時間……
彼女が口にしたことを咀嚼して、呑み込んで、自分の腹の中に落とすのに、だいぶ時間がかかった。
だけど、これまでの感覚の"ズレ"がなんだったのか、理解できた気がする。
そして――佐川葵と言う人物に、ようやく手が届いたように思えた。
固まって動かない宗田を見て葵が微笑んだ。
「うふふっ。驚いちゃいましたか〜? あっ、でも、まったく無いわけじゃないんですよ? 少しはありますからね」
感情がない……なら、どうしてそんなに悲しそうなのか。
宗田の気持ちを理解する様子もなく、葵は話を続ける。
「物心ついた時には、今の佐川葵がいました。両親からは薄気味悪いと罵られ、ぶたれ、それから守るためにできたのが、この笑顔です」
彼女の放つ雰囲気に宗田は飲まれ、瞬きを忘れて葵を見つめていた。
今も向けられる笑顔の仮面が、どす黒く変色し溶けて葵を包んでいるように見える。
「そして、弟が産まれました。それはそれは両親は可愛がり、元より薄かった私への愛情は全て弟に注がれます。
弟は優秀で、有名な大学へと進学。両親に溺愛され、姉の私とは大違い」
葵の独白が続く。
機械人形のように淡々と、途切れることなく彼女は話を続ける。
その内容が宗田の腹を抉り、いつの間にか呼吸が半分ほどしかできていなかった。
「それでも弟はお姉ちゃんと、私が大好きだったみたいで、いつもニコニコと傍に来てくれます。
そのたびに、両親に引き剥がされ、最終的に一人ぼっち」
これ以上は聞きたくなかった。
だけど、ここで話を切ってしまう方が残酷に思え、おとなしく耳を傾けるしかない。
いつの間にか乾いた唇がパキリと割れて、口呼吸により喉入り口がへばり付く。
宗田が唾を一つ飲み込んで喉を鳴らすと、横隔膜が大きく膨らんだ。
「そのだめな姉は、両親から見放されても、弟が引き剥がされても、何も感じません。
なにせ感情がないので。ただ……それでも一つだけ揺さぶるものがありました」
――それは、死。生物が死ぬ瞬間です。
思わず宗田が手を伸ばすが、葵は半歩下がって首を横に振って拒絶する。
行き場を失った手を引っ込め、手を強く握る。
「初めて見たのは車に弾かれた小動物。その魅力に取り憑かれて、殺しました。
それもたくさん。もちろん、人を殺したのはゾンビになった弟と、宗田さんを襲った奴だけですが」
生命が持つ最大の恐れは、彼女にとっては拠り所のように救ってくれた存在だったようだ。
それが、自分達とは絶対に違う感覚を生み出していた。
「弟を殺した時は実感がありませんでしたが、宗田さんを襲ったゾンビを殺した時は、感動のあまり涙が溢れて、その興奮を堪えるのが精一杯でした」
あの時、流した涙のことか……
「殺したいと言う衝動がそれ以降、ずっと私の心を揺さぶっています」
葵が突然口を閉ざして、顔を下に向ける。
その間が、空気を冷やし重たく粘り気のあるものへと変容させ、宗田は身動き一つ取れなかった。
いくばかの時間を置いて、葵が顔を上げると大粒の涙が、頬を伝ってガラスが散乱した床にとめどなく流れ落ちていた。
「どうしてなんでしょう……感情ないはずなのに。二人に出会ってから……私、今までなんてことを」
しゃくり上げるように泣いた彼女は今にも崩れ落ちそうだった。
それは懺悔するかのように、自分の罪を食い入るように見えた。
「おかしいんですよ……だって……二人と一緒に居ると、楽しくて、離れたくなくて、それに、奪った命に申し訳なくて……」
葵は嗚咽を漏らす。
それでも歯を食いしばるように話を続ける。
「うぅっ……だから、私は宗田さんと唯ちゃんが――大好きなんです……もっと早く出会えたら良かった」
そのまま葵は口を閉ざし、泣き続けた。
手を伸ばそうとしたがそれすらできないくらい、宗田は彼女に飲み込まれてしまったようだった。
口を開こうにも出てくるのは肺で温められた空気だけ。
伸ばそうとした手を引っ込め、宗田の視線も同じように沈んでしまう。
彼女が悲しそうに鼻をすする音だけが、闇色に染まった部屋に大きく響いていた。
そして、次に口を開いたのも葵だった。
ゆっくりと顔を上げて宗田を真っ直ぐ見つめる。
「話し、聞いてくれてありがとうございます〜」
まだ、葵の声はかすかに震えている。
いつもの口調に戻ってきたが、その貼り付けた笑顔が痛々しくて直視することができず、わずかに視線を逸らす。
「二人には感謝しかありません。本当にありがとうございました」
最後のお礼は、これで終わりを告げるような口ぶりに聞こえた。
「――でも、もう時間切れですね〜」




