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月を照らす(7)

「やっぱり隠れてやがったな……ッッ」

 奇怪な騒音を鳴らす黒い点が、俺に向かって近づいてきている。

 まだ荒野のど真ん中だ。全力で走っても森まで相当の時間がかかる。


『ほほっ。まるで狩りじゃな。追いつかれれば行くも帰るもできぬぞ、小僧』

「分かってるッ」

 一縷の望みにかけて、前に向かって走る。

 背後の音には徐々に、迫られているのが分かってしまう。


 俺の知る限り、泥団子が人を襲ったという話は聞いたことがない。

 昔のように、ただ近づいてきて、じゃれてくるだけかもしれない。

 なんて考えは、槍を突きつけてくる敵兵を笑顔でお出迎えするも同然か。


 彼我の相対距離が一線を越える。諦めるべきだと足を止める。必死に逃げたところでもう無駄だ。どうあっても森の端に着く前に追いつかれる。


 あがった息を整える。右手で抜き身の星鉄の鋭刃を握り、同時に振り向く。

 泥団子はもう、その巨体を明瞭に視認できるところにまで迫っていた。


『夜空を穢してなお、予を狙わんとするか。浅ましき愚人の忠犬め。反吐が出る』

 泥女は自らが狙われていると確信している。

 なにかあるらしい、奇怪機と汚泥魔の因縁のせいなのだろう。


 泥団子にはこの場所で、アージェと姉さんとともに命を助けられた。そう思っていたが、もしかしたらあいつは今も昔も、泥の女王を狙っていたのかも。

 いずれにせよ、厄介事に巻き込んできた同居人を罵ったところで、過去もこの状況も変わらない。今は、俺自身が狙われていると考えるべきだ。


「ギギグギゴガガガ!」

 泥団子が一直線でこちらに向かってくる。

 不快に蠢く虫足の勢いは、いっさい緩んでいない。


 心身がヒリヒリしてくる。あれほどの巨体だ。衝突されてしまえば確実に致命傷だろう。野生の獣を相手取るときみたいに、体を揺らして進路を惑わせる。

 右に動くとついてくる。左でも同じだ。泥団子は執拗に俺を狙っている。意外と知性的だ。あるいは執念か。限界まで引きつけてからの回避を強要される。


 接触まであと数秒。恐れを無視して正面に向かって走る。

 待つだけでは相手が有利。こちらから動くしかない。

 両目の視界が黒の巨体だけで塗り潰される瞬間、全力で地面を蹴った。

 右前方に跳びはね、泥団子の脇を抜けて交差する。


「ぐッ……!」

『この戯けが! もっとしっかり避けよ!』


 右半身の回避は間に合ったが、左半身が間に合わない。左前腕が泥団子にひかれる。肩ごと持っていかれたような衝撃が痛みに変わり、全身を駆けめぐる。


 しかし衝突の寸前、泥女が左腕に勝手に黒手甲をまとわせていた。

 この汚泥の防護がなければ、腕がちぎり飛んでいたに違いない。

 

『まだ来るぞ! はよう態勢を整えい!』

「分かってる黙れ!」


 同じような死の淵はいくらでもあった。

 だが、泥女の声はかつてないほど切迫している。こいつの事情など知るよしもないが、声色相応に嫌いな相手なのだろう。すこし気味がいい。


 目先で黒い球体が転回する。再度突撃してくる。次も巨体を引きつけてから、また避けた。黒手甲があろうと痺れで感覚を失っていた左腕は、今や意志に反して勝手に動いている。泥女に支配されている。ただ邪魔はしてこない。


 泥団子はそのあとも三回、四回と突撃を続けてきた。それをすべて無傷でいなせた。俺の回避動作に合わせて、泥女が左腕を勢いよく振り、適切な加重と加速を与えてくれたおかげだ。そのせいで左腕の感覚はもはやないに等しいが。


 事態が動いたのは、五回目の突撃が終わったあとだった。


「ギギャッ、ガギャ――――ベゲゲッッ」

 泥団子の背中側で、扉が開くような音がした。

 その直後、赤黒い物体が二つ、勢いよく飛び出してきた。

 月夜のおかげでつぶさに見える。二体いる。赤錆びた奇怪機兵たちの姿。


「こいつ、奇怪機兵を匿ってたのか⁉」

『ゆえの強襲尖兵よ。これまで遭遇がなかったことが、今になって祟ったの』


 三年前、月海に帰ってきたときはグリンの背で荒野を素通りした。泥女も寝ていた。それ以降は近づいていなかった。その結果が今の状況を生んだか。

 せめて数日前。メアとキオを襲った、この地にいるはずのない奇怪機兵で感づいていたなら。察しの悪い泥女にも責があるってものだ。


『彼奴ら一斉に来るぞ! 雑魚はさっさと散らせい!』

 言われるまでもない。返事はせず、右手の鋭刃を強く握りしめる。


 泥団子がまた虫足で走り出した。こりずに突進してくる。

 泥女に左腕の動きを補助されながら、今度も避ける。その隙に二体の奇怪機兵が詰め寄ってくる。どちらも無手。武器は持っていない。頑強そうな無手で殴りかかってくるつもりか。その程度でも人を殺せる力はありそうだが。


 右手側の奇怪機兵はいったん無視。まずは左手側の敵の側面に飛び込む。すれ違いざま、泥女が勝手に動かす左腕が、敵の殴打を横合いからつかんだ。

 黒手甲のかぎ爪が鉄の腕を割り、姿勢を崩させ、体の中心を開かせる。

 憎たらしいほどのお膳立て。罵られないよう、鋭刃でひと息に心臓部を貫く。


 久しぶりに持った愛剣は、昔と同じ感触を手に伝えた。

 狙い通りに、奇怪機兵の動きを一撃で停止させる。


 直後、泥女が死んだ奇怪機兵の腕をつかんで振り回し、残り一体のほうへ投げ飛ばした。投てきされた死骸は見事にぶつかり、衝突の衝撃で尻もちをつかせる。

 ッッ、左肩に尋常ではない痛みが走る。

 肩が壊れそうな負荷だ。激痛に脂汗が浮かんできて、思わずあえぐ。


「ぅぐッ……次に、勝手したら、殺すぞ泥女ッ」

 泣きわめきたい気持ちを隠し、姿勢を崩した奇怪機兵の胸を鋭刃で貫く。

『情けないの。貴様ら劣等種はいまだ肉体の可能性に到達できなんだか』


 奇怪機兵たちを瞬時に処理できた反面、左肩の痛みに気を取られていた。

 その苦痛が生んだ、わずかな甘えが、この場においてのしくじりになった。


『ッ、小僧なにしておる背後じゃ!』

「ギギャガッッッ!」

 奇怪機兵が生んだ隙に、泥団子は再突撃してきていた。もう間近だった。

 ダメだ。近い。避けられない。


 衝突の寸前、泥女がまたも左腕を動かし、異常な腕力で相手を殴りつけた。硬質な黒手甲は泥団子の表面をわずかに叩き割るが、悪あがきに終わった。

 体を突き抜ける重たい衝撃。衝突した。視界と意識が白くなる。全身に泥を注ぎ込まれたみたいな違和感が駆け抜ける。体は夜空を舞っている。


 永遠に感じた滞空はすぐさま終わり、背中が荒れ地に強く打ちつけられた。

 胸がヒクつく。呼吸ができない。

 なんとか息を吸うも、火を飲んだかのような苦しみに襲われる。


「か、はッ……がァ、っつぅ……」

 痛い。熱くて寒くて苦しくて痛い。体中の大切ななにかが粉砕された感覚。

『この愚図めが! 死んでないだけ儲けもんじゃ、さっさと立てい!』

 感覚なき左腕が勝手に動く。うずくまりたい体を強引に持ち上げる。


 体がよれて時間はかかったが、黒手甲の支えで立ち上がらされてしまう。

 痛みの温床たる左腕はもう、俺のものではなくなったと割りきる。


「ギギ……ガギ……ギャギャギャガ……」


 その間、泥団子はいつでも俺を殺せたはずだったが、向かってはこなかった。

 焦点が定まらぬ目で観察する。黒い巨大な球体が不自然に揺れている。

 小刻みに揺れて、奇怪な音をか細く鳴らし、森猫みたく震えている。

 まるで、痛がっているような仕草で。


『あれは、よもや…………キサマか。星堕としの下手人はキサマかぁ尖兵ェッ‼』


 寂れた荒野で、泥女が俺にしか届かない激情を轟かせた。

 一度も聞いたことのない、人間味のある叫び声だった。

 鋭刃を杖代わりにし、ふらつく頭で目をこらす。


 泥団子の体表は割れている。代償を俺に押しつけ、泥女が殴りつけた箇所だ。

 黒い鎧じみた欠片はポロポロと剥がれ落ちている。内臓をさらけ出している。

 散り散りと、火打ち石で打ったような火花が散っている、そこには。


 真円の青白い石と、真っ赤な四角い出っ張りが並んでいた。


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