第一話 偽りの入場証
鏡の中の女は、俺の名前を知らない。
洗面台の横に並んだ小瓶とブラシ、淡い色のコンパクト、黒いケース。朝の光が狭い部屋の白い壁に反射し、そのどれもを、必要以上に清潔なものに見せていた。
相沢蓮は鏡の前に座り、深く息を吐いた。
今日は一度きりの仕事ではない。これまで何度も繰り返してきた手順の延長に過ぎない。それでも、どんな現場でも最初の数分だけは、胸の奥に冷えた針が入るような感覚が残る。
その感覚を、蓮は嫌ってはいなかった。
恐怖があるからこそ、余計なことをしなくなる。
余計なことをしないからこそ、失敗が減る。
犯罪を仕事と呼ぶのは、ひどく都合のいい言い方だと、蓮自身わかっている。盗まれる側には、その一瞬で崩れる予定や、信用や、生活がある。だからこそ蓮は、被害を想像する時間を意識して削ってきた。想像すれば手が止まる。手が止まれば、過去の自分を肯定できなくなる。
黒いケースを開く。
中にあるのは、白石美琴という架空の女を成立させるための部品だった。柔らかな色のウィッグ、輪郭を整えるためのメイク用品、服の下の線を自然に見せるための補正用インナー。
どれも衣装ではあるが、蓮にとっては衣服以上の意味を持っていた。
顔立ちを変えるためではない。
他人の注意を、もっと別の場所へ向けさせるためだ。
人は、目の前にあるものを見ているようで、ほとんど見ていない。
大人しそうな女。
裕福そうな客。
人当たりのいい参加者。
少しだけ困っている人。
誰かがそう見てしまった時点で、その人物はもう半分、相手の頭の中で作られている。
蓮はそこに、自分の顔を滑り込ませる。
鏡の中の男が、少しずつ消えていった。
蓮が白石美琴を作るようになったのは、顔を変えたかったからではない。
最初は、ただ逃げるためだった。
八年前、まだ蓮が二十歳になったばかりの頃、彼は小さな詐欺の片棒を担いでいた。偽名で賃貸契約を結び、短期間で部屋を引き払い、残された請求を別の誰かへ押しつける。誰かを直接傷つけない、そう自分に言い聞かせられる程度に卑怯な仕事だった。
だが、ある日、蓮が使っていた名前の持ち主が、実在する人間だと知った。
自分とは無関係の若い会社員。蓮が作った偽の履歴が原因で、勤務先に電話がかかり、事情を説明するために何度も休まなければならなくなったという。
蓮はその男の顔も知らない。声も知らない。ただ、たまたま手に入った個人情報の中に書かれていた名前を使っただけだった。
それでも、その名前の人間には生活があった。
その時、蓮はやめるべきだった。
だが、やめなかった。
むしろ、他人の人生に直接触れないためという理屈を作り、もっと巧妙に姿を隠す方へ進んだ。顔を変え、声を変え、印象を変えれば、誰かの名前を奪わずに済む。そう考えた。
それは反省ではなかった。
責任から遠ざかるための言い訳だった。
声を変える練習は、最初は録音から始めた。
語尾を伸ばすのではなく、息をどこで抜くかを変える。高くするのではなく、相手が警戒しない速度で話す。笑い声を作るのではなく、笑わない場面で沈黙を長くする。
蓮は、自分が器用な人間だとは思っていない。
ただ、人に合わせることだけは昔から得意だった。
怒っている相手には謝る。
機嫌のいい相手には褒める。
寂しそうな相手には、話を聞いているふりをする。
それを繰り返しているうちに、蓮は「自分がどう見えるか」ばかりを考えるようになった。
鏡の中の白石美琴は、その集積だった。
美琴は、蓮よりも善良に見える。
蓮よりも弱く見える。
蓮よりも、誰かに助けられそうに見える。
だから人は、彼女を信じる。
蓮はウィッグの前髪を指先で整えた。
「今日だけでいい」
声に出すと、知らない女の声が返ってきた。
それが、少しだけ気持ち悪かった。
眉の角度をゆるめ、目元の印象を柔らかくする。髪は肩につく程度の長さに整え、無理に派手にはしない。
選んだのは、会場で目立つための装いではない。
人の記憶に残らず、誰かの好意だけは得られる、静かな印象だった。
白石美琴。
二十六歳。
都内の小さな出版社で契約社員として働いている。
趣味は古い映画のポスター収集。
亡くなった叔母が絵画好きで、その遺品整理の一環として今日の催しに来た。
すべて嘘だ。
しかし、嘘は多ければ多いほど危うい。
蓮は美琴について、必要なことだけを覚えている。尋ねられたら答える。尋ねられなければ話さない。相手が空白を勝手に埋めるなら、それが一番楽だった。
白いブラウスの襟を整え、淡い灰色のロングコートを羽織る。
鏡の前に立つと、そこには蓮の姿はなかった。
ただし、完璧という言葉ほど危険なものはない。
完璧な変装は存在しない。
あるのは、誰も疑わない時間だけだ。
*
会場となった旧鳳栄ホテルは、戦前から続く建物だった。
駅から少し離れた高台にあり、坂の下から見上げると、赤煉瓦の外壁と緑青色の屋根が朝靄の向こうに浮かんでいた。正面玄関の脇には、慈善文化振興会の旗が何本も並んでいる。
今日の催しは「鳳栄アート・オークション併設慈善展示会」。
地方の美術館支援を名目に、古美術商、資産家、企業関係者、文化人を集める。昼の展示会と、夕方から始まる限定オークション。その間に寄付金の受け付けと、来場者向けの小規模な販売会が行われる。
大きな金が動く場所には、必ず大きな警戒がある。
蓮が今回の会場を選んだ理由は、金額だけではない。
この催しには、公式の会計とは別に、参加者同士の私的な取引がある。展示会で顔を合わせた古美術商や収集家が、表に出せない品や、正式な契約前の仮押さえについて話をする。
そこに動く金は、会場の帳簿には載らない。
主催者にとっても、客にとっても、見ないふりをする金だ。
それを奪えば、被害者は大声を上げにくい。
蓮はその構造を知っていた。
知っている自分を、ますます嫌うべきだった。
今日の狙いは、関西から来る古美術商、川島宗一だった。
川島は、表向きには寄付販売会の協賛者として会場にいる。しかし蓮が得た断片的な情報では、彼は夕方、ある絵画の買い手と別室で会う予定だった。
その場で動く金額は、会場の寄付金とは比べものにならない。
ただし、蓮は川島の金そのものを狙っているわけではない。
川島が持ち歩く、取引のための書類と、金の受け渡しを示す控え。それを手に入れれば、後から別の者が動く。蓮は、その入口を作る役だ。
自分の手が汚れていないと思い込むために、役割を細かく分ける。
誰かが実際に金を奪い、誰かが売り、誰かが脅し、蓮は「渡しただけ」と言う。
その構造のどこにいても、結局は同じだった。
だが、警戒が厳重であればあるほど、人は「自分は守られている」と思い込む。
蓮が狙っているのは、展示品でも、会場の金庫でもない。
寄付金そのものでもない。
今日ここへ集まる人間たちは、自分の財布や封筒の中身を、他人の目から隠す習慣を持っていない。
高額な現金を扱うことに慣れた者ほど、身の回りの金を「大したことではない」と感じる。たとえ数十万円でも、全体の取引額からすれば小銭のように見えるからだ。
それが蓮の嫌いで、同時に利用してきた部分だった。
受付前には、すでに長い列ができていた。
香水の匂い、磨かれた革靴の音、乾いた紙の擦れる音。ホテルの大理石の床を歩く人々は、誰もが少し背筋を伸ばしている。
会場に漂う緊張は、警戒ではなく見栄だった。
蓮は列の後ろに並び、スマートフォンを取り出した。
画面には、主催者から届いたように見える案内メールが表示されている。もちろん本物ではない。
だが、最初から騙そうとすれば、相手は構える。
必要なのは、相手が自分から安心する程度の、曖昧な違和感だけだった。
「白石美琴様でお間違いないでしょうか」
受付の女性が、柔らかい声で言った。
「はい。こちら、招待状です」
蓮は控えめに微笑み、封筒を差し出した。
「ありがとうございます。こちらが入場証と、会場案内です。本日は、一般展示が二階、寄付販売会が一階の小宴会場、オークション会場が三階となっております」
「助かります。あの、オークションの見学だけでも入れますか」
「はい。入札に参加されない場合でも、後方席からご覧いただけます。ただ、貴重品のお預かりは承っておりませんので、ご注意ください」
「わかりました」
蓮は、微笑みを崩さずに答えた。
貴重品のお預かりは承っていない。
その一言を聞いて、周囲の数人が自分の鞄に手を伸ばす。財布や封筒を確認する動作。無意識の習慣。
人の目は、注意を促された瞬間ほど、特定の物へ集中する。
蓮は、それを見ていた。
「失礼」
背後から、低い声がした。
振り返ると、濃紺のスーツに細いネクタイを締めた若い男性が立っていた。会場スタッフの腕章をつけている。髪は短く、顔立ちは整っているが、愛想のいい接客係には見えなかった。
視線が鋭い。
蓮はすぐに判断した。
警備担当。
「お荷物、少し大きいようですので、こちらで持ち込み品の確認をさせていただけますか」
男は丁寧に言った。声の高さは低いが、威圧するような言い方ではない。
「もちろんです」
蓮は小さく頷いた。
トートバッグを開く。
中には展示会のパンフレットを入れるための薄いケース、化粧ポーチ、折り畳み傘、ハンカチ、充電器、文庫本。
どれも女性客が持っていて不自然ではないものばかりだった。
男は一つずつではなく、全体を見た。
「ご協力ありがとうございます」
「何か問題でもありましたか」
「いえ。今日は人が多いので、念のためです」
「大変ですね」
「仕事ですから」
短い返答。
無駄のない声。
蓮は笑った。
「警備のお仕事って、ずっと人を疑っていなきゃいけないんですか」
男の目が、わずかに動いた。
「疑うより、確認する仕事です」
「同じようなものじゃないですか」
「違います。疑うと、見たいものだけを見る。確認するなら、見たくないものも見ます」
蓮は返事をしなかった。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「高瀬です」
男は胸元の名札を指で軽く叩いた。
「何か困ったことがあれば、声をかけてください」
「白石です。ありがとうございます」
蓮は会釈し、受付を離れた。
背中を向けてからも、視線を感じた。
高瀬という男は、ただの警備員ではない。
蓮はそう判断した。
*
高瀬は、蓮が受付を離れた後も、すぐには後を追わなかった。
警備担当者のふりをしている以上、同じ客ばかりを追えば不自然になる。
真琴は展示室の反対側へ移動し、壁際に立つ警備員へ短く指示を出した。
「二階北側の廊下、記録を残しておいてください。特に、十三時四十分から十四時十分」
「何かありましたか」
「まだ」
真琴は答えた。
スタッフたちは、彼女の本当の立場を知らない。主催者からは「会場内の不正調査を担当する外部協力者」とだけ説明されている。
名札も仮名。
性別を隠すために男装しているのは、今日の依頼に関係がある。
この会場には、警備会社の内部情報を外へ流している者がいる可能性があった。
真琴はその人物を探すため、あえて現場スタッフに紛れていた。
しかし午前中から気になっている女がいる。
白石美琴。
書類は整っている。
服装にも不自然な点はない。
受け答えも、少なくとも表面的には自然だ。
なのに、彼女は人を見ない。
正確には、見ているのに、見ていないふりをする。
展示品を見ている時も、ガラスに映る人の動きを確認している。会話をしている時も、相手の言葉より、相手がどこに手を置くかを見ている。
安全な場所にいる人間の視線ではない。
真琴は、過去に似た目を何度も見てきた。
家出人を探していた時。
横領の証拠を隠した会社員を追っていた時。
詐欺師が、次の嘘を選ぶために周囲を観察していた時。
人間は、何かを隠しているとき、意外なほど周囲に敏感になる。
白石美琴には、その敏感さがあった。
真琴はスマートフォンを取り出し、通信アプリに短い文を打った。
『白石美琴。事前登録の照会を急いで』
相手は、探偵事務所の補助員だった。
数分後、返答が来る。
『登録は三日前。勤務先として記載された出版社は存在する。だが、白石美琴という名前の社員記録は確認できない。派遣・契約の可能性あり』
真琴は画面を見つめた。
決定打ではない。
だが、足場が少しずつ崩れ始めている。
*
一階の小宴会場では、地域の工芸品や寄付用の品が並べられていた。
漆器、染織品、小さな彫刻、陶器、古書。
展示台の脇には、価格表と寄付先の説明が置かれている。来場者は作品を眺めながら、知り合いを見つけては足を止め、名刺を交換し、近況を話した。
こういう場所では、金を持つ人間ほど、金の話をしない。
「白石さん、ですか?」
声をかけられ、蓮は振り返った。
年配の女性だった。淡い紫の着物に、真珠の首飾り。隣には、同じくらいの年齢の男性がいる。
二人とも、蓮のことを知っているような顔をしていた。
「はい」
「さっき、受付でお見かけして。お若いのに、こういう展示会にいらっしゃるのね」
「叔母がこういうものを好きだったんです。私は詳しくないんですけど、少し見てみようかなと」
「まあ、素敵。最近の若い人は、こういうものに関心がないと思っていたわ」
相手は勝手に好意を抱いてくれた。
蓮は、否定しない。
少し困ったように笑うだけでいい。
「叔母の家に、古い版画が何枚か残っていて。何がいいものなのか、よくわからなくて」
「それなら、二階の展示を見た方がいいわ。あちらに専門家の方がいらっしゃるから」
「ありがとうございます」
会話の途中で、年配の男性が胸ポケットから財布を取り出し、小さな札入れに入った紙幣を確かめた。
寄付販売会の係に声をかけられ、どの品を買うか迷っている。
蓮は視線を向けなかった。
視線を向けないこともまた、見る技術の一つだった。
年配の夫婦が離れた後、蓮は会場をゆっくり歩いた。
急いではいけない。
目的がある人間ほど歩き方に出る。展示を見るふりをするのではなく、展示を見ている人間にならなければならない。
真鍮の小皿の前で足を止める。
細い筆で描かれた花模様を眺める。
価格表に視線を落とし、少しだけ眉を寄せる。
その間にも、周囲の会話は耳へ入る。
「さっきの寄付、会計担当に渡しておいて」
「オークション用の登録料、現金でも受けるんですよね」
「代表の先生は、三時にはいらっしゃるそうです」
「三階の控室、誰か鍵を持っている?」
情報は、拾おうとすれば拾えない。
ただ、聞いていれば、勝手に落ちてくる。
蓮は小さな展示台の端に置かれたパンフレットを手に取った。
その後、蓮は意図的に小さな買い物をした。
手のひらに収まる木製の栞を一つ。
値段は千二百円。
会計を担当する若いスタッフへ、蓮は千円札と小銭を差し出した。指先を震わせず、金額を間違えず、領収書を受け取る。
普通の客がする、普通の動作。
「かわいいですね、それ」
隣にいた女性客が、栞を覗き込んだ。
「はい。叔母が本を好きだったので」
「まあ。きっと喜ばれますね」
蓮は曖昧に笑った。
叔母などいない。
だが、この程度の嘘は、もう嘘という感覚すら薄い。
会場の端で、川島の助手が電話をしていた。
黒いファイルは、彼女の脇に置かれた小型のキャリーケースの上にある。
蓮はそこへ近づかない。
代わりに、展示台の反対側で立ち止まり、売られている古い絵葉書を手に取った。そこには、昭和初期の旧鳳栄ホテルが写っている。
今よりも背の低い建物。
玄関前には洋装の男女が並んでいた。
「昔から、ここは変わらないんですね」
蓮は誰にともなく言った。
「建物は変わりますよ」
高瀬の声がした。
いつの間にか、すぐ横に立っている。
「使う人間が、変わらないだけです」
「またそれですか」
蓮は絵葉書を戻した。
「高瀬さんは、何か嫌な目に遭ったことがあるんですか」
「誰でもあります」
「それでも人を信用しないんですか」
「信用することと、確認することは両立します」
「私は、そんなに確認されるほど変ですか」
「変ではありません」
「じゃあ、どうして」
「変でないように、気をつけすぎているからです」
蓮は、ゆっくり高瀬を見た。
言葉の選び方が厄介だった。
直接、嘘だとは言わない。
決めつけもしない。
だから反論しにくい。
「あなた、女性に失礼ですよ」
「そうでしょうね」
「謝らないんですか」
「謝るべきことがわかれば」
蓮は微笑みを消した。
高瀬は、ほんの少しだけ視線を落とした。
その時、会場の奥で、乾いた音がした。
陶器の小皿が床に落ち、割れたのだ。
人々が振り返る。
スタッフが駆け寄る。
川島の助手も、電話を切ってそちらを見る。
ファイルが、キャリーケースの上に残された。
蓮の目は、無意識にその方へ向きかけた。
だが、高瀬がこちらを見ている。
蓮はすぐに視線を絵葉書へ戻した。
「大変ですね」
それだけ言った。
高瀬は、蓮の横顔を見ていた。
*
二階の展示室は、一階より人が少なかった。
壁に掛けられた絵画、ガラスケースに収められた古書、古い陶磁器。窓から入る薄い午後の光が、フローリングの床に斜めの線を落としている。
蓮は展示の間を歩いた。
高瀬の存在が気になっていた。
警備員なら、あれほど話しかけてくる必要はない。普通なら、不審者を見張るなら、距離を置く。接触すれば、相手に警戒されるからだ。
つまり、あの男は蓮を不審者と断定していない。
しかし、興味を持っている。
それが面倒だった。
蓮は展示室の端にあるベンチへ座った。
大きな絵画の前。青灰色の海に、黒い船影が一つだけ浮かんでいる。題名は『夜の渡し場』。
しばらく眺めていると、隣に見知らぬ女性が座った。
「すみません。これ、どこかで見たことがあるんですけど」
女性はパンフレットを広げ、困ったように言った。
「私も詳しくないので」
「そうですよね。あ、でも、これ……昔、雑誌の表紙になっていたかも」
女性はスマートフォンを操作し始めた。
その手元に、小さな革の財布が置かれている。ベンチの間に挟むように置いたらしく、本人は気づいていない。
蓮は何もしなかった。
高瀬が、少し離れた場所にいるのを見つけたからだ。
男は展示ケースの方を向いている。
しかし、ガラスに映る蓮の姿を見ている。
蓮は立ち上がり、女性に軽く頭を下げた。
「すみません、少し見てきます」
「はい」
そのまま展示室を出る。
廊下を曲がったところで、蓮は壁際に寄った。窓の外には、ホテル裏手の庭園が見える。整えられた植木と、石畳の通路。
招待客の一人が電話をしていた。
蓮はスマートフォンを取り出し、画面を見るふりをした。
後ろから足音。
「白石さん」
高瀬だった。
「また会いましたね」
「会場が狭いので」
「このホテル、結構広いですけど」
「そうでしょうね」
「高瀬さんは、ずいぶん私の近くにいます」
蓮は、穏やかに言った。
高瀬は否定しなかった。
「そう見えますか」
「見えます」
「なら、気をつけます」
「そうしてください」
蓮は笑った。
笑いながら、相手の靴を見る。
革靴は傷んでいないが、踵だけが少し削れている。会場を何度も往復している証拠。歩き方は静かで、無駄がない。
背筋はまっすぐだが、肩に力が入っていない。
訓練を受けた人間。
警備会社の社員か、元警察官か。
いずれにしても、素人ではない。
「白石さんは、何をされている方でしたっけ」
「出版社です」
「どんな本を?」
「美術関係の雑誌です。契約社員ですけど」
「今日の展示には詳しいですか」
「詳しくないから、勉強しに来たんです」
「叔母様の遺品整理も、ですか」
蓮は、相手の顔を見た。
高瀬は淡々としていた。
「さっき、お話ししましたっけ」
「受付近くで聞こえました」
「人の話、よく聞いているんですね」
「仕事ですから」
蓮は、内心で舌打ちした。
会話の中で作った設定を拾っている。
その程度なら問題ない。
問題は、どこまで拾っているかだ。
蓮はスマートフォンの画面を消した。
「高瀬さん」
「はい」
「私、何か怪しいですか」
あえて、直接聞いた。
相手が動揺すれば、それでわかる。
否定が早すぎても、遅すぎても、何かが見える。
高瀬は、数秒だけ黙った。
「怪しい人間は、自分からそう聞かないことが多いです」
「じゃあ、私は怪しくない?」
「それも、わかりません」
「変な答え」
「確認している途中なので」
蓮は目を細めた。
高瀬の目は、冗談を言っていなかった。
*
川島宗一は、展示室の中央で、若い画商と話していた。
「これは悪くない。しかし、出所が曖昧だ」
声は大きくない。
それでも周囲にいる者へ、聞かせるつもりで話しているようだった。
「先生、来歴は書面で確認できます」
「書面は、いつでも作れる」
川島は笑った。
「問題は、誰がその書面を持ってくるかだ」
彼の助手が、黒いファイルを抱え直す。
蓮は少し離れた場所で、ガラスケースの中の古書を眺めていた。横目で川島の動きを追う。
人の顔を覚えることは得意だ。
誰が誰に頭を下げるか。
誰が誰を無視するか。
金が動く場所では、その順番が、そのまま関係の強さになる。
川島の周囲には三種類の人間がいた。
彼に売りたい人間。
彼から買いたい人間。
彼に嫌われたくない人間。
そして、彼自身はその三者すべてを見下している。
蓮は、こういう人間を相手にする時、わずかな快感を覚えてしまう自分を知っていた。
大きな声で価値を決める人間から、本人も気づかない隙を奪う。
それは復讐のようにも感じられる。
だが、蓮は川島を知らない。
川島がどれほど横暴であっても、盗んでいい理由にはならない。
自分の犯罪に、相手の欠点を貼りつけて正当化する。
それが一番卑怯だと、蓮はわかっていた。
川島が助手へ言った。
「四時前に、裏の応接室へ入る。先方は遅れるかもしれん」
「承知しました」
「書類は渡すな。相手の顔を見るまで、絶対に」
「はい」
蓮は古書のページをめくるふりをした。
応接室。
四時前。
書類。
必要な情報は、それだけでいい。
その時、川島の視線がこちらへ向いた。
蓮は目を上げ、少し驚いたように笑った。
「すみません。こちら、拝見してもいいですか」
手に取ったのは、古い旅行案内の本だった。
川島は、蓮の存在に興味を失ったように視線を外した。
人は、自分に関係のない者をすぐに忘れる。
忘れられることは、蓮にとって最も便利な才能だった。
*
応接室へ向かう前、蓮は化粧室に入った。
手を洗うためではない。
鏡の前で、白石美琴の表情を整えるためだった。
照明の白さは、会場の空気より残酷だ。薄い化粧の下にある緊張を、容赦なく浮かび上がらせる。
蓮は口紅を塗り直すふりをして、鏡越しに背後を確認した。
個室は三つ。
洗面台は四つ。
出入口は一つ。
誰もいない。
それでも、背中の中央に視線があるような感覚が消えない。
高瀬に言われた言葉が、頭から離れなかった。
白石美琴という人間には、記憶はあるのに、現在がない。
蓮は小さく笑った。
現在がないのは当然だ。
白石美琴は、今日のために作られた。
住所も、勤務先も、親族も、趣味も、すべて質問に答えるための薄い紙片だ。
彼女には、明日の予定がない。
昔の友人もいない。
嫌いな食べ物も、寝る前に必ずする癖も、帰り道に寄る店もない。
人間のふりをするには、嘘が足りなかった。
蓮は蛇口を閉めた。
その瞬間、個室の一つから水を流す音がした。
誰かがいた。
蓮は肩を動かさず、鏡越しに個室の足元を見る。
革靴。
黒い、手入れの行き届いた革靴。
高瀬か。
いや、女性用の化粧室に入る理由がない。
数秒後、個室の扉が開いた。
出てきたのは、会場の年配女性スタッフだった。蓮を見て、軽く会釈する。
「失礼します」
「いえ」
蓮は笑顔を返した。
胸の内側に走った警戒を、誰にも見せない。
女としての振る舞いを作ることより、今の蓮に必要なのは、追われている人間に見えないことだった。
化粧室を出ると、廊下の先に高瀬がいた。
まるで、最初からそこで待っていたように。
「お手洗い、長かったですね」
蓮は足を止めた。
「女性に言うことですか」
「失礼しました」
「本当に、失礼な人」
「そうですね」
高瀬は引かなかった。
「白石さん、四時前にどこかへ行く予定はありますか」
「ありませんけど」
「では、少しお時間をいただけますか」
「何のために」
「確認のために」
蓮は、笑いかけた。
だが、笑みを作る前に気づいた。
高瀬の右手には、小さな透明袋がある。
中に入っているのは、淡い色の繊維だった。
蓮のコートの内側と、同じ色に見える。
「何ですか、それ」
「落とし物です」
「私のものじゃありません」
「そうですか」
「勝手に決めつけないでください」
「決めつけてはいません」
高瀬は袋をしまった。
「でも、あなたが気にすると思っていました」
蓮は何も言えなかった。
袋の中身が何なのか、本当はわからない。
それでも自分のものだと思ってしまった。
高瀬は、その反応だけを見ていた。
*
その後、蓮は一度、地下のクロークへ降りた。
目的は荷物を預けることではない。地下へ降りる客の数、スタッフの配置、搬入口へつながる通路の雰囲気を確かめるためだった。
ただし、確かめるだけで終える。
高瀬の存在がある以上、予定を変える必要がある。
クローク前では、客たちがコートを預けたり受け取ったりしていた。番号札の束、黒いハンガー、奥に並ぶ旅行鞄。
受付の女性は忙しそうに手を動かしている。
蓮は灰色のコートを脱がず、そのまま順番を待つふりをした。
「お預けですか」
係の女性が尋ねた。
「あ、すみません。やっぱり持っていきます」
「かしこまりました」
蓮は軽く頭を下げ、列から外れた。
その直後、背後で男性客が声を荒げた。
「私の鞄、どこへ行った?」
黒いアタッシェケースを預けたはずなのに、番号札と一致する場所にないらしい。
係の女性が青ざめる。
他のスタッフが集まる。
蓮は一瞬、足を止めた。
自分は何もしていない。
だが、今日この会場には、蓮以外にも何かを盗ろうとしている者がいるのかもしれない。
高瀬が、少し離れた場所から現れた。
「どうされました」
「鞄が……」
「番号札を見せてください」
高瀬は客の話を聞き、周囲を確認し始めた。
蓮はそこから静かに離れた。
しかし、階段へ向かう途中で、高瀬の声が背後から飛んだ。
「白石さん」
まただ。
「はい」
「地下に来られたんですね」
「休憩室を探していて」
「ここに休憩室はありません」
「そうなんですか。案内板を見間違えたみたいです」
「案内板には、地下はクロークと搬入口と書いてあります」
蓮は一度、目を伏せた。
「失礼しました」
「いいえ」
高瀬は近づいてくる。
「でも、どうして搬入口へ行こうと思ったんですか」
「行こうとしていません」
「そうですか」
「高瀬さん。さっきから、私が何をしても怪しいことにしたいんですね」
「違います」
「違うなら、何ですか」
「あなたは、自分が説明したことを、相手がどこまで信じたか必ず確認する」
蓮は沈黙した。
「展示室では、叔母の話をしました。廊下では、出版社の仕事をしました。今は休憩室を探していたと言った。全部あり得る。全部、単独なら不自然ではない」
「じゃあ問題ないでしょう」
「問題は、話が増えるたびに、あなた自身の生活が見えなくなることです」
高瀬の声は、低く、静かだった。
「白石美琴という人間には、記憶はあるのに、現在がない」
蓮は、初めてはっきりと相手を睨んだ。
「あなた、探偵ごっこをしているんですか」
「仕事です」
「何の仕事?」
「本物の名前を探す仕事です」
地下の空気は冷たかった。
コンクリートの壁に、会場のざわめきが遠く響いている。
蓮は笑った。
「見つけられるといいですね」
そして、今度こそ高瀬の横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、蓮は相手の肩がわずかに動くのを見た。
止めようとしたのか。
それとも、何かを確認しようとしたのか。
だが高瀬は、触れなかった。
触れれば、何かが変わる。
触れないから、まだ勝負は続く。
*
午後三時過ぎ、会場の空気が少し変わった。
オークション前の受け付けが始まり、人の流れが三階へ集まり始めたのだ。
一階の寄付販売会では、会計担当者が机の前で忙しなく動いている。封筒や領収書、売上表、名刺。
スタッフは皆、決まった場所にいるのに、誰も全体を見ていない。
蓮は一階の廊下を歩きながら、壁に掲げられた案内板を見上げた。
『三階 特別展示・限定オークション』
『一階 寄付販売会・受付』
『地下 クローク・搬入口』
彼の目的は、この時間帯に生まれる混乱だった。
ただし、蓮は会計の机へ近づかなかった。
金を集めている場所は、最も多くの目がある。
狙うのはそこではない。
人が「もう安全な場所へ移した」と思い込んだ後、監視が薄くなる瞬間だった。
廊下の先で、年配の男性が電話を終えた。
先ほど一階にいた、紫の着物の女性の夫だ。
男性は胸ポケットから厚い封筒を取り出し、困ったように周囲を見回している。
「すみません」
蓮は、小さく声をかけた。
「何かお困りですか」
「いや、寄付金を渡そうと思っていたんだが、さっきの受付が混んでいてね。知り合いに呼ばれてしまって」
「三階にも受付があるって、さっき聞きましたよ」
「本当ですか」
「はい。あちらです」
蓮は、案内板の方を指した。
「助かるよ」
男性は礼を言い、階段の方へ歩いていった。
蓮は、その背中を見送った。
封筒は、もう男性の手にはない。
男性が電話を終えた直後、無意識に壁際の飾り棚へ置いた小さなセカンドバッグ。
蓮はそれを、ただ「落とされていましたよ」と言って渡しただけだった。
渡した先は、男性本人ではない。
会場スタッフらしく見える人物の手だった。
その人物は、蓮の仲間ではない。
しかし、短い間だけ、蓮が用意した誤解の中で動いていた。
数分後、そのバッグは再び飾り棚の下に戻される。
持ち主が気づくまで、誰も中身を確認しない。
そして蓮の手元には、封筒だけが残る。
それは鮮やかな技術というより、他人の焦りを利用した卑怯な行為だった。
蓮はコートの内ポケットに触れなかった。
触れれば、自分が何をしたかを意識してしまう。
その時だった。
「白石さん」
背後から呼ばれた。
高瀬。
蓮はゆっくり振り返った。
「はい」
「今、どちらから来られましたか」
「二階ですけど」
「二階の展示室から、一階へ?」
「はい。少し疲れたので、休憩できるところを探していました」
「そうですか」
高瀬の視線が、蓮のコートの内側へ向いた。
一瞬だけ。
しかし、それだけで十分だった。
「何かありましたか」
「いえ」
「また確認ですか」
「そうですね」
「あなた、私をずっと見ていますよね」
「仕事ですから」
「便利な言葉ですね」
「そうかもしれません」
高瀬は、穏やかな口調のまま一歩近づいた。
蓮は動かなかった。
「白石さん」
「はい」
「さっき、二階の展示室で、ベンチに座っていた女性を覚えていますか」
「ええ。少し話しました」
「彼女が財布を探していました」
蓮の表情は変えなかった。
「見つかったんですか」
「見つかりました。ベンチの隙間に落ちていたそうです」
「よかったですね」
「ええ」
高瀬は、そこで言葉を切った。
何を言いたいのか。
蓮にはわかる。
あなたは財布を見ていた。
あなたは何もしなかった。
でも、それを確認するために、俺は見ていた。
高瀬は、あの場面を試していたのだ。
「白石さんは、物をなくしたことがありますか」
「ありますよ。誰だって」
「その時、一番怖いのは何だと思いますか」
「中身がなくなること、ですか」
「違います。自分が、いつ失くしたのか覚えていないことです」
蓮は、高瀬を見た。
男の顔には、勝ち誇った様子も、脅すような表情もない。
ただ、静かに何かを確かめようとしている。
蓮は笑った。
「哲学的ですね」
「職業病です」
「警備員って、大変なんですね」
「警備員ではありません」
高瀬は言った。
すぐに続けた。
「今日は、そういう役目をしているだけです」
蓮の背中を、冷たいものが走った。
*
蓮はその場を離れた。
走らない。
急がない。
失敗をした人間ほど、急に周囲が怖くなる。
階段を上がり、三階のロビーへ向かう。人の流れに混ざる。オークションの開始を待つ客たちが、受付前で小声の会話をしている。
黒いスーツの男。
華やかなドレスの女。
白髪の紳士。
誰もが自分の時間に集中している。
蓮は、人混みの中で初めて内ポケットに触れた。
封筒の角が、指先に当たる。
まだある。
逃げ切れる。
そう思った瞬間、蓮は自分に腹が立った。
高瀬は、既に何かを掴んでいる。
証拠ではなく、違和感を。
違和感は厄介だ。
証拠なら消せる。
違和感は、相手の頭の中で育つ。
蓮はオークション会場の後方席に座った。舞台には小さな木槌と、商品番号の札が置かれている。司会者がマイクを調整している。
会場の照明が少し落ち、来場者の会話が静かになっていく。
ここに座れば、普通の客に見える。
そう考えたのに、蓮は背中に視線を感じ続けていた。
振り返らない。
振り返れば、負ける。
誰かに見られていると自覚した人間は、無意識の動作が変わる。
蓮は舞台を見た。
最初の出品物は、小さな油彩画だった。
海辺の家。
窓際に置かれた青い椅子。
誰もいない部屋。
司会者が説明を始める。
「こちらは、昭和初期に制作された――」
言葉は頭に入らなかった。
後ろの扉が開く音。
誰かが入ってくる気配。
蓮は、舞台の鏡面に映る後方席の影を見る。
高瀬がいた。
彼は立ったまま、会場全体を見渡している。
しかし、目だけは蓮を捉えていた。
蓮は、ふっと息を吐いた。
面白くなってきた。
長く一つの場所にとどまるつもりはない。
今日はただ、次につながる金を持ち帰ればいい。
しかし、高瀬という男は、次を許さないかもしれない。
*
オークションが始まって二十分ほど経った頃、会場の外が騒がしくなった。
誰かが寄付金用の封筒をなくしたらしい。
廊下から、慌てた声が聞こえてくる。
「さっきまで持っていたんです」
「控室に置いたかもしれません」
「念のため、周辺を確認してください」
「警備担当を呼んで」
蓮は表情を変えずに座っていた。
自分が盗んだものではない。
少なくとも、あの封筒ではない。
だが、会場で金が消えたという事実は、それだけで空気を変える。
人の警戒は、一つの事件で急に鋭くなる。
そして鋭くなった目は、別の嘘まで拾い始める。
高瀬が会場を出た。
蓮は、その一瞬を見逃さなかった。
今なら動ける。
蓮はバッグを持ち、後方の扉から静かに出た。
廊下の先には非常階段がある。地下のクロークへつながる通路。人の流れは一階へ向いているため、こちらには誰もいない。
ただし、蓮は階段へ向かわなかった。
階段は逃げる人間が選ぶ場所だ。
彼は壁際の休憩スペースに入り、窓の前にあるソファへ座った。スマートフォンを開き、誰かに連絡しているように見せる。
数秒後、足音が近づく。
高瀬ではない。
若い女性スタッフだった。
「白石様、申し訳ありません。会場内で確認作業をしておりますので、少しだけこちらでお待ちいただけますか」
「何かあったんですか」
「紛失物の届け出がありまして」
「大変ですね」
「すみません。念のため、お客様にもご協力をお願いしています」
「わかりました」
蓮は素直に頷いた。
スタッフはほっとした顔をし、別の客へ声をかけに行く。
その背中を見ながら、蓮は考えた。
高瀬は、何を狙っている。
会場全体の捜索に乗じて、蓮を足止めするつもりか。
ならば、まだ確実な証拠はない。
もし証拠があるなら、こんな回りくどいことをする必要はない。
蓮は、気づかれない程度に姿勢を変えた。
内ポケットの封筒が、身体に沿って動く。
その小さな違和感を、誰かが見ていないことを祈った。
「白石さん」
やはり、高瀬だった。
蓮は顔を上げる。
「またあなたですか」
「ええ」
「さっき、警備員じゃないと言いましたよね」
「言いました」
「なら、何者なんですか」
高瀬は少し黙った。
廊下の窓から入る夕方の光が、スーツの肩を細く照らしている。
「人を探す仕事です」
「探偵、ですか」
蓮は軽く言った。
冗談のように。
高瀬は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「まさか」
「何か困ることがありますか」
「ありません」
「本当に?」
蓮は微笑んだ。
「あなた、人のことを疑うのが好きなんですね」
「好きではありません」
「でも、楽しそうです」
「あなたが、楽しませてくれるので」
蓮の目から、笑みが消えた。
高瀬が言ったその言葉は、蓮の神経を逆なでした。
自分が追われる側であることを、相手はすでに半分楽しんでいるのではないか。
そう考えた瞬間、蓮は高瀬を見誤った。
真琴は、蓮を面白がってはいなかった。
むしろ、似たような人間を見つけるたびに、わずかな疲労を覚えていた。
誰かを騙す才能を持つ人間は、往々にして、自分のことを「誰にも傷つけられない」と考えている。
直接手を下していないから。
自分はただ言葉を置き、誰かが勝手に信じただけだから。
だが、真琴は知っている。
人は、騙された後に、自分を責める。
どうして信じたのか。
なぜ気づけなかったのか。
自分が馬鹿だったのではないか。
犯罪者が奪うのは金や物だけではない。
相手の判断への信頼も、奪う。
だから真琴は、証拠がない段階で蓮を追い詰めるつもりはなかった。
間違えれば、無関係の人間を傷つける。
しかし、見逃せば、次に傷つく人間が増える。
その二つの間に立つのが、探偵という仕事だった。
真琴は、白石美琴の背中を見送りながら、心の中で一つだけ決めていた。
次に会う時は、彼女の嘘ではなく、行動を止める。
高瀬は、初めてはっきりと敵意を見せた。
「白石美琴さん」
「はい」
「その名前、本当ですか」
廊下の空気が止まった気がした。
遠くで、誰かが無線機に返答している。
ホテルの空調が低く鳴っている。
蓮は、一拍置いてから笑った。
「失礼ですね」
「そうかもしれません」
「招待状も、身分証も出しましたよね」
「ええ。だから確認しています」
「何を?」
「あなたが、誰を演じているのか」
蓮は立ち上がった。
高瀬との距離は、二歩。
近い。
近すぎる。
「演じている、なんて」
「人は、言葉より先に身体が答えます」
「よくわかりません」
「左手でバッグを持っているのに、何かを隠す時だけ右側をかばう。人にぶつかられそうになると、肩ではなく腰を引く。靴音を消すように歩く。それから――」
高瀬は、蓮の顔を見た。
「鏡を見る時、顔ではなく、出口の位置を見ます」
蓮は返せなかった。
高瀬は続けた。
「それは、ただの展示会客の癖じゃない」
「それだけで、何がわかるんですか」
「何も。だから、今はまだ確認している」
「さっきからそればかり」
「確認は、相手が逃げるまで終わりません」
その言葉が落ちた瞬間、廊下の奥でスタッフが叫んだ。
「見つかりました! 封筒、控室の机の下にありました!」
周囲の空気が一気に緩んだ。
高瀬の注意が、そちらへ向く。
ほんの一秒。
蓮はその一秒を使った。
「よかったですね」
蓮は言った。
「では、私は帰ります」
高瀬が振り返るより早く、蓮は人の集まり始めた廊下へ紛れ込んだ。
走らない。
焦らない。
周囲にいる客と同じ速度で歩く。
エレベーターには乗らない。
階段にも行かない。
ロビーへ戻る。
受付前の混乱は、まだ続いている。誰もが「見つかったらしい」と言いながら、何が起きたのか詳しく知らない。
曖昧な情報は、人を安心させる。
蓮はその中を抜け、正面玄関へ向かった。
ガラス扉の向こうでは、夕方の光が赤煉瓦の壁を照らしていた。
「白石さん!」
背後で、高瀬の声がした。
蓮は振り返らなかった。
扉を出る。
冷たい外気が頬に触れる。
階段を降りる。
タクシー乗り場へ向かう。
背後から追ってくる足音はない。
それでも、蓮は歩く速度を変えなかった。
車に乗り込み、ドアが閉まるまで。
窓の外に旧鳳栄ホテルが遠ざかるまで。
白石美琴の顔を崩さなかった。
*
タクシーが坂を下り始めると、蓮はようやく背もたれに身体を預けた。
「どちらまで」
運転手が尋ねた。
「駅前までお願いします」
声はまだ白石美琴のままだった。
車内のルームミラーに、淡い色の髪が映る。口紅は崩れていない。襟元も乱れていない。
外から見れば、展示会を終えた若い女性が帰るだけの光景だった。
蓮は窓の外を見た。
旧鳳栄ホテルの屋根が、木々の間に見え隠れしている。
高瀬。
あの男は危険だ。
蓮はこれまで、警察官や警備員、店員、被害者の家族に会ってきた。
怒鳴る人間。
脅す人間。
正義感に酔う人間。
自分の勘を過信する人間。
高瀬は、そのどれとも違う。
答えを急いでいない。
確信がないことを、確信のように扱わない。
だからこそ、蓮にはやりにくい。
蓮はスマートフォンを取り出し、短い文を打った。
『予定変更。今日はここまで』
送信先の名前は、ただの記号だった。
すぐに返信が来る。
『回収物は?』
蓮は数秒、画面を見た。
内ポケットにある封筒。
そして、川島の周辺を観察して得た情報。
決定的な書類は取れなかった。
代わりに、会場で起きた複数の騒ぎが、予定より早く警戒を強めた。
『不十分。次の機会を待つ』
返信は、しばらく来なかった。
やがて表示された文字は、短かった。
『失敗か』
蓮は画面を閉じた。
失敗ではない。
そう言い切りたかった。
しかし、胸の奥に残っているのは、仕事を終えた安堵ではなかった。
誰かに見抜かれかけた時の、鈍い焦り。
高瀬は、蓮の正体に届いていない。
それでも、白石美琴という存在を壊しかけている。
蓮は目を閉じた。
鏡の中の女は、俺の名前を知らない。
だが、あの男は、名前のない女を追いかけてくる。
*
午後六時四十分。
旧鳳栄ホテルの防災センターでは、監視カメラの映像がモニターに並んでいた。
高瀬と呼ばれていた人物は、ネクタイを少しだけ緩め、映像を停止した。
画面には、淡い灰色のコートを着た女が映っている。
彼女は受付を通り、展示室を歩き、廊下で立ち止まり、ロビーを抜けて外へ出る。
そのどの場面でも、不自然な動きはない。
誰が見ても、普通の来場者にしか見えない。
「白石美琴……」
低い声で、人物は名を繰り返した。
しかし、その声には迷いがなかった。
隣にいた会場責任者が、困ったように言う。
「黒瀬さん、あの方が何か?」
「まだわかりません」
「でも、ずいぶん気にされていましたよね」
「ええ」
「紛失物の封筒は見つかりましたし、被害も確認されていません」
「今日の分は、です」
黒瀬真琴は、画面を巻き戻した。
入口。
受付。
二階の展示室。
一階の廊下。
そして、一瞬だけ映った、白石美琴の右手。
コートのポケットに触れた、その癖。
真琴は椅子から立ち上がった。
「彼女は、今日の会場で何かを持ち出している可能性があります」
「えっ……でも、何を?」
「それを調べます」
「警察には?」
「今はまだ早い。証拠がない」
真琴は、モニターに映る女を見つめた。
変装は、顔を変える。
声を変える。
服を変える。
しかし、人は自分が危険だと思った時、必ずどこかを守る。
守ろうとする場所に、その人間の本当の目的が出る。
真琴は、胸元のスタッフ証を外した。
そこには仮名の「高瀬誠司」と書かれている。
彼女はそのカードを机の上へ置き、小さく息を吐いた。
「次は、逃がさない」
モニターの中の白石美琴は、もう画面の外へ消えていた。




