2球 新しい風 前編
9月1日
二学期がスタートした。
俺は担任を外れ、俺の後輩でもあり、これから野球部の筆頭コーチとなる佐伯青のクラスの副担任になった。
監督として多忙になる俺への、学校側の配慮だった。
青のクラスはスポーツ特待生の専攻クラスで、六割ほどが野球部員だ。
そのため、生徒のほとんどは顔馴染みだった。
教室に入る前に、青が俺に挨拶をする。
「佐々木先生。あらためまして、今日からよろしくお願いします」
「あぁ。監督とコーチって立場にはなったけど、基本的には今までと同じと思ってくれ」
俺は笑って、青の頭をポンと叩いた。
「気楽にな」
「佐々木先生、生徒が見てますよ」
青が照れたように声を落とす。
その様子を見て、生徒たちがクスクスと笑っていた。
「すまん、すまん」
俺は苦笑しながら教室を見渡す。
「おーい、お前ら。チャイム鳴ってんぞー」
「はーい」
いつものような返事が返ってくる。
俺の野球部監督就任は、すでに学校中のトレンドになっていた。
そして始業式。
体育館に全校生徒と教職員が集まり、校長の挨拶が始まった。
「このたび、佐々木先生は野球部コーチから、野球部監督に就任されます」
体育館のあちこちから拍手と歓声が上がる。
俺は少し照れながら頭を下げた。
「よろしくお願いします」
校長は続ける。
「それに伴いまして、新しい先生を紹介します」
新しい先生?
俺のクラスの後任か。
二学期から、間に合わないと思っていた。
そういえば、まだ顔合わせもしていなかったな。
「体育科、坂本昴先生です」
その名前を聞いた瞬間、
(へっ……スバル?)
思わず声が漏れそうになった。
「坂本先生は、蒼陵高校の元野球部OBです」
やっぱりスバルだ。
「また、野球部コーチも兼任していただきます」
体育館から拍手が起こる。
壇上に立った坂本が、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「はじめまして、坂本です。佐々木先生の後任として、精一杯務めさせていただきます。よろしくお願いします」
再び拍手が起こった。
*
そして始業式が終わり、俺たちは体育準備室へ戻った。
そこには、さっきまで壇上にいた男がいた。
「佐々木先生、お久しぶりっス」
「おい、スバルか。懐かしいな」
俺は思わず笑った。
「まさか、俺の後任がスバルとはな」
「俺もプレッシャー半端ないっスよ」
俺たちは握手を交わす。
その横で、青があっけにとられたように俺たちを見ていた。
「あの……佐々木先生、お知り合いですか?」
「ああ、そうそう。アオが卒業してすぐに入学してきたんだ」
俺は懐かしそうに坂本を見る。
「野球部でピッチャー、しかもエースな」
「そうなんスよ。いやぁ、懐かしいっスね」
坂本が笑う。
「俺、蒼陵高校で体育教師の募集があるって聞いて、即応募して、即採用っスよ」
「お前らしいな」
俺も笑う。
すると坂本が、青のほうを向いた。
「あっ、佐伯先生。よろしくお願いします」
坂本が手を差し出す。
「……はい。よろしくお願いします」
青も手を差し出した。
だが――
その表情は、どこか堅かった。
「……?」
俺は青の顔を見る。
気のせいか。
青にとって初めての後輩だ、緊張しているだけなのかもしれない。
俺は深く考えず、二人の握手を見ていた。
*
放課後。
野球部のグラウンド。
夕方の風が少しだけ涼しくなってきた。
俺は選手たちをホームベース付近に集める。
今日から、俺が正式に監督としてチームを率いる。
目の前には、ユニフォーム姿の球児たち。
俺は一人ひとりの顔を見渡した。
「今日から正式に監督として就任した、佐々木海斗だ」
一瞬、グラウンドが静かになる。
「改めて、よろしく」
「はい!」
全員の声が響く。
「今日から新体制になる」
俺は隣にいる青を見る。
「筆頭コーチは佐伯青」
「よろしくお願いします!」
青が頭を下げる。
続いて、坂本を見る。
「そして、新人コーチとして坂本昴が入る」
「よろしくお願いします!」
坂本も元気よく頭を下げた。
「それから、前監督にもサポート役として、ときどきグラウンドに来てもらうことになっている」
選手たちが頷く。
「新しい体制になったからといって、野球そのものが変わるわけじゃない」
俺はゆっくりと言葉を続けた。
「今まで積み上げてきたものは大事にする。そのうえで、俺たちはさらに上を目指す」
選手たちの表情が引き締まる。
「秋の大会も、もうすぐだ」
「そして、目指すは春の選抜だ」
俺はグラウンドを見渡す。
「新チームになって、まだ完成には程遠い」
「だからこそ、これからの一日一日が大事になる」
少し間を置く。
「レギュラーはまだ決めてない」
選手たちの目が変わる。
「練習でどれだけ結果を出せるか。守備、走塁、打撃。そして、チームのために何ができるか」
「そこをしっかり見ていく」
俺は笑った。
「俺たちのチームなら、春の甲子園は十分狙える」
その言葉に、選手たちからざわめきが起こる。
だが、俺はすぐに続けた。
「ただし――」
グラウンドに静寂が戻る。
「甲子園は、口で言って行ける場所じゃない」
「今日の練習、一本のキャッチボール、一本のノック、一打席、一球。その積み重ねだ」
「一球を大事にしよう」
「そして、互いに競争してくれ」
「気合い入れていこう!」
「はい!」
全員の声がグラウンドに響いた。
「よろしくお願いします!」
俺も頭を下げる。
「よし!」
青が前に出た。
「じゃあ、いつものようにストレッチ!」
「そのあと、走り込み!」
「終わったら各自ポジション練習!」
さらに声を張る。
「キャプテンの指示もしっかり聞くように!」
「はい!」
選手たちは一斉に動き始めた。
グラウンドのあちこちで、キャッチボールの音が響く。
パンッ。
パンッ。
ボールを捕る乾いた音。
その奥では、内野手がゴロ捕球を始めている。
「一歩目!」
「もっと前!」
外野では、ノックを受ける選手たちが声を出している。
「オーライ!」
「バック!」
「ナイスキャッチ!」
そしてブルペンでは、投手陣が肩を作り始めていた。
俺は腕を組みながら、グラウンド全体を見渡す。
監督として見る景色は、コーチの頃とは少し違った。
選手一人ひとりだけじゃない。
投手陣。
野手陣。
レギュラー争い。
チーム全体のバランス。
そして、秋から春に向けての成長。
考えることは山ほどある。
「ふぅ……」
俺は小さく息を吐いた。
「こんなもんかな」
就任初日の挨拶を終えて、少しだけ肩の力が抜けた。
そのときだった。
「佐々木監督」
青が俺の横まで歩いてきた。
「決まってましたよ」
「本当か?」
「はい。バッチリです」
青は笑う。
「監督って感じでした」
「そうか?」
「はい」
俺は少し照れながらグラウンドを見る。
「ならよかった」
すると、後ろから声がした。
「ウワサには聞いてたけど……」
振り返ると、坂本が立っていた。
「いいチームっスね」
「そうだろ?」
「みんな声出てるし、動きもいい。思ってた以上っス」
「スバル、よろしく頼むな」
「はい!」
俺はブルペンを見る。
「さっそくだけど、スバルには投手陣を頼みたい」
「了解っス」
「まずはブルペンに入ってくれ」
「任せてくださいっス」
昴はすぐにブルペンへ向かっていく。
その背中を見送り、俺は青を見る。
「アオは今後、スラッガー陣を頼む」
「わかりました」
「特に中軸候補は、秋までにしっかり仕上げたい」
「はい。打撃は任せてください」
青がグラウンドを見る。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
青も打撃練習へ向かっていく。
グラウンドには、再び大きな声が響き始めた。
「一本!」
「お願いします!」
金属バットがボールを捉える。
カキーン!
鋭い打球が外野へ飛んでいく。
俺はその打球の行方を目で追った。
――ここからだ。
俺たちの新しいチームは、今日始まった。
*
19時過ぎ。
長かった初日の練習が終わった。
球児たちが帰ったグラウンドには、さっきまでの喧騒が嘘のように静けさが戻っている。
俺は監督室で、青と昴と三人で今後の練習について打ち合わせをしていた。
「スバル、初日お疲れさま」
「マジでいいチームっスね。楽しかったっス」
昴は満足そうに笑う。
青も続けた。
「いい意味で、チームが若返ったっていうか……」
「うん」
「こんなに活気のある練習は久しぶりでしたよ」
「そうだな」
俺も今日の練習を思い返す。
選手たちの声。
バットの音。
ブルペンから聞こえてくるミットの乾いた音。
新体制の初日としては、まずまずだったと思う。
「さすが監督っス」
昴が俺を見る。
「まだ始まったばかりだよ」
俺は苦笑した。
「今日だけで判断するのは早い」
そう言いながら、机の上に置いた練習メニューを見る。
「ただ……課題はある」
青もすぐに同調した。
「そうですね」
少し考えてから、
「打撃力……ですかね」
「ああ」
俺は頷く。
「投手陣は悪くない。守備も大崩れする感じじゃない」
「でも、このままじゃあ点が取れない」
「そこが問題だ」
昴も腕を組む。
「確かに、今日のフリーバッティング見ても、ちょっと気にるっスね」
「俺は投手だから、打撃のことはあまり偉そうに言えないけどな」
俺が笑うと、昴も苦笑する。
「俺もっス」
「お前もかよ」
「投げるほうが好きなんで」
「だよな」
「アオは……、打撃は得意だったよな」
青は少し照れながら。
「でも、それでも上位打線を張れるほどじゃないですよ」
「まあ、それは追々考えるとしてだ」
俺は時計を見る。
もうすぐ20時になる。
「今日は初日だ。細かいところは明日から詰めていこう」
二人が頷く。
「明日もよろしくな」
「はい」
「お願いします」
三人で話を終えようとした、そのときだった。
昴が何か言いにくそうに俺を見る。
「あのー……佐々木監督」
「なんだ?」
「実は俺……」
少し間を置いてから、
「宿舎への引っ越し、全然できてなくて」
「え?」
「面接から採用まで、あっという間だったじゃないっスか」
「ああ」
「今日、荷物もまだ届いてないし……」
昴は頭をかく。
「実は、布団もないっス」
「……ああ、そっか」
俺は少し考える。
そういえば、急な採用だった。
「じゃあ、俺の部屋泊まるか?」
「えっ!」
昴の顔がパッと明るくなる。
「いいんスか!」
「別に一晩くらいなら――」
「何言ってるんですか!」
青が突然、割って入った。
俺と昴が同時に青を見る。
「え?」
「監督の部屋に泊まるなんて、ダメですよ」
青は少し言葉に詰まる。
「……監督に迷惑ですよ」
「いや、俺は別に――」
「野球部寮に予備室があるはずです」
「あ……」
俺は思い出した。
「そうだったな」
野球部寮には、来客や臨時の指導者が使える予備室があった。
「そのほうがいいか」
「はい」
青はすぐに立ち上がった。
「ちょっと待っててください」
そして監督室を出ていく。
昴が俺を見る。
「俺はどっちでもいいっスけど……」
「まあ、予備室があるなら、そっちを使ったほうがいいな」
しばらくして青が戻ってきた。
手には一つの鍵。
「はい、どうぞ」
昴に鍵を渡す。
「予備室の鍵です」
昴は鍵を受け取る。
「ありがとうございます」
「まったく……」
青は呆れたように息を吐く。
昴が笑いながら青を見る。
「青先輩、真面目っスね」
「当然です」
青は真顔で答える。
「監督に、余計な負担をかけちゃダメですよ」
昴は苦笑しながら鍵をポケットに入れた。
俺は二人を見ながら、思わず笑った。
新しいチーム。
新しいコーチ。
そして――
新しい日常。
まだ始まったばかりだ。
俺はそんなことを思いながら、監督室の時計を見た。




