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穢れた凶刃(9)

 僕が惨めに泣く間、目の前にいる者たちは息をするばかりで、言葉の一つも吐かなかった。心に空洞が開いたかのように、体内の熱が冷えきっていく。

 すべてがもう、どうでもよく感じてくる。


 ……ふと、腹が減った。喉が渇いた。そう思った。

 痛いし疲れたし休みたい。そんな単純な欲求が湧いてきた。


 目を向けると、セイヴは目を閉じたまま静かに座っていた。

 銀髪女は口を半開きにして、こちらを見上げていた。

 その瞳には、叩き切りたくなるような憐憫がこもっている。


「キュルゥ」


 静寂の室内に、グリンの鳴き声が飛んできた。俺を慰めているつもりだろうか。

 いや、俺たちの間柄だ。小ばかにしてるのだろう。そう思っておいた。

 さして思考したくなくなった体で、最後にやるべきことのために動き出す。


「ど、どこへ行くのですか……?」

 少女の声は背中で無視した。開け放たれた小部屋へと無遠慮に入っていく。


 今一度、眠るように死んでいるアージェの美しい顔を眺めて、ガラスを黒手甲で叩き割った。棺内は寒季のように凍えていた。泥女のマホウも解けたのか、黒手甲が自然と消失する。おかげで、見慣れた頬に優しく触れられた。


 アージェの顔はとても冷たかった。

 冷たく、硬く、氷のようだった。


「帰ろ。アージェ」


 氷像のような体を両腕で抱きかかえ、冬の棺から奪い取る。

 小部屋を出る前、アージェを落とさないようにしながら、月海の願杖も拾う。


「……そ、その子を、どうするのです」

 

 少女は気付けば背後に突っ立っていた。唇を震わせ、怯え顔で尋ねてくる。

 会話はしたくない。無視して脇を素通りする。


「リーア。オレは散々言ったぞ……強者ほど仕留めるときは念入りに、とな」

 片腕なきセイヴが、力強い目で訴えかけてくる。


「死にたいんなら、今すぐ勝手に自分で死ね。俺が殺したくなったらまた殺しにくる。どんなときでも殺される恐怖を抱えたまま、一生死んだ顔して生きてろ」

 侮蔑の言葉には、首肯も否定も返ってこなかった。


「あ、あの……これも、お、お返しします……」

 またか。うっとうしく媚びてくる少女が、両手で星鉄の鋭刃を差し出してきた。


 濡れた明かりのような片刃の刀身。

 姉さんに預けられたあの日から変わりはない。

 むしろ、俺が持っていたときよりも丁寧に手入れされていそうだ。


「邪魔だ。いらないなら下水にでも捨ててろ」

「で、でも、これは、星護りの……」

「月海の巫女を守れなかったやつが、星護りであるはずがない」


 父さんも母さんも、姉さんも言っていた。星護りの大事なこと。

 俺は、たった一つだけ守ればよかったそれすらも果たせずに死んだ、死人だ。


「グリンを借りてく」

「え? グ、グリンを……で、ですか……?」

 心配そうにつぶやかれた。まるで宝物を取り上げられた子供のような声色だ。

 不覚にも、すこし情が湧いてしまった。思わぬ苦笑は無表情で噛み殺す。


「すぐ返すよ」

 欲しい言葉はくれてやらず、冷たいアージェを抱えたまま、バルコニーに出る。

「グリン。月海の村まで連れてけ。それくらいできんだろ」


 成体のウッドグリフォンが低い声でいなないた。

 俺に体の側面を向けながら、四肢を器用に折り曲げる。

 昔とはてんで違う頑強な体。八つ当たりするみたいに、わざと強めに踏みしだいてやりながら上り、森馬相手の気分で騎乗姿勢を取る。


「行け。今すぐに」

 グリンが緑の羽毛を生やした一対の大翼をはためかせ、空に舞う。

 未知の浮遊感。一瞬だけ怖じけたが、格好悪いところを見せるつもりはない。


「グ、グリン……絶対、帰って、きてね」

 直下に寄ってきた少女がグリンを呼んだ。

 彼女からの呼び声は、空にいてもしばらく聞こえてきた。


 思えば、俺とアージェはこいつと十数年すごしたが、今ではあの子のほうがすこし長く寄り添ってきたことになるのだろう。

 知性的とはいえ、かわいげのない成体の鷲顔からはなにも感情が読めないが。



 深く暗い空。欠けた月と幾多もの星天の瞬きが視界を照らす。

 空を飛ぶという初めての経験は、思っていたよりも無感動だった。

 両腕のなかで笑わないアージェを抱えていては、俺に笑えるはずがない。


 ただ、断崖天壁のさらに上を飛んでいく光景は不思議ではあった。

 眼下には、おそらく誰も登頂したことなどないであろう断崖天壁の背中。

 森猫の小道でも三日はかかる巨大な障害物も、空を進めばただの一枚岩だ。


「そもそも、森猫の小道も見たことないか」

 今現在も含めて、俺は故郷までの行き帰りのまともな道を知らない。

 そんな自分に苦笑する。


 森馬より何倍も速いであろうグリンの飛行は、揺れもせず振り落とされることもなかった。眼下の黒い崖も夜すら開けないうちに途切れた。


 続けて、荒れ地の直上に差しかかった。なんとなしに目をこらす。

 懐かしき大玉荒野では、今もヌシがのんきに動いていた。まだいたのか。


「上から見ると、ただの黒い丸だな」


 縁のこじれたグリンよりも、あのとき窮地を救ってくれた泥団子への感謝が湧いてくる。俺も泥団子と同じ、孤独なあぶれ者になったからだろうか。


「グリン。このあたりで降りろ」

 風切りの轟音のなか、語りかけた声に控えめな鳴き声が返ってくる。

「キュルゥァ」


 昔は飛ぶどころか走ることもできず、俺に抱えられているだけの弱い生き物だったのに。といってもアージェも、恐れて立ち止まることしかできなかった口だけの俺を、懸命に引っぱってくれることがよくあった。


 過去を思うほど、両腕に伝わるアージェの冷たさを痛感してしまう。

 キレイな顔。静かな夜に眠っているように映る。

 なのに、この体が温まることは二度とない。

 もう二度と、凪いだ海のようにとろける笑顔を見せてくれることはない。


「ここでいい。森の手前で降ろせ」

 グリンは素直に高度を下げた。ちょうど大玉荒野と森の境界に降りる。

 アージェの体を抱きしめ、グリンの背から飛び降りる。体は着地で痛んだ。


「おまえはもういい。あとは好きに生きろ。どこにでも行け」

「ギュルアッ」

 古なじみのウッドグリフォンは、すぐには引かなかった。

 抗議とばかりに、傷だらけの体を硬い鼻で突いてくる。


「おまえも使命を果たせなかったんだ。今さら、アージェの体はくれてやらない」


 緑炎に灼かれなければ、月海の巫女の魂は月には上れない。そう信じてきた。

 だけど、確かに迷信を信じ続けるのもくだらない。セイヴに言われた通りなのは癪だが。今さら月にも、グリンにも、アージェをくれてやる必要はない。


 アージェがゆくべきは、彼女が愛した月海であるべきだ。


「ついてくるな。おまえは銀髪女にでも尽くして、もう二度と帰ってくるな」

 こいつにとっても月海の村は故郷だろう。けれど。

「俺はもう、アージェと死にに行くだけだから」

 一人で歩き出す。月明かりのこぼれる夜の森へと片足を踏み入れながら。


「グリン」

「キュルアァ」

「アージェは最期まで立派に生きた。俺と違って、恥じることなんてなかった」

「キュルァ」

「それだけは覚えとけ。じゃあな、裏切りもん」


 グリンはついてこなかった。

 俺が森の奥へと遠く離れるまで、ずっとこちらを見ていた。

 そのうち、きっと視認もできなくなったであろう距離が開いたころ、空になにか大きなものが飛び上がる物音がした。一度だけ、背後に目をくれてやった。


 でも、夜空は森で木々にふさがれていた。

 申し訳ないが、あいつが飛び立っていく姿は緑色のかけらも見えなかった。


「……もうすぐだ村だぞ、アージェ」

 下は向かずに歩き続けた。

 なのに返ってくるはずのない返事を、いつまでも期待して声をかけ続ける。


 しばらく記憶を頼りに森を進んだ。まもなく、暗がりのなかに広々とした空間を見つけた。最初は森林の植生に覆われていて気付かなかったけど。

 そこは、月海の村の出入り口だった。

 あの日、父さんと母さんと別れた場所だ。


『きちんと別れを告げられる男になれよ』


 情けない話だ。俺には、父さんの教えを守れた相手がいまだに一人もいない。いや、違うか。今さっきグリンとはちゃんと決別できた。そう思うと、あいつの存在にほんのちょっとだけ感謝したくなって、笑みがこぼれてしまう。


 村内は草で覆われていた。家屋の残骸は森に侵食されていた。今や境界線も区別できない。汚泥魔に立ち向かったのであろう父さんや母さんの剣どころか、月海の民たちがここにいた痕跡も見当たらない。

 大老は歩くのも困難だったろうに。人の骨一つ転がっていやしない。そういうものか。仮に誰かが死んでいても、森の動植物たちに還元されるのだろう。


 故郷への悲哀よりも諦観が先立つなか、村の残骸を突っ切って歩き続ける。

 村の端で、森の切れ目が見えてくる。夜でも明るいその場所に踏み入ると。


 ザア、ザアと。

 夜空に浮かぶ月を反射した月海が、相変わらず気だるげに波打っていた。


「アージェ、ようやく帰ってこれたぞ」


 一度、夜でも白さが分かる砂浜にアージェの体を横たえた。凍っているはずの口角がすこしだけ上がったように見えたのは、錯覚どころか願望だろう。


 腰から、剣なき剣帯の横に差していた月海の願杖を抜き取る。それを痛み続ける片腕で振り上げ、眼下の砂浜に突き刺した。尖った青金の柄は砂地の奥深くまで刺さったが、すこしだけ斜めに傾いた角度で、月海と対面した。


「ここなら、月海をずっと見てられるよ」


 ささやかに笑ったあと、アージェの体を両手でまた抱き上げた。

 そのまま歩く。月海のほうへと。冷たい夜の海が足下を濡らす。

 俺が一緒に行くよ。ウソの星護りとじゃあ、頼りないだろうけどさ。


 静かにたゆたう波打ち際を進む。膝が、腰が、胸が。月海に飲まれていく。

 波に揺らされながら、まっすぐ、まっすぐ。

 海面に映る、あの月を目指して。アージェを抱えて歩いていく。


「ありがとうアージェ。最後にそばにいてくれて」


 両腕のなかのアージェも海面に沈んでしまったころ、波が立った。目の前に、いきなり盛り上がったとしか思えない荒れた大波が現れた。


「っっ……⁉ アージェ、待て! 一人で勝手に行くなッ!」

 俺は全身を襲われた。月海はアージェだけを大海原へと運んでいく。

 俺の体だけは、何度も何度も荒波で打ち返してくる。  


 まるで死者と引き離すように。

 まるで生者を拒絶するように。

 アージェに手を伸ばしても、荒波の潮力で引き戻される。そのたびに抗った。


「やめろ、俺も行く、行かせろ……ふざ、ふざけるなぁァァァ‼‼」


 気付いたころには、体が砂浜に転がされていた。

 また立ち上がろうとして、うずくまった。

 忘れていた体中の生傷が、海水によって耐えがたい苦痛を叫んでいる。


 それでも、サラサラした砂まみれの体を、モゾモゾと死体のように引き起こす。

 死んでもいいからと、必死になって眺める。

 アージェの姿はもう、月海のどこにも見当たらない。


「ふざ、けるな……なんで俺だけ……もう、イヤだ……っっ‼」


 月海が静けさを取り戻す。どんなに慟哭しても、波はもう立たない。

 あまりにも恣意的な生死の選別。これを運命と呼ぶのなら、許せるはずがない。


「アージェが、いないのに、これ以上、生きるなんて……――――」


 体にまとわりついた白砂が濡れ、黒く染まっていく。

 どれだけ嘆いて、嘆いて、嘆いても。

 月海は素知らぬ顔で、静かに揺れていた。


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