第二話 見えない観察者
朝、鏡の中にいるのは、いつも知らない人間だった。
相沢蓮は、狭い洗面所の白い灯りの下で、自分の顔を見ていた。
昨夜のうちに、淡い色の髪も、柔らかな眉も、白石美琴という女を形づくっていた要素はすべて外してある。鏡の前にいるのは、寝不足の目をした二十八歳の男だった。
目の下に薄い影がある。
右の頬には、前日に何度も指先で触れたせいか、ほんの少し赤みが残っていた。
顔だけなら、どこにでもいる男に見える。
それが蓮には気に入らなかった。
どこにでもいる人間は、誰の記憶にも残らない。
誰の記憶にも残らない人間は、追われにくい。
しかし、昨日の会場で出会った男――高瀬誠司だけは、蓮の記憶に残った。
高瀬は、蓮の顔を見ていなかった。
いや、正確には顔だけを見ていなかった。
歩き方。
バッグの持ち方。
会話の最中に目がどこへ向くか。
何かを隠す時、どちらの腕をかばうか。
高瀬は、白石美琴という人物の設定ではなく、その人物の外側に残る癖を見ていた。
蓮は、蛇口をひねった。
冷たい水を両手ですくい、顔に当てる。
それでも、頭の奥に残る緊張は消えなかった。
昨夜、ホテルを出てから、蓮は三度だけ寝場所を変えた。
自分の部屋へ戻らず、以前から使っている短期滞在用の部屋へ入り、夜明け前にはそこも出た。今いるのは、駅から離れた古いマンションの一室だった。
室内には生活感がない。
小さな机。
簡易ベッド。
冷蔵庫。
水だけが入ったペットボトル。
誰かがここで暮らしているようには見えない。
蓮自身も、ここを生活の場所とは思っていなかった。
逃げ込むための箱。
何かが起きた時、名前も、荷物も、思い出も置いていける場所。
蓮は洗面所を出て、机の上に置いた小さな封筒を見た。
白い封筒ではない。
濃い灰色の、表面に何も書かれていない封筒だった。
昨日、旧鳳栄ホテルで手に入れたもの。
中に入っているのは現金ではない。
紙片が一枚。
そこには、時間と場所だけが記されていた。
午後四時前。
裏の応接室。
川島宗一が、助手へ話していた内容と一致している。
しかし、その先に何があるのかは書かれていなかった。
金なのか。
書類なのか。
誰かとの取引なのか。
蓮にはわからない。
わからないからこそ、危険だった。
中身の見えない情報は、使う側より、渡す側にとって危険になる。
蓮は封筒を裏返した。
紙の端に、目立たないほど小さな赤い汚れがある。
昨日の会場で、寄付販売会の帳簿に押されていた朱肉の色と似ていた。
誰かが会場内で書いた。
誰かが、急いで封をした。
そして誰かが、何かを渡すつもりだった。
「高瀬……」
蓮は、その名を低く口にした。
ホテルのスタッフ名簿を確認する手段はある。
ただし、今すぐ動けば、その動きもまた誰かに見られる。
昨日の高瀬は、蓮を疑っていた。
しかし、高瀬が蓮の正体まで知っているとは限らない。
白石美琴という人物が嘘かもしれない。
何かを盗んだかもしれない。
会場の動きを不自然に見ていた。
その程度の疑念なら、まだ崩せる。
蓮はそう考えた。
その考えに、確信はなかった。
*
午前九時二十分。
旧鳳栄ホテルから少し離れた場所にある、小さな探偵事務所では、黒瀬真琴が昨日の記録を確認していた。
外から見れば、古い雑居ビルの三階にある、ごく普通の事務所だった。
廊下には、行政書士事務所と不動産会社の看板が並んでいる。
探偵事務所らしい看板は出していない。
黒いドアの横に、小さく「黒瀬調査室」とだけ書かれている。
真琴は昨夜のままの短い髪を整え、机に置かれたノートパソコンの画面を見つめていた。
画面には、旧鳳栄ホテルの監視カメラ映像が映っている。
白石美琴。
淡い色の髪。
白いブラウス。
灰色のコート。
映像の中の女は、受付を通り、展示室を歩き、寄付販売会の前を通り、オークション会場へ入っていく。
どの映像を見ても、決定的な場面はなかった。
財布を盗むところもない。
封筒を奪うところもない。
誰かと不自然な接触をする場面もない。
ただ、一つだけ。
何かが起きた時、必ず周囲より早く反応している。
陶器が割れた時。
クロークで鞄がなくなった時。
寄付金用の封筒が見つからないと騒ぎになった時。
普通の来場者は、音の方を見る。
周囲の人間を見る。
係員の動きを見る。
白石美琴は、最初に出口を見る。
そして、誰が動いたかを見ている。
真琴は映像を停止した。
画面の中で、白石美琴がほんのわずかに顔を上げている。
騒ぎの中心ではない。
廊下の奥。
非常口の近く。
警備員が立つ位置。
女の視線は、そこを順番に確認していた。
「警戒していた」
真琴は呟いた。
「会場を初めて訪れた客が、あんな見方はしない」
机の向かい側で、コーヒーを飲んでいた九条岳人が顔を上げた。
九条は真琴より十歳ほど年上で、調査室の事務作業と情報照会を担当している。
元新聞記者だったという経歴を持つが、本人はその頃の話をほとんどしない。
「白石美琴の照会結果が出ています」
九条は紙の束を机に置いた。
「勤務先として記載されていた出版社は実在する。だが、白石美琴という人物は所属していない。正社員、契約社員、派遣社員、アルバイト、いずれにも記録がない」
「住所は」
「存在する。古い集合住宅だ。ただし、居住者名簿には別の名前がある。白石美琴という人物は、少なくとも正式な契約者ではない」
「連絡先は」
「契約者情報は確認できなかった。使われている可能性はあるが、本人のものかは不明」
真琴は腕を組んだ。
「つまり、白石美琴は存在しない可能性が高い」
「それだけでは断定できません。偽名を使う事情がある人間は、犯罪者だけではない」
「わかっている」
「昨日、ホテル側からは何も盗難届が出ていないそうです」
「まだ、ということです」
真琴は映像を巻き戻した。
白石美琴が、二階展示室から出る。
次に、一階の寄付販売会へ向かう。
その後、三階のオークション会場へ行く。
「人は、盗まれたことにすぐ気づくとは限らない」
「何かを盗んだと?」
「今は、そう疑っているだけ」
九条は少し黙った。
「黒瀬さん」
「何」
「昨日のあの人、女性に見えましたか」
真琴は画面の中の白石美琴を見た。
柔らかい表情。
落ち着いた声。
控えめな所作。
外見だけなら、疑う要素はない。
「女性に見えた」
「本当に?」
「……女性という役を、かなり正確に演じていた」
九条は、そこで言葉を止めた。
真琴は自分の発言を訂正しなかった。
彼女自身が、日常的に男の格好をして人の前へ立つ。
服装や髪型、声の低さだけで、人間の性別を決めることの危うさは知っている。
だからこそ、白石美琴を「女だから怪しい」とは考えない。
怪しいのは、性別ではない。
白石美琴という人物に、現実の重さがないことだった。
仕事先がない。
住所が定まらない。
誰かと結びつく記録が薄い。
そして、会話の中にある過去が、どれも質問に答えるためだけに準備されている。
人間は、もっと無駄な情報を持っている。
好きな店。
嫌いな匂い。
昨日見た動画。
途中まで読んだ本。
電車で会った迷惑な乗客。
白石美琴には、それがなかった。
昨日聞いた話のすべてが、あまりに整っていた。
「今日、動くと思いますか」
九条が聞いた。
「動く」
「根拠は」
「昨日、彼女は何かを持ち出した」
「証拠はありません」
「だから、追う」
真琴は立ち上がった。
椅子の背に掛けていた濃紺のスーツの上着を手に取る。
「高瀬誠司として?」
「今日は高瀬ではない」
「男装はやめるんですか」
「昨日の高瀬を警戒しているなら、同じ姿で近づくのは無意味」
真琴は窓の外を見た。
空は薄く曇っていた。
雨が降るにはまだ早い。
だが、昨日より光が鈍い。
「人は、追われていると気づくと、二つのことをする」
「逃げるか、隠れるか」
「違う」
真琴は答えた。
「追っている人間を探し始める」
*
午前十時半。
蓮は、市立交通資料館の一階にある閲覧スペースへ入った。
交通資料館は、観光地として有名な場所ではない。
古い鉄道の時刻表、路線図、昭和期のポスター、鉄道会社の社史などが保管されている。平日の午前中なら人は少なく、受付にいる職員も来館者の顔を覚えない。
蓮はこの場所が好きだった。
誰もが何かを調べに来ている。
不自然に紙を読む人間がいても、怪しまれない。
壁際の机に座り、古い駅名一覧の冊子を開く。
しかし、目は文字を追っていなかった。
入口。
窓際。
職員の位置。
資料棚の間。
昨日から、自分の周囲にいる人間を、蓮は過剰に見るようになっていた。
それ自体が危険だとわかっている。
警戒しすぎる人間は、かえって目立つ。
だが、昨日の高瀬は、ただの警備員ではない。
探偵か。
警察関係者か。
ホテルが雇った外部の調査員か。
少なくとも、会場スタッフではなかった。
蓮は冊子を閉じ、机の端に置いたスマートフォンを見た。
昨夜送ったメッセージには、まだ返事がない。
蓮の周囲には、名前で呼び合う仲間がほとんどいない。
互いに本名を知らない。
会う場所も、時間も、必要な時だけ決める。
その関係は、裏切りにくい代わりに、助け合えない。
誰かが消えた時、他の者は探さない。
探せば、自分も消されるからだ。
蓮は、それが合理的だと思っていた。
今朝までは。
スマートフォンが震えた。
画面に短い文が表示される。
『川島の件は保留。昨日の情報源が騒ぎすぎた』
蓮は眉を寄せた。
続けて、もう一通。
『おまえは目立ったか』
指先が止まる。
蓮は画面を見たまま、答えを打たなかった。
自分が疑われている。
それは昨日の高瀬だけではない。
こちら側も、蓮の動きを信用していない。
何かを持ち出した。
何かを見られた。
予定が狂った。
そうなれば、組織の中では、最初に一番弱い立場の者が疑われる。
蓮はスマートフォンを伏せた。
返事をしない。
返せば、余計な言葉を使う。
余計な言葉は、後から証拠になる。
「すみません」
正面から声をかけられた。
蓮は顔を上げた。
四十代ほどの女性が立っている。
淡いベージュのジャケット。
細い縁の眼鏡。
手には資料館の案内図。
「この資料、どこに戻すかご存じですか」
女性は、蓮が読んでいた冊子を指した。
「ああ、たぶん、向こうの棚だと思います」
「ありがとうございます。こういう場所、あまり来ないので」
「僕もです」
蓮は、無意識に男の声で答えそうになった。
だが、今の姿は男だ。
問題はない。
女性は軽く笑った。
「お仕事ですか」
「いえ。少し、昔の地図を見たくて」
「鉄道がお好きなんですか」
「好きというほどでは」
「でも、資料を読むのはお好きそうですね」
蓮は返事を止めた。
初対面の人間がする会話としては、少しだけ踏み込みすぎている。
女性の目は穏やかだった。
しかし、視線が蓮の手元、鞄、出口を順番に見ている。
昨日の高瀬と同じだ。
蓮は冊子を閉じた。
「失礼します」
「はい」
女性はそれ以上引き止めなかった。
蓮が閲覧スペースを出る時も、彼女は資料を読むふりをしていた。
だが、背中に視線が残る。
蓮は一階の展示室へ向かわず、建物の外へ出た。
資料館の前には、小さな広場がある。
平日の午前中で、人通りは少ない。
ベンチには、新聞を読む老人が一人。
自動販売機の前には、作業服姿の男が二人。
道路の向かいには、パン屋の看板。
蓮は歩き出した。
右へ曲がる。
信号を渡る。
雑貨店の前で止まる。
店のガラスに映る後方を見た。
ベージュのジャケットの女はいない。
それでも、誰かがいる。
道路の向かい。
黒い傘を持った男が、電話をしている。
顔は見えない。
ただ、目線だけがこちらへ向いていた。
蓮はそのまま歩いた。
もう一度振り返れば、相手は警戒する。
振り返らない。
それが一番自然だ。
蓮は、駅へ向かわず、古い商店街の方へ入った。
商店街には、惣菜店、時計店、印刷所、古書店が並んでいる。
雨が降りそうな空の下、アーケードの薄暗さが、街を夕方のように見せていた。
人は少ない。
蓮は古書店の前で立ち止まり、入口に置かれた文庫本の箱を見た。
そこに、昨日の高瀬に似た男が映った。
ガラスではない。
店の奥にある、歪んだ鏡の反射。
濃紺のスーツ。
短い髪。
背の高さ。
高瀬誠司。
蓮は心臓が一度だけ大きく鳴るのを感じた。
昨日のホテルのスタッフ。
ここにいる。
偶然ではない。
蓮は古書店に入った。
店内は狭く、紙と埃の匂いがした。
棚の間を歩き、奥の出口へ向かう。
高瀬が追ってくる気配はない。
しかし、入口のベルが鳴った。
誰かが入ってきた。
蓮は棚の隙間から、入口を見る。
入ってきたのは高瀬ではなかった。
白いシャツに黒いベストを着た、若い店員だった。
「何かお探しですか」
「いえ」
蓮は答えた。
自分の声が、少し硬くなっていることに気づく。
ここに高瀬がいたのは、見間違いか。
それとも、別の場所へ回ったのか。
蓮は本棚から一冊だけ文庫本を抜いた。
内容は読まない。
ただ、何かを探している客に見せるために。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
昨夜から返信を待っていた相手だった。
『ホテル側のスタッフ名簿を確認した。高瀬誠司という人物はいない』
蓮の手が止まった。
もう一通。
『少なくとも、正規の警備会社スタッフではない』
蓮は画面を見つめた。
高瀬は偽名だった。
ホテルの警備員ではない。
では、何者か。
探偵。
その言葉が、昨日の会話と一緒に頭に浮かぶ。
本物の名前を探す仕事です。
蓮は文庫本を戻した。
「すみません」
店員がこちらを見る。
「これ、取り置きできますか」
「もちろんです」
「また来ます」
蓮はそう言って、店を出た。
外に出た瞬間、風が強く吹いた。
アーケードの外では、細い雨が降り始めている。
蓮は傘を開かず、商店街の奥へ歩いた。
高瀬は実在しない。
ホテルのスタッフではない。
そして、昨日から自分を見ている。
蓮は初めて、はっきりと理解した。
自分は追われている。
*
真琴は、商店街から少し離れた車の中にいた。
車は古い白いワゴン車だった。
調査室の車として使っているが、外見に特徴はない。
助手席には、九条が座っている。
「対象は、商店街の中へ入った」
真琴は双眼鏡を下ろした。
「高瀬の姿は見せた?」
「一度だけ」
「気づいたと思う」
「見せる必要があったんですか」
「必要だった」
九条は少し眉を寄せた。
「尾行なら、気づかれない方がいいでしょう」
「普通なら」
「今回は違うと」
「彼女は、昨日から誰かに見られていると感じている。なら、こちらが無理に隠れ続けても、相手は勝手に警戒する」
「警戒させて、動きを見る」
「そう」
真琴は窓の外を見た。
雨がアスファルトに細い線をつけている。
「人は疑われると、嘘を消そうとする。けれど、過去に言った嘘を全部消すことはできない。残すしかない」
「白石美琴を追うんですか」
「白石美琴という人間は、もう消えるかもしれない」
「別の名前になる?」
「おそらく」
「なら、どう追うんです」
真琴は答えなかった。
昨日、白石美琴を見ていた時から、ひとつだけ確信していることがある。
相手は、自分が作った人物像を捨てることに慣れている。
白石美琴が使えなくなれば、別の人物になる。
髪型を変える。
服装を変える。
声を変える。
肩書きを変える。
しかし、同じ人間が何度別の顔を作っても、残るものがある。
焦った時の呼吸。
出口へ向く視線。
質問を受けた時、答える前に一度だけ相手の指先を見る癖。
真琴は昨日、そのいくつかを見ていた。
「姿では追わない」
真琴は言った。
「行動で追う」
*
蓮は商店街を抜け、川沿いの遊歩道へ出た。
雨は少し強くなっている。
川面には細かい波が広がり、向かい側のビルの窓が歪んで映っていた。
遊歩道には、犬を散歩させる女性と、傘をさした会社員が数人いるだけだった。
蓮は橋の下で立ち止まった。
屋根がある。
雨宿りをする人間に見える。
実際、雨が強くなれば、誰でもここに入る。
蓮は濡れた前髪を指で払った。
そして、川の反対側を見る。
白いワゴン車が停まっていた。
車内に人影がある。
運転席。
助手席。
距離があるため、顔は見えない。
だが、蓮にはわかった。
あれは偶然ではない。
高瀬は一人ではない。
誰かと組んでいる。
蓮はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を見ながら、誰かに電話をかけるふりをする。
実際には、発信していない。
その間、川向こうの車を見た。
車内の影が動いた。
相手もこちらを見ている。
蓮はゆっくりとスマートフォンを下ろした。
そして橋の下から出た。
走らない。
走れば、追っている側に確信を与える。
蓮は川沿いを歩き、次の交差点で角を曲がった。
それから数分後、雨に紛れるように、別の通りへ入った。
自分がどこへ向かうかは決めていない。
ただ、同じ場所に長くいない。
高瀬が自分を見ているなら、高瀬の方にも焦りがあるはずだ。
追う側は、相手を失いたくない。
相手を失いたくない者は、どこかで距離を詰める。
その瞬間を待てばいい。
*
午後一時。
蓮は、駅前の複合施設に入った。
書店、雑貨店、家電量販店、小さな映画館、行政サービス窓口まで入っている建物だった。
平日だが、昼休みの会社員や買い物客が多い。
人混みの中へ入れば、追う側は動きにくくなる。
しかし、蓮はそれを利用して逃げるつもりではなかった。
高瀬を見つけるためだった。
一階の書店。
二階の生活雑貨店。
三階の飲食フロア。
蓮は、何かを買うわけでもなく、建物の中を移動した。
鏡。
ガラス。
金属製の柱。
エスカレーター横の案内板。
反射する場所を、目立たない程度に使う。
しかし、高瀬の姿は見えない。
代わりに、紺色のジャケットを着た女性がいた。
年齢は二十代後半から三十代前半。
黒い髪を耳の後ろでまとめ、片手に紙袋を持っている。
彼女は雑貨店の前で商品を見ていた。
蓮が通り過ぎると、少し遅れて歩き出す。
偶然か。
蓮はエスカレーターへ向かった。
女性も少し離れて乗った。
蓮は上へ行く途中、手すりの金属に映る影を見る。
女性はスマートフォンを見ている。
しかし画面ではなく、こちらを見ている。
蓮は目を細めた。
高瀬とは別の人物。
だが、視線の使い方が似ている。
蓮は三階で降りた。
映画館の前を通り、飲食フロアの奥へ行く。
女性もついてくる。
蓮は角を曲がり、トイレの案内板の近くで立ち止まった。
女性が来る。
ここで振り返れば、相手は止まる。
蓮は、あえて振り返った。
女性は一瞬だけ驚いた顔をした。
しかしすぐに、何事もないように近くの自動販売機へ向かった。
飲み物を買う。
蓮は、その横を通った。
「雨、強くなりましたね」
自分でも驚くほど自然な声が出た。
女性は顔を上げた。
「そうですね」
「傘、持ってきてなくて」
「私はあります」
「羨ましいです」
蓮は笑った。
女性も笑った。
ただし、目は笑っていない。
昨日の高瀬と同じだ。
相手の言葉より、呼吸を見ている。
「お買い物ですか」
女性が聞いた。
「そう見えますか」
「見えません」
蓮は、少しだけ笑みを消した。
「どうして」
「手ぶらなので」
「見るだけです」
「私もです」
女性はペットボトルの蓋を閉めた。
「何か探しているんですか」
蓮は答えなかった。
その質問は、普通の会話としては不自然だった。
しかし、女性の言葉には圧がない。
探りを入れているようでいて、答えを強要していない。
高瀬と同じやり方。
「探し物、ですか」
蓮は聞き返した。
「ええ」
「ありますよ」
「見つかりそうですか」
「どうでしょう」
「見つけたいものほど、遠くにあることが多いですから」
女性はそう言った。
蓮は、彼女の手元を見た。
爪は短く整えられている。
指に指輪はない。
紙袋の中身は、何も入っていないように見える。
買い物客にしては、空白が多い。
白石美琴を見抜いた高瀬が、今度は別の姿で近づいている。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
しかし、蓮は自分でそれを否定した。
高瀬は男だ。
昨日、蓮は確かに見た。
低い声。
短い髪。
男のスーツ。
男の名札。
目の前の女とは、別人だ。
「すみません」
蓮は言った。
「待ち合わせがあるので」
「そうですか」
「失礼します」
「どうぞ」
女性は引き止めなかった。
蓮はその場を離れた。
背中を向けた瞬間、女性の気配が消えた。
振り返らない。
しかし、歩きながら蓮は考えた。
高瀬が一人ではないなら、昨日から複数人で自分を追っている可能性がある。
男が表で近づく。
女が別の場所で見る。
車の中に、もう一人いる。
それなら、相手は探偵事務所かもしれない。
ホテルの警備員より、ずっと厄介だ。
*
その頃、真琴は複合施設の非常階段にいた。
紺色のジャケットの女性は、黒瀬真琴本人だった。
高瀬誠司の姿ではない。
髪も、服装も、声の高さも、昨日とは変えている。
だが、蓮は彼女の存在を警戒した。
完全には見抜いていない。
しかし、同じ種類の危険を感じ取っている。
「勘がいい」
真琴は小さく言った。
イヤホンから、九条の声がした。
『こちらからは確認できています。対象は北側の階段へ向かいました』
「追わないで」
『え?』
「近づきすぎると、逃げる」
『もう気づかれているのでは』
「気づいている。でも、まだ確信はない」
真琴は非常階段の窓から、外を見た。
雨は次第に強くなっている。
複合施設の屋根から、水が細い滝のように落ちていた。
『黒瀬さん、ひとつ報告があります』
「何」
『昨日のホテルで、川島宗一の助手が一度だけ、私物の確認をしていたそうです』
「何がなくなった」
『本人は何も言っていません。ただ、控室に入る前に、持っていた書類の数を確認していた』
「書類が消えた可能性がある」
『断定はできません』
「白石美琴が昨日、何を見ていたか、もう一度確認して」
『川島の周辺ですか』
「川島だけじゃない。助手も、警備も、受付も」
真琴は壁に背を預けた。
「彼女は金を狙っているのかもしれない。でも、昨日の行動には、金だけを狙う人間とは違う部分がある」
『情報ですか』
「そうかもしれない」
『何の情報を?』
「それを調べるために、彼女も動いている」
真琴は目を閉じた。
相手の目的がわからないうちは、捕まえることだけを急ぐべきではない。
盗難を防ぐ。
被害者を守る。
証拠を残す。
そのためには、相手が次に何を狙うかを知る必要がある。
しかし、白石美琴は既に消えかけている。
次に現れる人物が、同じ相手だと断定できるとは限らない。
真琴は、昨日の映像を思い出した。
白石美琴が、会場の床に落ちた陶器の破片を見ていた時。
誰よりも早く、破片の周囲を避けて歩いた。
ただ避けたのではない。
怪我をしないためではなく、靴跡を残さないために。
あの動きは、考えるより先に出ている。
身体が覚えている。
どれだけ姿を変えても、あの癖は消えない。
「追う」
真琴は言った。
「名前ではなく、癖を」
*
蓮は夕方まで、街を移動した。
何かを盗むためではない。
何かを受け取るためでもない。
ただ、追っている者がいるなら、その輪郭を見つけるためだった。
駅前の複合施設を出た後、蓮は地下鉄に乗った。
次の駅で降りた。
さらに別の路線へ乗り換えた。
だが、誰かを撒くためにそうしたわけではない。
行き先を決めずに動く人間は、かえって怪しまれる。
だから蓮は、最初から行く予定だったように、駅前の文具店へ入り、手帳を一冊買った。
安い、黒い手帳。
店員が紙袋へ入れる。
蓮はそれを受け取り、礼を言った。
店を出てから、手帳を開いた。
白紙のページ。
蓮はそこに、短く書いた。
高瀬誠司。
ホテル名簿になし。
白い車。
女の協力者。
書いた文字を見ていると、妙な感覚があった。
自分が誰かを調べている。
これまで蓮は、調べられる側だった。
警察に身元を追われる。
被害者に顔を覚えられる。
仲間に行動を疑われる。
追う側へ回ることは、ほとんどなかった。
だから、手帳に名前を書く行為が新鮮だった。
同時に、危険だった。
人を追い始めれば、自分の逃げ道が減る。
蓮は手帳を閉じた。
すると、すぐ横で男の声がした。
「それ、落としましたよ」
黒い傘を持った中年の男が、蓮の足元を指した。
地面に、小さな紙片が落ちている。
蓮が拾う。
紙片には、旧鳳栄ホテルのロゴが印刷されていた。
昨日の会場で配られていた案内用紙の切れ端。
蓮は顔を上げた。
男は既に歩き去っている。
偶然か。
それとも、誰かが置いたのか。
蓮は紙片を握りつぶしそうになった。
だが、すぐにやめた。
焦るな。
誰かが自分を揺さぶろうとしているなら、反応を見せた方が負ける。
蓮は紙片をポケットに入れた。
そして、通りの向こうを見た。
人混みの中に、濃紺のスーツを着た男がいる。
高瀬だった。
今度は見間違いではない。
高瀬は横断歩道の向こうに立っている。
目が合った。
男は逃げない。
隠れない。
ただ、こちらを見ている。
信号が青になる。
蓮は渡った。
高瀬も歩き出す。
二人は、横断歩道の中央で近づいた。
「随分、遠くまで来ましたね」
蓮は言った。
「そうですね」
高瀬は答えた。
「ホテルの警備員さんが、こんなところに何の用ですか」
「昨日も言いました。警備員ではありません」
「なら、何者なんです」
「それを知りたいですか」
「当然でしょう」
「あなたが先に答えれば」
蓮は笑った。
「白石美琴です」
「違う」
「失礼ですね」
「その名前で、働いていた出版社に確認しました」
蓮の表情が、わずかに止まった。
高瀬は続ける。
「あなたはいなかった」
「同姓同名の確認でもしたんですか」
「勤務先も、住所も、連絡先も、全部曖昧です」
「個人情報を勝手に調べるなんて、犯罪では」
「必要な範囲で確認しただけです」
「必要な範囲って、誰が決めるんですか」
「状況が決めます」
蓮は高瀬の目を見た。
この男は、相手を怒らせる言葉を選んでいない。
だが、逃げ道を塞ぐ言葉を選んでいる。
それが厄介だった。
「あなた、探偵なんですか」
蓮はもう一度聞いた。
「そう思いますか」
「思います」
「なら、そうかもしれません」
「答えになっていません」
「あなたの答えも、答えになっていない」
蓮は、ほんの少し笑った。
高瀬も笑わない。
「昨日のホテルで、何を盗んだんですか」
高瀬は言った。
通りを走る車の音が、急に遠くなった気がした。
蓮はすぐには答えなかった。
「盗んでいません」
「本当に」
「ええ」
「昨日、寄付販売会の近くで、あなたは一度だけ、人混みの流れから外れた」
「展示を見ていただけです」
「その後、コートの内側を確認している」
「寒かったので」
「室内で?」
「あなた、私のことを見すぎじゃありませんか」
「見ています」
「どうして」
「あなたが、誰かから何かを奪う前に止めたいから」
蓮は視線を逸らした。
高瀬の言葉には、正義感を誇示するような熱がない。
ただ、事実として言っている。
それが、かえって腹立たしかった。
「私は何も盗んでいない」
「なら、証明してください」
「どうやって」
「本当の名前で話してください」
蓮は、笑った。
今度の笑いは、少し冷たかった。
「それを知って、あなたは何をするんですか」
「確認する」
「確認して、次は」
「必要なら、止める」
「止めるって」
「犯罪を」
蓮は高瀬を見た。
人通りの多い横断歩道の脇。
雨が止みかけた空。
誰も二人の会話を聞いていない。
高瀬は、蓮に触れない。
腕を掴まない。
逃げ道を塞がない。
脅さない。
しかし、言葉だけで蓮を追い詰めようとしている。
「あなたが探偵なら」
蓮は言った。
「証拠を持ってきてください」
「持ってくる」
「それまでは、私に近づかないで」
「それは約束できない」
「どうして」
「あなたが次に何をするかわからないから」
蓮は一歩、後ろへ下がった。
「あなたの方が危険です」
「そうかもしれません」
「私のことを勝手に調べて、追い回して、名前まで疑って」
「名前を疑っているんじゃない」
高瀬の声が少し低くなった。
「名前の後ろに隠れている人間を探している」
蓮は、その言葉を聞いた瞬間、背中が冷えた。
白石美琴を見ているのではない。
相沢蓮を知らなくても、誰かがその輪郭に近づいている。
それが怖かった。
蓮は高瀬に背を向けた。
「もう話すことはありません」
「白石さん」
「その名前で呼ばないでください」
自分でも、言ってから気づいた。
白石美琴という名前を否定した。
高瀬は何も言わなかった。
蓮は歩き出した。
背後から追ってくる足音はない。
だが、言葉だけが残った。
名前の後ろに隠れている人間を探している。
*
夜。
蓮は、最初にいた古いマンションの部屋へ戻っていた。
部屋の電気はつけない。
窓のカーテンも開けない。
暗い室内で、壁際に座り、スマートフォンを見た。
受信箱に、新しいメッセージがある。
『昨日の件で、川島側が動いている』
蓮は読み進める。
『何かが抜かれた可能性があるらしい。おまえが持っているものを確認しろ』
蓮は机の上に、灰色の封筒を置いた。
中には紙片だけ。
午後四時前。
裏の応接室。
それだけ。
しかし、紙片の裏側には、薄く何かが書かれている。
昨日は気づかなかった。
明かりを当てて角度を変えると、鉛筆で押しつけるように書かれた痕が見える。
完全な文字にはなっていない。
だが、かろうじて読める。
『三枝』
人名か。
屋号か。
場所か。
蓮は紙片を見つめた。
この情報を組織へ渡せば、自分は利用される。
渡さなければ、疑われる。
どちらにしても、安全ではない。
高瀬の存在がなければ、蓮は迷わなかったかもしれない。
紙片を渡す。
次の仕事へ行く。
白石美琴を捨てる。
別の名前で生きる。
いつものように。
しかし今は、どこかで高瀬が見ている。
高瀬誠司という名前も偽名だ。
ならば、あの男にも別の顔がある。
別の住所。
別の仕事。
別の名前。
蓮は、机の上の黒い手帳を開いた。
高瀬誠司。
その名に線を引く。
その下に書いた。
実在しない。
さらに、その下。
探偵。
協力者あり。
白いワゴン車。
女。
蓮はペンを止めた。
商業施設で会った、紺色のジャケットの女。
あの女は何者だ。
高瀬の仲間か。
偶然か。
別の調査員か。
蓮は目を閉じた。
高瀬という男は危険だ。
しかし、本当に危険なのは、男そのものではない。
自分が、高瀬を気にし始めていることだった。
気にすれば、動きが変わる。
動きが変われば、嘘が崩れる。
蓮は手帳を閉じた。
「先に調べる」
暗い部屋で、誰に聞かせるでもなく言った。
「高瀬誠司が、何者なのか」
*
同じ頃、黒瀬調査室では、真琴が鏡の前に立っていた。
鏡の中には、濃紺のスーツを着た男がいる。
高瀬誠司。
昨日、旧鳳栄ホテルで使った姿。
真琴は首元のネクタイをほどいた。
男の姿を作るための細かなものを、一つずつ外していく。
それは自分を偽るためではない。
仕事のために、相手の警戒をずらすための手段だった。
しかし、鏡の中の高瀬誠司を見ていると、白石美琴のことを思い出す。
あの人物も、何かを隠している。
白石美琴という名前。
出版社の契約社員という肩書き。
叔母の遺品整理という理由。
それらは、すべて表面に貼られた紙のようだった。
剥がせば、何もない。
あるいは、紙の下に、もっと危険なものが隠れている。
「黒瀬さん」
九条が、入口の方から声をかけた。
「川島宗一の側から連絡です」
「何があった」
「昨日、控室に持ち込んでいた書類の一部が見つからないそうです」
真琴は振り返った。
「盗難届は」
「出すか迷っている。表に出せない取引が絡んでいるようです」
「何が消えた」
「詳細は言わない。ただ、川島本人は相当焦っているらしい」
真琴は短く息を吐いた。
白石美琴が盗んだかどうかは、まだわからない。
だが、会場で何かが消えている。
そして、白石美琴は偽名の可能性が高い。
さらに、今日も街を歩きながら、周囲を見ていた。
追われている人間の動き。
真琴は机の上の資料を開いた。
白石美琴の写真。
昨日、ホテルの受付で撮影された入場記録の画像。
淡い髪。
柔らかな表情。
少し困ったような笑み。
真琴はその顔を見ながら、静かに言った。
「白石美琴は、次に別の顔になる」
九条が聞く。
「追えますか」
「追う」
「どうやって」
真琴は答えた。
「彼女は、こちらを調べ始めた」
「それが何か」
「追っている相手を調べる人間は、必ず一度、こちらへ近づく」
真琴は、写真を机に置いた。
「高瀬誠司という偽名を使ったのは、失敗ではない」
「なぜです」
「彼女にとって、高瀬はもう無視できない存在になった」
真琴は窓の外を見た。
雨は止んでいた。
濡れた街灯が、道路にぼんやりと光を落としている。
「次は、向こうから来る」
その夜、相沢蓮は高瀬誠司を探し始めた。
黒瀬真琴は、白石美琴ではない誰かを待ち始めた。
互いに、本当の名も、素顔も、相手の立場も知らない。
それでも二人は、同じ街の中で、既に相手の影を追っていた。




