忍び寄る気配
「ああ、辛いですっ!」
唯がそう嘆く。
「もう少しだから、頑張って」
宗田が唯の手を引き声をかけるが、滴るように落ちる汗がここまでの苦労を物語っている。
後ろからついて来ている彼女を見れば、走って逃げた時より汗をかいていた。
「エレベーターって凄かったんですね」
文句を言うように唯が口を開くと、その言葉尻がわずかに震えている。
当たり前のように使用していた移動手段は使えるはずもなく、階段で屋上をへ向かうしかなかった。
額を伝った汗が一粒右目に入ると、宗田の瞳を潰しにかかってきた。
それを拭い前を見ると、そこには十五階と階層の表示が見えた。
「文句言うなって、ほら、もう少しだから――」
――ッッパァァンッ!
胸を突き抜けるような音が、階段を駆け抜けた。
それに思わず言葉が遮られ、二人の息が詰まるように止まる。
ゾンビがいないことへの安心感から、緩みかけていた空気が一瞬でひりついた。
「今の……」
詰まるように声を出し階段の下を覗くが、原因は分からない。
とにかく、良からぬことが起きているに違いないだろう。
宗田は唯の手を引いた。
「とにかく急ごう!」
靴が鉛に変わったかのような重たい足を、強引に持ち上げ階段を一段一段上がっていく。
耳を凝らすと、自分達の足音に紛れて違う音がする。
……ヒタ……ヒタ。
地面に貼り付きながら歩いている音が聞こえた。
それは最初は遠く薄い音だったが、少しずつ近づいている。
「これ? 足音……?」
「……くそっ、とにかく上に、急ごう!」
下から上がってくる音は、少しずつ距離が縮まってきているようだった。
唯もそれに気づき、唇が青ざめ瞳が揺れている。
怪物が追い詰めてくるようなプレッシャーを下から感じた。
姿は見えなくても闇の向こうから死臭が漂ってくるように感じ、階段を駆け上がると、なんとか追いつかれる前に、屋上に到達することができたらしい。
重たい金属の扉の持ちて部分には、金属の鎖が巻きつけられ、簡単に入れないように南京錠がしてあった。
「唯! これ壊せる?!」
宗田は唯に壊すようにお願いすると、唯は頷いた。
「はい! 宗田さんは離れててください!」
バールを大きく振りかぶり、勢いに任せて振り下ろす。
火花が飛び散り鍵が吹き飛ぶと、だらりと鎖が垂さがる。
南京錠が滑るように階段の下に落ちていき、その音に反応するように、下から追ってくる何かの足音が速くなる。
「――早く、中に!」
宗田は鉄で出来た扉を押し開き、屋上へと出た。
「唯、それを貸してっ!」
急いでバールを唯から受け取ると、扉の持ち手部分へとそれを通す。
鉄でできた扉を内側から開かないようにすると、肺の中身を、灼熱の空へと吐き出した。
「大丈夫……そうですかね?」
「ゾンビなら……ね。とにかくほとぼりが冷めるまでは、一度街を見てみようか」
座り込んでいた唯に手を伸ばすと、握り返し立ち上がった。
「はぁー、もうへとへとですよ」
張り詰めた空気は空からの光に溶かされた。高層マンションの屋上と言う隔離された空間が、より空気を軽くしてくれた。
屋上の端にたどり着くと、街を見回す。
そこには静寂が沈んでいた。
人の気配や生き物が存在しないような、まるで絶海の孤島に閉じ込められたような、寂しさと絶望が広がっているように見えた。
――現代文明は死んだ。
気付いていたが、それを改めて目の当たりにすると、恐怖よりも絶望が足元より這い上がってくる。
魔界へと変わり果てた地上で生きていく気力を、目の前の光景が吸い取っていくようだった。
ごっそりと何かが地面に落ちた感覚に、意識とは関係なく落下防止フェンスへと手が伸びる。
すっと、上を見上げれば返しがついているが、これくらいなら問題ないと自然と考えてしまった。
腕に力を込めようとするが、ふと横に並ぶ唯が視界に入る。
彼女の澄んだ香りが鼻孔の奥へと流れてきた。
汗の匂いは一切なく、むしろ胸の奥の苦しみを包み消してくれる。
手をそっとフェンスから離し、唯へと振り返ろうとすると彼女が言葉を発した。
「――凄い高いですね」
唯の何気ない一言だったが、まるで考えを読まれているように、タイミング良く声をかけられて肩がわずかに跳ねる。
一度登ってきた負の感情を、腹の奥底に仕舞い込むと、宗田は唯に返事を返した。
「本当だな。こう言うところに一度は住んでみたかったな」
「えー、そうですか? 私は憧れだけでいいですかね。むしろ、普通が良いです。そうですね、私は量産型日本人なので、平凡が好きです」
その言葉を久しぶりに聞いた気がする。
彼女はいつもそうだ。
壊れそうでギリギリで立ち止まり、宗田を支える。
だから、唯に負けないように生きて守り続けようと強く決意する。
ぐるりと唯が街を見渡していると何かを見つけたらしい。
「宗田さん、あそこ煙が」
唯が指を指した方向へと視線をずらすと、白い煙が上がっていた。
「駅の方から……生存者かな? 後で行って――」
――ドンッ
この世界はどこまでも容赦がなかった。
いつもそうだ。決意を固めると次の絶望が襲ってくる。
扉の内側から、強い力で殴るような音が空気を引き裂いた。
いつでも魔法を使えるようにと、宗田は準備する。
唯は金槌を受け取り身構えた。
鉄製の扉の表面ぼこりと盛り上がると、その向こう側から声がした。
「おなか……すいた」
扉の向こう側の怪物が喋る。
「あけて、よ」




