第五話 最後の証明
朝の光は、どこにいても同じように残酷だった。
黒瀬調査室の奥にある小さな休憩室で、相沢蓮は目を覚ました。
薄いカーテンの隙間から、白い光が床へ落ちている。古いソファに横になったまま、しばらく天井を見ていた。昨夜、旧鳳栄ホテルの別館を出てから何があったのか、身体の感覚だけが先に思い出してくる。
雨。
地下通路。
濡れた石畳。
床に落ちた黒いウィッグ。
そして、自分の名を呼ぶ声。
蓮さん。
それが耳に残っていた。
白石美琴ではない。
その場しのぎに作った別の男の名前でもない。
相沢蓮。
自分の名前を他人の口から聞くことに、これほど落ち着かない気分になるとは思わなかった。
起き上がろうとすると、肩と背中に鈍い痛みが走った。昨夜、何度も壁や床にぶつけたせいだろう。骨が折れているわけではない。動かせる。だから問題ない、と蓮は自分に言い聞かせた。
しかし、身体の痛みよりも、机の上に置かれた透明な証拠袋の方が目についた。
中には、濡れて乾ききっていない黒いウィッグが入っている。
その隣には、裂けたジャケットのボタン。
さらに、蓮が使っていた偽装用の小物や紙片が、雑にではなく、丁寧に分けて置かれていた。
黒瀬真琴は、勝手に捨てなかった。
それが蓮には、かえって居心地が悪かった。
消してほしいものまで、勝手に消さずに残す。
見られたくないものまで、見なかったふりをしながら保管する。
真琴は、そういう人間だった。
「起きましたか」
休憩室の扉が半分だけ開き、真琴が顔を出した。
昨夜の濃紺のスーツではない。淡い灰色のシャツに黒いパンツ。短い髪も、昨日までの「高瀬誠司」として整えられた形ではなく、寝起きのまま軽く直した程度だった。
それでも、背筋だけは妙にまっすぐだった。
「勝手に人の寝顔を見ないでください」
蓮は言った。
「見ていません」
「今、顔を見たでしょう」
「起きているか確認しました」
「便利な言葉ですね」
真琴は少しだけ口元を緩めた。
「朝から言いますか」
「使えるものは使います」
「そういうところだけは元気ですね」
「元気じゃありません」
「知っています」
真琴は扉を大きく開けた。
「九条さんが、三枝倉庫について調べた結果をまとめています。歩けますか」
「歩けます」
「本当に」
「大丈夫です」
真琴は一拍置いた。
「今ので三回目です」
「数えてるじゃないですか」
「今回は数えました」
蓮は返す言葉を失った。
真琴は先に廊下へ出た。蓮はソファから立ち上がり、証拠袋の中のウィッグを見た。
自分で作った顔。
自分で選んだ髪。
必要になれば、いつでも捨てられるはずだったもの。
今は、妙に遠い。
*
調査室の壁には、昨夜までなかった紙が増えていた。
旧鳳栄ホテル。
川島宗一。
三枝倉庫。
第七倉庫。
別館保管庫。
黒いレインコートの男たち。
それぞれの名前と場所が、細い線で繋がれている。
九条岳人は、机の上に並べた資料を指先で整えながら、蓮を見るなり言った。
「顔色は悪いですが、話は聞けますか」
「大丈夫です」
九条は真琴を見た。
「今ので四回目です」
「九条さんまで数えないでください」
「黒瀬さんが数え始めたので」
「私は悪くないです」
「誰も責めていません」
蓮は椅子へ座った。
目の前には、昨夜真琴へ渡した紙片の拡大画像が置かれている。
そこには、確かに読める文字があった。
『三枝倉庫 第二保管区画』
『川島資料』
『返礼会』
最後の一語だけは、紙の端で途切れている。
「返礼会?」
蓮が聞く。
「今日の夜、旧鳳栄ホテル本館で開かれる小規模な会合です」
九条が答えた。
「昨日の慈善展示会で高額の寄付や協賛をした関係者を集めた、形式上はお礼の会。表向きは食事会ですが、川島宗一が関係者と個別に話す場にもなっている」
「またホテルですか」
蓮は低く言った。
「昨日、あれだけ騒ぎになったのに」
「だからこそです」
真琴が答えた。
「川島側は、昨日の騒ぎを外部の侵入者による一時的な混乱として処理したい。表向きの会を中止すれば、関係者に余計な疑念を持たれる」
「三枝倉庫は何なんです」
蓮は紙を見た。
九条は一枚の登記資料の写しを差し出した。
「三枝倉庫株式会社。表向きは美術品や家具、ホテル設備の保管と輸送を扱う会社です。ただし、実際の保管実績と帳簿の数字が一致しません。少なくとも過去三年、川島が関わった複数の美術取引で、品物の移動経路と保管記録に不自然な空白がある」
「偽物を本物として売った?」
蓮が聞く。
「そこまではまだ断定できません」
真琴が言った。
「ただ、寄付金の一部や取引手数料が、正規の会計を通らずに三枝倉庫の名義で動いている形跡がある。昨日の資料は、その流れを示す帳簿か、取引先の一覧だった可能性が高い」
「川島は、それを隠すために」
「人を使っている」
九条は言った。
「黒いレインコートの二人は、おそらく川島の直接の部下ではない。回収役です。誰かが持ち出した資料を奪い返し、口を閉ざさせるために動いている」
蓮は、机の端に置かれた自分のスマートフォンを見た。
昨夜から、何通も通知が来ている。
すべて、名前のない番号からだった。
『高瀬は誰だ』
『紙はどこだ』
『置けと言った』
『返礼会で終わらせる』
最後の一通だけ、今朝届いていた。
『白石美琴で来い』
蓮は、その画面を真琴へ見せなかった。
見せれば止められる。
止められるのが当然だと、頭ではわかっていた。
それでも、画面を伏せた。
「蓮さん」
真琴が言う。
「何か、来ていますか」
「どうして」
「今、スマートフォンを隠した」
「隠してません」
「画面を伏せた」
「普通のことです」
「あなたは、普通のことをする時ほど、先に言い訳をします」
蓮は黙った。
真琴は手を差し出した。
「見せてください」
「嫌です」
「蓮さん」
「嫌だ」
声が少し強くなった。
九条が視線を上げる。
蓮は自分でも、子どものような言い方だと思った。
だが、ここで画面を渡せば、白石美琴を使う最後の機会が消える。
そして、自分が何かを決める余地もなくなる。
「あなたは、私を捕まえるんでしょう」
蓮は真琴を見た。
「なら、今ここでスマートフォンを取り上げてください。私は抵抗しません」
真琴はすぐには動かなかった。
「捕まえるかどうかは、私が決めることではありません」
「じゃあ誰が決めるんです」
「証拠と、あなたが何をしたかです」
「同じでしょう」
「違います」
真琴の声は静かだった。
「私は、あなたの行動を止めることはできる。でも、あなたの人生を代わりに決めることはできない」
蓮は笑った。
「それ、責任を取りたくないだけじゃないですか」
九条が少し眉を寄せた。
だが、真琴は怒らなかった。
「そう見えるなら、そうかもしれません」
「否定しないんですね」
「否定する理由がない」
真琴は続けた。
「でも、私はあなたに一つだけ言える。今夜、白石美琴として会場へ行けば、あなたを狙っている人間は確実に動く」
「だから行くんです」
「その結果、あなたがまた誰かの道具になる」
「もうなってます」
蓮はスマートフォンを握りしめた。
「川島側にも、こっちの連中にも、私は道具です。なら、最後に一回くらい、自分で使い方を決めたい」
部屋の空気が止まった。
真琴は、蓮の顔を見ていた。
白石美琴を作る前の顔。
崩れた化粧も、濡れた髪もない顔。
ただ、疲れている顔。
「最後に一回、という言葉は信用しません」
真琴が言った。
「犯罪をやめる人間ほど、最後の一回を使って自分を許そうとする」
蓮の指が止まる。
「あなたは、私がまた盗むと思ってる」
「思っています」
「正直ですね」
「あなたが昨日まで何をしていたかを忘れたわけではない」
「じゃあ、どうして止めない」
「止めます」
真琴は言った。
「ただし、あなたの足を縛って部屋に閉じ込めるという意味ではない。今夜の会場には、警察に情報提供済みの協力者を入れる。あなたが一人で動かないなら、行くこと自体は止めない」
「協力者?」
「捜査に支障がない範囲で、です」
九条が補足する。
「川島が持つ資料を確保できれば、三枝倉庫の記録を正式に押さえられる可能性があります。あなたが呼び出されているなら、相手はあなたを使って資料の場所か所在を確かめるつもりかもしれない」
「私が餌になる」
蓮が言う。
「そういう言い方はしたくありません」
真琴は答えた。
「でも、相手があなたを狙うなら、その事実は使う」
「やっぱり同じじゃないですか」
「違う」
真琴は、視線を逸らさずに言った。
「あなたに選ぶ余地がある。嫌なら、行かない。行くなら、あなたが何をするか、何をしないかを自分で決める」
蓮は机の上のウィッグを見た。
白石美琴。
誰にも覚えられず、誰かに助けられそうで、誰にも警戒されない女。
自分が作った、便利な逃げ道。
それを使えば、また何かを奪える。
それを使えば、また誰かに疑われる。
それを使えば、また自分の名前から遠ざかれる。
それでも、今夜の相手は白石美琴を呼んでいる。
相手は、その名を知っている。
ならば、白石美琴を消すだけでは終わらない。
「行きます」
蓮は言った。
「でも、盗まない」
真琴は少し黙った。
「それを、私に約束するんですか」
「自分にです」
蓮は答えた。
「今夜、私は何も盗まない」
*
午後になると、調査室の空気は急に忙しくなった。
九条は電話を何本もかけ、ホテル周辺の配置を確認し、真琴は資料の写しを整理していた。警察との連絡について、詳しい話は蓮には聞かせなかった。
聞かせる必要がないことは聞かせない。
その線引きは、蓮には不満だった。
だが、これまで自分が他人へしてきたことを思えば、文句を言える立場ではないとも思った。
夕方になると、真琴は蓮へ紙袋を渡した。
「これ」
「何ですか」
「服です」
中には、白いブラウスと薄いグレーのスカート、控えめなパンプス、そして使い慣れた淡い色のウィッグが入っていた。
蓮はしばらく袋の中を見た。
「あなたが用意したんですか」
「九条さんが、昨日の入場記録から似たものを用意しました」
「似たもの」
「白石美琴として会場に入るなら、昨日の印象から大きく変えない方がいい」
真琴は言った。
「ただし、補正具は使わないでください」
蓮の手が止まる。
「どうして」
「昨日、呼吸が苦しくなっていた」
「それは、走ったからです」
「走る可能性がある場所へ行くなら、なおさら使わない」
「白石美琴に見えなくなる」
「見えなくてもいい」
「よくない」
蓮は声を強めた。
「あなたは簡単に言うけど、外側を作らないと、見られ方が変わるんです。人は顔だけを見てるんじゃない。立ち方も、服の線も、声も、全部まとめて一人の人間だと思う」
「知っています」
「知ってるなら」
「でも、命より優先するものではない」
真琴の返答は迷いがなかった。
蓮は、紙袋を握ったまま黙った。
「あなたがどういう姿で人前に立つかを、私が決めるつもりはない」
真琴は続けた。
「ただ、苦しくなるほど身体を締めつけて、逃げられなくなる形を選ぶなら止める。犯罪者だからではない。あなたが倒れるからです」
蓮は袋の中の服を見た。
白石美琴を作るために、いつも必要だったもの。
今夜は、それを全部使わなくていい。
それだけで、美琴が半端になる気がした。
しかし、半端なまま会場へ行くことが、今の自分に必要なのかもしれないとも思った。
「わかりました」
蓮は言った。
「使いません」
真琴は頷いた。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃない」
「そうですね」
「便利な言葉」
「今、言おうとしました」
真琴は一瞬だけ笑った。
それから、机の引き出しを開け、小さな無線機を取り出した。
「これを持ってください」
「盗聴器?」
「連絡用です。危険を感じたら、短く言ってください」
「何て」
「『出口』でいい」
「それだけ?」
「それだけで十分です」
蓮は無線機を受け取った。
掌に収まる小さな機械。
誰かと繋がるための道具。
これまで蓮が持っていた通信手段は、命令を受けるためか、嘘を伝えるためのものだった。
助けを求めるために使うのは、初めてだった。
*
鏡の前で、蓮は白石美琴を作った。
淡い色のウィッグをかぶる。
眉の角度を整える。
目元の印象を柔らかくする。
口紅は、目立たない色を選ぶ。
手順そのものは変わらない。
違うのは、鏡の横に真琴が立っていることだった。
真琴は、何も口を出さない。
蓮がブラシを持ち、髪を整えるのを見ている。
しかし、評価する目ではない。
「見てますよね」
蓮が言う。
「見ています」
「見ないって言ったのに」
「昨日は、あなたが外す時の話です」
「都合がいい」
「あなたが手を止めるなら、出ます」
「止めてません」
蓮は鏡を見た。
そこには白石美琴がいた。
昨日までより、少しだけ違う。
身体の線を極端に整えるものを使っていない。
そのため、以前の「完成された輪郭」ではない。
けれど、白石美琴の顔は残っている。
そのことに、蓮は少しだけ安心した。
「真琴さん」
呼んでから、自分でも驚いた。
高瀬ではなく。
探偵でもなく。
真琴さん。
真琴は鏡越しに顔を上げた。
「何ですか」
「あなたは、今夜どうするんです」
「会場にいます」
「高瀬として?」
「違います」
「じゃあ、どんな姿で」
真琴は少し考えた。
「黒瀬真琴として」
「それで大丈夫なんですか」
「誰にとって」
「相手に、昨日の高瀬だって気づかれたら」
「気づかれるかもしれません」
「危ないですよ」
「知っています」
蓮は、思わず振り返った。
「その言葉、私が言った時は止めるでしょう」
「あなたは一人で行くから止める」
「真琴さんも一人じゃないんですか」
「九条さんが近くにいます」
「それ、昨日も聞きました」
「だから、今夜も言います」
蓮は、何か言い返そうとしてやめた。
真琴の短い髪。
黒いジャケット。
飾りのない姿。
男装というより、ただ仕事のために動きやすい格好を選んでいるようにも見えた。
それでも、ホテルで見た高瀬誠司とは明確に違う。
蓮は今になって、あの時の自分がどれほど見た目だけで判断していたのかを思った。
女に見えるもの。
男に見えるもの。
疑われないもの。
警戒されないもの。
自分はそれを道具として扱ってきた。
真琴は、そこに線を引こうとしない。
ただ、誰が何をしたかを見る。
「今夜、私はあなたを見失わない」
真琴が言った。
「でも、白石美琴を追うわけじゃない」
「じゃあ何を追うんです」
「相沢蓮の選ぶ行動を追う」
蓮は鏡の中の自分を見た。
白石美琴の顔。
相沢蓮の名前。
どちらも消えずに残っている。
*
旧鳳栄ホテルの本館は、昨日と同じように明るかった。
ただし、集まっている人間の数は少ない。
返礼会は、正式な宴会というより、関係者だけの私的な集まりだった。ロビーには花が飾られ、小さな弦楽四重奏の音が流れている。来場者たちは静かに会釈を交わし、グラスを手にしていた。
華やかで、落ち着いていて、何も問題が起きていないように見える。
だからこそ、蓮は気持ち悪かった。
昨日、同じ建物の別館では、誰かが自分を閉じ込め、紙片を奪おうとした。
その一方で本館は、何事もなかったように人を迎えている。
建物は、記憶を持たない。
人間だけが、都合よく忘れたり、隠したりする。
「白石様ですね」
受付のスタッフが言った。
「お待ちしておりました」
蓮は、控えめに笑った。
「急にご招待いただいて、驚きました」
「川島様のご意向です。本日は、ご寄付に関心をお寄せいただいた方々に改めてご挨拶をと」
「そうなんですね」
嘘だ。
川島が白石美琴を呼んだのは、挨拶のためではない。
自分が何を持っているのか、どこまで知っているのか、確かめるためだ。
蓮は会場へ入った。
真琴の姿は見えない。
だが、どこかにいる。
それがわかっているだけで、昨日までの会場とは違って見えた。
人の流れ。
出口。
スタッフの位置。
壁際の扉。
蓮は相変わらず確認している。
ただし、今日は一人で確認しているわけではない。
胸元の無線機が、服の下で小さく触れている。
誰かと繋がっている。
それが怖くもあり、少しだけ頼もしかった。
「白石さん」
低い声がした。
川島宗一だった。
灰色の髪をきれいに撫でつけ、濃い色のスーツを着ている。昨日と同じように、周囲の人間が自分へ気を遣うことを当然だと思っている顔だった。
「昨日は、楽しんでいただけましたか」
「はい。貴重なものをたくさん拝見できました」
「それはよかった」
川島は、薄く笑った。
「ただ、昨日は少し騒がしかった。お若い方には、驚かれたでしょう」
「そうですね」
「大切なものを失くす人がいると、会場全体が落ち着かなくなる」
蓮は川島を見る。
言葉の表面は穏やかだ。
しかし、その目は笑っていない。
「白石さんも、大切なものをお持ちでしょう」
「何のことですか」
「手紙でも。写真でも。誰かから預かった書類でも」
蓮は、呼吸を整えた。
真琴が言っていた。
相手は、あなたが何を持っているかではなく、あなたが何を知っているかを確かめたい。
だから、すぐに答えない。
「私、そういうものは持っていません」
「そうですか」
川島はグラスを傾けた。
「では、少しだけこちらへ。昨日のお礼をしたい」
会場の奥には、昨日と同じような細い廊下がある。
人の目が届きにくい控室の方向。
蓮は無線機に触れない。
触れれば、川島に気づかれる。
ただ、歩き出した。
川島の後ろへ。
*
控室の前には、川島の助手が待っていた。
若い女性だった。昨日、黒いファイルを抱えていた人物。
その顔には、疲労と緊張が浮かんでいる。
「先生」
助手が言う。
「こちらで」
「わかっている」
川島は扉を開けた。
中は小さな応接室だった。
ソファ。
低い机。
壁に掛かった抽象画。
外から見れば、ただの静かな部屋。
しかし、蓮は入った瞬間にわかった。
出入口は一つ。
窓は開かない。
机の上に、何も置かれていない。
そして、部屋の隅に黒いケースがある。
昨日の別館と同じだ。
誰かが、何かを待っている部屋。
「座ってください」
川島が言った。
蓮は座らなかった。
「立ったままで失礼します」
「警戒されていますね」
「知らない部屋に案内されたら、誰でも少しは」
「あなたは、少しどころではない」
川島の声が変わった。
「白石美琴という名で、昨日からこちらを見ている。関係者の会話を聞き、控室の位置を確認し、私の助手の持ち物を見ている」
「思い込みでは」
「思い込みで人を呼びつけるほど、私は暇ではない」
川島は机の端に手を置いた。
「紙を出しなさい」
蓮は、胸の奥が冷えるのを感じた。
紙片は真琴が持っている。
自分は持っていない。
だが、そのことを言えば、真琴へ危険が向く。
「何の紙ですか」
「とぼけるな」
「知りません」
「第七倉庫で、あなたが持っていたものだ」
川島の目が、蓮の表情を読む。
蓮は、白石美琴の笑顔を作った。
「私、昨日はホテルからすぐ帰りました」
「そういう顔を、いつまで続けるつもりだ」
川島が一歩近づいた。
「あなたは誰だ」
その問いが、部屋の中央に落ちた。
蓮は、少しだけ笑った。
「白石美琴です」
「違う」
「失礼ですね」
「君が誰であれ、私には関係ない。だが、三枝倉庫の資料を持っているなら話は別だ」
「持っていません」
「なら、誰に渡した」
蓮は答えない。
川島は助手を見る。
「彼女を探せ」
助手の顔が強張った。
「先生、それは」
「探せと言った」
その声には、昨日まで会場で見せていた余裕がなかった。
蓮は、そこで初めて理解した。
川島は黒いレインコートの男たちを完全には支配していない。
自分も、誰かに追われている。
三枝倉庫の資料は、川島にとっても弱みであり、同時に彼を脅す材料になっている。
「川島さん」
蓮は言った。
「あなたも、資料を探してるんですね」
川島の目が動いた。
「君に関係ない」
「関係あります。昨日から、あなたの周りの人間に追われてます」
「私の周りの人間?」
「黒いレインコートの男たち。第七倉庫。別館」
川島の顔から、わずかに色が消えた。
助手も息を止める。
蓮は続けた。
「あなたが命令したんじゃないんですね」
「黙れ」
「三枝倉庫の資料を持っているのは、あなたじゃない」
「黙れ!」
川島が、初めて声を荒げた。
その瞬間、応接室の扉が開いた。
黒いレインコートの男が二人、入ってくる。
昨日と同じ連中。
助手が後ろへ下がる。
川島は振り返り、声を低くした。
「誰の許可で入った」
「許可はいらない」
一人が言った。
「資料は」
「知らない」
川島が答える。
「こいつが持っていた」
男の目が蓮へ向く。
蓮は、胸元の無線機に触れた。
短く、一度。
真琴に聞こえるかはわからない。
「白石美琴」
男が言った。
「やっと見つけた」
蓮は、笑った。
「知ってるなら、呼び方を間違えないでください」
「紙を出せ」
「持っていません」
「嘘だ」
「本当です」
男が近づく。
川島は止めない。
助手だけが、何か言いかけて口を閉じた。
蓮は、部屋の出口を確認した。
黒いレインコートの男が一人。
川島。
助手。
そして、もう一人の男。
逃げ道はない。
だが、今夜は一人ではない。
「出口」
蓮は小さく言った。
無線機へ。
同時に、部屋の外で何かが倒れる音がした。
男たちが振り返る。
扉が開く。
そこに立っていたのは、黒いジャケットを着た真琴だった。
高瀬誠司の姿ではない。
黒瀬真琴としての姿。
「そこまでです」
真琴は言った。
「この部屋での会話は記録されています」
川島が顔を歪めた。
「探偵風情が」
「探偵です」
真琴は答える。
「そして、警察への情報提供者でもあります」
黒いレインコートの男が、真琴へ向かって動いた。
真琴は避ける。
蓮は反射的に横へ飛び、机の端を掴んだ。
部屋の中で、短い混乱が起きる。
誰かが誰かを押しのける。
グラスが床へ落ちる。
助手が壁際へ逃げる。
川島が黒いケースへ手を伸ばす。
蓮は、その手を見た。
ケースの中には、三枝倉庫の資料があるのかもしれない。
あるいは、別の証拠が。
これまでなら、蓮はその隙を見ていた。
人が騒いだ瞬間。
誰もが目を逸らした瞬間。
手が届く場所に、欲しいものがある瞬間。
盗める。
その感覚が、身体に残っている。
蓮は一歩、ケースの方へ動いた。
指先が、黒い取っ手へ届きかける。
その時、真琴の声がした。
「蓮さん!」
蓮は止まった。
ケースではなく、真琴を見る。
黒いレインコートの男が、真琴の腕を掴んでいる。もう一人は出口へ向かおうとしている。
蓮は、黒いケースから手を離した。
そして、近くにあった椅子を引いた。
椅子を振り回すのではない。
男の進路へ置く。
足を止めるために。
男が椅子を避けた瞬間、真琴が腕を抜き、距離を取る。
そこへ、廊下から複数の足音が近づいた。
「動かないでください!」
聞き慣れないが、明確な声。
私服の警察官らしい数人が部屋へ入る。
黒いレインコートの男たちは、逃げようとして止められた。
川島は、黒いケースを掴んだまま立ち尽くしている。
助手は、壁際で震えていた。
そして蓮は、部屋の中央にいた。
白石美琴の姿のまま。
誰もがこちらを見ている。
その視線が、一斉に身体へ刺さる気がした。
今までなら、ここで顔を隠して逃げる。
別の出口を探す。
誰かの影に紛れる。
だが、出口には警察がいる。
真琴がいる。
そして、自分はもう、何も盗まないと約束した。
黒いレインコートの男の一人が、苛立ったように蓮の腕を掴んだ。
「こいつが持ってる」
「放して」
蓮は言った。
男は腕を引く。
ウィッグの固定が大きくずれる。
淡い髪が肩から滑り、顔の横へ落ちる。
蓮は反射的に手を上げた。
しかし、男の指が髪に引っかかる。
固定が外れた。
ウィッグが床へ落ちる。
部屋の空気が止まる。
蓮の短い地毛が露わになる。
緊張の汗で額に張りついている。
メイクも、室内の熱と汗で崩れ始めていた。
白石美琴の輪郭が、静かにほどけていく。
誰かが息を呑む音がした。
川島の助手が、驚いた顔をする。
警察官の一人が、何かを言いかける。
蓮は、床に落ちたウィッグを見た。
拾えば、まだ隠せるかもしれない。
もう一度、作れるかもしれない。
だが、手は動かなかった。
黒いレインコートの男は、蓮のジャケットの襟元を掴んだ。
「こいつ、最初から」
「離してください」
真琴の声がした。
低く、はっきりと。
「今すぐ、その手を離してください」
男が振り返る。
「何だ、おまえ」
「この人を、見世物にするためにここへ来たわけではありません」
真琴は、蓮の前へ立った。
蓮を隠すようにではない。
男の手と、蓮の間に立つように。
「この人が何をしてきたかは、これから確認します。だが、あなたが触れていい理由にはなりません」
男は警察官に引き離された。
蓮は、その場に立ったまま動けなかった。
ウィッグは床にある。
白石美琴の顔は崩れている。
身体の線を整えるものも使っていない。
これ以上、外せるものはない。
自分は、相沢蓮だった。
真琴は振り返らずに言った。
「蓮さん」
「……はい」
「大丈夫ですか」
蓮は、反射的に言いかけた。
大丈夫です。
いつもの言葉。
だが、今度は言えなかった。
「わかりません」
真琴は少しだけ頷いた。
「それでいいです」
*
黒いケースの中には、帳簿の写しと記録媒体が入っていた。
警察官がその場で内容を確認することはなかった。証拠保全の手続が必要だと説明され、ケースは慎重に回収された。
ただ、川島の助手が、警察官の問いかけに対して一度だけ口を開いた。
「三枝倉庫は、川島先生の会社ではありません」
部屋の空気が変わる。
川島が助手を睨む。
「余計なことを言うな」
助手は震えていた。
それでも、続けた。
「川島先生は、資料を預けていただけです。三枝倉庫を使っていたのは、別の人です。先生も、その人に逆らえなかった」
「誰ですか」
警察官が聞く。
助手は唇を噛む。
「倉庫会社の実質的な管理者。名前は、三枝ではありません。三枝は、昔の屋号です」
「本名は」
「東堂……東堂修一」
蓮は、その名に聞き覚えがなかった。
しかし、黒いレインコートの男たちの顔が固まる。
川島は、目を閉じた。
東堂修一。
慈善展示会の協賛者として名前は出ず、ホテルの正式な関係者でもない。
それでも、寄付金と美術取引の裏側を押さえ、川島を含む複数の人間へ圧力をかけていた人物。
川島は、自分が支配しているように見せながら、実際には支配されていた。
そして、蓮もまた、その末端に使われていた。
「東堂はどこにいる」
警察官の問いに、助手は首を振った。
「わかりません。でも、今夜の返礼会には来ないはずです。ここに資料があると知った人間だけを、先に動かして」
蓮は、そこでようやく理解した。
自分に届いた『白石美琴で来い』というメッセージは、川島が送ったものではない。
東堂側が、川島と蓮と真琴を同じ場所へ集めるために送った。
誰が資料を持っているのか。
誰が何を知っているのか。
互いに疑わせ、必要ならまとめて消すために。
しかし、真琴が警察へ情報を渡し、川島の助手が口を開いたことで、計画は崩れた。
東堂自身はここにいない。
だが、彼の名前だけは、初めて表に出た。
*
事情聴取は、ホテル内の別室で行われた。
蓮は白石美琴の格好のまま、椅子に座っていた。
ウィッグは証拠袋に入れられた。
メイクは既にほとんど残っていない。
鏡を見なくても、自分が中途半端な姿をしていることはわかる。
警察官は、蓮の前に書類を置いた。
「氏名を確認します」
蓮は黙った。
「白石美琴さんでよろしいですか」
この問いに、以前なら迷わず頷いていた。
白石美琴。
何度も練習した声。
用意した勤務先。
用意した住所。
用意した過去。
それを口にすれば、少なくとも数分は生き延びられる。
だが、真琴が少し離れた場所に立っている。
助けを求めるような顔はしていない。
代わりに答えてくれるわけでもない。
ただ、蓮が自分で決めるのを待っている。
相沢蓮。
名前を言えば、過去が戻ってくる。
盗んだもの。
使った偽名。
見捨てた人。
逃げた場所。
すべてが、今度は自分のところへ戻ってくる。
「相沢蓮です」
蓮は言った。
声は、震えなかった。
警察官がペンを止める。
「確認します。相沢蓮さんですね」
「はい」
「白石美琴は、偽名ですか」
「はい」
「あなたは、昨日から本日までの一連の件に関わっていますか」
「関わっています」
「どのように」
蓮は、机の上の紙を見る。
そこで、言葉が詰まった。
自分がしたことを、どう説明すればいい。
盗んだ。
騙した。
逃げた。
そのどれもが本当だ。
しかし、言葉にすれば、全部が急に現実になる。
真琴が、少しだけ近づいた。
「事実だけでいい」
小さな声だった。
「言い訳は後でいい。まず、何をしたかを話してください」
蓮は目を閉じた。
そして、一つずつ話し始めた。
旧鳳栄ホテルへ白石美琴として入ったこと。
寄付販売会の混乱に乗じて、他人の封筒を盗んだこと。
川島の助手の周辺を見て、紙片を手に入れたこと。
それを誰に渡す予定だったか。
第七倉庫で呼び出されたこと。
自分が所属していた側からも、詳細を知らされていなかったこと。
すべてを話し終えるまで、時間がかかった。
途中で何度も、言葉が止まった。
それでも、真琴は急かさなかった。
警察官は必要なことだけを確認した。
誰かが怒鳴ることもなかった。
誰かが慰めることもなかった。
それが蓮には、少しだけ救いだった。
許されるわけではない。
しかし、嘘を重ねなくていい。
そのことだけが、今は十分だった。
*
夜が明ける頃、ホテルの外は薄い青色になっていた。
事情聴取を終えた蓮は、ロビーの端にある椅子へ座っていた。正式な手続きはまだ続く。自分がこれからどう扱われるのか、どこへ行くのかも、まだ決まっていない。
真琴は、少し離れた自動販売機の前で温かい飲み物を二本買った。
一方を蓮へ差し出す。
「砂糖なしです」
「私、甘いもの苦手って言いましたっけ」
「言っていません」
「じゃあ、どうして」
「なんとなく」
「それ、探偵としては雑じゃないですか」
「私は、何でも確認するわけではありません」
蓮は缶を受け取った。
温かい。
指先の冷たさが少しだけ戻る。
「真琴さん」
「何ですか」
「私、これから捕まるんですよね」
真琴はすぐに答えなかった。
「あなたが話したことは、記録されます」
「はい」
「被害者への返還や、他の関係者の確認も必要です」
「はい」
「だから、何もなかったことにはならない」
蓮は笑った。
「正直ですね」
「正直に言う方がいいでしょう」
「便利な言葉ですね」
「今日は何回目ですか」
「数えないでください」
真琴は少しだけ笑った。
それから、真面目な顔に戻る。
「でも、これから何をするかは変えられます」
「何を」
「嘘を増やさないこと」
蓮は缶を見た。
「そんなことで、変わるんですか」
「すぐには変わりません」
真琴は答えた。
「でも、昨日までのあなたは、何かが起きるたびに別の名前を作っていた。今朝は、自分の名前を言った」
「それだけです」
「それだけです」
真琴は繰り返した。
「でも、それを続けるしかない」
ロビーの外で、早朝の車が走っていく。
ホテルの前には、昨夜の騒ぎを知らない客が入ってくる。旅行鞄を引く夫婦。朝食会場へ向かう家族。仕事の打ち合わせをする会社員。
世界は、何事もなかったように進んでいく。
蓮は、ガラスに映る自分を見た。
白石美琴の髪はない。
濃い化粧もない。
作った輪郭もない。
ただ、眠っていない目をした自分がいる。
「姿を変えるのは、悪いことですか」
蓮は聞いた。
真琴は、少し驚いたように目を上げた。
「どうしてそう思う」
「私は、姿を変えることで人を騙してきた」
「それは、姿を変えたことではなく、人を騙したことが問題です」
真琴は言った。
「誰がどんな服を着るか。どう髪を整えるか。どんな声で話すか。それ自体は、あなたの犯罪の理由にも、証拠にもならない」
蓮は黙った。
「あなたが使ったものを、全部捨てる必要はない」
真琴は続けた。
「ただ、次に何かを作るなら、誰かを奪うためじゃない方がいい」
蓮は、長く息を吐いた。
その息は、昨日までより少し深く入った。
*
三週間後。
黒瀬調査室の机の上には、新しい資料が積まれていた。
東堂修一は、別の県で身柄を確保された。
三枝倉庫の記録媒体から、複数の不正な取引と寄付金の流れが確認された。
川島宗一と、複数の関係者は事情聴取を受け、取引の一部が表に出た。
すべてが終わったわけではない。
捜査も、手続きも、被害の確認も続いている。
蓮の件も、何もなかったことにはならない。
盗まれた封筒の被害者への返還。
偽名を使った過去の確認。
関わっていた組織の情報提供。
蓮は、話せる範囲で話した。
自分を軽くするためではない。
真琴に言われたからでもない。
これ以上、別の誰かに後始末を押しつけないために。
その日、真琴は調査室の窓際に立っていた。
机の上には、透明な袋に入った黒いボタンがある。
旧鳳栄ホテル別館で、蓮のジャケットから落ちたもの。
小さな痕跡。
誰かが逃げた証拠。
誰かが戻ってきた証拠。
九条が言った。
「蓮さんから連絡です」
「何て」
「今日の手続きが終わったそうです」
「それだけ?」
「それだけです」
真琴は、窓の外を見る。
街は晴れていた。
少しして、スマートフォンが震える。
蓮からの短いメッセージ。
『本名で署名しました』
真琴は画面を見つめた。
それから、短く返した。
『確認しました』
少し間を置いて、もう一通。
『よくできました』
送信してから、真琴は自分で少しだけ眉を寄せた。
子ども扱いのように見えるかもしれない。
だが、蓮はすぐに返してきた。
『便利な言葉ですね』
真琴は笑った。
そして、机の上のボタンを小さな袋に入れ直した。
誰かが何かを隠すために作った形は、いつか崩れる。
だが、崩れた後に残るものまで、必ずしも醜いわけではない。
相沢蓮は、白石美琴ではなくなった。
それでも、何者にもなれなくなったわけではない。
名前を言う。
嘘を減らす。
奪ったものを返す。
そして、自分がしたことを自分の言葉で説明する。
それは、変装よりずっと難しい。
けれど、初めて自分の姿で立つためには、必要なことだった。
第五話 終




