴が言った。
九条は、その名前を聞いて少しだけ目を動かした。
だが、何も言わない。
「乗って」
真琴が蓮へ言った。
「どこへ」
「安全な場所へ」
「警察は」
「まだ来ています。ここへも来る」
「私は」
「今は、黒い連中から離れる」
「それでいいんですか」
「今は」
蓮は、ワゴン車を見た。
知らない車。
知らない男。
探偵の仲間。
乗れば、自分は逃げられなくなるかもしれない。
乗らなければ、黒い連中に見つかるかもしれない。
どちらも安全ではない。
だが、真琴は紙片を持っている。
そして、蓮の本当の名前も知っている。
いまさら、完全に切り離すことはできない。
蓮は、ゆっくりと車へ近づいた。
「一つだけ約束してください」
真琴が言う。
「何ですか」
「次に、知らない番号から呼び出されても、一人で行かない」
蓮は笑った。
「あなたに連絡するんですか」
「そうです」
「あなた、私が犯罪者だってわかってますよね」
「わかっています」
「それでも」
「あなたが死ぬよりはましです」
蓮は、少しだけ黙った。
「そういう言い方、ずるいですよ」
「事実です」
蓮は車の後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉まる。
ワゴン車は地下駐車場を出た。
別館の出口では、警察車両の赤い光が反射している。
旧鳳栄ホテルの本館は、遠くで静かに明るかった。
何も知らない客たちは、まだロビーで会話をしているかもしれない。
そのすぐそばで、誰かが嘘を作り、誰かがそれを奪い、誰かが消そうとしていた。
蓮は窓に映る自分を見た。
濡れた短い髪。
崩れた化粧。
裂けたジャケット。
白石美琴は、そこにいない。
だが、相沢蓮もまだ、完全にはそこにいない。
名前を言った。
紙を渡した。
探偵の車に乗った。
それだけで、何かが変わった。
後部座席の前で、真琴が振り返る。
「蓮さん」
「何ですか」
「三枝倉庫について、明日までに調べます」
「私も調べる」
「一人で?」
「あなたに連絡します」
言ってから、蓮は少し驚いた。
自分からそう言うとは思わなかった。
真琴は、短く頷いた。
「それでいい」
ワゴン車は夜の道路へ出る。
雨はまだ降っている。
だが、蓮の胸を締めつけていたものは、少しだけ緩んでいた。
外側の形が崩れたことで、何かを失った。
しかし同時に、ようやく息ができるようになった気もしていた。
第四話 終




