月を照らす(9)
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―――――――――――――――――――ア。
―――――――――――――リ―――ア――。
――リア。
目が開いた。なぜか目を開けられた。
両目いっぱいの明瞭な視界に、夜空と星々が映り込む。
両手を使って体を起こす。手足が動かせる。全身の痛みも消えている。
周辺を見渡すと、この世とは思えぬ静謐な光景が広がっていた。
水平線まで見える大地。なにもない一面が、ただ青白く煌々と照らされている。
視界の上半分は夜空。黒い夜と光る星にすべてが覆われている。
見たこともない景色。だけど不気味とは思わなかった。
なんとなくここが、月海の白浜に似ていると思ったから。
青白い地面に座り込んだまま首を動かす。
周囲を眺めても、夜と光の二色しか目に入らない。
不自由のない体に幻想的な世界。僕はちゃんと死んだに違いないが。
「リア」
後ろから声をかけられた。忘れたことのない声。波打ち際のように心安まる声。
どれだけ願っても聞こえなかった声が、息づかいを感じるほど近くに感じる。
振り向くのが怖い。死んだあとまで願いに裏切られるのは、ごめんだ。
「ねえ、リアってば」
スッと。首後ろの左右から伸びてきた細い両腕に、上半身を抱きかかえられた。
緑色の裾。世界樹の緑葉で染められた外套の先から、白い指先が出ている。
小さなころから手の大きさを比べてきたけれど、一度たりとも負けたことのない小さな手。体が縮んでしまったせいで、今は初めて同じくらいに見える。
「リア? 聞こえてる?」
二本の腕が優しく、背中側へと抱き寄せてくる。
頭ごと寄りかかったのは、やせっぽちの頼りない細身。
肌温は感じない。なのに妙に安らげる。心身を委ねさせられてしまう。
「リア。私のこと分かる?」
頭の左上からぴょこんと顔が伸びてきた。
葉っぱのような色をした目と視線が合う。
顔には一本髪が垂れ落ちてくる。くすぐったい。鼻先で懐かしい匂いがした。
僕を背中から抱きかかえた張本人は、慌てて髪を逆側へと流し、すこし笑った。
あの日の姿のままのアージェが、僕を見下ろして笑っている。
「アージェ」
「そうだよ」
「アージェ」
「うん、そうだよ」
凪いだ海のようにとろける笑顔が、汚れきった僕に向かってこぼれ落ちる。
「どうして」
「ずっとここにいたの」
「ここに?」
「月海に映る月よ。緑炎で送られないと魂が囚われるって、本当だったみたい」
「そっか。ごめん」
「謝らないで」
「ごめん」
「いいの。おかげでリアのこと、ここでずっと見ていられたから」
ほんのすこし、アージェが抱き寄せる力を強めた。
両腕に込められた力は謝罪のようで、断罪のようで。感謝にも後悔にも思えた。
「がんばったね、リア」
「っっ」
「ずっと、がんばったね」
彼女は僕の過ちを責めもせず、赦すこともせず、ただただ褒めて、ほほ笑んだ。
アージェと死に別れてから、誇れることなんてなにもなかったってのに。
死体のくせして胸が痛くなる。両目からあふれた涙が目尻へと流れていく。
アージェは穏やかに笑んだまま、その雫を白い指先で拭ってくれる。
「グリン、おっきくなったね。驚いちゃった」
「ああ」
「リアがここに来られたのは、きっとあの子が星送りをしてくれたおかげだよ」
「そっか」
「これからもあの女の子に、ずっとかわいがってもらえるといいねえ」
「だな」
「それにしても、リアはちっちゃくなっちゃったね。私のほうがお姉さんみたい」
「どこがだよ。同じくらいだろ」
「えー。私のほうが絶対お姉さんみたいだよお」
夜と星に囲まれた世界で、アージェはいつもみたいに会話を紡いだ。
セイヴのことや泥の女王のことなど、手痛いことにはいっさい触れてこない。
当たり前の日々から続いた翌朝のように。
いつもの顔で、楽しそうにしゃべりかけてくれる。
「知ってた? 私、リアが月海を眺めてるときは、いつもそばにいたんだよ」
「ははっ、んなの分かるかよ」
「もー。いっつも隣にいたよお」
「まさか見張ってたの?」
「そ、そんなことしてないよっ! ちゃ、ちゃんと見ていいときだけっ」
「自分勝手な見ていいときだなあ」
「むー。本当に本当なんだからね? これでも私、月海の巫女なんですからっ」
威張るように張られた胸の動きを、抱きかかえられたままの後頭部で感じる。
「月海に死ににいったとき、俺が生かされたのはアージェのせいか」
「……うん」
「そっか」
「うん。だから、生きててくれてありがとう」
「もう死んだけどな」
「もー、それは言わないのー。乙女心が分かってないんだからあ」
アージェが怒ってる。彼女がいることに涙が出そうになる。でもこらえる。
こいつの前でカッコ悪い姿を見せるのは、今さらだとしても、イヤだから。
「リアはね、私たちが生きた世界を救ったんだよ」
「子供のころに泥団子をやってれば、もっと違ってた」
「んー、でも私が毎日止めてなくても、倒せてた?」
「……無理かな」
「うん。だからリアはちゃんと生きて、星を護ったの。後悔なんて必要ないわ」
「ウソの星護りだった」
「関係ないよ」
「そうかな」
「うん。そうだよ。カッコよかったよ」
見下ろされたままの姿勢で髪を撫でられる。
毛先に絡められる指先がとても気持ちいい。
今は薄汚れた黒髪ばかりで、彼女が褒めてくれた小麦色の髪はわずかしか残っていないけど。アージェはどちらの色の髪も分け隔てなく撫でてくれる。
「この場所もね、そろそろ閉じちゃうみたい」
「閉じる?」
アージェの笑顔に、すこしの悲しみが混じる。
「月海の巫女はもともと、月に手をかけた古の王の断罪者たちが、地に堕ちた泥を消してもらいたいって白の女神に……輝く夜の姫王に贖罪するための生け贄だったんだって。でも、姫王も月のかけらごと堕ちてきてしまったせいで、願いは届くことなく、私たち巫女は欠け月とだけつながってしまった。それが灯火の力で、本来は輝く夜の姫王の力だった。月がそう教えてくれたの」
笑い泣きのような顔が悲しくて、頬に手を伸ばす。
手触りのいい横顔に触れると、アージェは安心するみたいに目を細めた。
「でも、リアは輝く夜の姫王を月に帰してくれた。月の主が力を取り戻せば、汚泥魔も月の灯火も、聖女の血もこの場所も、どんどん消えていく。私たちはもう、勝手に奪っていただけの月の力を行使できなくなる。それでいい世界になるの」
子守歌のような語り。心安ぐが、せっかくの死に際だ。小難しい話は聞き流す。
僕にとって泥女は永遠に、憎たらしいだけの泥女のままでいい。
「僕らも消えるのか」
「そうだね。そうだと思う」
「そっか」
「うん」
「ほかに誰も来ないのか」
「うーん、こないんじゃないかな。ウッドグリフォンも本来は月の生物で、月に貴人を導く送り屋さんらしいんだけど。グリンも当分は誰も送らないよ。きっと」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、消えるまでこのままでいいや」
「私も」
夜と光の静寂に包まれながら、二人だけで笑い合った。
声が聞ける。指で触れられる。視線を交わし合える。
それをこんなにも愛おしく思える。
この程度のささいでちっぽけなご褒美なのだ。
いくら不遜で意地悪な女神さまでも、お目こぼしくらいしてくれるだろう。
「なあ、ここからどうやって月海を眺めてたんだ」
「願いを込めて目を閉じるの。そうすればまぶたの裏に見えてくるのよ」
「……ぜんぜん見えないんだけど」
「えー。リアは月海を眺めたいって気持ちが足りないんだよお」
「そんなの、アージェ以外のやつはほとんど足りないっての」
「むう。でもでも、これからはもっとたくさんの人が見に来られるんだよ?」
「どうだか。聖防国のやつら、北の古代都市にしか興味が湧かないんじゃないの」
「もったいないなあ。こーんなにキレイなところなのに」
「ま、おまえには最高の場所だったな」
「でしょ? クスクス」
凪いだ海のようにとろける笑顔は、昔かららちっとも変わっていない。
アージェ。君さえいれば、ほかになんにもいらなかった。
なんて恥ずかしいこと、僕には最後まで言えそうにないけれど。
「アージェ」
「なあに」
「愛してる」
「私もよ」




