月を照らす(8)
赤い出っ張りは金属の肉体の一部のようだが、白い石のほうは黒いひもに絡まっている。偶然入り込み、ひもに引っかかってしまっているだけに見えた。
『月光の貴石じゃ‼ なんとしてでもあれを破壊せい小僧ッッ‼』
「ぅ、ぁッ……なに……言って、る……」
泥女の怒声が体に響く。よろめく体が痛みを忘れたのは、続く言葉のせいだ。
『あれこそが貴様らの呼ぶ〝泥の鎖石〟よッ! 夜の姫王の庭を抉り! 不浄なる地球に堕とし! 月人の魂核を縫って縛りつけ! 汚れた泥を塗りたくり! 我ら一族を忌々しき現に這いつくばらせておる元凶よッ‼』
理解よりも先に、思考は呆けた。
『まさか、このような下等兵が有してるとは……ご丁寧にもエマージェンシー・コールまで備えた帝直轄個体じゃ……クッ、クックク‼ なんと滑稽か! 予もまた喜劇の三文役者じゃったか! クカカカカカッ‼』
言い間違い、だろうか。泥女はエマジン・ウルと言った気がした。
違うか。きっと間違えているのは俺たちで、泥女が正しく知っているだけか。
『クク、クッククク……この千年、こやつ以外の誰もが、座興で命と矜持を散らすだけの道化者じゃったわけか。予が求め焦がれたものが、このような僻地で大層大事に抱えられているとも知らず、下等種と永年を争ってきたのか……なんと滑稽な話じゃ。なんともまあ、滑稽な、話じゃ』
泥女が自嘲し、泥団子が震え、俺は呆然とする。
空虚な感情の裏で考えついてしまったこと。それが胸の鼓動を早くする。
「つまり…………なんなんだよ」
薄れた視線の先にかすかに映る、白い石と、赤い出っ張りの二つの物体。
それがどんな答えを宿しているのか、聞くのがすこしだけ怖かった。
『簡単な話じゃ。誰かがあやつさえ討っておれば、こんな星の地べたで、千年と争う未来なんぞ訪れなかったのよ。阿呆じゃ。ほんに阿呆な話じゃ、ククッ』
「……ふっ、くははっ」
体の力が抜けた。鋭敏な痛苦が叱ってくるが、どうしようもなく笑えてきた。
誰かが泥団子を倒して、あの白と赤の物体をどうにかしていればよかった。
それだけで、この世界はきっと、どうしようもないほど平和だったらしい。
そうだったなら、アージェが死ぬことはなかった。グリンもただの愛玩生物でいられた。俺たちは汚泥魔も奇怪機も知らず、月海でも眺めていた。
月海の村の民や、聖防国の誰かが、怪しい外敵だと倒していれば。
ううん。むしろ泥女がこの地にやって来たとき、逆上して倒していれば。
もし子供のころ。あいつを目の敵にしていた俺が、倒していたなら。
月海の村の民だってそう。聖防国のやつらだってそう。汚泥魔だって奇怪機だってそう。これまでの、心底くだらない、命の奪い合いなんてしなかった。
「……くふっ、くっくくく、はっ、あっははははは!」
確かに。俺も泥女も実に滑稽な存在だ。無能で愚鈍な愚図そのものだ。
自分たちの行く末に躍起になっておいて、足下に転がる正解を見逃してきた。
こんな間抜けな話、笑わずにはいられない。
『小僧、壊れよったか』
「くくっ、黙れって、ぷっ、くくく……」
『予が命ずる。月光の貴石だけは死んでも破壊せよ。貴様がこの星の分水嶺じゃ』
「黙れ」
泥団子は静止している。真円の白石と四角の赤石が目のように見える。
あいつが初めて、生き物みたいに見える。
『ッ、分かっておるのか小僧ッ⁉ すべてを終わらせられるときなんじゃぞッ⁉』
「黙れ。俺はもう誰かのための剣は振らない。とくに、おまえなんかごめんだ」
『……今この瞬間、左腕で心の臓を穿ち、体を乗っ取ってやっても――』
「だから黙ってろ」
家族を殺した汚泥魔も。愛しき人を殺した聖防国も。今さら救いたいものか。
俺はおまえたちにすべてを壊された。殺されもした。返すべき義理などない。
今さら、おまえたちのために戦ってやるつもりなんてない。ただ。
『私、月海の巫女になって、汚泥魔も奇怪機もやっつけて、英雄になりたいの』
あの武装探検者の未熟な少女のせいだ。ついつい思い出してしまった。
昔、この場所で、声高に挑んでいた子供な自分を。
「俺は……――――我は」
ずっとなりたかった。星護りに。
アージェに格好良いところを見せたかった。その一心で。
月海の巫女を守る? そんな考えすらなく、ただただ自分のために夢見てた。
考えてみればずっとそうだ。俺の剣なんて、子供のころからずっとそう。
ずっと、自分のためにしか振ってこられなかった。
星鉄の鋭刃の剣先を地面に突き刺す。あの日見た、姉さんのように。
そして俺は吠えるのだ。泥団子に向かって、威風堂々と。
あの日の、英雄になりたかった自分のように。
「――我は月海が堅なる剣」
子供のころに思い描いた夢は、手を伸ばせば届くほど、こんなにも近くにある。
「――巫女の星護りが一振り!」
誰かのためには振るえない剣でも、自分のためになら振るえる。
「――いざ、悪しきを断たんッ‼」
気勢に呼応するように、泥団子が虫足を蠢かせて走り出した。
身体の動きは鈍い。痛みも負傷もなにも回復しちゃいない。
なのに、心だけは跳ねて躍ってる。
『よう言うたぞ小僧! 月光の貴石じゃ、絶対に月光の貴石から破壊せいッ!』
自分が自分がと主張する高貴な女の見苦しさに、初めて心からの嘲笑を返せた。
ただ、ここは素直に従ってやる。おまえと俺は同類だ。
それに、白と赤の二者択一なら、白がいい。
先に消し去るなら、より不快な泥女のほうに決まってる。
「ギギャ……! ガガガギガガガ……!」
泥団子が高速で突撃してくる。球体の振動は痛がるそぶりにも見えた。肉薄した巨体は右に避ける。泥女の左腕の荷重移動が冴えるほど、体が壊れる音がする。
泥団子がすれ違い、転回し、またもや突進で迫ってくる。
同時に、背中側で開閉音が響かせた。
まだ奇怪機兵を匿っているのか。鋭刃を構えて警戒するも、増援の姿はない。
「ギガギギ……」
「おまえも、ようやく一人ぼっちってか」
啖呵を切ると、泥団子が気分を害されたとばかりに猛烈な突撃をしてきた。
引きつけて、引きつけて、判断。敵の左脇に抜ける。
すれ違いざま、右手に持った鋭刃を振るう。回避しながらの斬撃は狙いがうまく定まらず、黒く硬い体表を撫でるだけで跳ね返されてしまう。
その隙に、下肢の端の虫足に右膝を絡め取られた。
鋭い足先で、肉体にいくつもの穴を穿たれる。
「ッッぐぅ!」
見せかけの意地で我慢するが、穿通痕からはおびただしい流血。足が殺された。
『なんたるザマじゃ小僧‼ 成さずに死するは許さんぞッ⁉』
「うるさい黙ってろ!」
『最後じゃ。未来を選べ。予に体を託して世を救うか、命賭してやつと相打つか』
「言われるまでもッ‼」
右足を引きずりながら後ろを振り返る。
泥団子はお決まりの転回に入り、次の突進態勢に移っている。
こちらも右手で星鉄の鋭刃を持ち上げる。
的を狙い定め、弓を引くように左半身を前に置き、右半身を後ろに引く。
まっすぐ、きちんと、一直線に。狙ったものを刺し貫けるように。
「ギギャガギッッ!」
泥団子が動く。正面から向かってくる。相対距離はすぐに殺された。
衝突まで、もうすぐ。
『やれぇい小僧ォッッ‼‼』
鋭刃を突き出すよりも先に、泥女が左腕を前に突き出し、高速の泥団子と接触した。巨体突進の勢いは到底殺しきれない。一足早い衝突の衝撃が、頭のてっぺんから足のつま先まで一瞬にして駆けめぐる。
左腕がまとう黒手甲もガリガリと削れている。
あれだけ硬かったかぎ爪が一本、二本と次々に折れていく。
まったく。俺の体のことをなんとも思っていない、化け物らしく情け容赦のない最低な殴打だ。さすが上から目線で生きる汚物だ。
それでも、泥女は一瞬だけ、相手の動きを止めてくれた。
「くッ、たばれええぇぇぇえッッッ‼‼‼」
引き絞った矢を解き放つように、右手で握りしめた鋭刃を右半身ごと前方へと押し出す。星鉄の鋭刃は強固な対象を打ったと同時に、剣先が折れた。
その代価に泥の鎖石を――泥女が求めた青白い石を突き砕き。
きれいなきれいな白い破片を、夜の荒野に舞わせた。
一方、泥団子は動きを止めず、僕を左腕ごと押し返し、跳ね飛ばした。吹き飛んだ体が地面に落ちる。すぐに上体を起こすも、泥団子は前進を止めていない。
地に倒れた俺を、無数の虫足で踏み潰そうとしている。
何度目かも分からぬ、黒い死が間近に迫ってくる。
『ようやった。褒めてつかわすぞ』
左腕が勝手に振り上げられる。半壊した黒手甲の手のひらから、青白い光が吹き荒れた。不可視の暴風ではない。目に見える、白く透きとおった光の波。
その輝きは、星々の煌めきに似ていた。
『ふしだらな貢ぎの代価に、束縛を求めんとした下種どもの手先よ。今宵は予からの初めての贈物じゃ。その穢らわしい身で、しかと受け取れい』
泥団子に注がれた白光が、黒い巨体を押しとどめ、体表や虫足を灼き落とす。超常の力にさらされた泥団子は数秒後――パキンッと。心地よい音を鳴らした。
白光の嵐のなか、エマジン・ウルらしき赤い出っ張りが割れて、焼失した。
「……ギ、ギャ、ギ……」
泥女が放った光が収まる。泥団子はボロボロだ。見るも無残な姿になった。
黒い鎧は半分以上が焼失している。虫足も半数ほど焼け焦げて、動いていない。
それでもなお生きている。ガタガタと震えている。そのうち静止したかと思ったら、ヨロヨロしながら断崖天壁のほうへと、静かに逃げ帰っていった。
敵意などまるでなかったかのように。いっそ穏やかにすら見えてしまうほどに。
泥団子の背中はなんとなく、遊び疲れた子供の帰り道のように映った。
『嗚呼、時の帝よ。地の獄で見とるか。やはり貴様の手に予は余りあったのう。けれども予は寛大じゃ。欠け月と千年に渡るの汚辱の報いも、この小僧の愚昧さで贖われたことにしてやろうぞ。ククッ、クックック!』
「っつ、っぁ……」
倒れた体を自力で引き起こす。立つだけでも、指先まで痛苦が暴れ狂う。
左腕は岩のように重い。動かせない。ただ、だらりとぶら下がっているだけ。
『小僧よ。別れじゃ。我らの魂核が解放された。予もようやく故郷へと帰れる。まあ、その痛手じゃあのう。予の献身なくば残り一刻と生きられないじゃろうて。クククッ。だからといって恨むでないぞ? 一度は死した身。潔く死ねい』
「ふざけ、やがって……」
急速に、身体から活力が抜けていく。言葉にできずとも実感がある。
左腕の無感覚。右足の流血。全身の骨や肉が軋む。
内臓は痛めつけられ、破裂している。手足も雪のように冷たい。
『貴様はもとより、予に殺されていたはずの身。二度も救った己の姉に感謝せよ』
「おまえが、殺しといて、なにをッ……」
『あの娘は決死で、予の左腕を切り落とした。千夜と治りきらぬ傷じゃったぞ』
ああ。姉さんはこいつに一矢報いていたのか。すごいな。率直にそう思えた。
尊大な泥女にしても、珍しく人を褒めているように聞こえた。
「俺の、ことは、いい。だけど、姉さんのこと、二度と、二度とだ。愚弄するな」
『誓おう。輝く夜の姫王の名にかけて』
それが、泥女の本来の名なのかを尋ねる前に。
『さらばじゃ小僧。伴侶として一生を添い遂げられんですまんのう、クックク』
「……黙れ泥女が……」
『残り短き命の時間、月を見上げて予に感謝せい。それが僭称者らの勤めじゃ』
「……黙れ。今から殺して――――」
フッと。罵倒を言いきるよりも早く、左腕の内から、生命とでも呼べそうな不思議な温かさが消えていった。
話しかけなくても分かった。泥女はもう、勝手に満足し、勝手に消えた。
これ以上、聞いても計り知れないやつのことを考えるのは無駄だ。なにより息が苦しい。明らかに、死を意識させざるを得ない喪失感が迫ってきている。
「……く、そっ……が……」
刀身の先端が折れた星鉄の鋭刃を杖にして、夜の荒野を歩き出す。
イラつくことに、久々に、本当にひとりになった気がした。
大玉荒野から月海の村まではとても遠かった。
引きずり続けた右足はやがて、流血を止めていた。
毛皮に包まれたような意識。体の異常な軽さと寒さが、残りの血の少なさを伝えてくる。動かせない左腕はただの重しになった。視界もぼやける。かすんだ目では夜の森は見通せない。記憶だけを頼りに道を進む。
夜の孤独に、寂しさを感じてしまう自分も殺したくなる。
「……ハァ……ッゥ……」
汚泥魔はどうなっただろう。泥女とともに消え去ったのだろうか。
奇怪機はどうなっただろう。泥団子は平然と生きて逃げていったが。
聖防国はどうなっただろう。気にはならないが、考えを止めると終わりそうだ。
永遠にも感じる夜の道のりを、のそりのそりとただひたすらに歩み続ける。体がどんな残り火で動けているのかは考えない。
できれば今すぐ倒れたい。動かずにジッとして、目を閉じて、安らいで眠りにつきたい。それを選ばなかったのは、単なる意地だ。
「……帰って、これた……」
自分で自分を誇れる意地のおかげで、薄らぐ嗅覚にかすかな潮風が届いた。
ザア、ザアと。月海が鳴っている。
白い浜に突き刺さった月海の願杖も目に入る。
屈辱ばかりの日々だったけど。最期をすごすならここでいい。ここがいい。
「……ただいま、アージェ……」
折れた星鉄の鋭刃の支えが揺らぐ。
もう動くことをやめた体が白い砂浜へと倒れ込む。
夜を照らす欠けた月は、今夜も月海の海面に青白い真円を描き、ゆったりと揺れている。懐かしい光景だ。喜びと悲しみを感じる。
でも疲れた。目を閉じよう。
「――リーアっ‼」
まぶたの重みをわずかに持ち上げたのは、空から降ってきた声のせいだった。
グリンだ。緑色の背には、銀色の美しい髪が月明かりで輝き、きらめいている。
「その傷……やっぱり、あなただったのね」
「……なに、がだ……」
エリゼティスがグリンから飛び降りた。焦ったような顔つきで近づいてくる。
「汚泥魔が一斉に消えたの。北西方面軍の早馬によると、奇怪機たちも砂になって溶けていったって。リーア、あなたがやってくれたのね」
考えるのも面倒で、返事は一言で済ませた。
「……さあ……」
彼女の大きな眼には涙がにじんでいる。
その感情の由来は、俺には分からない。
「ありがとう。こんなにまでなって聖防国を救ってくれて……本当にありがとう」
死体同然の俺に、彼女は優しい手つきで触れてきた。
素肌を触れられる感覚はもう伝わってはこない。
だけど、すこしだけ温かい気はした。
「……俺、は…………僕は、星護りに、なれなかった……」
「え?」
「……でも、英雄には、なれたか、な……」
「っっ――……ええ。あなたは英雄よ。私を、月海の巫女を救った星護りよ」
呼吸をするための力も絞り出せなくなる。
熱く早かった鼓動も静かになってきた。
一度は覚えのある死の感覚だけれど。
以前よりも、ほのかに心地よく感じられる。
「……これ、返す、よ。君が、持ってて……」
右腕に引っかけていた折れた星鉄の鋭刃が、砂の上へと倒れて落ちた。
最初から最後まで、僕には似合わない代物だった。
「待って……待って! まだダメよ‼ 私が助けるから、いっちゃだめっ‼」
無茶言うなよ。笑って返そうとしても、吐血に発声を邪魔される。
命の灯火が消えゆく。それが分かる。
最後の力はエリゼティスではなく、グリンへと向けた。
「……グ、リン、僕は、使命を、果たした、ぞ……」
おまえと違ってな、と。言いきりたかった意地悪は言葉にならなかった。
グリンはすっかり大きくなった口でなにか鳴いたが、もう耳が聞こえない。グリンは薄れゆく視界を覆うエリゼティスを優しくのけて、僕に向かって大口を開く。
そこから緑色のなにか――温かな炎。たぶん、緑炎と呼ばれるもの。
色のある風のような緑の炎が、緩やかにたゆたい、僕にまとわりつく。
温かい。日だまりみたいだ。ポカポカとした温もりに安寧を感じる。
星送りの使命は、月海の巫女の聖骸を灼くことだっていうのに。
こいつは星護りを灼き、使命を果たしたと言い返してるつもりか? まったく。
「……この、裏切りもん、め……」
たった一匹の友への皮肉な笑みが、きっと僕の最期だった。




