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第三話 追跡

 夜の街は、昼間よりも人の正体を隠しやすい。


 明るい看板の下では、誰もが自分の顔を照らされているように見える。だが実際には、通行人は他人の顔をほとんど覚えていない。急いでいる人間は足元を見ている。待ち合わせをしている人間はスマートフォンを見ている。疲れて帰る人間は、もう誰かを観察する余裕など残していない。


 相沢蓮は、そのことを知っていた。


 だからこそ、夜を好んでいた。


 雨が降った後の歩道には、濡れた街灯が揺れていた。水たまりに映る光は、車が通るたびに崩れ、別の形へ変わっていく。


 蓮は駅前の雑踏を抜け、古い雑居ビルの前で立ち止まった。


 ビルの三階には、小さな司法書士事務所が入っている。

 二階には、税理士事務所。

 一階には、夜になると客の少ないクリーニング店。


 どこにでもある建物だった。


 しかし蓮は、その入口を見上げるだけで、しばらく動かなかった。


 ここに用があるわけではない。


 ただ、誰かが自分を見ているかどうかを確かめるために立ち止まった。


 駅からここへ来るまで、蓮は何度も進路を変えた。商店街を抜け、信号を二度渡り、混雑したバス停の前を通った。途中でコンビニに入って、何も買わずに出た。


 それでも、背中にある感覚は消えなかった。


 誰かに見られている。


 それは証拠のない確信だった。


 昨日までの蓮なら、その感覚を自分の思い込みだと切り捨てたかもしれない。犯罪に関わる者は、常に追われていると考えた方がいい。だが、追われていると考えすぎれば、日常のすべてが罠に見えてくる。


 しかし今夜の蓮は、思い込みを笑い飛ばせなかった。


 旧鳳栄ホテルで出会った、高瀬誠司。


 ホテルの名簿に存在しない男。


 警備員でもなければ、正規のスタッフでもない。


 それなのに、会場の動きを把握し、蓮の視線と歩き方を見ていた男。


 そして今日、商業施設で出会った紺色のジャケットの女。


 あの女もまた、蓮の言葉ではなく、言葉の間を見ていた。


 偶然とは思えない。


 蓮は、ビルのガラス扉へ映る自分の姿を見た。


 今夜の彼は、白石美琴ではない。


 髪は短い。

 顔は薄く整えているが、化粧をしているようには見えない。

 黒いコートの下には、灰色のシャツと細身のパンツ。

 仕事帰りの若い男に見える程度の格好だった。


 名前は、まだ決めていない。


 相手に尋ねられたら、その時に答えればいい。


 名前は、必要になってから作るものだ。


 蓮はコートの内ポケットに触れた。


 昨日、旧鳳栄ホテルから持ち出した灰色の封筒が入っている。


 中には紙片が一枚だけ。


 午後四時前。

 裏の応接室。

 三枝。


 それだけ。


 それだけしか書かれていないにもかかわらず、この紙片は蓮の行動を縛っていた。


 川島宗一が、何かを失った。


 川島の周辺では、昨日から人が動いている。


 そして蓮が所属している側も、蓮が何を持ち帰ったのかを気にしている。


 何も知らないふりをすれば疑われる。

 渡せば利用される。

 捨てれば、誰かに拾われる。


 蓮は封筒を捨てることができなかった。


 紙片の裏に残された「三枝」という文字が、どうしても気になっていた。


 それは人名かもしれない。

 取引相手の名前かもしれない。

 あるいは、川島が隠している何かを知る人物の名前かもしれない。


 ただ一つ確かなのは、この紙片を欲しがっている者が複数いるということだった。


 そして蓮は、誰にも信用されていない。


 スマートフォンが震えた。


 画面には、名前ではなく、黒い丸印だけが表示されている。


 蓮は周囲を確認してから、メッセージを開いた。


『二十二時。第七倉庫の外側。持っているものを置け』


 短い文だった。


 送り主が誰なのか、蓮にはわからない。


 しかし、文面の調子だけで察するものがある。


 これは依頼ではない。


 命令だ。


 蓮は画面を閉じた。


 第七倉庫。


 港の近くにある、使われなくなった物流施設の一帯だ。昔は小さな運送会社が使っていたらしいが、今はほとんどの建物が閉鎖されている。周囲には大型の再開発地区が広がり、昼間なら作業員や配送車が行き交う。だが夜になると、古い倉庫街だけが取り残されたように静かになる。


 会うには都合がいい場所。


 そして、何かが起きても気づかれにくい場所。


 蓮はスマートフォンをしまった。


 行くべきではない。


 それが頭ではわかっていた。


 送り主が誰かわからない。

 向こうが何人いるかわからない。

 自分が持っている紙片に、どれほどの価値があるのかさえわからない。


 それでも、行かなければならない。


 自分が命令に従わなかったことを、相手に知られる方が危険だった。


 蓮は歩き出した。


 駅とは反対の方向へ。


     *


 同じ頃、黒瀬調査室では、真琴が壁に貼られた地図を見つめていた。


 地図には、旧鳳栄ホテル、駅前の複合施設、交通資料館、商店街、川沿いの遊歩道が赤い線で結ばれている。


 白石美琴と思われる人物が、前日と今日、移動した場所。


 ただし、そこに規則性はない。


 目的地へ向かったようにも見える。

 誰かを撒こうとしたようにも見える。

 何かを探していたようにも見える。


「今日の移動だけでは、断定できませんね」


 九条岳人が、机の上の資料をめくりながら言った。


「対象は、駅前の複合施設を出たあと、北口の文具店へ入っています。その後、地下鉄へ乗り、二駅先で降りている。明確な目的地はないように見えます」


「目的地がなかったわけではない」


 真琴は地図から目を離さずに答えた。


「目的地を見せなかった」


「尾行されていることに気づいていた?」


「気づいている。ただし、こちらの正体はわかっていない」


 真琴は赤い線の端に、小さく丸をつけた。


「高瀬誠司という偽名は、もう使えない」


「昨日のホテルで見せた姿ですね」


「相手はスタッフ名簿を調べている可能性がある」


「そこまで動くでしょうか」


「動く。あの人は、逃げるだけでは終わらない」


 真琴は机の上にある灰色の複製紙を手に取った。


 旧鳳栄ホテルで、川島宗一の助手が紛失したと申告していない書類の控え。正式な書類ではないため、ホテル側は紛失の届け出を受けていない。だが助手は、当日の夜に二度、持ち物を確認していた。


 何かが消えた。


 しかし、本人たちは警察に届け出られない。


 それは、書類の内容を表に出せないからだ。


「川島は、何を隠している」


 真琴は小さく呟いた。


「その周辺に、白石美琴がいた」


「彼女が書類を盗んだと考えていますか」


「可能性はある」


「でも、証拠は」


「ない」


 真琴は即答した。


「だから、今は彼女を捕まえない。次に何をするのかを見る」


 九条はノートパソコンの画面を真琴へ向けた。


「ひとつ気になる情報があります」


「何」


「旧鳳栄ホテルの周辺で、昨日の夜から今日にかけて、川島宗一の関係者が複数回、港湾地区へ出入りしています」


「港湾地区?」


「正確には、再開発地区の外側。古い倉庫が残っている一帯です」


 真琴の視線が変わった。


「第七倉庫の周辺?」


「はい。どうしてわかるんです」


「以前、別件で行ったことがある」


 真琴はすぐにスマートフォンを取り出した。


 画面には、数時間前から途切れ途切れに届いていた情報が並んでいる。


 川島宗一の助手が、夕方に港湾地区へ入った。

 黒いワゴン車が一台、周辺を低速で走っている。

 倉庫街の外側に、見張りのような男が立っている。


 偶然ではない。


「九条さん」


「はい」


「車を出して」


「今からですか」


「今から」


「対象が第七倉庫へ行く確証はありません」


「確証はない」


 真琴はスーツの上着を手に取った。


「でも、あの人は、何かを持っている」


「高瀬の姿で行きますか」


 真琴は少しだけ考えた。


 昨日の男装の姿。

 濃紺のスーツ。

 低い声。

 短い髪。

 高瀬誠司という偽名。


 相手はすでにその姿を警戒している。


 しかし、今夜は警戒させる必要がある。


「高瀬で行く」


 真琴は答えた。


「相手がこちらを探しているなら、見つけさせる」


     *


 第七倉庫の周辺は、風が強かった。


 海から吹く冷たい風が、古い金属の扉や錆びた看板を鳴らしている。道路の脇には、使われなくなったパレットが積まれ、遠くには再開発地区の高層マンションが見えた。


 新しい街の明かりと、古い倉庫の暗がり。


 その境界だけが、時間から切り離されたようだった。


 蓮は倉庫街の入口で足を止めた。


 腕時計を見る。


 二十一時四十九分。


 指定された時間まで、あと十一分ある。


 早すぎる。


 早く着きすぎる人間は、待つ場所を選ばなければならない。

 待つ場所を選ぶ人間は、周囲を見すぎる。

 周囲を見すぎる人間は、誰かに警戒される。


 蓮はそのことを知っていた。


 だから、倉庫へまっすぐ向かわず、道路脇の自動販売機の前に立った。


 温かい飲み物を一本買う。


 缶を手に取る。


 飲まない。


 ただ、待ち合わせの前に少し時間を潰しているように見せる。


 道路の向かい側には、黒いワゴン車が停まっている。


 運転席に人影がある。


 だが、車の窓は暗く、顔までは見えない。


 蓮は視線を向けなかった。


 気づかなかったふりをする。


 その方が安全だと思った。


 すると、背後から低い声がした。


「白石さん」


 蓮の指が、缶を握ったまま止まる。


 聞き間違えるはずがない。


 あの声だった。


 高瀬誠司。


 蓮は振り返らなかった。


「人違いです」


「そうですか」


「そうです」


「なら、今夜のあなたは、何という名前ですか」


 蓮はゆっくり振り返った。


 高瀬は、少し離れた場所に立っていた。


 濃紺のスーツ。

 黒いコート。

 濡れた地面を踏んでも足音を立てない歩き方。


 昨日と同じ姿。


 ただし、会場の明るい照明の下で見た時よりも、顔の輪郭が硬く見えた。


「あなた、しつこいですね」


 蓮は男の声で言った。


 白石美琴の声ではない。


 少し低く、疲れたような声音。


 高瀬の目が、わずかに細くなった。


「今夜は、その声なんですね」


「あなたに関係ありますか」


「あります」


「何者なんです」


「前にも言いました」


「人を探す仕事?」


「そうです」


「探偵ですか」


 高瀬は答えなかった。


 代わりに、蓮の手にある缶を見た。


「寒いですか」


「見ればわかるでしょう」


「飲んでいませんね」


「あなた、尾行するだけじゃなく、人の飲み物まで観察するんですか」


「観察しないと、わからないことがあります」


「何が」


「ここに来る目的がない人間は、待ち合わせの時間を潰すために、何かを飲む。あなたは、時間を潰しているふりをしている」


 蓮は目を逸らした。


 この男は、相変わらず面倒だった。


 何かを見抜くたびに、それを勝ち誇るようには言わない。


 ただ、見たことを静かに口にする。


 だから蓮は、どこまで見られているのかがわからない。


「高瀬さん」


 蓮は言った。


「あなたは、私が何をしていると思っているんですか」


「それを聞くということは、何かをしているんですね」


「質問に質問で返さないでください」


「あなたも答えていない」


「私はただ、知り合いを待っているだけです」


「ここで?」


「ここで」


「第七倉庫の前で?」


 蓮の呼吸が、一瞬だけ止まった。


 高瀬は続けた。


「この辺りは、夜に人が来る場所ではない」


「あなたも来ています」


「私は仕事です」


「便利な言葉ですね」


「そう言われました」


 蓮は、思わず笑いそうになった。


 昨日の自分の言葉を覚えている。


 余計なことを覚えている。


 高瀬は、蓮を見ていた。


 その目には、敵意とも好奇心とも違うものがある。


 何かを確かめようとする目。


 蓮は、それが嫌だった。


 自分が何者なのかを知ろうとする人間は、いつも嫌いだった。


 見抜かれるくらいなら、嫌われた方がいい。


「私に構わないでください」


 蓮は言った。


「あなたが何を疑っているか知りません。でも、私は何もしていない」


「本当に」


「はい」


「なら、どうして封筒を持っているんですか」


 蓮の右手が、反射的にコートの内側へ動いた。


 高瀬はその動きを見逃さなかった。


「今、そこに触れました」


「寒いので」


「その答えは、今日二回目です」


 蓮は黙った。


 自分が何を言えばいいのか、一瞬わからなくなった。


 言い訳は多いほど不自然になる。

 黙れば、認めたことになる。


 高瀬は近づいてこない。


 距離を保ったまま、蓮が自分から動くのを待っている。


「あなたは、何もわかっていない」


 蓮は低く言った。


「そうでしょうね」


「だったら、勝手なことを言わないでください」


「わからないから、確認している」


「確認して、何がしたいんですか」


「あなたが誰かを傷つける前に止めたい」


 蓮は高瀬を睨んだ。


「私は誰も傷つけていない」


「そう思っているだけかもしれない」


「何ですって」


「あなたが盗んだものが、金や書類だけだと思っているなら、違う」


 高瀬の声が、少し低くなった。


「人は、騙された後に自分を責める。どうして信じたのか。どうして気づけなかったのか。相手を疑えなかった自分が悪いんじゃないかと考える」


 蓮は何も言えなかった。


「あなたが奪っているのは、物だけじゃない」


 その言葉は、胸の奥に落ちた。


 昔、偽名を使ったことで迷惑をかけた会社員のことを思い出す。


 顔も知らない男。

 声も知らない男。

 蓮が使った名前のせいで、何度も会社へ説明しなければならなかった男。


 自分は直接何もしていない。


 そう思い込んでいた。


 だが、自分が残した嘘の後始末を、誰かが背負っていた。


「説教ですか」


 蓮は笑った。


 笑ったつもりだった。


 だが声は、思ったよりも乾いていた。


「警察でもない人が」


「説教ではありません」


「じゃあ何です」


「事実です」


 高瀬が言った瞬間、倉庫街の奥で、何かが倒れる音がした。


 金属がぶつかる、鈍い音。


 蓮も高瀬も同時にそちらを見る。


 暗い通路の向こうに、人影があった。


 一人ではない。


 黒いレインコートを着た男が二人。


 顔は見えない。

 足元だけが、倉庫の明かりに照らされている。


 蓮の背中に、冷たいものが走った。


 自分を呼び出した相手だ。


 しかし、予定とは違う。


 「外側に置け」としか言われていない。


 相手が直接、姿を見せるとは思っていなかった。


「持っているものを出せ」


 男の一人が言った。


 声は低い。


 蓮は動かなかった。


「誰ですか」


「余計なことを言うな」


「誰に頼まれた」


「出せ」


 高瀬が、蓮の少し前へ出た。


「警察を呼びます」


「部外者は黙っていろ」


「ここは公道です」


「関係ない」


 黒いレインコートの男たちは、さらに近づいてくる。


 蓮は高瀬を見る。


 なぜいる。


 なぜ今、ここにいる。


 自分を追ってきたからだ。


 だが、今はその存在が邪魔ではなく、少しだけ助けになっている。


 そのことが、蓮には腹立たしかった。


「白石さん」


 高瀬が小さく言った。


「ここから離れてください」


「誰が白石ですか」


「今は名前の話をしていません」


 高瀬の声は冷静だった。


「走れますか」


「走れます」


「なら、走って」


 その瞬間、黒いレインコートの男の一人が、蓮へ向かって腕を伸ばした。


 蓮はとっさに後ろへ下がる。


 高瀬が間に入る。


 男の手が高瀬の肩を押した。


 高瀬は大きくよろめくことなく、相手の腕を払いのける。


 争いは数秒だった。


 派手な殴り合いではない。


 ただ、誰かが誰かの道を塞ぎ、押しのけ、奪おうとする。


 その間に、蓮は走り出した。


 倉庫街の奥へ。


 暗い通路を抜け、錆びたシャッターの並ぶ道を曲がる。


 風が強い。

 雨上がりの地面が滑る。


 足元へ意識を向けながら、蓮は走った。


 後ろから足音が追ってくる。


 一つではない。


 高瀬か。

 黒いレインコートの男か。

 両方か。


 振り返れば、速度が落ちる。


 蓮は振り返らなかった。


 ただ、身体の奥にある圧迫感が、急に強くなった。


 今夜、蓮は別の姿を作るため、身体の線を変える補正具を着けていた。


 外見を整えるためのものではある。


 しかし、長時間走るためのものではない。


 胸の前と腰回りを固定する装具が、呼吸を浅くする。


 歩く時には問題ない。

 立っている時にも問題ない。

 だが走ると、身体が自分のものではないように重くなる。


 蓮は歯を食いしばった。


 ここで立ち止まれば、終わる。


 前方に、古い荷捌き場へ続く階段が見えた。


 階段の上には、半分だけ壊れた連絡通路がある。倉庫同士をつなぐための鉄骨の通路で、今は使われていない。


 蓮はそこへ向かった。


 階段を駆け上がる。


 一段目。

 二段目。

 三段目。


 足が重い。


 背中に汗が流れる。


 コートの内側が熱を持っている。


「止まってください!」


 後ろから、高瀬の声がした。


 黒いレインコートの男の声ではない。


 蓮はさらに階段を上がった。


「待ってください!」


「来るな!」


 蓮は振り返らずに叫んだ。


 声は男の声だった。


 高瀬の足音が、少しだけ遅れる。


 階段の途中で、蓮の左足が滑った。


 濡れた金属の縁に靴底が乗り、身体が大きく傾く。


 手すりを掴む。


 指先に冷たい鉄の感触が走る。


 落ちはしなかった。


 だが、姿勢を立て直すまでの数秒で、呼吸が乱れた。


 コートの下で、補正具がさらに締めつける。


 胸の奥まで空気が入らない。


 蓮は息を吸う。


 浅い。


 もう一度吸う。


 やはり浅い。


 その時、背後から腕を掴まれた。


「危ない」


 高瀬だった。


 蓮は反射的に振り払おうとした。


「触るな!」


「落ちます」


「離せ!」


 高瀬の手は強かった。


 しかし、乱暴ではない。


 蓮の腕を引くのではなく、階段から落ちないように支えている。


 それが余計に腹立たしかった。


 助けられる理由がない。


 自分は高瀬に追われている。


 高瀬は自分を疑っている。


 なのに、なぜ助ける。


「あなた、息が苦しいんですか」


 高瀬が言った。


「違う」


「無理をしている」


「違う!」


 蓮は腕を振りほどいた。


 その拍子に、コートの襟元がずれた。


 ウィッグの内側に固定していたピンが、一つ外れる。


 前髪の奥から、短い地毛がわずかにのぞく。


 高瀬の目が、そこへ向いた。


 蓮はすぐに手で押さえた。


 高瀬は何も言わなかった。


 ただ、視線が変わった。


 昨日から積み重ねてきた違和感が、また一つ形になった。


「白石さん」


「違う」


「名前のことではありません」


「だったら何です」


「あなたは、何かを着けている」


 蓮は息を止めた。


「何の話ですか」


「走るたびに、身体の動きが不自然になる。腕は動くのに、腰から下が遅れる。呼吸が浅い。階段で足を滑らせたのは、靴のせいだけじゃない」


「あなたに関係ない」


「あります」


「ありません」


「あなたが転げ落ちれば、私が止められなかったことになる」


 蓮は高瀬を睨んだ。


 自分のことではなく、責任の話をしている。


 それが、高瀬らしかった。


 優しい言葉を使わない。

 気遣うふりをしない。

 ただ、見捨てない。


「あなたは、私を捕まえたいんでしょう」


 蓮は言った。


「だったら、今ここで捕まえればいい」


「証拠がありません」


「なら、放っておいてください」


「それもできません」


「どうして」


「あなたの後ろにいる人間が、あなたより危険だからです」


 蓮の目が揺れた。


 高瀬は、黒いレインコートの男たちを見ていた。


 下の通路には、まだ二人の影がいる。


 こちらへ上がってくる気配はない。


 しかし、逃げ道を塞ぐように、倉庫街の出口側へ回っている。


 蓮は気づいた。


 自分は呼び出されたのではない。


 回収される側だった。


 灰色の封筒を渡させるためではない。


 封筒を持った自分ごと、消すために呼び出された。


「あなたは、何者なんですか」


 蓮は高瀬へ聞いた。


「今は、それより先に逃げます」


「答えろ」


「逃げてから」


「信用できない」


「私も、あなたを信用していない」


 高瀬は真っ直ぐ言った。


「でも、ここで見捨てる理由にはならない」


 蓮は、言い返せなかった。


 高瀬は、通路の先を見た。


「出口はありますか」


「知りません」


「本当に?」


「ここは初めてです」


「嘘ですね」


「……」


「でも、今はいい」


 高瀬は階段の上を指した。


「通路の先に、建物の裏側へ降りる非常階段がある。そこまで行けますか」


「あなた、詳しいですね」


「調べて来ました」


「私を待ち伏せるために?」


「川島宗一の関係者を追うために」


 蓮は一瞬だけ黙った。


 高瀬は、自分だけを追っているわけではない。


 川島。

 三枝。

 旧鳳栄ホテル。

 第七倉庫。


 すべてが、どこかで繋がっている。


「行きます」


 蓮は言った。


 高瀬は驚いたようには見えなかった。


「走れますか」


「走るしかないでしょう」


 蓮は階段を上がった。


 今度は、一段ずつ確かめるように。


 通路の床は、錆びた鉄板だった。足を置くたびに、薄く沈むような感覚がある。下を見ると、暗い倉庫の屋根と、積まれたパレットが見えた。


 蓮は高い場所が苦手だった。


 だが、後ろには戻れない。


 高瀬がすぐ後ろにいる。


 前へ進むしかない。


 通路の中ほどまで来た時、下から声がした。


「止まれ!」


 黒いレインコートの男の一人が、別の階段から上がってきている。


 逃げ道を読まれた。


 蓮は足を止める。


 高瀬も止まる。


 前方には、男。

 後方には、もう一人の男の気配。

 左右には、錆びた手すり。


 蓮はコートの内側へ手を入れた。


 灰色の封筒に触れる。


 これを渡せば、助かるのか。


 いや、助からない。


 相手は、蓮が何を見たかを知っている。


 封筒だけを渡しても、自分は口を塞ぐべき人間のままだ。


「高瀬さん」


 蓮が小さく呼んだ。


「何ですか」


「これ、あなたに渡します」


 高瀬が、蓮を見る。


「何を」


「証拠です」


「何の」


「わかりません」


「それは証拠ではない」


「でも、向こうは欲しがっている」


 蓮は封筒を出した。


 灰色の紙は、雨上がりの湿気で少し柔らかくなっている。


 高瀬がそれを受け取ろうとした瞬間、前方の男が動いた。


「渡すな!」


 男が駆け寄ってくる。


 高瀬が蓮の前へ出る。


 蓮は後ろへ下がった。


 狭い通路で、人がぶつかる。


 高瀬の肩が男とぶつかり、封筒が宙へ舞う。


 蓮が手を伸ばす。


 高瀬も手を伸ばす。


 紙片が、封筒からこぼれ落ちた。


 風に煽られ、通路の端へ飛んでいく。


「三枝!」


 蓮は思わず叫んだ。


 紙片の一部に書かれた文字が見えた。


 その瞬間、黒いレインコートの男の目が変わった。


 高瀬も、蓮を見る。


 蓮は紙片へ向かって走った。


 高瀬が止めようとする。


 しかし、蓮の方が早かった。


 床に落ちる寸前の紙片を掴む。


 その時、背後から強い風が吹いた。


 蓮の身体がよろめく。


 高瀬が背中に手を添えた。


 落ちないように。


 だが、蓮はその手を振り払った。


「やめろ!」


「落ちる!」


「離せ!」


 蓮は高瀬から距離を取ろうとした。


 しかし通路の端に追い詰められる。


 黒いレインコートの男が近づく。


 高瀬は前に出る。


「警察を呼びました」


 高瀬が言った。


「もう来る」


 男は笑った。


「来ない」


「なぜ」


「ここは、おまえらが勝手に来た場所だ」


 蓮の背筋が冷えた。


 誰にも言えない取引。

 警察に届け出られない書類。

 偽名。

 裏の応接室。

 倉庫街。


 向こうは最初から知っている。


 自分たちが、表立って助けを求められないことを。


「高瀬さん」


 蓮は低く言った。


「ここ、まずいです」


「わかっています」


「どうするんですか」


「走る」


「またそれですか」


「他に案があるなら聞きます」


 蓮は少しだけ笑った。


 こんな状況で、どうしてこの男は変わらない。


 どうして、怖がっている顔を見せない。


「右です」


 蓮は言った。


「通路の先に、梯子があります」


「本当に?」


「さっき見えました」


「下まで降りられる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「あなたが言ったでしょう。確認する仕事なんですよね」


 高瀬が一瞬だけ蓮を見る。


 蓮は、紙片を握りしめた。


「確認してください」


 二人は通路の右側へ走った。


 黒いレインコートの男たちも追ってくる。


 通路の端には、古い避難用の梯子があった。鉄製で、壁に沿って地面近くまで伸びている。


 蓮は先に降りようとした。


 しかし、高瀬が腕を掴む。


「私が先に行きます」


「なぜ」


「下に誰かいるかもしれない」


「じゃあ、二人で終わりです」


「あなたは上にいて」


「嫌です」


「白石さん」


「その名前で呼ぶな」


「じゃあ、何て呼べばいい」


 蓮は答えなかった。


 答えられなかった。


 自分の本当の名前を言うつもりはない。


 しかし、偽名で呼ばれることも嫌だった。


 その数秒の沈黙が、妙に長く感じられた。


 高瀬はそれ以上追及しなかった。


「先に降ります」


 そう言って、梯子へ手をかけた。


 高瀬が下へ降りる。


 その背中を見ながら、蓮は初めて、この男が完全に無敵ではないことに気づいた。


 濡れた鉄を掴む手。

 靴底が滑らないように慎重に降りる動き。

 下に何があるかわからない中で、自分から先に行く判断。


 高瀬も危険を感じている。


 怖くないわけではない。


 怖くても、先に降りている。


「大丈夫です」


 下から声がした。


「降りて」


 蓮は梯子へ手をかけた。


 身体が重い。


 補正具が、肋骨の辺りを締めつけている。


 手に力を入れるたび、息が詰まる。


 それでも降りる。


 一段。

 二段。

 三段。


 途中で、ウィッグの内側に残っていたピンがもう一つ外れた。


 髪が少しずれる。


 首筋に、汗が流れる。


 下から高瀬の視線を感じる。


 蓮は顔を上げなかった。


 ようやく地面に足が着いた時、膝が少し震えた。


 高瀬が近づく。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


「呼吸が浅い」


「大丈夫です」


「無理をしている」


「あなたに関係ない」


 蓮はいつもの言葉を返した。


 しかし、声に力がなかった。


 高瀬は、それ以上言わなかった。


 代わりに、倉庫の壁沿いにある狭い通路を指した。


「ここから出られる」


「あなた、どうしてここまで知っているんです」


「下見をした」


「私を追うために」


「川島の取引を追うために」


「同じでしょう」


「違います」


 高瀬は蓮を見た。


「あなたは、目的ではない」


 蓮の胸の奥が、わずかに痛んだ。


 自分が追われているのに。

 自分のせいで危険な場所へ来ているのに。


 この男にとって、自分は目的ではない。


 ただ、事件の途中にいる人間。


 その距離の取り方が、蓮には理解できなかった。


「行きましょう」


 高瀬が言う。


 蓮は頷かなかった。


 ただ、歩き出した。


     *


 倉庫の裏側には、小さな運河があった。


 水面は黒く、遠くの街灯だけが揺れている。


 古いフェンスの向こうには、再開発地区の歩道が見える。明るいコンビニ、駐車場、深夜まで営業しているカフェ。


 あと少しで、人のいる場所へ出られる。


 蓮はそれを見て、初めて息を吐いた。


 だが、その直後、後ろから足音が近づいた。


 黒いレインコートの男たちが、梯子を降りてきたのだ。


「走れ!」


 高瀬が言った。


 今度は、蓮も迷わなかった。


 二人で運河沿いを走る。


 フェンスの脇を抜け、積まれたコンテナの間を通る。


 蓮の足は重い。


 呼吸は苦しい。


 けれど、止まれば終わる。


 高瀬が前を走る。


 時々、後ろを確認する。


 蓮が遅れていないか。

 追ってくる者との距離がどれくらいか。


 自分を逃がすために走っている。


 そのことが、蓮には理解できなかった。


「どうして」


 蓮は走りながら言った。


「何が」


「どうして、私を助ける」


「今は話すな」


「答えろ」


「走れ!」


 高瀬の声が、初めて強くなった。


 蓮は黙った。


 運河沿いの通路を抜けると、工事中の柵があった。向こう側には、明るい歩道が見える。


 しかし柵の中央には、簡単に開けられない扉がある。


 高瀬が押す。


 動かない。


「鍵が」


「待って」


 蓮が周囲を見る。


 柵の端に、作業員用の小さな通路がある。完全には閉じられていない。


 蓮はそちらへ向かう。


 しかし、身体が思うように曲がらない。


 腰のあたりが締めつけられ、低い姿勢を取るのが苦しい。


 高瀬が、蓮の様子を見る。


「無理なら、私が」


「できる」


「でも」


「できる!」


 蓮は柵の隙間を抜けた。


 コートの裾が引っかかる。


 高瀬が後ろから引いて外した。


 その拍子に、蓮のコートのボタンが一つ外れ、地面に落ちた。


 高瀬がそれを見た。


 蓮も見た。


 だが、拾う余裕はない。


 二人は柵の外へ出た。


 明るい歩道には、夜の散歩をしている人がいた。

 犬を連れた夫婦。

 コンビニ袋を持った学生。

 イヤホンをつけた会社員。


 人の姿があるだけで、空気が変わる。


 黒いレインコートの男たちは、柵の内側で立ち止まった。


 こちらへ出れば、目立つ。


 人のいる場所では、向こうも動きにくい。


 蓮は歩道の端で立ち止まった。


 呼吸が乱れている。


 胸の奥が痛い。


 身体の内側が熱い。


 高瀬が、少し離れた位置で蓮を見る。


「大丈夫ですか」


「だから、大丈夫だって」


「それ、何回目」


「数えてるんですか」


「数えていません」


「嘘だ」


「今のは違う」


 蓮は苦しそうに笑った。


 笑ってから、自分でも驚いた。


 こんな状況で、笑う余裕などないはずだった。


 だが、高瀬の返答があまりにも真面目で、少しだけ可笑しかった。


 高瀬は、笑わなかった。


 ただ、蓮が持っている手を見た。


 灰色の紙片。


「それを見せてください」


 蓮は紙片を握り直した。


「嫌です」


「さっき渡すと言った」


「あれは、あの場所から逃げるためです」


「今も、逃げるために必要かもしれない」


「あなたに渡したら、私は何も残らない」


「あなたは何を知っている」


「知りません」


「三枝とは誰ですか」


 蓮は目を逸らした。


「本当に知りません」


「その紙は、どこで手に入れた」


「答えません」


「なぜ」


「あなたを信用していないから」


 高瀬は少しだけ黙った。


「それでいい」


 蓮は顔を上げた。


「何ですって」


「今すぐ信用しろとは言わない」


「じゃあ、どうするんです」


「あなたが私を調べればいい」


 蓮の目が細くなる。


「調べる?」


「私が何者か、知りたいんでしょう」


「当然です」


「なら、調べてください」


「教えてくれないんですか」


「教えたら、あなたは信じる?」


「信じない」


「なら、自分で確認した方がいい」


 高瀬は、柵の内側を見た。


 黒いレインコートの男たちは、もう姿が見えない。


 逃げたのか。

 別の場所で待っているのか。


 わからない。


「今夜は帰ってください」


 高瀬が言った。


「この紙は持っていていい」


「本当に」


「ただし、一人で次の約束には行かないで」


「次の約束?」


「あなたを呼び出した人間は、また連絡してくる」


 蓮は、自分のスマートフォンを見た。


 さっきから、画面は沈黙している。


 しかし、きっとまた連絡が来る。


「あなたは、私を捕まえないんですか」


 蓮は聞いた。


「今は」


「今は?」


「証拠がない」


「それだけ?」


 高瀬は少しだけ目を伏せた。


「あなたが、誰かに利用されている可能性がある」


 蓮は笑った。


「あなた、私のことを悪人だと思っているんでしょう」


「思っている」


「じゃあ、何で」


「悪人が、いつも一人で悪いことをしているとは限らない」


 蓮は言葉を失った。


 自分は悪人だ。


 そう言われれば、否定できない。


 人の金を奪った。

 人の身分を使った。

 人を騙した。


 しかし、自分が利用されていると言われると、妙に腹が立つ。


 自分で選んだ。

 自分でやった。

 誰かに強制されたわけではない。


 そう思いたい。


 けれど、今夜、自分は命令に従って第七倉庫へ来た。


 封筒を持って。

 相手が誰かも知らないまま。


 それを「自分で選んだ」と言えるのか。


「高瀬さん」


 蓮は言った。


「あなた、変な人ですね」


「よく言われます」


「嘘でしょう」


「本当です」


「あなたは、何もかもわかっているように見せる」


「わかっていません」


「じゃあ、どうしてそんなに落ち着いているんです」


「落ち着いて見えるだけです」


 高瀬の声は静かだった。


「怖くないわけじゃない」


 蓮は、その言葉を聞いて、高瀬の顔を見た。


 初めて、この男が少しだけ疲れているように見えた。


 目の下に、ごく薄い影がある。


 濡れたコートの肩に、小さな水滴が残っている。


 高瀬も、ずっと緊張していたのかもしれない。


 それでも、ここまで来た。


 自分を追って。


 自分を助けて。


 蓮は、手の中の紙片を見た。


 そして、半分に破った。


 高瀬の目が動く。


「何を」


「全部は渡さない」


 蓮は紙片の半分を、高瀬へ差し出した。


「これだけなら」


 高瀬は受け取らなかった。


「あなたが持っていてください」


「何で」


「あなたが渡したものなら、私が持つ理由がある」


「意味がわかりません」


「今は、あなたが持っている方が安全です」


 蓮は苛立った。


「さっきから何なんですか。渡せと言ったり、持てと言ったり」


「あなたが自分で決めるべきことだから」


「そんなこと、急に言われても」


「決めるしかないでしょう」


 高瀬は真っ直ぐ言った。


「逃げるか。渡すか。隠すか。誰かに相談するか。何もしないか」


 蓮は、紙片を握った。


「あなたは、どれがいいと思うんですか」


「あなたが傷つかない方を選べばいい」


「そんな選択肢、ありません」


 高瀬は、しばらく黙った。


 そして、ゆっくり言った。


「なら、傷つく人間が少ない方を選んでください」


 それだけ言って、高瀬は背を向けた。


「待って」


 蓮が呼ぶ。


 高瀬は立ち止まる。


「あなた、本当に探偵なんですか」


 高瀬は振り返らなかった。


「それを、調べてください」


 そして、歩き出した。


 濡れた歩道を、街の明かりの方へ。


 蓮はその背中を見送った。


 自分を追っていた男が、今は自分を置いていく。


 そのことが、ひどく不安だった。


     *


 黒瀬真琴は、倉庫街から離れた場所に停めた車へ戻った。


 助手席には、九条が待っている。


「無事ですか」


「問題ない」


「対象は」


「逃げた」


「追わなかったんですか」


「追わなかった」


 九条は驚いたように真琴を見る。


「黒瀬さんが?」


「彼女の後ろに、別の人間がいる」


「黒いレインコートの二人ですか」


「おそらく」


「警察へ通報は」


「した。ただし、到着まで時間がかかる」


 真琴はコートのポケットから、小さなボタンを取り出した。


 先ほど、柵の外側に落ちていたもの。


 蓮のコートから外れたボタンだった。


 黒い樹脂製で、裏側に小さな刻印がある。


 普通の既製品ではない。


 衣装用に後から付け替えられたもののように見える。


「それは」


「彼女のもの」


「証拠になりますか」


「ならない」


 真琴は答えた。


「でも、彼女は姿を変える」


「白石美琴を捨てて、別の人間になる」


「そう」


「なら、その姿を追っても意味がない」


 真琴はボタンを見つめた。


「だから、残したものを見る」


 九条は少し黙った。


「彼女、男でしょうか」


 真琴はすぐには答えなかった。


 階段で見た動き。

 呼吸の浅さ。

 衣服の下にある不自然な固定。

 ずれた髪の内側から見えた短い地毛。


 しかし、それだけで断定はできない。


 身体のことを、勝手に決めつけるべきではない。


「わからない」


 真琴は言った。


「わからないことは、わからないままにしておく」


「でも」


「必要なのは、彼女が誰として生きているかじゃない。何をして、誰に狙われているかです」


 九条は頷いた。


「紙は?」


「持っている」


「見せてもらえたんですか」


「半分だけ」


 真琴は掌の上に、小さな紙片を広げた。


 破られた紙の端に、かすれた文字が残っている。


 『……枝』


 その下には、数字らしいものがある。


 だが、途中で切れている。


「三枝」


 九条が言った。


「人名でしょうか」


「人名かもしれない」


 真琴は窓の外を見る。


 遠くに、第七倉庫の黒い輪郭が残っている。


「あるいは、会うべき場所の名前かもしれない」


     *


 蓮は、夜が明けるまで自分の部屋へ戻らなかった。


 第七倉庫の周辺から離れ、駅を三つ過ぎ、始発に近い時間まで開いている喫茶店へ入った。


 店内には、夜勤帰りらしい男が二人と、勉強をしている学生が一人いるだけだった。


 蓮は窓際の席に座り、冷めたコーヒーを前に置いた。


 灰色の封筒は、もうない。


 倉庫で破れ、紙片だけが手元に残った。


 紙片の半分。


 三枝という文字。

 数字のような痕。

 そして、紙の端に残る朱肉の跡。


 高瀬に渡そうとした。


 しかし、渡せなかった。


 渡せば、自分は何も持たない人間になる。


 持たない人間は、いつでも切り捨てられる。


 だから、半分だけ残した。


 自分でも、何をしたいのかわからない。


 高瀬を信用したいのか。

 高瀬を利用したいのか。

 高瀬に近づいて、正体を暴きたいのか。


 蓮は、スマートフォンを取り出した。


 画面には、新しいメッセージが届いている。


『置けと言った』


 短い文。


 次の通知。


『なぜ持ち出した』


 次の通知。


『高瀬は誰だ』


 蓮の手が止まる。


 高瀬という名前を、相手も知っている。


 つまり、自分だけが見られていたわけではない。


 第七倉庫にいた黒いレインコートの男たちは、蓮と高瀬の会話を聞いていた。


 高瀬が探偵かもしれないことも。

 自分が高瀬を知らないことも。

 自分が紙片を持っていることも。


 すべて知られた。


 蓮は返事を打とうとした。


 だが、指が止まった。


 何と返せばいい。


 高瀬は探偵だ。

 高瀬は俺を追っている。

 高瀬は俺を助けた。


 そのどれも、書けば危険になる。


 蓮は画面を閉じた。


 今は返さない。


 それだけを決めた。


 すると、別の番号から通知が来た。


 登録していない番号。


 本文だけが表示される。


『三枝の正体を知りたいなら、明日二十三時。旧鳳栄ホテル別館・保管庫前へ』


 蓮は画面を見つめた。


 送り主はわからない。


 しかし、旧鳳栄ホテルという場所を知っている。


 紙片に三枝という名前があることを知っている。


 そして、蓮がそれを知りたがっていることも知っている。


 罠だ。


 間違いない。


 それでも、蓮は画面を消さなかった。


 高瀬が送ったのか。

 川島の側が送ったのか。

 黒いレインコートの男たちが送ったのか。


 誰が送ったとしても、次に進むためには行くしかない。


 蓮は、冷めたコーヒーに口をつけた。


 苦い。


 だが、味はほとんどしなかった。


     *


 その頃、黒瀬調査室の机の上にも、同じ文面のメッセージが表示されていた。


『三枝の正体を知りたいなら、明日二十三時。旧鳳栄ホテル別館・保管庫前へ』


 九条が画面を見て、眉を寄せる。


「誰が送ったんでしょう」


「わからない」


 真琴は答えた。


「でも、送った人間は、私たちが三枝を追っていることを知っている」


「そして、白石美琴にも同じ連絡をしている可能性がある」


「高い」


 真琴は画面を閉じた。


 旧鳳栄ホテル別館。


 本館の裏手にある、使われていない保管施設。昔は展示品や備品を置いていたらしいが、現在は改修工事を控えて閉鎖されている。


 夜に人が入る場所ではない。


 それでも、誰かはそこを指定してきた。


 真琴は、机の上のボタンを見た。


 黒いコートから落ちた、小さなボタン。


 白石美琴ではない誰かが、あの夜、倉庫街を走った。


 身体を締めつける何かを着けたまま。

 呼吸を苦しくしながら。

 それでも、紙片を手放さずに。


「次は、旧鳳栄ホテルですね」


 九条が言う。


「ええ」


「警察へ伝えますか」


「伝える。ただし、こちらも行く」


「危険です」


「わかっている」


 真琴は静かに答えた。


「でも、あの人は来る」


「白石美琴として?」


「違う姿で」


 真琴は立ち上がった。


 窓の外は、まだ夜だった。


 街の明かりは遠く、ガラスに自分の姿だけが映っている。


 男のような姿。

 探偵としての姿。

 黒瀬真琴という本当の姿。


 どれが自分なのかと問われても、真琴は答えられない。


 ただ、今は一つだけ確かなことがある。


 白石美琴という名前の向こうにいる人物は、もう逃げるだけでは済まない場所へ来ている。


 そして自分もまた、その人物を追うだけでは済まない。


 翌日、旧鳳栄ホテル別館で、何かが起こる。


 それは、相手の正体を暴くための罠かもしれない。


 あるいは、相手が二度と戻れない場所へ踏み込むための罠かもしれない。


 真琴は、机の上のメッセージをもう一度見た。


 そして、低く言った。


「今度は、逃がさない」


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