穢れた凶刃(7)
「――――……ッ、ぐぁ……カハッ……」
覚醒と同時に、痛覚と嗅覚がいらぬ主張を浴びせてきた。
痛い。寒い。暗い。臭い。目覚めとしては最低の部類だ。
『なんじゃ。死なんだか。よくよく悪運が尽きん小僧じゃのう』
左腕に住み着いた病原が舌を打つ。悪夢はまだ覚めていないようだ。
重たい体で起き上がる。意識を手放し、わずかに安らいだはずの体だが、痛みはほとんど薄れていない。グリンにやられた流血の傷痕が憎たらしい。
一方、自分の意識が明瞭になっている気もする。
「……泥女。どれくらい眠ってた」
『数刻じゃな。外はもう、お天道も眠りこける丑三つ時じゃろうて』
言葉の意味は分からないが、少なくとも朝ではないらしい。思っていたよりは経過していないが、時間を安易に費やしてしまった。
身の回りに変化はなかった。ヴァイライナの騎士剣も所持品もそのままある。
ただ久々に空腹を感じた。喉も渇いている。暗視も弱くなっている。泥女が言ったように、汚れた血が灼けて、多少なりとも人間側に寄ったのかもしれない。
「おい。俺は人に戻ったのか」
『さあの。純血以外を否定するならば人外じゃ。定義の話に付き合う義理もない』
まともな返答をしない、煙に巻いてくるのはなんとなく予想していたが。
……いつの間にか、そういうところも察せている自分に嫌気が差す。
「……チッ。もう行く」
動かずに安息していたい手足を、復讐心だけで持ち上げて引きずる。壁に寄りかかりながらどうにか立ち上がる。ゆっくりと一歩ずつ、暗黒を進んでいく。
この下水路には光源がない。怪しい視界で夜目を慣らし、輪郭をつかんでいく。
『小僧。もっと休まんと体が持たんぞ』
「黙れ。聖防騎士に騒がれるほうが問題だ」
現状で危惧しているのは、俺の存在が警戒を呼び、聖王城の防備が固くなることだ。まさか聖王殺しが目的だと勘ぐれる者はいないはずだが、ヴァイライナがたれ込めばその限りではない。それに、当の聖王も自力で察知しかねない。
だからだ。できる限り早く動く。それが最も安全かつ成功の確率が高い。
『貴様ら下種の唯一の長所は、今も昔も穴掘りか。美学はないがようできとる』
暗い下水路は四方八方に道が分岐している。ヘタに迷い込めば脱出すら怪しくなるが、俺は覚えている。印象に焼きついた確かな記憶で。
ここは直進。あそこを右に曲がってから三差路を左に。また直進してから左、右と曲がる。半階層に降りてから、七本分岐を右から三番目。
その先の鉄格子を専門鍵で抜けて、階段を上れば聖王城の裏手に出られる。
ここは過去、あのクズ男がお忍びで城を抜け出すときに使っていた。一度だけ付き添ったこともある。アージェは二度と行きたくないと言っていた。
『いつの世もモグラのように日の目を浴びず、地下で生きていればよいものを』
雑音には不要な応答をせず、記憶だけを相棒に進んでいく。
暗い七本の分かれ道は、右から三番目の通路の足場を駆けていく。体が痛み、休息が足らずに呼気も荒くなってきたが、赤錆びだらけの鉄格子が目に入った。
太い鉄棒の格子。それが腕も通さぬ等間隔で並んでいる。一か所だけある開閉部は、特殊な形状の専門鍵しか受け付けぬ鍵穴だ。腕利き夜盗の解錠術でも突破は困難だと聞いた。さすがは王族用らしい厳重さである。でも。
「泥女。風で壊せ」
『小僧、頼むにも態度をあらためよ』
「黙れ。さっさとやれ」
『平時なればこそわきまえよ。予は敬意を持たぬ者を好かん』
泥女とは侮蔑し合っているはずだが、こいつはときどき妙に敬意を求めてくる。
くだらない茶番だが、今は無為に時間を失うほうが惜しい。
「チッ……頼む、泥の女王」
『その名も好かんと言うとろう』
ならなんて呼べばいいと聞いても、返事が返ってきたためしは一度もない。
名無しの女王は嘲笑しながら、俺の左腕を勝手に動かし、黒手甲をまとわせた。
続けて、かぎ爪の五指を広げて、手のひらを鍵穴に密着させる。
『蛮人は、秘め事の暴き方すら野蛮よのう』
左手の先から衝撃波が生まれる。過去、泥女が用いていた不可視の暴風だ。
左腕を逃がさないよう右手で支える。肩が壊れそうな反動に歯がみしながら、意地だけで踏ん張る。こいつの行動はいちいち俺を痛ませる。
色なき暴風が鍵穴を隅々まで侵す。外見に比べてもろいのであろう内部構造をいともたやすく損壊させる。固定部を失った鉄格子は暴風の余波で開け放たれ、可動部を勢いよく壁面に打ちつけた。
『風はできてあと一回。醜女の血のせいか、昔のように力が蓄えられん』
聖防国までの道中、『予に任せい』と獣相手に暴風を使われたとき、泥女は三回で眠った。正直なところ、今の俺が持つ最大の一撃はこれだ。でも、ひとときの安寧と静寂を取り戻すためなら、積極的に使うべき異能でもある。
『おい小僧。礼はどうした。礼をせよ』
「黙れ」
『二度は言わんぞ。予に礼をせよ』
「…………助かった。感謝する」
『ク、クク、クックク!』
意地の悪さは汚泥に浸かったせいなのか。もしくは生来の気質のせいなのか。
どちらにせよ、セイヴを殺したあと、生かしておいて得することはないだろう。
赤錆びの鉄格子を通り抜けると、暗い通路の先に長い石階段が現れた。
忘れようとしている空腹と渇きに、体力不足も相まって足が重い。
だが折れている暇はない。強がりだけで階段を上がりきる。
階段を上り詰めると、天井に水平の鉄扉が敷かれていた。かすかな記憶をたどって、鉄扉の両脇の留め具を外し、天に向かって押し開く。ギィっと重苦しい音。天井扉が開いた。隙間からは月明かりが差し込む。暗殺によく向いた深夜だ。
過剰な音は立てないよう、慎重に体を外に出した。周囲を警戒してから鉄扉を閉め直す。林立した木々と石積みの壁。記憶通りの聖王城の裏手側だ。
『ドブネズミにふさわしい道のりじゃったな』
「黙ってろ」
上空を見上げる。直上の木々よりも高い位置に、城の出っ張りが見えた。
そこは城上階のバルコニー。昔はセイヴの寝室だった場所。
やつはお忍びのとき、あそこから堅く縛った藁の長縄を垂らして上り下りしていた。痕跡の後始末と追跡の二度手間をかけられる女騎士は、よく愚痴っていた。
「あそこから入る。黒手甲も使うぞ」
聖王となった今は居室を変えたかもしれないが。
アテが外れても侵入場所にはちょうどいい。
バルコニーに直面した、最も高く伸びる精霊樹の頂点まで、よれる体を押さえ込みながら駆け上がる。木の頂点に着き、目的の場所を見上げる。
バルコニーはまだ体二つ分ほど頭上にある。距離も剣三本分は離れているか。
「汚泥を出せ、泥女ッ」
『せいぜい地で咲いてくれるなよ』
痛む神経を研ぎ澄まし、全力で跳躍する。
足場の木枝は、両足が離れた途端に折れて落ちた。
瞬発力に優れた小柄な体は、想像通りの動きをなぞってくれた。
距離は十分。高さには手しか届いていないが、バルコニーのふちに左腕を全力で伸ばす。瞬間、黒手甲がまとわりついた。鋭利なかぎ爪が欄干に刺さる。
左腕一本でぶら下がりながら、振り子のように反動をつける。勢いのついたところで全身を一気に持ち上げると、欄干に足がかかった。
手すりをまたいでバルコニーに降り立つ。足下でキレイな花を踏み潰す。
周囲を見渡しながら、透明度の高い豪奢な窓ガラスを引いて開いた。
「――来たか、リーア」
動きを止める。壮健な男の声。王になっても居室は変えていなかったらしい。
銀色の長髪を垂らす男が、華美な寝椅子から起き上がる。
続けて、毛皮のガウンを脱いで捨てた。
精悍な白ひげ。年季を感じさせる顔。目つきは昔よりも鋭いだろうか。ゆったりとした白い衣服は、手首や足首の部分をひもで縛り、動きを阻害させない。
「俺の存在を分かっていて、近衛騎士すらなしか。セイヴ」
「ああ、オレだけだ。親友との再会には無粋だからな」
聖王セイヴルティスが、宝飾の施された剣帯を手に取る。
そのまま自然な動作で騎士剣を抜く。
「なぜ俺が来ると分かった。ヴァイライナに聞いたか」
「出頭させたヴァイは目を伏せるだけだったさ。仲間を疑うとは、擦れたものだ」
「夜中に聖女をよこさせたんなら、お互いさまだろ」
「不審者の身なりについては娘が騒いでいた。だから理解したよ。オレだけはな」
背丈は頭二つ分は高い。体格も頑強だ。剣術の鍛錬をおろそかにしていないのが分かる。年季の変化など考えていなかったが、セイヴの姿にはしっくりきた。
「とはいえ、目にするまでは信じられなかったが。本当に生きてたか、リーア」
「…………」
「その黒髪はどうした? 体も縮んでるのか? まるで太古のマホウだな」
泥女のそれとは違い、セイヴは心の底から楽しそうに笑った。
本当に、楽しそうに笑っている。
「笑うなよ。殺した本人らしく怯えろ」
「悪かった。聞きたいことも伝えたいことも山ほどあるが、語らいは不要か?」
「分かってるなら言うな」
「聖王に向かって大した口の利き方だ。そんなにオレが憎いか」
「今から殺してやるくらいにはな」
ヴァイライナから奪った騎士剣を抜き、遠間からセイヴの顔に突き立てる。
「そうか。ならこれだけ聞かせてくれ」
「なんだ」
「死ねばネイルに会えたか?」
口は閉じた。俺が求める「どうして」は死に際に聞いた。もういい。今さらこいつを理解する気はない。心身の痛みを置き去りにして全速力で詰め寄る。
「勝手に着せられた汚名はどうだっていい。アージェのためだけに無様に死ね」
「国のため、今一度ネイルのあとを追え。オレは何度だっておまえを殺し、赦す」




