初体験
死ぬのは嫌だ。逃げたい。
俺の心では本音が漏れているが、外に出す事は決してなかった。
これから、初めて――人を殺す。
と言ってもそれはゾンビ。
生ける屍と呼ばれるものだ。
足の震えが止まらない。
心を蝕む夜の闇が、弱り切った心に止めを刺してこようとしていた。
「――見つけた」
その時が目の前にやってくる。
……気持ち悪い。
それが初体験をする前の気持ちだった。
公園の奥には一つ人影が立っていた。動くこともなく、ただゆらゆら揺れている。
その風に運ばれた死臭は想像を絶するもので、鼻腔が悲鳴を上げた。
それと同時に口には酸っぱいものが広がり、気分が余計に落ちていく。
「嫌だ――」
――誰か助けて。
その言葉は外に出ず胸の奥で溶けて形を失った。
もし、それを言ってしまえば身を翻して家に帰っていただろう。
そして、唯の寝顔を見て朝になる。
そうなれば結局今と変わらず、後は朽ちていくだけ。
殺すしかないんだよ……な。
「うぅ……あ、あぁ……」
近くで聞くと背筋が凍った。
一つ間違えればそれで終わり。
だから、そいつのすぐ後ろに身を潜め動けなくなっている。
逃げたい。
でも……逃げようとするたび彼女の顔が……泣き崩れて苦しんでいる姿が、頭から離れない。
――神崎さん。
俺が守るって決めたんだよな。
それなら、グジグジしないで早く殺れ。
奮い立たせるように、自分に喝を入れて体の震えを強引に止める。
彼女のため、二人で生きるため……仕方ないんだ。
俺は好きでやるわけじゃない。
目を軽く瞑り、はあっと吐き出した息が喉を焼く。
無理やり自分を納得させると、スコップの持ち手を強く握る。
地面を蹴り上げ、一気に距離を詰めた。
「――ああぁぁっ!」
叫ぶ。
それと、鈍い音。
硬い物がぶつかった衝撃が手が痛み、心が軋んだ。
「死ね! クソッ! 死ね!」
何度も、何度も、手に感触が伝わるたび、心の何かが壊れていくように感じる。
だけど、手を止めない。
そして、何回目かでようやく、冷めた。
すっと力が抜け、横たわるゾンビに視線が落ちる。
そして――
「――おえ、うぐ、あぁ」
口から全てをぶちまけた。
どさりと、膝から崩れ落ち、膝がジャリジャリとした。
吐しゃ物と涙で汚された顔は、神崎さんが見たらドン引きかもしれない。
でも……俺……君のために正しく――狂えたよ。
ひとしきりの感情をぶちまけて、ようやくこの世界の住人に迎え入れられた気がした。
――ようこそ。
世界が放ったその一言が、耳の奥に貼り付く。
――――
「次に……行かないと――」
――倒れた肉塊から顔を背けた時、背筋が無理やり引き伸ばされるような感覚が襲ってきた。
そこから腹の中で黒い感情が止めどなく流れる。
それが少しずつ、自分の感情を食らい最終的に全てが黒く染まった。
――両手から力が抜ける。
ガラガラと地面をスコップが擦れて、その振動がぞわぞわして気持ちが良いい。
黒い何かに飲まれたはずが、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
みーつけた。
「が……ぎぃ、ぎぎぎっ」
「ははっ、死ねよ」
口から漏れた声は、自分のものとは思えないくらい邪悪に満ちていた。
――ばき、ぐちゃっ
骨が折れ、肉が潰れる音がした。
手に残るその感触が神経を撫でて、体が勝手に震える。
「あが、ぐぅぁあああっ」
二体のゾンビが迫る。
自然と口元が吊り上がった。
「消えろ」
地を駆けると、ゾンビの顎に向かって下から上に一振り。
ゴキッと言う音と共に顎が砕けるように外れ、仰向けにどさりだ。
立ち上がろうとするそいつの胸を踏みつけて、スコップを全力で叩き落とした。
打ちつけるたびに、助けを求めるようにゾンビが手を伸ばすが、お構いなしに頭を粉砕する。
完全に動かなくなると、次の標的に向かった。
次は薙ぎ払う一撃。
スコップの横が頭に食い込むが、ゾンビはまだ動いている。
そいつに足をかけて倒すと、スコップを強く踏みつける。
何度も何度も何度も。
「はは、はははっ」
口から勝手に声が漏れた。
それは心の底から楽しくて、生命が動きを止めるその瞬間が快感だった。
こいつらが息絶えるたびに頭に浮かぶのは過去の残影。
返せ、返せよ――俺の日常を。
平凡で二度と戻らない日常に対する渇望が消えない。
俺が俺であるために、過去を否定して我がもの顔で歩き回るこいつらが許せない。
だから、一人残らず駆逐して取り戻さないと。
「あぁ、胸が熱い。レベルアップしたか」
じんわりと胸の奥に染み渡るその感覚が、愛撫するようで快感を脳に与えてくる。
「……足りない」
もっとだ。
圧倒的な力が欲しい。
それこそ、魔王を殺せるくらいに。
もう一度あの日常を。
「がぁぃ、がぎぎっ」
脳天に放った一撃が、不格好に揺れる頭の横を通り過ぎるゾンビに組み付かれる。
その瞬間、死の臭いが強くなり頭から血がすっと抜け落ちた。
「俺、あれ? ってやばい!」
足を腹の隙間にこじいれて、強引に引き剥がす。
さっきまで俺は何をやっていたんだ。
恐怖よりも先に、何かに感情が呑み込まれた方が怖かった。
「――あぁぁぁっ!」
とにかくこいつを殺さないと。
強引に引き倒すと、運よく離れた。
その好きにスコップで一撃を浴びせると、骨を砕く嫌な音と感触に、吐き気がこみ上げる。
はぁっと盛大に息を吐き出すと、自分の胸に手を当てて落ち着かせるが心臓の鼓動が爆発しそうなくらい速かった。
「少し落ち着いた……」
自分の感情に問いかけるが、もうドス黒さはない。
安堵すると体から力が抜ける。
……次を探さないと。
――――
「……これで……五体目」
胸の辺りを軽く押さえる。
「レベルアップしたのか? ……良かった。だけど前より時間がかかっている」
凄惨な初体験を越えると、そこからはあっという間に先に進めるようなった。
多少の葛藤があれど、その都度、神崎唯が狂わせてくれた。
今は、この世界を知る必要がある。だから、目についたゾンビを殺しまくっている最中だ。
「レベルアップに必要な経験値の上限が増えたのか? 本当にゲームみたいだ」
まさにゲーム。それが、この世界を変えた。
つまり――人類のアップデート。
管理者が与えてくれた、人類の進化と言える。
一体、魔王は何がしたいんだ。
目的がまったく掴めない。
でも――彼女のために……もっと。
宗田はスコップを片手に、闇の奥に消えていった。




