神の残り香、あるいは滅びの芳香
俺が昨日まで滞在していた、アルカディアの外縁にある小さな宿場町。
そこでは今、歴史上類を見ないほど滑稽で、かつ凄惨な「争奪戦」が繰り広げられていた。
「どけ! そのコップは我が国のものだ! アル様が一度口を付けた水が残っているのだぞ!」
「貴様こそ控えろ! この椅子にはアル様が三十分も座られていた! 染み込んだ生命エネルギーは我が帝国の国宝に等しい!」
昨日、俺が旅の途中でふらりと立ち寄り、一杯の水を飲んだだけの安宿。
そこが今や、三大国家の精鋭騎士団が剣を突き合わせる、一触即発の戦場と化していた。
彼らが奪い合っているのは、俺が飲み残した「ただの水」や、座っただけの「木の椅子」。
世界樹の根源である俺が触れた物体は、それだけで死者を蘇生させ、不毛の地を楽園に変える聖遺物へと変質してしまうからだ。
「……主よ。あの方々に、身の程というものを教えて差し上げますか?」
俺の隣で、エルゼが呆れたようにため息をつく。
彼女は今や、俺の「使い古した手拭い」ですら、一振りの聖剣を遥かに凌ぐ魔力を宿していることを知っている。
「放っておけ。……欠伸が出る」
俺が一つ、小さく欠伸をした。
その瞬間、俺の口から漏れたわずかな呼気が、微風となって戦場へと流れていく。
$$Effect: \text{Breath of Genesis}$$
$$Status: \text{Compulsory Relaxation}$$
殺気立っていた数千の騎士たちが、その風に触れた瞬間――。
彼らは一斉に剣を落とし、その場にへなへなと座り込んだ。
「……あ、あれ? 俺、なんでこんなに怒ってたんだっけ……」
「戦うのが馬鹿らしくなった……。ただ、この風に吹かれて、眠っていたい……」
俺の「欠伸」に含まれた生命力があまりに純粋すぎて、彼らの闘争本能が文字通り『浄化』されてしまったのだ。
最強の軍勢が、たった一息で戦意を喪失した。
一方、宿の主人は、俺が宿泊代として置いていった「その辺の道端に落ちていた石ころ」を抱えて震えていた。
俺が少しの間、指先で弄んでいたその石は、今や世界中のダイヤモンドをかき集めても買えないほどに輝く、巨大な『賢者の石』へと進化していた。
「……アル様。あのような石一つで、あの主人は一国の王よりも富豪になってしまいましたね」
「構わないさ。俺にとっては、文字通り『ただの石』だからな」
俺は銀竜の首を軽く叩き、空へと昇る。
下界では、俺が通り過ぎた後に残された「奇跡の残骸」を巡って、人々が祈り、涙し、あるいはあまりの幸福感に腰を抜かしていた。
かつての俺を「無能」と呼んだ連中に、この光景を見せてやりたい。
俺が歩けば、道が聖域になる。
俺が触れれば、ゴミが国宝になる。
俺が飽きれば、国が滅ぶ。
それが、今の俺だ。
「さあ、エルゼ。次は、神々の声がうるさすぎる天界へ、少し『静かにしろ』と言いに行こうか」
俺の歩みは、もはや人間界の理を置き去りにして、世界の構造そのものを再定義する領域へと踏み出していた。
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「シャルンホルストとグナイゼナウ」
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