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第四話 崩れる仮面 

 旧鳳栄ホテルの別館は、本館から見れば影のような建物だった。


 正面玄関から離れ、庭園の奥にある細い石畳を抜けた先。かつては宴会用の食器や展示品、改装前の家具を保管していたらしいが、いまは改修工事を待つだけの施設になっている。


 窓の多くは板で塞がれ、壁面には雨筋が何本も残っていた。


 夜の十時四十八分。


 相沢蓮は、別館の前に立っていた。


 今夜の彼は白石美琴ではない。


 短い黒髪のウィッグの上から、深くフードをかぶっている。顔には目立たない程度の化粧を施しているが、女らしく見せるためのものではない。肌の印象を変え、年齢を曖昧にするための薄い偽装だった。


 黒いジャケット。

 細身のパンツ。

 汚れても構わない靴。


 仕事帰りの男にも、夜間の警備員にも、急ぎの用事を抱えた誰かにも見える。


 そして、どの人物にも見えない。


 それが今夜の狙いだった。


 蓮は、スマートフォンの画面を見た。


 昨夜、知らない番号から届いたメッセージが表示されている。


『三枝の正体を知りたいなら、明日二十三時。旧鳳栄ホテル別館・保管庫前へ』


 送り主は不明。


 しかし、旧鳳栄ホテルのことを知っている。

 三枝という名を知っている。

 蓮がその紙片を持っていることを知っている。


 そして何より、蓮がここへ来ることを知っている。


 罠だ。


 最初からわかっていた。


 それでも、来ないという選択はなかった。


 川島宗一の周辺で何が起きているのか。

 三枝とは誰なのか。

 なぜ自分がこの紙片を持つことになったのか。


 知らなければ、次に何を奪われるのかもわからない。


 蓮は、ジャケットの内ポケットに触れた。


 紙片は、まだそこにある。


 昨夜、第七倉庫で半分に破れた紙。


 蓮の手元に残った部分には、かすれた文字がある。


 ――三枝。


 その下には、数字のようなもの。


 そして、紙の端に残る赤い汚れ。


 旧鳳栄ホテルの寄付販売会で使われていた朱肉と似た色。


 蓮は、建物の脇にある裏口へ回った。


 鍵はかかっていない。


 それが、最初から不自然だった。


 改修前とはいえ、ホテルの所有する施設だ。夜間に誰でも入れるような状態にしておくはずがない。


 誰かが、蓮をここへ入れた。


 あるいは。


 入る者を待っている。


 蓮は一度だけ後ろを振り返った。


 石畳の先には、静かな庭園がある。


 本館の明かりが遠くに見える。ガラス張りのロビーに、客らしい人影がいくつか動いていた。


 ここだけが、別の時間に取り残されているようだった。


 蓮は裏口を押した。


 古い蝶番が、低く軋んだ。


     *


 別館の内部には、湿った木材と埃の匂いが残っていた。


 照明は半分しか点いていない。


 廊下の天井には細い蛍光灯が等間隔に並び、そのいくつかが点滅している。壁には古い案内板がかかっていた。


 第一保管室。

 厨房備品庫。

 展示資料庫。

 旧応接室。

 搬入通路。


 どの文字も、年月に削られて薄くなっている。


 蓮は足音を消して歩いた。


 こういう場所は、静かすぎる。


 静かすぎる場所では、小さな物音が異様に大きく聞こえる。


 靴底が床を擦る音。

 ジャケットの布が動く音。

 自分の息が少し速くなる音。


 そして、遠くで何かが落ちる音。


 蓮は立ち止まった。


 建物の奥。


 保管庫の方角から、金属がぶつかるような音がした。


 誰かがいる。


 それも、一人ではない。


 蓮は壁際へ寄った。


 今夜の目的は、誰かと戦うことではない。


 情報を確認し、危険ならすぐに離れる。


 それだけのはずだった。


 だが、昨夜の第七倉庫で、蓮は学んだ。


 自分の周囲で起きていることは、すでに「情報を確認して帰る」程度の段階ではない。


 川島の周辺。

 旧鳳栄ホテル。

 三枝。

 黒いレインコートの男たち。

 高瀬誠司。


 すべてが、蓮の手の届かないところで繋がっている。


 そして蓮は、その中央へ少しずつ引きずり込まれている。


 廊下の先に、小さな非常灯が見えた。


 その下に、保管庫の扉がある。


 扉には鍵がかかっていない。


 蓮は息を止め、ゆっくりとノブを回した。


 中は、広い倉庫だった。


 壁際には木箱が積まれ、中央には古い棚が並んでいる。ホテルで使われていた食器や、額縁、展示台、椅子、書類箱が無造作に置かれていた。


 その奥に、一つだけ新しい机がある。


 机の上には、白い封筒。

 黒い手帳。

 そして、小さな録音機。


 蓮は動かなかった。


 あまりにも、置かれ方が整いすぎている。


 誰かが見つけてほしいものを、見つけやすい場所に置いている。


 罠だ。


 しかし、蓮の足は止まらなかった。


 机の上にある黒い手帳へ近づく。


 手帳の表紙には、何も書かれていない。


 蓮は手を伸ばしかけた。


「触らない方がいい」


 背後から、低い声がした。


 蓮の肩が固まる。


 聞き間違えるはずがない。


 高瀬誠司。


 蓮はゆっくり振り返った。


 倉庫の入口近くに、高瀬が立っていた。


 濃紺のスーツ。

 黒いコート。

 短い髪。

 あの日のホテルで見たままの姿。


 蓮は、すぐに笑った。


「また会いましたね」


「ええ」


「あなた、本当にどこにでもいますね」


「あなたが危ない場所に行くからです」


「それは私の自由でしょう」


「そうですね」


「だったら、放っておいてください」


「できません」


「なぜ」


「ここに、あなたを呼び出した人間がいるからです」


 蓮は、高瀬を睨んだ。


「知っていたんですか」


「メッセージが届きました」


「誰から」


「わかりません」


「私にも届いた」


「知っています」


 蓮の目が細くなる。


「どうして」


「あなたが来ると思ったから」


「勝手に決めつけないでください」


「来ました」


 高瀬の声は、いつも通り静かだった。


 蓮は、その静けさが嫌だった。


 自分が動揺している時ほど、高瀬は変わらない。


 怒鳴らない。

 追い詰めるように近づかない。

 ただ、そこに立っている。


 それだけで、蓮の逃げ道を少しずつ狭くしていく。


「高瀬さん」


「はい」


「あなたは、三枝が誰か知っているんですか」


「まだ」


「まだ?」


「調べている途中です」


「だったら、ここに何しに来たんです」


「あなたと同じです」


「私と一緒にしないでください」


「あなたは何を知りたい」


 高瀬が聞いた。


 蓮は答えなかった。


 自分が何を知りたいのか。


 三枝の正体。

 川島の取引。

 黒いレインコートの男たち。

 高瀬の本当の身元。


 すべて知りたい。


 だが、本当に知りたいのは、もっと単純なことだった。


 自分が誰に捨てられようとしているのか。


 昨夜、第七倉庫で蓮を呼び出した者たちは、紙片だけを回収しようとしていたわけではない。


 蓮が余計なことを見たから。

 高瀬と接触したから。

 組織の外側にある情報を持ってしまったから。


 自分は、もう安全な仲間ではない。


 そのことを、蓮は知っていた。


「私に構わないでください」


 蓮は言った。


「私は、ここにいるべき人間じゃない」


「それは、そうかもしれない」


 高瀬はすぐに否定しなかった。


「でも、今は一人で動かない方がいい」


「あなたと一緒にいる方が危険です」


「そうでしょうね」


「否定しないんですか」


「あなたを追っている人間が、私の存在を知っている可能性がある」


 蓮の表情が固まった。


「第七倉庫の連中」


「おそらく」


「あなたのせいで、私が狙われている」


「違います」


「違わないでしょう」


「あなたは、私に会う前から狙われていた」


 高瀬の言葉が、倉庫の空気に残った。


 蓮は反論できなかった。


 その通りだった。


 高瀬が現れる前から、蓮は犯罪に関わっていた。


 偽名を使っていた。

 人の情報を抜き取っていた。

 組織の命令に従っていた。


 高瀬が蓮の人生を壊したのではない。


 蓮自身が、壊れやすい場所に立っていた。


 それを認めるのは、ひどく悔しかった。


「机の上を見ましょう」


 高瀬が言った。


「一緒に?」


「あなたが勝手に触れば、指紋を残すかもしれない」


「今さらです」


「それでも」


 蓮は少し黙った。


 そして、机の方へ戻った。


 高瀬は蓮の横には立たない。


 少し後ろ、手が届かない程度の距離を保っている。


 監視している。

 しかし、脅してはいない。


 蓮は黒い手帳を見た。


 表紙の端が少し浮いている。


 中身は、破られたページの束だった。


「開けますよ」


「待って」


 高瀬が言った。


 彼は机の端に置かれた録音機へ視線を向ける。


「それ、何だと思いますか」


「録音機でしょう」


「誰かが聞いているかもしれない」


「じゃあ、どうするんです」


「触らない」


「何もできないじゃないですか」


「何もできないことが、安全な場合もあります」


 蓮は苛立った。


「あなたは、ずっとそうやって安全なことばかり言う」


「安全じゃない場所に来ている人間に、危ないことを勧めるわけがない」


「私は、もう危ない場所にいるんです」


「知っています」


「だったら、手帳くらい見せてください」


 蓮は机の方へ手を伸ばした。


 その時、倉庫の照明が一斉に消えた。


 暗闇。


 蛍光灯の唸りも止まる。


 数秒後、非常灯だけが赤く点いた。


「動かないで」


 高瀬の声がした。


「何ですか」


「わからない」


「誰かがいる」


「ええ」


 倉庫の奥で、木箱が擦れる音がした。


 蓮は息を止めた。


 赤い非常灯の中では、物の形が歪んで見える。木箱も棚も、影だけが大きく膨らんでいる。


 誰かが、棚の向こうを歩いている。


 高瀬が、蓮の前へ出た。


「出口へ行きます」


「手帳は」


「後で」


「でも」


「今は、人の方が先です」


 蓮は唇を噛んだ。


 高瀬の背中を見た。


 この男は、いつも同じことを言う。


 物より人。

 証拠より危険。

 勝つことより、誰かが傷つかないこと。


 そんな理屈で、この世界を渡れるのか。


 蓮にはわからなかった。


 しかし、今の蓮には他の選択肢もなかった。


 二人は出口へ向かった。


 だが、倉庫の扉は閉まっていた。


 外から何かが差し込まれているのか、ノブを回しても動かない。


「鍵が」


 蓮が言った。


「外側から固定された」


 高瀬は扉の隙間を確認した。


「別の出口を探す」


「どこに」


「搬入口があるはずです」


「本当に?」


「案内板に書いてありました」


 蓮は、赤い非常灯の下で高瀬を見た。


「ちゃんと見てるんですね」


「見ています」


「私のことも、建物のことも」


「仕事ですから」


 蓮は、少しだけ笑った。


「便利な言葉ですね」


「また言いましたね」


 高瀬は言った。


 こんな状況で、同じ会話をしている。


 それが奇妙だった。


 扉の向こうには誰かがいる。

 倉庫は閉じ込められている。

 赤い非常灯しか点いていない。


 なのに、高瀬の声を聞くと、蓮は少しだけ息ができた。


 それが一番怖かった。


     *


 搬入口へ続く通路は、倉庫の奥にあった。


 積まれた家具の間を抜け、古い展示台を避けて進む。床には長年の埃が積もり、二人の靴跡がはっきり残っていく。


 蓮はそれを見た。


 自分たちがどこを通ったか、後から誰でもわかる。


 逃げ道を残している。


 高瀬も気づいているはずだ。


 しかし、高瀬は歩みを止めない。


「靴跡」


 蓮が言った。


「残ります」


「追われます」


「追われます」


「それでいいんですか」


「ここで立ち止まる方が危険です」


 蓮は、黙ってついていくしかなかった。


 通路の先には、古い搬入用のシャッターがあった。


 しかし、シャッターは半分しか開いていない。


 人がかがめば通れる程度の隙間。


 外には、暗い裏庭が見える。


 雨が降り始めていた。


 細い雨。


 石畳を静かに濡らす程度の雨。


「先に出てください」


 高瀬が言った。


「あなたが先でいいでしょう」


「あなたは狙われている」


「あなたもです」


「私はいい」


「よくない」


 蓮は、思わず言っていた。


 高瀬が少しだけ蓮を見る。


 赤い非常灯の光が、彼の顔の輪郭を硬くしている。


 何も言わない。


 ただ、その視線の意味を蓮は読めなかった。


 蓮は先にシャッターの下をくぐった。


 身体を低くする。


 しかし、今夜着けている補正具が、腰回りを動かしにくくしている。


 ジャケットの下では、体の線を変えるためのインナーが固定されている。普段なら、立つ、歩く、座る程度の動作に問題はない。


 だが、狭い場所をくぐるには不向きだった。


 身体を曲げるたびに、胸と腹部が圧迫される。


 呼吸が浅くなる。


 蓮はシャッターの下で一度止まりそうになった。


「大丈夫ですか」


 高瀬の声が後ろからした。


「大丈夫」


「無理をしないで」


「大丈夫だって」


「息が苦しそうです」


「関係ない」


 蓮は、いつものように言った。


 だが、その声はうまく出なかった。


 高瀬は何も言わず、シャッターを少し持ち上げた。


 蓮が通れるだけの隙間を広げる。


 その瞬間、ジャケットの裾が鉄板に引っかかった。


 布が裂けるような音。


 蓮の身体が前へ倒れた。


 高瀬が、とっさに腕を掴む。


 蓮のフードがずれる。


 黒いウィッグの固定が外れる。


 頭の後ろで留めていたピンが外れ、短く整えられていた地毛がのぞいた。


 蓮は反射的に手で頭を押さえた。


「離せ!」


「転びます」


「放せ!」


 高瀬は腕を離さない。


 蓮の身体を拘束するためではない。


 濡れた石畳へ倒れ込まないように支えている。


 しかし、蓮にとっては同じだった。


 触れられること自体が嫌だった。


 外側の偽装に触れられることが、何より嫌だった。


「見ないでください」


 蓮は低く言った。


 高瀬の手が止まる。


「何を」


「頭を」


 雨が、蓮の髪を濡らす。


 フードの下から外れたウィッグが、半分だけ肩へ落ちている。


 高瀬は、それを見た。


 だが、驚いた声を上げなかった。


「あなたは」


「言うな」


「……」


「何も言うな」


 蓮は、ほとんど命令するように言った。


 自分でも、声が震えているとわかった。


 真琴は、その震えを聞いた。


 高瀬誠司としての顔を保ったまま、目の前の人物を見る。


 白石美琴。


 いや、白石美琴という名を使っていた人物。


 ホテルで出会った時は、柔らかな髪と化粧で印象を作っていた。今夜は短い髪と低い声で、別の誰かになろうとしている。


 だが、外側が崩れた瞬間、そこにいたのはただ一人の人間だった。


 追い詰められ、息を乱し、見られたくないものを隠そうとしている人間。


 真琴は、質問を飲み込んだ。


 性別を問いただす必要はない。


 外見を暴く必要もない。


 今、必要なのは、ここから出ることだった。


「わかりました」


 高瀬は言った。


「何も言いません」


「嘘だ」


「言いません」


「あなたは、全部見てる」


「見ています」


 蓮は顔を上げた。


「だから、見ないでください」


 高瀬は少しだけ黙った。


「今は、出口だけを見ます」


 その言葉に、蓮は何も返せなかった。


 高瀬は、落ちかけていたウィッグを拾わなかった。


 ただ、蓮が自分で拾えるよう、足元の雨水を避ける位置へ軽く押しやった。


 蓮はそれを拾い、フードの中へ押し込んだ。


 もう元には戻らない。


 濡れた髪。

 崩れた固定。

 裂けたジャケット。


 それでも、蓮は立ち上がった。


「行きます」


 高瀬は頷いた。


 二人は裏庭へ出た。


     *


 別館の裏庭は、本館の庭園と違って手入れされていなかった。


 伸びた枝。

 雑草。

 壊れた石灯籠。

 雨に濡れた古いベンチ。


 裏庭の先には、旧厨房へ続く細い通路がある。


 そこを抜ければ、本館の搬入口近くへ出られる。


 人のいる場所まで、あと少し。


 蓮はそう思った。


 その時、背後でシャッターが大きく鳴った。


 誰かが、内側から押し上げた。


 黒い影が、雨の中へ現れる。


 二人。


 昨夜、第七倉庫にいた黒いレインコートの男たちと同じような服装。


 顔は見えない。


 だが、蓮はわかった。


 同じ連中だ。


「走って」


 高瀬が言った。


「またですか」


「またです」


 蓮は走り出した。


 雨で濡れた石畳は滑る。


 ジャケットの裂けた裾が脚に絡む。


 体の線を作るために着けていた補正具が、走るたびにずれる。胸部と腰回りを固定していたインナーが不自然に引っ張られ、呼吸がさらに浅くなった。


 蓮は、無理に姿勢を保とうとした。


 誰かに見られるための姿勢。


 歩く時のための形。


 しかし、いま必要なのは、走るための身体だった。


 見せるための形ではなく、逃げるための動き。


 蓮の身体は、その二つの間で壊れかけていた。


 高瀬が前を走る。


 裏庭を抜け、厨房の脇を曲がり、狭い通路へ入る。


 蓮は後ろを見る。


 黒いレインコートの男たちが追ってくる。


 一人は距離を詰めている。

 もう一人は、別の道へ回ろうとしている。


 逃げ道を読んでいる。


「右へ!」


 蓮が言った。


 高瀬は迷わず右へ曲がる。


 そこには、古い温室があった。


 ガラスの多くが割れ、鉄骨だけが残っている。


 中へ入れば、少しだけ身を隠せる。


 二人は温室の中へ飛び込んだ。


 雨音がガラスに当たり、細かい破片のように響く。


 高瀬が蓮の手首を掴んだ。


「こっち」


「放して」


「静かに」


 蓮は、反射的に振り払おうとした。


 しかし、高瀬の手は強くない。


 ただ、蓮が棚にぶつからないように方向を示しているだけだった。


 温室の奥には、古い園芸用具と、空のプランターが積まれている。


 二人はその陰へ身を寄せた。


 外を、黒いレインコートの影が通り過ぎる。


 雨音が大きい。


 互いの呼吸だけが、近くに聞こえる。


 蓮は壁に背をつけた。


 胸が苦しい。


 息を吸っても、空気が入りきらない。


 高瀬が、蓮の様子を見る。


「苦しいんですか」


「違う」


「違わない」


「大丈夫」


「立てますか」


「立てる」


「そのままでは危ない」


 高瀬の視線が、蓮のジャケットの裂け目へ向いた。


 雨に濡れた布が身体に張りつき、内側の補正具の固定部分が少しだけ見えている。


 蓮はすぐに腕で隠した。


「見るな」


「見ていません」


「見てる」


「あなたが倒れそうだから見ています」


「関係ない」


「関係あります」


 蓮は、目を閉じた。


 また同じ言葉だ。


 関係ある。

 関係ない。

 助ける。

 放っておけない。


 高瀬はいつも、それを繰り返す。


「その固定具、外した方がいい」


 高瀬が言った。


 蓮の目が開く。


「何で」


「呼吸を妨げている」


「外せない」


「なぜ」


「外したら」


 蓮は言葉を止めた。


 外したら、作っていた輪郭が崩れる。


 白石美琴ではなくなる。

 今夜の別の男でもなくなる。


 ただの相沢蓮になる。


 誰にも見せたくない、不安定な姿になる。


「外したら、何ですか」


 高瀬が聞いた。


 蓮は答えなかった。


 高瀬は、追及しなかった。


「あなたが自分で外せるなら、そちらを向きます」


「……」


「私は見ません」


「どうして信じろって言うんですか」


「言っていません」


 高瀬は、少し離れた場所へ移動した。


 背を向ける。


 温室の割れたガラス越しに、外の様子を確認している。


「見ない」


 高瀬は言った。


「あなたが決めてください」


 蓮はしばらく動かなかった。


 雨音。

 遠くの足音。

 自分の呼吸。


 そして、高瀬の背中。


 彼は本当にこちらを見ていない。


 蓮は、震える指でジャケットの内側へ手を入れた。


 補正具の留め具を探す。


 何度も使ってきたもの。


 普段なら、鏡の前で迷わず外せる。


 だが、今は手がうまく動かない。


 焦っている。

 息が苦しい。

 雨で指先が冷えている。


 ようやく留め具に触れる。


 一つ外す。


 胸の奥に空気が入る。


 もう一つ外す。


 身体を締めつけていた感覚が、少しずつ緩む。


 作り込んでいた輪郭が、衣服の下で変わる。


 胸部と腰回りに入れていたパッドも、固定を失ってずれる。


 それは、誰かに見せるための形だった。


 いま、その形だけがほどけていく。


 蓮は、目を閉じた。


 恥ずかしい。


 しかし、それ以上に、少しだけ楽だった。


「終わりました」


 蓮は言った。


 高瀬が振り返る。


 だが、蓮の顔しか見なかった。


「呼吸は」


「さっきよりは」


「歩けますか」


「歩けます」


「なら、出ましょう」


 高瀬は、それだけ言った。


 何も聞かない。


 何も暴かない。


 その態度が、蓮には余計に苦しかった。


 自分なら、もっと見たがる。


 相手が隠しているものを知りたがる。


 弱みを掴みたがる。


 高瀬はそうしない。


 それが、蓮には理解できなかった。


     *


 温室を出た時、黒いレインコートの男たちはまだ近くにいた。


 裏庭の出口を塞ぐように、二つの影が立っている。


 蓮と高瀬は、温室の反対側へ回った。


 そこには、古い石段がある。


 本館の地下倉庫へ続く、使われていない通路。


「下へ行くんですか」


 蓮が聞いた。


「他に道がない」


「地下は危ない」


「地上も危ない」


「あなた、本当に最悪の選択肢ばかり選びますね」


「今は、まだましな方です」


 高瀬は石段を下り始めた。


 蓮は後を追う。


 地下通路は暗かった。


 非常灯だけが点いている。


 壁には古い配管が走り、天井から水滴が落ちている。足元には、使われなくなった木箱や、破れたシートが積まれていた。


 蓮は、地上の雨音が遠ざかるのを感じた。


 代わりに、自分たちの足音が響く。


 隠れる場所がない。


 逃げる方向も少ない。


 だが、追ってくる者にとっても同じだ。


「高瀬さん」


 蓮が小さく言った。


「何ですか」


「あなた、さっきから私のことを白石さんって呼んでますよね」


「そうですね」


「本当の名前じゃない」


「知っています」


「だったら、どうして」


 高瀬は少しだけ歩みを緩めた。


「今、あなたが一番反応する名前だからです」


 蓮は、何も言えなかった。


「嫌なら、呼びません」


「……」


「何と呼べばいい」


 蓮は、足を止めそうになった。


 本当の名前を言えばいい。


 相沢蓮。


 ただ、それだけの名前。


 けれど、その名を高瀬に渡した瞬間、本当に何かが変わる気がした。


 白石美琴を名乗っていた頃は、いつでも捨てられた。

 今夜の男の姿も、明日には消せる。


 だが、本名は、捨てるたびに少しずつ自分を失う。


 蓮は、唇を開いた。


「……蓮」


 高瀬が立ち止まる。


「何ですか」


「蓮でいい」


 声は小さかった。


 地下通路の水滴の音に紛れそうな声。


 それでも、高瀬には届いた。


「蓮さん」


 高瀬は言った。


 その呼び方を聞いた瞬間、蓮は胸の奥が少しだけ痛くなった。


 白石美琴ではない。

 今夜作った別の男でもない。


 相沢蓮。


 その名前で呼ばれることが、こんなに不安になるとは思わなかった。


「余計なことを言った」


 蓮はすぐに言った。


「忘れてください」


「無理です」


「どうして」


「聞いたことを忘れる仕事ではないので」


「また仕事ですか」


「仕事です」


 蓮は、少し笑った。


 高瀬も、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。


 しかし、その瞬間、地下通路の奥で足音がした。


 黒いレインコートの男たちが、別の入口から回り込んできた。


「見つけたぞ」


 低い声。


 蓮の笑みが消える。


 高瀬は蓮の前へ出た。


「後ろへ」


「嫌です」


「蓮さん」


「あなた一人に任せるのは嫌です」


 高瀬が一瞬だけ蓮を見る。


 蓮は自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。


 高瀬を助けたいわけではない。


 ただ、ここで高瀬がいなくなれば、自分は完全に一人になる。


 そのことが怖かった。


「紙を出せ」


 レインコートの男が言った。


 蓮は内ポケットを押さえた。


 紙片は、まだある。


 三枝。


 ただの名前かもしれない。


 それでも、向こうは欲しがっている。


「誰が送ったんです」


 蓮が聞いた。


「答える必要はない」


「三枝って誰ですか」


「黙れ」


「川島の関係者ですか」


 男の目が、わずかに動いた。


 それだけで、蓮にはわかった。


 当たっている。


 川島宗一の周辺にいる誰か。


 旧鳳栄ホテルの取引を知っている人間。


 そして、おそらくは、川島の書類を巡る争いに関わっている人間。


「三枝は、川島の取引相手なんですね」


「黙れ!」


 男が一歩踏み込んだ。


 高瀬が前へ出る。


 狭い通路で、三人の距離が縮まる。


「警察に連絡しました」


 高瀬が言った。


「もうすぐ来ます」


「またそれか」


「前にも聞きましたか」


 高瀬の声は静かだった。


 男が苛立ったように腕を振る。


 高瀬はそれを避け、通路の壁へ押し返す。


 派手な格闘ではない。


 誰かが誰かの進路を塞ぎ、押しのけ、逃げ道を奪うだけの短い攻防。


 しかし、地下通路は狭い。


 一度身体がぶつかれば、誰かが転ぶ。


 蓮は後ろへ下がった。


 その時、もう一人の男が横から回り込んだ。


 蓮の肩を掴む。


「紙を寄越せ」


「放せ!」


 蓮は振り払おうとする。


 しかし、相手の力が強い。


 ジャケットの裂けた部分を掴まれ、布が引っ張られる。


 肩のあたりで、ウィッグの固定が完全に外れた。


 黒い髪が、床へ落ちる。


 男の手が、その髪を掴んだ。


 蓮は息を止めた。


「何だ、これ」


 男が言った。


 その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭の中が真っ白になった。


 高瀬ではない。


 知らない男。


 敵。


 自分を消そうとしている相手。


 その相手に、外側の偽装を掴まれている。


「離せ!」


 蓮は叫んだ。


 男はウィッグを引いた。


 蓮の頭から、完全に外れる。


 短い地毛が露わになる。


 雨と汗で崩れた化粧が、目元から頬へ薄く滲んでいる。


 白石美琴の顔でもない。

 今夜作った別の男の顔でもない。


 ただ、蓮の顔がそこにあった。


 蓮は一瞬、動けなくなった。


 相手に見られた。


 隠していたものが、強引に外された。


 もう戻せない。


 その時、高瀬が男の腕を掴んだ。


「離せ」


 声が低くなる。


 男は振り返る。


「何だ、おまえ」


「今すぐ離せ」


「探偵気取りか」


「探偵です」


 高瀬は、初めてはっきりと言った。


「黒瀬調査室の黒瀬真琴。あなたたちの顔も、動きも、ここへ入った経路も記録している」


 蓮は顔を上げた。


 黒瀬真琴。


 高瀬誠司ではない。


 高瀬は偽名だった。


 探偵。


 そこまでは、蓮も疑っていた。


 しかし、男の名を使っていた人物が、黒瀬真琴という名前を名乗る。


 その情報だけが、蓮の頭の中でまだ結びつかない。


 黒いレインコートの男が、蓮のウィッグを手放した。


 床に落ちた髪が、濡れたコンクリートに広がる。


 高瀬――黒瀬真琴は、男の腕を押さえ、通路の壁へぶつけた。


 もう一人の男は、逃げ道を探す。


 蓮は、床に落ちた紙片を見つけた。


 争いの拍子に、内ポケットから落ちている。


 三枝と書かれた紙。


 男の一人が、それへ手を伸ばす。


 蓮は先に拾った。


 そして、反対側の通路へ走った。


「蓮さん!」


 真琴の声がした。


 蓮は振り返らない。


 また逃げる。


 また、逃げるしかない。


 その時、背後で鈍い音がした。


 誰かが真琴を押し倒した音。


 蓮の足が止まる。


 自分は逃げられる。


 ここで曲がれば、別館の地下出口へ出られる。


 真琴は、蓮を追ってきた。

 蓮を疑っていた。

 蓮の偽装を見た。


 置いていけばいい。


 そうすれば、また別の名前になれる。


 また消えられる。


 蓮は、それまでなら迷わなかった。


 だが、背後から聞こえたのは、真琴が短く息を詰める音だった。


 苦痛の声ではない。


 それでも、蓮の足を止めるには十分だった。


 蓮は、苛立ったように息を吐いた。


「最悪だ」


 誰に向けた言葉かわからない。


 自分に向けた言葉かもしれない。


 蓮は戻った。


     *


 地下通路では、真琴が男の一人と押し合っていた。


 もう一人は、蓮を追おうとしていたが、蓮が戻ってきたことに気づく。


 蓮は近くにあった古い消火器を掴んだ。


 使い方を考える余裕はない。


 ただ、男の足元へ転がす。


 金属の音が響く。


 男が反射的に足を引く。


 その隙に、真琴が体勢を立て直す。


「走って!」


 真琴が言った。


「今度は置いていかないでください!」


 蓮は叫んだ。


「あなたが先に逃げたでしょう!」


「戻りました!」


「それは見ています!」


 こんな状況で、なぜ会話が続くのか。


 蓮は自分でもわからなかった。


 二人は再び通路の奥へ走った。


 黒いレインコートの男たちは、追ってこなかった。


 遠くで何かを蹴る音。

 怒鳴り声。

 そして、別の出口へ向かう足音。


 逃げたのか。

 警察の気配を察したのか。


 どちらにしても、今は近くにいない。


 蓮と真琴は、地下通路の先にある小さな機械室へ入った。


 扉を閉める。

 内側から、壊れた棚を押しつける。


 完全には塞げない。


 だが、少しだけ時間を稼げる。


 機械室は狭かった。


 古いボイラー。

 錆びた配管。

 壁にかかった工具。

 床に積もった埃。


 蓮は壁に背をつけ、しゃがみ込んだ。


 手には、濡れた紙片。


 足元には、外された黒いウィッグ。


 顔の化粧は、もうほとんど残っていない。


 真琴は数歩離れた場所に立っていた。


 彼女も濡れている。


 スーツの肩には埃がつき、髪は少し乱れている。


 高瀬誠司という姿を作っていたものは、まだ残っている。


 低い声。

 短い髪。

 男物のスーツ。


 だが、彼女は自分で言った。


 黒瀬真琴。


 探偵。


 蓮は、しばらく何も言えなかった。


 真琴も、すぐには話さなかった。


 外の音を聞いている。


 扉の前に誰かが来ないか。

 足音が近づかないか。

 男たちが戻らないか。


 しばらくして、真琴が言った。


「怪我は」


「ありません」


「本当に」


「大丈夫です」


「またその答えですね」


 蓮は、少しだけ笑った。


「数えてるじゃないですか」


「数えていません」


「嘘です」


「今のは、本当に数えていません」


 蓮は笑いかけて、すぐに顔を伏せた。


 笑っている場合ではない。


 自分の姿は崩れている。


 ウィッグは床に落ちている。

 化粧は雨で消えている。

 補正具も外している。

 ジャケットは裂けている。


 白石美琴は、ここにはいない。


 今夜の別の男も、ここにはいない。


 相沢蓮だけがいる。


 真琴は、蓮を見ている。


 しかし、ホテルで高瀬として会った時のように、何かを暴こうとする目ではなかった。


「黒瀬真琴」


 蓮が言った。


「はい」


「高瀬誠司は、偽名だったんですね」


「そうです」


「最初から私を騙していた」


「仕事のためです」


「便利な言葉ですね」


「また言いましたね」


「もう言わない」


「言ってもいいです」


 蓮は、真琴を見た。


「あなた、女なんですか」


 言った後で、蓮はすぐに後悔した。


 聞くべきではなかった。


 自分が、外見だけで何かを決めつけられるのを嫌がっているのに。


 真琴は少し黙った。


 怒ったようには見えない。


「私は黒瀬真琴です」


 真琴は言った。


「探偵です。それ以上は、今は関係ない」


 蓮は目を伏せた。


「すみません」


「謝る必要はありません」


「でも」


「あなたが混乱しているのはわかります」


 真琴は続けた。


「でも、私が男に見えたことも、女に見えたことも、今の事件の本筋ではない」


 蓮は、その言葉を聞いて黙った。


 自分なら、もっと違う言い方をする。


 相手が隠していたものを見つければ、そこに執着する。


 真琴はしない。


 それが、やはり理解できなかった。


「あなたは」


 真琴が言った。


「何をしている人ですか」


 蓮は笑った。


「今さらですか」


「今さらです」


「犯罪者です」


 真琴の表情は変わらない。


「何をした」


「人の金を盗んだ。名前を使った。情報を渡した。嘘をついた」


「今は」


「今は、よくわかりません」


 蓮は紙片を見た。


「この紙を持ってから、何が本当で何が嘘なのか、わからなくなった」


「三枝とは誰ですか」


「知りません」


「川島宗一との関係は」


「知りません」


「黒いレインコートの男たちは」


「知らない」


「本当に?」


 蓮は、真琴を見た。


「本当に知らない」


 その声には、嘘がなかった。


 真琴は少しだけ頷いた。


「わかりました」


「信じるんですか」


「まだ信じてはいません」


「じゃあ、何で」


「あなたが知らないと言った時の顔が、作ったものではなかった」


 蓮は、目を逸らした。


 作ったものではない顔。


 そんな言い方をされると、何も言えなくなる。


「でも」


 真琴が続ける。


「あなたが過去に犯罪をしていないという意味ではない」


「そうでしょうね」


「あなたが何を盗み、誰に渡してきたかは、これから確認する」


「捕まえるんですか」


「必要なら」


「必要なら」


「今は、あなたも狙われている」


 蓮は、床に落ちたウィッグを見た。


「あなたは、私を助けるんですね」


「今は」


「どうして」


「あなたが死ねば、誰かがまた嘘を残す」


 蓮は顔を上げた。


「何ですか、それ」


「あなたが死ねば、あなたがしたことの後始末を、また別の誰かがする」


 真琴の声は低かった。


「被害を受けた人。あなたを使った人。あなたが使った偽名の持ち主。あなたを追う人。皆が、それぞれ別の形で困る」


 蓮は黙る。


「あなたが自分をどう思っていても、あなたが消えれば終わるわけじゃない」


 真琴は言った。


「だから、生きて説明してください」


 その言葉が、蓮の胸に残った。


 生きて説明する。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 これまでの蓮は、いつも消えるために生きていた。


 別の名前になる。

 別の場所へ移る。

 別の顔になる。

 痕跡を残さない。


 誰にも説明しない。

 誰にも見つからない。

 誰にも、自分のことを知らせない。


 それが安全だと思っていた。


 だが真琴は、逆のことを言う。


 逃げるな。

 消えるな。

 生きて、説明しろ。


 蓮には、その方がずっと怖かった。


     *


 機械室の外で、遠くからサイレンの音が聞こえた。


 警察か。

 消防か。

 ホテル側が通報したのか。


 真琴が壁際へ寄り、スマートフォンを確認する。


「九条さんです」


「誰ですか」


「助手」


「あなた、一人じゃないんですね」


「一人では仕事になりません」


「高瀬誠司も、黒瀬真琴も、全部あなたの側なんですね」


「高瀬は偽名です」


「真琴は本名?」


 真琴は少しだけ目を細めた。


「確認したいなら、調べてください」


 蓮は、思わず笑った。


 昨夜、真琴が言った言葉だ。


 自分を調べればいい。

 自分で確認すればいい。


 真琴は、同じやり方で蓮に返している。


「九条さんが、本館側に警察が来たと言っています」


 真琴が言った。


「地下出口の一つが見つかったらしい。ここもそのうち確認される」


「じゃあ、ここにいれば」


「見つかります」


「私は捕まる」


「可能性はあります」


「あなたは、それでいいんですか」


「証拠があれば」


 蓮は笑みを消した。


「容赦ないですね」


「探偵ですから」


「また便利な言葉だ」


「本当です」


 真琴は扉の方を見る。


「でも、外にいる連中が先にあなたを見つけるよりは、警察に見つかる方がいい」


 蓮は、紙片を握る。


 三枝。


 この紙があれば、自分は狙われ続ける。


 警察に渡せば、自分の過去も出る。

 組織へ渡せば、消される。

 捨てれば、何もわからないまま逃げることになる。


 どの選択肢も、安全ではない。


「蓮さん」


 真琴が言った。


「何ですか」


「紙を見せてください」


 蓮は、しばらく動かなかった。


 真琴の視線は、紙片に向いている。


 奪おうとしているようには見えない。


 ただ、見せてほしいと言っている。


 蓮は紙片を差し出した。


 真琴は受け取る。


 濡れた紙を慎重に開く。


 非常灯の赤い光では読みにくい。


 真琴はスマートフォンのライトを弱く点けた。


 紙片には、かすれた文字がある。


 ――三枝。


 その下。


 数字に見えたものは、よく見ると住所の一部だった。


 『三枝倉庫 第二保管区画』


 そして、右端には別の文字が残っている。


 『川島資料』


 真琴は息を止めた。


「三枝は、人名ではない」


「何ですか」


「倉庫の名前か、会社名」


「三枝倉庫」


「おそらく」


 真琴は紙片を見つめる。


「川島の資料が、そこに保管されている」


「じゃあ、黒い連中は」


「その資料を探している。あなたが持っている紙が、保管場所へ繋がる手がかりだった」


 蓮は、少しだけ笑った。


「それだけのことだったんですか」


「それだけではありません」


 真琴は答えた。


「川島がホテルで誰かと会う予定だった。別館の保管庫に何かを残した。第七倉庫で、あなたから紙を奪おうとした人間がいた」


「全部繋がってる」


「ええ」


「でも、誰が何をしてるんです」


「それを調べる」


 蓮は、真琴の顔を見た。


「あなたは、また行くんですか」


「行きます」


「三枝倉庫へ?」


「必要なら」


「危ないですよ」


「知っています」


「危険な場所に行くなって、いつも私に言ってるのに」


「あなたは一人で行くから危ない」


「あなたは一人じゃないんですか」


 真琴は少しだけ黙った。


「九条さんがいます」


「でも、現場には一人で来る」


「仕事ですから」


 蓮は、思わず顔をしかめた。


「その言葉、もう禁止にしましょう」


 真琴は、一瞬だけ笑った。


 短い笑みだった。


 高瀬誠司としていた時には見せなかった表情。


 その顔を見て、蓮は初めて、真琴が自分と同じ年頃の女性なのだと理解した。


 ただし、その理解に何の意味があるのか、蓮にはまだわからなかった。


     *


 機械室の外で、誰かが走る音がした。


 真琴の表情が変わる。


 足音は、警察のものではない。


 急いでいるが、複数いる。

 そして、足音が建物の構造を知っている者の動きだ。


「来た」


 真琴が小さく言った。


「黒い連中?」


「たぶん」


「どうするんです」


 真琴は周囲を見る。


 機械室には、古い配管が走っている。

 奥には小さな点検口がある。


 人が一人ずつなら通れそうな隙間。


「ここから出ます」


「また狭いところですか」


「他に道がない」


「本当に最悪ですね」


「そうですね」


 蓮は、外されたウィッグを見た。


 持っていくか。

 置いていくか。


 今の自分にとっては、ただの髪の塊に見える。


 けれど、それを置いていけば、今夜ここにいた誰かが、また一つの姿を失う気がした。


 蓮はウィッグを拾い、ジャケットの内側へ押し込んだ。


 真琴は何も言わない。


「行きますよ」


 真琴が言った。


「待って」


 蓮は、紙片を見た。


「これ、あなたが持っていてください」


 真琴が顔を上げる。


「なぜ」


「私が持っていたら、また狙われる」


「私が持っていても狙われます」


「あなたなら、狙われる理由を知っている」


「蓮さんは」


「私は、知らない」


 真琴は少し黙った。


 そして、紙片を受け取った。


「預かります」


「返してくださいね」


「必要なら」


「そこは、返すって言ってください」


「証拠品になるかもしれないので」


「本当に容赦ない」


「あなたが盗んだものなら、返せません」


「盗んでないものです」


「それは確認します」


 蓮は、少しだけ笑った。


 笑える状況ではない。


 それでも、真琴との会話が続くと、ほんの少しだけ自分がまだ生きている気がした。


 真琴は点検口の蓋を外した。


 中は細い保守用通路になっている。


 湿気と油の匂い。

 低い天井。

 人が体をかがめて進むしかない狭さ。


「先に行きます」


 真琴が言う。


「いや、私が」


「危ない」


「あなたも同じことを言われるのは嫌でしょう」


 真琴は、少しだけ目を見開いた。


 蓮は続ける。


「私が先に行く。何かあれば戻る」


「蓮さん」


「大丈夫です」


 真琴が言いかける。


 蓮は笑った。


「数えないでください」


 真琴は一瞬黙り、それから言った。


「わかりました。先に行ってください」


 蓮は点検口へ身体を入れた。


 狭い。


 だが、さっき補正具を外したため、身体は少し動かしやすい。


 これまでなら、外見を維持するために無理をしていた。


 いまは、誰にどう見られるかより、進めるかどうかの方が大事だった。


 そのことに気づいて、蓮は少しだけ苦笑した。


 自分はいつも、形を作ることに必死だった。


 誰かに見せる顔。

 誰かに信じさせる声。

 誰かに安心させる姿勢。


 しかし、その形は、必要な時に自分を助けてくれない。


 息が苦しい時。

 走らなければならない時。

 狭いところを抜けなければならない時。


 作った形は、ただ重かった。


 蓮は前へ進んだ。


 背後で、真琴が続く。


 しばらく進むと、通路の先に格子が見えた。


 外の空気が入ってくる。


 本館の地下駐車場へ繋がっているらしい。


「出口です」


 蓮が言った。


 その瞬間、背後で大きな音がした。


 機械室の扉が破られる音。


 誰かが入った。


「急いで!」


 真琴の声。


 蓮は格子を押した。


 古い鍵がかかっている。


 しかし、錆びついた金具を何度か押すと、外れた。


 格子が開く。


 蓮は先に外へ出た。


 地下駐車場は薄暗かった。


 数台の車が停まっている。


 その奥に、白いワゴン車が見えた。


「九条さん!」


 真琴が言った。


 ワゴン車の運転席から、男が降りてくる。


 年上の男性。

 落ち着いた表情。

 蓮を一度見てから、真琴へ視線を向ける。


「無事ですか」


「今は」


「彼が」


「蓮さん」


 真琴が言った。


 九条は、その名前を聞いて少しだけ目を動かした。


 だが、何も言わない。


「乗って」


 真琴が蓮へ言った。


「どこへ」


「安全な場所へ」


「警察は」


「まだ来ています。ここへも来る」


「私は」


「今は、黒い連中から離れる」


「それでいいんですか」


「今は」


 蓮は、ワゴン車を見た。


 知らない車。

 知らない男。

 探偵の仲間。


 乗れば、自分は逃げられなくなるかもしれない。


 乗らなければ、黒い連中に見つかるかもしれない。


 どちらも安全ではない。


 だが、真琴は紙片を持っている。


 そして、蓮の本当の名前も知っている。


 いまさら、完全に切り離すことはできない。


 蓮は、ゆっくりと車へ近づいた。


「一つだけ約束してください」


 真琴が言う。


「何ですか」


「次に、知らない番号から呼び出されても、一人で行かない」


 蓮は笑った。


「あなたに連絡するんですか」


「そうです」


「あなた、私が犯罪者だってわかってますよね」


「わかっています」


「それでも」


「あなたが死ぬよりはましです」


 蓮は、少しだけ黙った。


「そういう言い方、ずるいですよ」


「事実です」


 蓮は車の後部座席に乗り込んだ。


 ドアが閉まる。


 ワゴン車は地下駐車場を出た。


 別館の出口では、警察車両の赤い光が反射している。


 旧鳳栄ホテルの本館は、遠くで静かに明るかった。


 何も知らない客たちは、まだロビーで会話をしているかもしれない。


 そのすぐそばで、誰かが嘘を作り、誰かがそれを奪い、誰かが消そうとしていた。


 蓮は窓に映る自分を見た。


 濡れた短い髪。

 崩れた化粧。

 裂けたジャケット。


 白石美琴は、そこにいない。


 だが、相沢蓮もまだ、完全にはそこにいない。


 名前を言った。

 紙を渡した。

 探偵の車に乗った。


 それだけで、何かが変わった。


 後部座席の前で、真琴が振り返る。


「蓮さん」


「何ですか」


「三枝倉庫について、明日までに調べます」


「私も調べる」


「一人で?」


「あなたに連絡します」


 言ってから、蓮は少し驚いた。


 自分からそう言うとは思わなかった。


 真琴は、短く頷いた。


「それでいい」


 ワゴン車は夜の道路へ出る。


 雨はまだ降っている。


 だが、蓮の胸を締めつけていたものは、少しだけ緩んでいた。


 外側の形が崩れたことで、何かを失った。


 しかし同時に、ようやく息ができるようになった気もしていた。


 第四話 終


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