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第二話 見えない観察者

 朝、鏡の中にいるのは、いつも知らない人間だった。


 相沢蓮は、狭い洗面所の白い灯りの下で、自分の顔を見ていた。


 昨夜のうちに、淡い色の髪も、柔らかな眉も、白石美琴という女を形づくっていた要素はすべて外してある。鏡の前にいるのは、寝不足の目をした二十八歳の男だった。


 目の下に薄い影がある。


 右の頬には、前日に何度も指先で触れたせいか、ほんの少し赤みが残っていた。


 顔だけなら、どこにでもいる男に見える。


 それが蓮には気に入らなかった。


 どこにでもいる人間は、誰の記憶にも残らない。

 誰の記憶にも残らない人間は、追われにくい。


 しかし、昨日の会場で出会った男――高瀬誠司だけは、蓮の記憶に残った。


 高瀬は、蓮の顔を見ていなかった。


 いや、正確には顔だけを見ていなかった。


 歩き方。

 バッグの持ち方。

 会話の最中に目がどこへ向くか。

 何かを隠す時、どちらの腕をかばうか。


 高瀬は、白石美琴という人物の設定ではなく、その人物の外側に残る癖を見ていた。


 蓮は、蛇口をひねった。


 冷たい水を両手ですくい、顔に当てる。


 それでも、頭の奥に残る緊張は消えなかった。


 昨夜、ホテルを出てから、蓮は三度だけ寝場所を変えた。


 自分の部屋へ戻らず、以前から使っている短期滞在用の部屋へ入り、夜明け前にはそこも出た。今いるのは、駅から離れた古いマンションの一室だった。


 室内には生活感がない。


 小さな机。

 簡易ベッド。

 冷蔵庫。

 水だけが入ったペットボトル。


 誰かがここで暮らしているようには見えない。


 蓮自身も、ここを生活の場所とは思っていなかった。


 逃げ込むための箱。


 何かが起きた時、名前も、荷物も、思い出も置いていける場所。


 蓮は洗面所を出て、机の上に置いた小さな封筒を見た。


 白い封筒ではない。


 濃い灰色の、表面に何も書かれていない封筒だった。


 昨日、旧鳳栄ホテルで手に入れたもの。


 中に入っているのは現金ではない。


 紙片が一枚。


 そこには、時間と場所だけが記されていた。


 午後四時前。

 裏の応接室。


 川島宗一が、助手へ話していた内容と一致している。


 しかし、その先に何があるのかは書かれていなかった。


 金なのか。

 書類なのか。

 誰かとの取引なのか。


 蓮にはわからない。


 わからないからこそ、危険だった。


 中身の見えない情報は、使う側より、渡す側にとって危険になる。


 蓮は封筒を裏返した。


 紙の端に、目立たないほど小さな赤い汚れがある。


 昨日の会場で、寄付販売会の帳簿に押されていた朱肉の色と似ていた。


 誰かが会場内で書いた。


 誰かが、急いで封をした。


 そして誰かが、何かを渡すつもりだった。


「高瀬……」


 蓮は、その名を低く口にした。


 ホテルのスタッフ名簿を確認する手段はある。


 ただし、今すぐ動けば、その動きもまた誰かに見られる。


 昨日の高瀬は、蓮を疑っていた。


 しかし、高瀬が蓮の正体まで知っているとは限らない。


 白石美琴という人物が嘘かもしれない。

 何かを盗んだかもしれない。

 会場の動きを不自然に見ていた。


 その程度の疑念なら、まだ崩せる。


 蓮はそう考えた。


 その考えに、確信はなかった。


     *


 午前九時二十分。


 旧鳳栄ホテルから少し離れた場所にある、小さな探偵事務所では、黒瀬真琴が昨日の記録を確認していた。


 外から見れば、古い雑居ビルの三階にある、ごく普通の事務所だった。


 廊下には、行政書士事務所と不動産会社の看板が並んでいる。


 探偵事務所らしい看板は出していない。


 黒いドアの横に、小さく「黒瀬調査室」とだけ書かれている。


 真琴は昨夜のままの短い髪を整え、机に置かれたノートパソコンの画面を見つめていた。


 画面には、旧鳳栄ホテルの監視カメラ映像が映っている。


 白石美琴。


 淡い色の髪。

 白いブラウス。

 灰色のコート。


 映像の中の女は、受付を通り、展示室を歩き、寄付販売会の前を通り、オークション会場へ入っていく。


 どの映像を見ても、決定的な場面はなかった。


 財布を盗むところもない。

 封筒を奪うところもない。

 誰かと不自然な接触をする場面もない。


 ただ、一つだけ。


 何かが起きた時、必ず周囲より早く反応している。


 陶器が割れた時。

 クロークで鞄がなくなった時。

 寄付金用の封筒が見つからないと騒ぎになった時。


 普通の来場者は、音の方を見る。

 周囲の人間を見る。

 係員の動きを見る。


 白石美琴は、最初に出口を見る。


 そして、誰が動いたかを見ている。


 真琴は映像を停止した。


 画面の中で、白石美琴がほんのわずかに顔を上げている。


 騒ぎの中心ではない。

 廊下の奥。

 非常口の近く。

 警備員が立つ位置。


 女の視線は、そこを順番に確認していた。


「警戒していた」


 真琴は呟いた。


「会場を初めて訪れた客が、あんな見方はしない」


 机の向かい側で、コーヒーを飲んでいた九条岳人が顔を上げた。


 九条は真琴より十歳ほど年上で、調査室の事務作業と情報照会を担当している。


 元新聞記者だったという経歴を持つが、本人はその頃の話をほとんどしない。


「白石美琴の照会結果が出ています」


 九条は紙の束を机に置いた。


「勤務先として記載されていた出版社は実在する。だが、白石美琴という人物は所属していない。正社員、契約社員、派遣社員、アルバイト、いずれにも記録がない」


「住所は」


「存在する。古い集合住宅だ。ただし、居住者名簿には別の名前がある。白石美琴という人物は、少なくとも正式な契約者ではない」


「連絡先は」


「契約者情報は確認できなかった。使われている可能性はあるが、本人のものかは不明」


 真琴は腕を組んだ。


「つまり、白石美琴は存在しない可能性が高い」


「それだけでは断定できません。偽名を使う事情がある人間は、犯罪者だけではない」


「わかっている」


「昨日、ホテル側からは何も盗難届が出ていないそうです」


「まだ、ということです」


 真琴は映像を巻き戻した。


 白石美琴が、二階展示室から出る。


 次に、一階の寄付販売会へ向かう。


 その後、三階のオークション会場へ行く。


「人は、盗まれたことにすぐ気づくとは限らない」


「何かを盗んだと?」


「今は、そう疑っているだけ」


 九条は少し黙った。


「黒瀬さん」


「何」


「昨日のあの人、女性に見えましたか」


 真琴は画面の中の白石美琴を見た。


 柔らかい表情。

 落ち着いた声。

 控えめな所作。


 外見だけなら、疑う要素はない。


「女性に見えた」


「本当に?」


「……女性という役を、かなり正確に演じていた」


 九条は、そこで言葉を止めた。


 真琴は自分の発言を訂正しなかった。


 彼女自身が、日常的に男の格好をして人の前へ立つ。


 服装や髪型、声の低さだけで、人間の性別を決めることの危うさは知っている。


 だからこそ、白石美琴を「女だから怪しい」とは考えない。


 怪しいのは、性別ではない。


 白石美琴という人物に、現実の重さがないことだった。


 仕事先がない。

 住所が定まらない。

 誰かと結びつく記録が薄い。

 そして、会話の中にある過去が、どれも質問に答えるためだけに準備されている。


 人間は、もっと無駄な情報を持っている。


 好きな店。

 嫌いな匂い。

 昨日見た動画。

 途中まで読んだ本。

 電車で会った迷惑な乗客。


 白石美琴には、それがなかった。


 昨日聞いた話のすべてが、あまりに整っていた。


「今日、動くと思いますか」


 九条が聞いた。


「動く」


「根拠は」


「昨日、彼女は何かを持ち出した」


「証拠はありません」


「だから、追う」


 真琴は立ち上がった。


 椅子の背に掛けていた濃紺のスーツの上着を手に取る。


「高瀬誠司として?」


「今日は高瀬ではない」


「男装はやめるんですか」


「昨日の高瀬を警戒しているなら、同じ姿で近づくのは無意味」


 真琴は窓の外を見た。


 空は薄く曇っていた。


 雨が降るにはまだ早い。


 だが、昨日より光が鈍い。


「人は、追われていると気づくと、二つのことをする」


「逃げるか、隠れるか」


「違う」


 真琴は答えた。


「追っている人間を探し始める」


     *


 午前十時半。


 蓮は、市立交通資料館の一階にある閲覧スペースへ入った。


 交通資料館は、観光地として有名な場所ではない。


 古い鉄道の時刻表、路線図、昭和期のポスター、鉄道会社の社史などが保管されている。平日の午前中なら人は少なく、受付にいる職員も来館者の顔を覚えない。


 蓮はこの場所が好きだった。


 誰もが何かを調べに来ている。


 不自然に紙を読む人間がいても、怪しまれない。


 壁際の机に座り、古い駅名一覧の冊子を開く。


 しかし、目は文字を追っていなかった。


 入口。

 窓際。

 職員の位置。

 資料棚の間。


 昨日から、自分の周囲にいる人間を、蓮は過剰に見るようになっていた。


 それ自体が危険だとわかっている。


 警戒しすぎる人間は、かえって目立つ。


 だが、昨日の高瀬は、ただの警備員ではない。


 探偵か。

 警察関係者か。

 ホテルが雇った外部の調査員か。


 少なくとも、会場スタッフではなかった。


 蓮は冊子を閉じ、机の端に置いたスマートフォンを見た。


 昨夜送ったメッセージには、まだ返事がない。


 蓮の周囲には、名前で呼び合う仲間がほとんどいない。


 互いに本名を知らない。


 会う場所も、時間も、必要な時だけ決める。


 その関係は、裏切りにくい代わりに、助け合えない。


 誰かが消えた時、他の者は探さない。


 探せば、自分も消されるからだ。


 蓮は、それが合理的だと思っていた。


 今朝までは。


 スマートフォンが震えた。


 画面に短い文が表示される。


『川島の件は保留。昨日の情報源が騒ぎすぎた』


 蓮は眉を寄せた。


 続けて、もう一通。


『おまえは目立ったか』


 指先が止まる。


 蓮は画面を見たまま、答えを打たなかった。


 自分が疑われている。


 それは昨日の高瀬だけではない。


 こちら側も、蓮の動きを信用していない。


 何かを持ち出した。

 何かを見られた。

 予定が狂った。


 そうなれば、組織の中では、最初に一番弱い立場の者が疑われる。


 蓮はスマートフォンを伏せた。


 返事をしない。


 返せば、余計な言葉を使う。

 余計な言葉は、後から証拠になる。


「すみません」


 正面から声をかけられた。


 蓮は顔を上げた。


 四十代ほどの女性が立っている。


 淡いベージュのジャケット。

 細い縁の眼鏡。

 手には資料館の案内図。


「この資料、どこに戻すかご存じですか」


 女性は、蓮が読んでいた冊子を指した。


「ああ、たぶん、向こうの棚だと思います」


「ありがとうございます。こういう場所、あまり来ないので」


「僕もです」


 蓮は、無意識に男の声で答えそうになった。


 だが、今の姿は男だ。


 問題はない。


 女性は軽く笑った。


「お仕事ですか」


「いえ。少し、昔の地図を見たくて」


「鉄道がお好きなんですか」


「好きというほどでは」


「でも、資料を読むのはお好きそうですね」


 蓮は返事を止めた。


 初対面の人間がする会話としては、少しだけ踏み込みすぎている。


 女性の目は穏やかだった。


 しかし、視線が蓮の手元、鞄、出口を順番に見ている。


 昨日の高瀬と同じだ。


 蓮は冊子を閉じた。


「失礼します」


「はい」


 女性はそれ以上引き止めなかった。


 蓮が閲覧スペースを出る時も、彼女は資料を読むふりをしていた。


 だが、背中に視線が残る。


 蓮は一階の展示室へ向かわず、建物の外へ出た。


 資料館の前には、小さな広場がある。


 平日の午前中で、人通りは少ない。


 ベンチには、新聞を読む老人が一人。

 自動販売機の前には、作業服姿の男が二人。

 道路の向かいには、パン屋の看板。


 蓮は歩き出した。


 右へ曲がる。

 信号を渡る。

 雑貨店の前で止まる。


 店のガラスに映る後方を見た。


 ベージュのジャケットの女はいない。


 それでも、誰かがいる。


 道路の向かい。


 黒い傘を持った男が、電話をしている。


 顔は見えない。

 ただ、目線だけがこちらへ向いていた。


 蓮はそのまま歩いた。


 もう一度振り返れば、相手は警戒する。


 振り返らない。


 それが一番自然だ。


 蓮は、駅へ向かわず、古い商店街の方へ入った。


 商店街には、惣菜店、時計店、印刷所、古書店が並んでいる。


 雨が降りそうな空の下、アーケードの薄暗さが、街を夕方のように見せていた。


 人は少ない。


 蓮は古書店の前で立ち止まり、入口に置かれた文庫本の箱を見た。


 そこに、昨日の高瀬に似た男が映った。


 ガラスではない。


 店の奥にある、歪んだ鏡の反射。


 濃紺のスーツ。

 短い髪。

 背の高さ。


 高瀬誠司。


 蓮は心臓が一度だけ大きく鳴るのを感じた。


 昨日のホテルのスタッフ。


 ここにいる。


 偶然ではない。


 蓮は古書店に入った。


 店内は狭く、紙と埃の匂いがした。


 棚の間を歩き、奥の出口へ向かう。


 高瀬が追ってくる気配はない。


 しかし、入口のベルが鳴った。


 誰かが入ってきた。


 蓮は棚の隙間から、入口を見る。


 入ってきたのは高瀬ではなかった。


 白いシャツに黒いベストを着た、若い店員だった。


「何かお探しですか」


「いえ」


 蓮は答えた。


 自分の声が、少し硬くなっていることに気づく。


 ここに高瀬がいたのは、見間違いか。


 それとも、別の場所へ回ったのか。


 蓮は本棚から一冊だけ文庫本を抜いた。


 内容は読まない。


 ただ、何かを探している客に見せるために。


 その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 昨夜から返信を待っていた相手だった。


『ホテル側のスタッフ名簿を確認した。高瀬誠司という人物はいない』


 蓮の手が止まった。


 もう一通。


『少なくとも、正規の警備会社スタッフではない』


 蓮は画面を見つめた。


 高瀬は偽名だった。


 ホテルの警備員ではない。


 では、何者か。


 探偵。


 その言葉が、昨日の会話と一緒に頭に浮かぶ。


 本物の名前を探す仕事です。


 蓮は文庫本を戻した。


「すみません」


 店員がこちらを見る。


「これ、取り置きできますか」


「もちろんです」


「また来ます」


 蓮はそう言って、店を出た。


 外に出た瞬間、風が強く吹いた。


 アーケードの外では、細い雨が降り始めている。


 蓮は傘を開かず、商店街の奥へ歩いた。


 高瀬は実在しない。


 ホテルのスタッフではない。


 そして、昨日から自分を見ている。


 蓮は初めて、はっきりと理解した。


 自分は追われている。


     *


 真琴は、商店街から少し離れた車の中にいた。


 車は古い白いワゴン車だった。


 調査室の車として使っているが、外見に特徴はない。


 助手席には、九条が座っている。


「対象は、商店街の中へ入った」


 真琴は双眼鏡を下ろした。


「高瀬の姿は見せた?」


「一度だけ」


「気づいたと思う」


「見せる必要があったんですか」


「必要だった」


 九条は少し眉を寄せた。


「尾行なら、気づかれない方がいいでしょう」


「普通なら」


「今回は違うと」


「彼女は、昨日から誰かに見られていると感じている。なら、こちらが無理に隠れ続けても、相手は勝手に警戒する」


「警戒させて、動きを見る」


「そう」


 真琴は窓の外を見た。


 雨がアスファルトに細い線をつけている。


「人は疑われると、嘘を消そうとする。けれど、過去に言った嘘を全部消すことはできない。残すしかない」


「白石美琴を追うんですか」


「白石美琴という人間は、もう消えるかもしれない」


「別の名前になる?」


「おそらく」


「なら、どう追うんです」


 真琴は答えなかった。


 昨日、白石美琴を見ていた時から、ひとつだけ確信していることがある。


 相手は、自分が作った人物像を捨てることに慣れている。


 白石美琴が使えなくなれば、別の人物になる。


 髪型を変える。

 服装を変える。

 声を変える。

 肩書きを変える。


 しかし、同じ人間が何度別の顔を作っても、残るものがある。


 焦った時の呼吸。

 出口へ向く視線。

 質問を受けた時、答える前に一度だけ相手の指先を見る癖。


 真琴は昨日、そのいくつかを見ていた。


「姿では追わない」


 真琴は言った。


「行動で追う」


     *


 蓮は商店街を抜け、川沿いの遊歩道へ出た。


 雨は少し強くなっている。


 川面には細かい波が広がり、向かい側のビルの窓が歪んで映っていた。


 遊歩道には、犬を散歩させる女性と、傘をさした会社員が数人いるだけだった。


 蓮は橋の下で立ち止まった。


 屋根がある。


 雨宿りをする人間に見える。


 実際、雨が強くなれば、誰でもここに入る。


 蓮は濡れた前髪を指で払った。


 そして、川の反対側を見る。


 白いワゴン車が停まっていた。


 車内に人影がある。


 運転席。

 助手席。


 距離があるため、顔は見えない。


 だが、蓮にはわかった。


 あれは偶然ではない。


 高瀬は一人ではない。


 誰かと組んでいる。


 蓮はポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面を見ながら、誰かに電話をかけるふりをする。


 実際には、発信していない。


 その間、川向こうの車を見た。


 車内の影が動いた。


 相手もこちらを見ている。


 蓮はゆっくりとスマートフォンを下ろした。


 そして橋の下から出た。


 走らない。


 走れば、追っている側に確信を与える。


 蓮は川沿いを歩き、次の交差点で角を曲がった。


 それから数分後、雨に紛れるように、別の通りへ入った。


 自分がどこへ向かうかは決めていない。


 ただ、同じ場所に長くいない。


 高瀬が自分を見ているなら、高瀬の方にも焦りがあるはずだ。


 追う側は、相手を失いたくない。


 相手を失いたくない者は、どこかで距離を詰める。


 その瞬間を待てばいい。


     *


 午後一時。


 蓮は、駅前の複合施設に入った。


 書店、雑貨店、家電量販店、小さな映画館、行政サービス窓口まで入っている建物だった。


 平日だが、昼休みの会社員や買い物客が多い。


 人混みの中へ入れば、追う側は動きにくくなる。


 しかし、蓮はそれを利用して逃げるつもりではなかった。


 高瀬を見つけるためだった。


 一階の書店。

 二階の生活雑貨店。

 三階の飲食フロア。


 蓮は、何かを買うわけでもなく、建物の中を移動した。


 鏡。

 ガラス。

 金属製の柱。

 エスカレーター横の案内板。


 反射する場所を、目立たない程度に使う。


 しかし、高瀬の姿は見えない。


 代わりに、紺色のジャケットを着た女性がいた。


 年齢は二十代後半から三十代前半。


 黒い髪を耳の後ろでまとめ、片手に紙袋を持っている。


 彼女は雑貨店の前で商品を見ていた。


 蓮が通り過ぎると、少し遅れて歩き出す。


 偶然か。


 蓮はエスカレーターへ向かった。


 女性も少し離れて乗った。


 蓮は上へ行く途中、手すりの金属に映る影を見る。


 女性はスマートフォンを見ている。


 しかし画面ではなく、こちらを見ている。


 蓮は目を細めた。


 高瀬とは別の人物。


 だが、視線の使い方が似ている。


 蓮は三階で降りた。


 映画館の前を通り、飲食フロアの奥へ行く。


 女性もついてくる。


 蓮は角を曲がり、トイレの案内板の近くで立ち止まった。


 女性が来る。


 ここで振り返れば、相手は止まる。


 蓮は、あえて振り返った。


 女性は一瞬だけ驚いた顔をした。


 しかしすぐに、何事もないように近くの自動販売機へ向かった。


 飲み物を買う。


 蓮は、その横を通った。


「雨、強くなりましたね」


 自分でも驚くほど自然な声が出た。


 女性は顔を上げた。


「そうですね」


「傘、持ってきてなくて」


「私はあります」


「羨ましいです」


 蓮は笑った。


 女性も笑った。


 ただし、目は笑っていない。


 昨日の高瀬と同じだ。


 相手の言葉より、呼吸を見ている。


「お買い物ですか」


 女性が聞いた。


「そう見えますか」


「見えません」


 蓮は、少しだけ笑みを消した。


「どうして」


「手ぶらなので」


「見るだけです」


「私もです」


 女性はペットボトルの蓋を閉めた。


「何か探しているんですか」


 蓮は答えなかった。


 その質問は、普通の会話としては不自然だった。


 しかし、女性の言葉には圧がない。


 探りを入れているようでいて、答えを強要していない。


 高瀬と同じやり方。


「探し物、ですか」


 蓮は聞き返した。


「ええ」


「ありますよ」


「見つかりそうですか」


「どうでしょう」


「見つけたいものほど、遠くにあることが多いですから」


 女性はそう言った。


 蓮は、彼女の手元を見た。


 爪は短く整えられている。

 指に指輪はない。

 紙袋の中身は、何も入っていないように見える。


 買い物客にしては、空白が多い。


 白石美琴を見抜いた高瀬が、今度は別の姿で近づいている。


 そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。


 しかし、蓮は自分でそれを否定した。


 高瀬は男だ。


 昨日、蓮は確かに見た。


 低い声。

 短い髪。

 男のスーツ。

 男の名札。


 目の前の女とは、別人だ。


「すみません」


 蓮は言った。


「待ち合わせがあるので」


「そうですか」


「失礼します」


「どうぞ」


 女性は引き止めなかった。


 蓮はその場を離れた。


 背中を向けた瞬間、女性の気配が消えた。


 振り返らない。


 しかし、歩きながら蓮は考えた。


 高瀬が一人ではないなら、昨日から複数人で自分を追っている可能性がある。


 男が表で近づく。

 女が別の場所で見る。

 車の中に、もう一人いる。


 それなら、相手は探偵事務所かもしれない。


 ホテルの警備員より、ずっと厄介だ。


     *


 その頃、真琴は複合施設の非常階段にいた。


 紺色のジャケットの女性は、黒瀬真琴本人だった。


 高瀬誠司の姿ではない。


 髪も、服装も、声の高さも、昨日とは変えている。


 だが、蓮は彼女の存在を警戒した。


 完全には見抜いていない。


 しかし、同じ種類の危険を感じ取っている。


「勘がいい」


 真琴は小さく言った。


 イヤホンから、九条の声がした。


『こちらからは確認できています。対象は北側の階段へ向かいました』


「追わないで」


『え?』


「近づきすぎると、逃げる」


『もう気づかれているのでは』


「気づいている。でも、まだ確信はない」


 真琴は非常階段の窓から、外を見た。


 雨は次第に強くなっている。


 複合施設の屋根から、水が細い滝のように落ちていた。


『黒瀬さん、ひとつ報告があります』


「何」


『昨日のホテルで、川島宗一の助手が一度だけ、私物の確認をしていたそうです』


「何がなくなった」


『本人は何も言っていません。ただ、控室に入る前に、持っていた書類の数を確認していた』


「書類が消えた可能性がある」


『断定はできません』


「白石美琴が昨日、何を見ていたか、もう一度確認して」


『川島の周辺ですか』


「川島だけじゃない。助手も、警備も、受付も」


 真琴は壁に背を預けた。


「彼女は金を狙っているのかもしれない。でも、昨日の行動には、金だけを狙う人間とは違う部分がある」


『情報ですか』


「そうかもしれない」


『何の情報を?』


「それを調べるために、彼女も動いている」


 真琴は目を閉じた。


 相手の目的がわからないうちは、捕まえることだけを急ぐべきではない。


 盗難を防ぐ。

 被害者を守る。

 証拠を残す。


 そのためには、相手が次に何を狙うかを知る必要がある。


 しかし、白石美琴は既に消えかけている。


 次に現れる人物が、同じ相手だと断定できるとは限らない。


 真琴は、昨日の映像を思い出した。


 白石美琴が、会場の床に落ちた陶器の破片を見ていた時。


 誰よりも早く、破片の周囲を避けて歩いた。


 ただ避けたのではない。


 怪我をしないためではなく、靴跡を残さないために。


 あの動きは、考えるより先に出ている。


 身体が覚えている。


 どれだけ姿を変えても、あの癖は消えない。


「追う」


 真琴は言った。


「名前ではなく、癖を」


     *


 蓮は夕方まで、街を移動した。


 何かを盗むためではない。


 何かを受け取るためでもない。


 ただ、追っている者がいるなら、その輪郭を見つけるためだった。


 駅前の複合施設を出た後、蓮は地下鉄に乗った。


 次の駅で降りた。

 さらに別の路線へ乗り換えた。

 だが、誰かを撒くためにそうしたわけではない。


 行き先を決めずに動く人間は、かえって怪しまれる。


 だから蓮は、最初から行く予定だったように、駅前の文具店へ入り、手帳を一冊買った。


 安い、黒い手帳。


 店員が紙袋へ入れる。


 蓮はそれを受け取り、礼を言った。


 店を出てから、手帳を開いた。


 白紙のページ。


 蓮はそこに、短く書いた。


 高瀬誠司。

 ホテル名簿になし。

 白い車。

 女の協力者。


 書いた文字を見ていると、妙な感覚があった。


 自分が誰かを調べている。


 これまで蓮は、調べられる側だった。


 警察に身元を追われる。

 被害者に顔を覚えられる。

 仲間に行動を疑われる。


 追う側へ回ることは、ほとんどなかった。


 だから、手帳に名前を書く行為が新鮮だった。


 同時に、危険だった。


 人を追い始めれば、自分の逃げ道が減る。


 蓮は手帳を閉じた。


 すると、すぐ横で男の声がした。


「それ、落としましたよ」


 黒い傘を持った中年の男が、蓮の足元を指した。


 地面に、小さな紙片が落ちている。


 蓮が拾う。


 紙片には、旧鳳栄ホテルのロゴが印刷されていた。


 昨日の会場で配られていた案内用紙の切れ端。


 蓮は顔を上げた。


 男は既に歩き去っている。


 偶然か。


 それとも、誰かが置いたのか。


 蓮は紙片を握りつぶしそうになった。


 だが、すぐにやめた。


 焦るな。


 誰かが自分を揺さぶろうとしているなら、反応を見せた方が負ける。


 蓮は紙片をポケットに入れた。


 そして、通りの向こうを見た。


 人混みの中に、濃紺のスーツを着た男がいる。


 高瀬だった。


 今度は見間違いではない。


 高瀬は横断歩道の向こうに立っている。


 目が合った。


 男は逃げない。


 隠れない。


 ただ、こちらを見ている。


 信号が青になる。


 蓮は渡った。


 高瀬も歩き出す。


 二人は、横断歩道の中央で近づいた。


「随分、遠くまで来ましたね」


 蓮は言った。


「そうですね」


 高瀬は答えた。


「ホテルの警備員さんが、こんなところに何の用ですか」


「昨日も言いました。警備員ではありません」


「なら、何者なんです」


「それを知りたいですか」


「当然でしょう」


「あなたが先に答えれば」


 蓮は笑った。


「白石美琴です」


「違う」


「失礼ですね」


「その名前で、働いていた出版社に確認しました」


 蓮の表情が、わずかに止まった。


 高瀬は続ける。


「あなたはいなかった」


「同姓同名の確認でもしたんですか」


「勤務先も、住所も、連絡先も、全部曖昧です」


「個人情報を勝手に調べるなんて、犯罪では」


「必要な範囲で確認しただけです」


「必要な範囲って、誰が決めるんですか」


「状況が決めます」


 蓮は高瀬の目を見た。


 この男は、相手を怒らせる言葉を選んでいない。


 だが、逃げ道を塞ぐ言葉を選んでいる。


 それが厄介だった。


「あなた、探偵なんですか」


 蓮はもう一度聞いた。


「そう思いますか」


「思います」


「なら、そうかもしれません」


「答えになっていません」


「あなたの答えも、答えになっていない」


 蓮は、ほんの少し笑った。


 高瀬も笑わない。


「昨日のホテルで、何を盗んだんですか」


 高瀬は言った。


 通りを走る車の音が、急に遠くなった気がした。


 蓮はすぐには答えなかった。


「盗んでいません」


「本当に」


「ええ」


「昨日、寄付販売会の近くで、あなたは一度だけ、人混みの流れから外れた」


「展示を見ていただけです」


「その後、コートの内側を確認している」


「寒かったので」


「室内で?」


「あなた、私のことを見すぎじゃありませんか」


「見ています」


「どうして」


「あなたが、誰かから何かを奪う前に止めたいから」


 蓮は視線を逸らした。


 高瀬の言葉には、正義感を誇示するような熱がない。


 ただ、事実として言っている。


 それが、かえって腹立たしかった。


「私は何も盗んでいない」


「なら、証明してください」


「どうやって」


「本当の名前で話してください」


 蓮は、笑った。


 今度の笑いは、少し冷たかった。


「それを知って、あなたは何をするんですか」


「確認する」


「確認して、次は」


「必要なら、止める」


「止めるって」


「犯罪を」


 蓮は高瀬を見た。


 人通りの多い横断歩道の脇。


 雨が止みかけた空。


 誰も二人の会話を聞いていない。


 高瀬は、蓮に触れない。


 腕を掴まない。

 逃げ道を塞がない。

 脅さない。


 しかし、言葉だけで蓮を追い詰めようとしている。


「あなたが探偵なら」


 蓮は言った。


「証拠を持ってきてください」


「持ってくる」


「それまでは、私に近づかないで」


「それは約束できない」


「どうして」


「あなたが次に何をするかわからないから」


 蓮は一歩、後ろへ下がった。


「あなたの方が危険です」


「そうかもしれません」


「私のことを勝手に調べて、追い回して、名前まで疑って」


「名前を疑っているんじゃない」


 高瀬の声が少し低くなった。


「名前の後ろに隠れている人間を探している」


 蓮は、その言葉を聞いた瞬間、背中が冷えた。


 白石美琴を見ているのではない。


 相沢蓮を知らなくても、誰かがその輪郭に近づいている。


 それが怖かった。


 蓮は高瀬に背を向けた。


「もう話すことはありません」


「白石さん」


「その名前で呼ばないでください」


 自分でも、言ってから気づいた。


 白石美琴という名前を否定した。


 高瀬は何も言わなかった。


 蓮は歩き出した。


 背後から追ってくる足音はない。


 だが、言葉だけが残った。


 名前の後ろに隠れている人間を探している。


     *


 夜。


 蓮は、最初にいた古いマンションの部屋へ戻っていた。


 部屋の電気はつけない。


 窓のカーテンも開けない。


 暗い室内で、壁際に座り、スマートフォンを見た。


 受信箱に、新しいメッセージがある。


『昨日の件で、川島側が動いている』


 蓮は読み進める。


『何かが抜かれた可能性があるらしい。おまえが持っているものを確認しろ』


 蓮は机の上に、灰色の封筒を置いた。


 中には紙片だけ。


 午後四時前。

 裏の応接室。


 それだけ。


 しかし、紙片の裏側には、薄く何かが書かれている。


 昨日は気づかなかった。


 明かりを当てて角度を変えると、鉛筆で押しつけるように書かれた痕が見える。


 完全な文字にはなっていない。


 だが、かろうじて読める。


 『三枝』


 人名か。

 屋号か。

 場所か。


 蓮は紙片を見つめた。


 この情報を組織へ渡せば、自分は利用される。


 渡さなければ、疑われる。


 どちらにしても、安全ではない。


 高瀬の存在がなければ、蓮は迷わなかったかもしれない。


 紙片を渡す。

 次の仕事へ行く。

 白石美琴を捨てる。

 別の名前で生きる。


 いつものように。


 しかし今は、どこかで高瀬が見ている。


 高瀬誠司という名前も偽名だ。


 ならば、あの男にも別の顔がある。


 別の住所。

 別の仕事。

 別の名前。


 蓮は、机の上の黒い手帳を開いた。


 高瀬誠司。


 その名に線を引く。


 その下に書いた。


 実在しない。


 さらに、その下。


 探偵。

 協力者あり。

 白いワゴン車。

 女。


 蓮はペンを止めた。


 商業施設で会った、紺色のジャケットの女。


 あの女は何者だ。


 高瀬の仲間か。

 偶然か。

 別の調査員か。


 蓮は目を閉じた。


 高瀬という男は危険だ。


 しかし、本当に危険なのは、男そのものではない。


 自分が、高瀬を気にし始めていることだった。


 気にすれば、動きが変わる。


 動きが変われば、嘘が崩れる。


 蓮は手帳を閉じた。


「先に調べる」


 暗い部屋で、誰に聞かせるでもなく言った。


「高瀬誠司が、何者なのか」


     *


 同じ頃、黒瀬調査室では、真琴が鏡の前に立っていた。


 鏡の中には、濃紺のスーツを着た男がいる。


 高瀬誠司。


 昨日、旧鳳栄ホテルで使った姿。


 真琴は首元のネクタイをほどいた。


 男の姿を作るための細かなものを、一つずつ外していく。


 それは自分を偽るためではない。


 仕事のために、相手の警戒をずらすための手段だった。


 しかし、鏡の中の高瀬誠司を見ていると、白石美琴のことを思い出す。


 あの人物も、何かを隠している。


 白石美琴という名前。

 出版社の契約社員という肩書き。

 叔母の遺品整理という理由。


 それらは、すべて表面に貼られた紙のようだった。


 剥がせば、何もない。


 あるいは、紙の下に、もっと危険なものが隠れている。


「黒瀬さん」


 九条が、入口の方から声をかけた。


「川島宗一の側から連絡です」


「何があった」


「昨日、控室に持ち込んでいた書類の一部が見つからないそうです」


 真琴は振り返った。


「盗難届は」


「出すか迷っている。表に出せない取引が絡んでいるようです」


「何が消えた」


「詳細は言わない。ただ、川島本人は相当焦っているらしい」


 真琴は短く息を吐いた。


 白石美琴が盗んだかどうかは、まだわからない。


 だが、会場で何かが消えている。


 そして、白石美琴は偽名の可能性が高い。


 さらに、今日も街を歩きながら、周囲を見ていた。


 追われている人間の動き。


 真琴は机の上の資料を開いた。


 白石美琴の写真。


 昨日、ホテルの受付で撮影された入場記録の画像。


 淡い髪。

 柔らかな表情。

 少し困ったような笑み。


 真琴はその顔を見ながら、静かに言った。


「白石美琴は、次に別の顔になる」


 九条が聞く。


「追えますか」


「追う」


「どうやって」


 真琴は答えた。


「彼女は、こちらを調べ始めた」


「それが何か」


「追っている相手を調べる人間は、必ず一度、こちらへ近づく」


 真琴は、写真を机に置いた。


「高瀬誠司という偽名を使ったのは、失敗ではない」


「なぜです」


「彼女にとって、高瀬はもう無視できない存在になった」


 真琴は窓の外を見た。


 雨は止んでいた。


 濡れた街灯が、道路にぼんやりと光を落としている。


「次は、向こうから来る」


 その夜、相沢蓮は高瀬誠司を探し始めた。


 黒瀬真琴は、白石美琴ではない誰かを待ち始めた。


 互いに、本当の名も、素顔も、相手の立場も知らない。


 それでも二人は、同じ街の中で、既に相手の影を追っていた。


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