3球 新しい風 後編
俺は宿舎の部屋に戻った。
野球部寮に近い新しい部屋。
「広いな……」
荷物を置き、ソファに横になる。
さすがに今日は疲れた。
目を閉じようとして、ふと思った。
「そういえば……」
今日は蒼司が来ていなかった。
俺はスマホを手に取る。
画面を見ると、蒼司からLINEが届いていた。
『お疲れさま。監督どうだった?』
俺は少し考えてから、返信する。
『楽しかったよ。でも、しばらくは忙しくなると思う』
送信して、スマホを置こうとした。
すると、すぐに既読がついた。
『俺、明日は出勤するから』
俺は画面を見つめる。
『わかった。じゃあ昼休みに』
そう返して、スマホを伏せた。
静かな部屋。
俺は天井を見上げる。
――あの日。
竜司から告白された。
あのときから、俺は蒼司に何も言えずにいた。
何を言えばいいのか分からない。
蒼司に、どんな顔をして会えばいいのかも分からない。
最近、俺たちが会う頻度は減っている。
野球が忙しくなった。
それは本当だ。
監督になったばかりで、これからやることも山ほどある。
でも――
俺は、ただそれを理由にしているだけなのかもしれない。
そんな気もしていた。
「……」
俺は目を閉じる。
竜司の顔が浮かぶ。
そして、蒼司の顔も。
二人の顔が頭の中で重なって、俺は小さく息を吐いた。
「今日は疲れたな……」
もう考えるのをやめよう。
夕食を食べる気力もなかった。
「飯、もういいや……」
明日の朝、野球部寮で何か食べさせてもらえばいい。
俺はソファから立ち上がることもなく、そのまま目を閉じた。
気がつけば――
俺は眠っていた。
* * *
翌朝。
朝練が終わると、俺は午前中いっぱい監督室にこもっていた。
机の上には、選手たちの名簿や過去の成績、前監督から引き継いだ資料が並んでいる。
来週には、秋の大会に向けたレギュラーメンバーを決めないと間に合わない。
9月後半からは、もう試合が始まる。
それまでに守備位置や打順も固めなければならない。
それだけじゃない。
練習試合の申し込みもいくつか来ている。
その回答もしなくてはいけない。
「……忙しいな」
監督になった途端、やることが一気に増えた。
資料を眺めていると、
コンコン。
ドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
ドアが開く。
「お疲れさまです」
青だった。
「どうした?」
「俺、午前中は時間あるんで。何か手伝うことがあればと思って」
「助かるよ」
俺は椅子を指差す。
「まあ、座れよ」
「はい」
俺は立ち上がり、コーヒーを二つ入れる。
「ほい」
「ありがとうございます」
青はカップを受け取る。
しばらく二人で資料を眺めていた。
俺はふと思い出して、青に尋ねた。
「そういえば、坂本コーチだけど……うまくやれそうか?」
「え?」
青が顔を上げる。
「ああ、スバルさんですか?」
俺は一瞬、青の言葉に引っかかった。
(……スバルさん?)
青が他人を名前で呼ぶのは珍しい気がした。
俺がそんなことを考えていると、青が続けた。
「その……」
「ちょっと質問なんですけど……」
「何だ?」
青は少し言いにくそうにしている。
「あのスバルさんって……あの距離感の近さ、誰に対してもなんですか?」
「距離感?」
「……はい」
青は少し眉を寄せる。
「なんか、俺、もう名前で呼ばれてるんですけど……」
俺は思わず笑った。
「はは。まあ、そういう奴だよ」
「俺、一応先輩ですよ?」
「ああ」
俺は昔のことを思い出す。
「青は知らないと思うけど、スバルは野球部のムードメーカーだったんだ」
「へぇ……」
「昔からあんな感じだったな。誰とでもすぐ仲良くなる」
青は黙って聞いている。
「岡谷が引退してからエースを引き継いで、三年のときには甲子園にも行った」
「……そうだったんですね」
青の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「でも、アオのバッテリーも最強だったけどな」
「……」
青は何も言わない。
「まあ、甲子園まで行けたのは運もある」
「……そうですね」
短い返事。
俺は青を見る。
どこか複雑そうな顔をしている。
スバルに対して、それなりに対抗心があるのかもしれない。
現役時代、同じ野球部で過ごしていたわけじゃない。
それでも、俺とスバルの過去を聞けば、意識するのかもしれない。
俺は深く考えず、話を本題に戻した。
「……まあ、それは置いといてだ」
机の上の選手名簿を手に取る。
「新チームのレギュラーを決めないといけない」
青も資料に目を落とす。
「そうですね。今年はちょっと遅れちゃいましたよね」
「ああ」
俺は頷く。
「前監督から資料はもらってる」
選手それぞれの打撃成績、守備力、走力。
これまでの練習試合の記録。
いろいろな資料が揃っている。
「でも、最終的に決めるのは俺だ」
青を見る。
「アオにも意見を聞きたい」
「はい」
青が真剣な表情になる。
俺は一枚の名簿を見つめる。
レギュラーの枠は限られている。
当然、全員を試合に出すことはできない。
そして、選ばれる選手がいれば――
選ばれない選手もいる。
俺はふと思った。
俺たちは、現役時代、選ばれた側の人間だった。
俺はエースとして。
青は正捕手として。
甲子園を目指すチームの中心として。
いつだって、グラウンドに立つ側だった。
だからこそ――
選ばれなかった選手の気持ちを、俺は本当に分かっているのだろうか。
レギュラーを外された悔しさ。
自分より実力があると思えない選手が選ばれたときのやりきれなさ。
それでも、チームのために声を出さなければならない苦しさ。
俺は監督になって初めて、それを決める側になった。
果たして俺は――
選ばれなかった者の気持ちに、本当に寄り添えるのだろうか。
俺は黙ったまま、名簿を見つめていた。
青も何かを感じ取ったのか、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「この時期は……毎年、辛いです」
「……そうだな」
俺は小さく頷いた。
「俺もだ」
俺は選手名簿から目を逸らした。
* * *
昼休み。
俺は美術準備室へ向かった。
ドアを開けると、蒼司が顔を上げた。
「カイト、久しぶりだね」
「……ああ、久しぶりだな」
こうして二人で会うのは、先日の竜司の告白の日以来だった。
蒼司は俺の顔を見る。
「やっぱり忙しそうだね」
心配そうな表情。
俺は、そんな蒼司を見て、できるだけいつも通りに振る舞おうとした。
「ああ。来週にはレギュラーメンバーを決めないといけないしな」
「もう?」
「秋の大会が始まるから」
俺は苦笑する。
「いきなり重圧だよ」
「そっか……」
蒼司は黙って俺を見る。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫。なんとかなるさ。」
そう答えたものの、俺はなぜか愛想笑いをしていた。
「……」
「……」
沈黙。
いつもなら、こんな沈黙も気にならない。
でも今日は、妙に長く感じた。
俺はその空気を誤魔化すように口を開く。
「でも、こうして昼休みに会えるから嬉しいよ」
蒼司が少し笑う。
「俺もだよ」
いつもの昼休み。
いつもの時間。
それなのに――
俺の中だけが、いつもと違っていた。
昼休みが終わり、俺は体育準備室へ戻った。
廊下を歩きながら、ふと思う。
――なんで、蒼司に愛想笑いなんかしてしまったんだ。
自分でも理由が分からなかった。
* * *
夜。
練習が終わったあと、俺は監督室に残っていた。
青と昴も残っている。
机の上には、選手たちの資料が広げられていた。
レギュラーメンバーの選定。
大方のポジションは見えてきた。
問題は――最後の数人だった。
「やっぱり、最後の数人……難しいっスね」
昴がため息をつく。
青も頷いた。
「今年は選手の層が厚いです」
「そうだな……」
俺も頭をかく。
「全員、レギュラーとしての実力はある」
一人ずつ名前を見る。
「でも……選ばないといけない」
誰かを選ぶということは、誰かを選ばないということだ。
その重さは、時間が経つほど増していった。
「今日はここまでにしよう……」
「はい」
「お疲れさまっス」
時計を見る。
もう21時を回っていた。
俺が宿舎に戻ったのは、22時前だった。
部屋に入る。
「ふぅ……」
ソファに座り込む。
天井を見上げる。
「どうすればいいんだ……」
決めなければならない。
あと数日しかない。
考えれば考えるほど、答えが分からなくなる。
そのとき――
スマホが鳴った。
「誰だ?」
画面を見る。
……竜司。
一瞬、戸惑った。
出るべきか。
いや――
ここで出なかったら、逆に意識していると思われるかもしれない。
「……よし」
俺は一度深呼吸する。
「平常心」
通話ボタンを押した。
「もしもし」
『よぉ、カイト。悪いな、遅くに』
「どうした?」
『いや……』
少し間があった。
『ちょっと声が聞きたくなって』
「えっ?」
思わず声が裏返る。
「なんだよ、急に」
竜司が電話の向こうで笑う。
『どうだ、監督?』
「想像以上にキツい」
『だろうな』
「レギュラーメンバーの選定で……悩んでる」
『やっぱりな、この時期だもんな……』
「なあ、竜司はどうやって決めてる?」
俺は少し考えてから続ける。
「最後の数人が、どうしても決められなくて」
電話の向こうで、竜司が少し考えた。
そして――
『直感だな』
「……は?」
あまりにもあっけらかんとした答えだった。
『最後は、こいつならいけるって思えるかどうか』
「そんなもんでいいのか?」
『いいんだよ、それで』
竜司の声は迷いがない。
『だって、あとは信じるしかないだろ』
「……」
『自分の決断を』
俺はしばらく黙っていた。
「……竜司らしいな」
『だろ?』
思わず笑ってしまう。
『大丈夫だよ、カイトなら』
竜司の声が少し柔らかくなる。
『ちゃんと選べるさ』
「……ありがとう」
俺は素直にそう言った。
「参考になった」
『本当か?』
「ん?」
『呆れてないか?』
「そんなことない」
また沈黙。
お互い、何かを考えている。
言葉にできないものが、電話の向こうとこちらの間に漂っている。
俺は何か話さなければと思った。
でも、何を言えばいいのか分からない。
竜司も同じなのかもしれない。
しばらくして、竜司が口を開いた。
『……じゃあ。遅いから』
「……ああ」
『またな……』
「うん。……おやすみ」
『……おやすみ、カイト』
電話が切れた。
俺はスマホを見つめた。
「……」
ちゃんと話せた。
それだけなのに――
なぜか、少しだけ心が軽くなっていた。
俺は立ち上がり、窓のカーテンを開ける。
夜空を見上げる。
そこには、綺麗な満月が浮かんでいた。
俺はしばらく、その月を眺めていた。




