ゴリラ
気になることは一通り試した。
「ベランダも……だめでした」
このアパートのような一室から外に出れるか試してみたが、肩を落とした唯を見れば結果は言わなくても分かるだろう。
「見えない壁? みたいなので覆われてて、このアパートから外には出れないみたいですね。殴ったけど、壊すの……無理でした」
いつの間にか暴力娘と化した彼女の拳は、薄っすらと赤く染まっていた。
「俺の方もだめ……家の中を漁って、掃除機とか繋いだけど、反応なし」
あくまでもアパートで購入したものだけが使用できるようだった。
あわよくば、と考えたがそう簡単にはいかないらしい。
肩が自然と下がると、二人同時にため息を吐く。
「あれ? そう言えば、葵さんは?」
「なんか外を眺めてたいって、ベランダにいますよ」
唯に言われてその奥に焦点を合わせると、ベランダの手すりに右手をかけて、向こう側を眺める葵の姿が映る。
さらにその向こう側には、向かいの家の壁と太陽と思しき光が見える。
たまに車の音や顔のぼやけた人が通りすぎ、牢獄のような閉鎖感が体を押さえつけてくるようなきがした。
「葵さんも……そりゃ、戻りたいよね。昔にさ」
あまり日にちは経っていないが、スマホにネットが使えた世界はあまりに遠くに感じられる。
余計に、このヘンテコな空間がそれを助長させ、ふとした拍子に胃が締め付けられる思いに襲われた。
「あれ〜?二人ともこっちを見てどうしたんですか〜?」
ベランダから戻ってきた葵が、不思議そうに首を傾げている。
「いや、なんでもないよ」
宗田が答える。
その後は一息ついて、外に出ることにした。
「嫌な臭い」
唯がそう呟く。
アパートの中にずっといたことで、鼻の機能が正常に戻りかける。
玄関を開けると、外からむわりと漂ってきた腐った臭いに、脳が拒絶を示した。
家の中なのに、本当はこんなに臭うのか。
そう思い、もう一度戻りたい気分になるが、その気持ちを飲み込みスキルをもう一度使用する。
「消えろ」
そう念じると、扉は飲み込まれるように床の中へ沈んでいく。
どう言う原理なのだろうか。
少しホコリの被った茶色の床には、傷一つなかった。
「……やっぱり、これ、無理よね」
一度、自分の家に戻ってきた宗田だったが、その光景に肩が大きく沈んでいる。
あの首の長いゾンビの襲撃でボロボロになっていることは分かっていたが、改めて見ると現実に自分の気持ちが追いつき、途方もないため息が出た。
「宗田さん……元気出してください」
項垂れるように萎れた宗田の背中を、唯が優しく撫でる。
「めちゃくちゃですね〜。あっ、漫画読みかけだったのに〜」
葵は床に落ちていた破れた漫画を手に取り、悲しそうに座り込む。
「と、とりあえず使えるもの、探しましょう」
唯だけはどうにか普通にしているが、瞳の奥には朧げに寂し気な色が浮いている。
割れたガラスを宗田はじっと見つめ、三人で過ごしたこの部屋のことを思い浮かべると、「ありがとう」と心でお礼を告げ、部屋の中から荷物を引っ張りだす。
「あ、ランタンとオイルは無事でした」
人の背丈ほどある壁を片手で持ち上げる唯は、ランタンを見つけて満足気にニンマリと笑顔を見せていた。
「わぁ〜。唯ちゃん力持ちです。ゴリラですね〜」
ピンクのリュックを背負った葵の言葉に、唯の手が滑りそうになった。
「……っと、葵さん……褒めてないからね? 分かって言ってる?」
ドスの聞いた声で唯が葵に言うが、まったく聞いているよう様子もなく拍手を送り続けている。
「よし、こんなもんか?」
「食料、結構無事で良かったです」
「そうだな……ただ、この量はちょっとな」
日用品や着替えを合わせれば相当な量になる。
唯に至っては、これから旅行に行くような格好。
「あのアパートに荷物置けたらいいですけどね〜」
葵が何気なく呟いた一言に、宗田の意識が跳ねる。
掃除機とかそう言ったものは使えなかったが、持ち込むことは可能だったことを思いだす。
つまり、倉庫としての活用もできる可能性が……。
早速、文明の記憶を発動して扉を出現させた。
物理法則を無視してぬるりと現れる瞬間は、まだ慣れない。
「1回適当なの入れて試そう」
これで、荷物が消えたり壊れたらどうしようもない。
缶詰を玄関に一つ置いて、消失と出現を繰り返す。
「あ、宗田さんこれっ!」
唯の指の先には置いたままの缶詰が一つ形を保ったまま置いてあった。
「よし! 上手く言った! 葵さん、ありがとう!
流石だね!」
無意識に両手を握り、ブンブンと上下に振ると葵は「ふふふっ。手おっきいです〜」と、言っていた。
そんなの関係なしに、宗田は感度に目が輝かせていると――
「――ぶふぅっ!」
全身に強い衝撃が走り、横に弾き飛ばされる。
「あっ、宗田さん、ごめんなさい。振り向いたら荷物ぶつかっちゃいましたね」
と手を伸ばした唯の目は鋭く、だけど口だけはニンマリと笑っていた。
ゾクッと背骨が氷に差し替えられる感覚に、体がぶるりと震える。
まるで、従えと言うような唯の眼差しにゆっくりと手を伸ばすと、引き上げられるように立ち上がる。
その勢いのままに、唯に抱きつくような肩になるとそっと腰に手を回された。
「少し、力を込めすぎましたね〜。あー、宗田さんの匂い。ぐふっ……」
胸にゴリゴリと頭を押し付けられると、彼女の怪力が相まって、恥ずかしさよりも圧迫間のほうが……。
「……ゴリ、ラ」
つい、頭の中で浮かんだ葵の言葉が奥の方から押し出されてしまう。
「いいぃぃっ!」
蛇が巻き付くように、ギリギリと締めつけが強くなり、全身の骨が悲鳴をあげる。
「ゴリラじゃないもん……」
悲しそうに唯は呟いたが、回した腕が離れることはなかった。




