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穢れた凶刃(6)

 礼拝堂を抜けると、懐かしい庭園が広がっていた。

 そこには夜でも分かる、赤や青、黄に紫の花々が咲き乱れていた。アージェが率先して手入れしていた造園の習慣は、今もまだ続けられているらしい。


 後方からは誰も追ってくる気配がない。聖女さまが足止めでもしてくださってるのか。礼をする気はないが、体を突き動かす憎悪は薄れていった。

 前方には、二年ほど住んだ孤児院が見える。夜ふけとあって孤児の騒ぎ声は聞こえてこない。玄関口に散らかった粗末な遊具を尻目に、井戸の脇を走り抜ける。


 まもなく、白の教会を囲う石壁が見えてきた。

 今の背丈では、手を伸ばしても届かない高さがある。

 だから囲いに沿って立つ古木によじ登った。

 枝先から飛んで、壁の向こう側へと着地する。


 在りし日のこと。聖女に決められた日程以外は外出できない悪ガキたちが、よくこの木を使って脱出していたものだ。


『ほう。さすが虫ケラの古巣。地べたの這いずり方はよう知っとるか』

 しばらく押し黙っていた泥女が、いつもの意気で口ずさんだ。

「黙れ泥女」

 安堵を返す必要はない。共生する害悪に返すべき言葉など、これだけでいい。


 暗く細い裏道に降り立つ。着地の衝撃で思い出した体中の痛みは、おくびにも出さない。すばやく周囲に目線を配る。人影もない。当たり前か。

 ここは路地裏ですらない、建物と建物の影の場所。道というより〝隙間〟があるだけだ。生活用にも使われていない。

 ゆえに、今がうってつけの使用機会と言える。


『クックク。虫ケラにはよう似合いの道じゃのう』


 枯れた木の葉や枝、忘れられた生活用具のゴミを踏みしめて、大通りの方角へ突き進む。身軽な体格は、せまい通路や障害物にも引っかかることはない。


「警邏各員! 白の教会に不審者あり! 手の空いた者は東区域に集まれ!」

 大通りを目前にすると、警邏たちの喧噪が伝わってきた。

 みな、都の民たちが下層民区域と蔑称する東区域へと走っている。


 城下街の警邏は役職ではなく、役割だ。国家兵団は東側を、聖防騎士は西側を見回るのが仕事の一環となっている。ただし、今は仲間を襲われた騎士たちまで一緒になって並走している。まさに大捕物の騒々しさだ。


『それで、どうするのじゃ小僧。正面から怨敵の屋敷に乗り込むつもりか』

「黙って見てろ。しゃべるな」

『ふんっ。ほんにいけずな男よのう、ククッ』


 夜の帳に包まれた大通り。商店は戸締まりしている。燃茸を用いた明かりも少ない。絶交の機会を利用し、闇夜の十字路を横断する。

 不快な石像には目もくれず、先ほどまでいた上層民区域のほうに戻る。


 上層区を警邏する聖防騎士の数が減ったおかげで、人目はなかった。

 幸か不幸か、銀髪女とグリンももういない。自分の不手際を逆に利用する。


「ヴァイライナの剣も汚さずに済むか」


 腰元の粗雑な剣帯で揺れる武装を見下ろす。刃こぼれした直剣からはじまり、銀の柄の一般的な騎士剣から、金の柄の栄誉ある者の騎士剣へと。短時間で得物が立身出世したものだ。使い慣れてはいないが、最良の武器を得られた。


 いくつかの貴族屋敷の脇を抜ける。まもなく周囲の様相がみすぼらしくなってきた。上層民区域の西端まで来ると、景色も完全に一変。お偉方には到底似合わなさそうな、古い家屋や廃材の町が広がっていた。昔と変わりない。

 ここは、二百年以上前の聖防国が解体しきれなかった旧都の残骸だ。


 この国では大昔、下水路の新設のために町の中心をずらす大規模再建が進められた。そうして新たに生まれた転水の都は、生活排水を城壁外に張り巡らされた大堀へと流し、月海へと移していく構造を獲得した。未開森林からやってきた当初、この国の清潔さにはアージェとともに驚いたものだ。


 ただ、無数の人々の汚物が知らずと月海に垂れ流されていた事実は、月海の民としてはなかなかに不愉快だったものだが。


「汚いものは隠して捨てる。お国柄だな、セイヴ」


 過去に一度だけ来た記憶を頼りに、廃屋を縫って進む。しばらくすると、崩壊した家々の残骸に囲まれる空間に出た。広場の隅には腐った木板が敷かれている。

 そこに近づき、木板の角を蹴飛ばしてずらすと……見つけた。まだあった。

 地面にぽっかりと、人ひとりが通れそうな穴が開いていた。


『やな臭いじゃ。この下はもしや下水か?』

「ここから城の裏手に忍び込む」

『高貴なる予を下水にまみれさすか。業の深い下種めが。はあ嫌じゃ嫌じゃ』

「汚い泥が、なにさまだ」


 下水路へと続く暗い縦穴。穴べりに備わった鉄ハシゴに足をかけて、一段ずつ降りていく。体がすっぽり収まったあと、直上の木板をずらして穴の痕跡を隠す。

 どうにか隠しきり、月夜の光源も覆い隠されたときだった。


「っっ⁉ なん、だ、体が……っ」


 突然、全身が焼かれる錯覚に陥った。錯覚というにはあまりの激痛に、無視することも叶わない。体の力も入れられず、両足がハシゴを踏み外す。

 直後、全身に浮遊感。穴の最上部から落下してしまった。

 短時間を落ち続けた体が、臭う水流と隣同士の固い地面に叩きつけられる。


「かはッ‼」

『クックク。よいぞ。ぶり返しが来おったわ』


 背中を強く打った。だが、それすらもどうでもいいほどの痛苦に襲われる。

 体内が火で炙られている。いや、火付けされた血が脂のように燃えているような感覚だ。なのに体が凍えるように寒い。相反する苦しさから呼吸にあえぐ。

 手足の指先も痺れて動かない。どうにか両腕で這いずり、壁にもたれかかる。


「どう、いう、ことだ……ッ」

 光源なき暗黒の下水路で、答えにすがるような声を出してしまう。


『汚泥とまで貶められる我らが、それでもなお下種の血肉を食らうのは、泥にまみれた自我を洗い流したいがための衝動じゃ。まあ、我が民は五つ首の愚図ですらあのザマじゃがな。それにしても、クックク。先ほどは下品で見ものじゃったぞ。予の半身が無様に血をすする姿はクるのう、ククッ!』


 鋭敏な痛覚が、体内の不可思議な声ですら刃に変え、肌を突き刺してくる。

 嘲笑の振動も凶器となり、四肢の先端の神経をかき混ぜ、蹂躙してくる。

 鮮明な痛み。俺がビクつくたび、泥女は愉快そうにあざけ笑う。


『貴様が吸うたのは月を映す血。今や我らを拒絶する血じゃ。それが体内で予の支配域を灼き、削り、正常な人体に戻さんとしておる。混ぜ物の分際で数奇よの』


 聖女の血は、白の女神の加護を宿し、汚泥魔を灼く。昔そう聞いた。ヴァイライナの血を求めたのは、汚泥魔の本能に支配されていたせいか。

 おかげで、俺の半身が灼かれている。これほどの自業自得は珍しい。


「俺は、ヒトに、戻る、のか……?」

『さあの。無理じゃろ。予が先に疼痛に打ち勝った以上、この左腕は手放さん。これ以上の侵食は難しくなったがな。いずれにせよ、貴様は死んでも純粋な人になど戻れまいさ。諦めて今すぐ息絶えるか、予と今生を添い遂げよ。クックク』


 視界が真っ暗になる。

 体の痛苦どころか、下水の臭気すらも感じ取れなくなる。


「黙れ。死ね。泥女……ッッツ‼」

『死に目でありゃけっこう。予が寛大に葬送してやろうぞ。ククッ!』


 以前の死の間際と同じく。俺の意識が途絶えるまで、泥女の嘲笑は響き続けた。


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