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穢れた凶刃(5)

 左腕に力を込め、ひと息に騎士剣を奪い取る。とっさに剣から手を離せず、体ごと引っぱられた聖女が不格好に倒れ込んでくる。

 奪った剣は右手に持ち直し、左手のかぎ爪で、彼女の手首を強引に握りしめた。


「っっ! リー、アっ……!」

 黒い爪の先端が、ヴァイライナの右手首に刺さる。

 汚泥の手甲越しに、人の温かな血液の感触を感じる。

 きっと鮮烈に赤いのであろう聖女の血も、夜の礼拝堂では汚水にしか見えない。


「感動の再会だな。死ね、ヴァイライナ。安心しろ。セイヴもすぐに送ってやる」

「っぅぅ、リーア! あなたもしかして、セイヴルティスさまを!」

「おまえ楽しかったか? 俺がアージェを殺したことにできた聖女暮らしはよ」

「‼ それ、は……っ」


 うとましい苦痛の声を絞り出す喉元に、騎士剣の腹を当ててやる。

 ヴァイライナは俺とアージェを直接害したわけではない。ただ、最後の最後まで見ていただけだ。そんなやつがのうのうと生きて、しかも聖女を名乗るのだ。

 そんな理不尽な現状を甘受しているだけで、殺す理由にはなる。


「アージェを見殺しにした罪。今になって味わえ」

 元仲間の、白い司祭服からのぞき見える汗ばんだ首を断ち切ろうとした。したのだが――濃密に、濃厚に嗅ぎつけた、甘ったるい刺激に意志を奪われた。


『⁉ 小僧! 今すぐこの女から離れよ! 予が命ずる。絶対にその血をっ』

 泥女がわめくよりも先に、匂いの発生源を見つけていた。

 血。血だ。かぎ爪の刺さった手首からの流血。

 それが今や、甘く芳醇な蜜のように香っている。


『やめい小僧! その血に触れるでない!』


 理性が本能に屈する。両膝が自然と折れる。思考もなしに剣を放り捨てる。黒い凶器となった両手で、ヴァイライナの手首を力任せに引き寄せる。

 聖女の苦痛のうめき声も、泥女の制止の声も。耳を素通りしていく。

 自分の体はもう操れていない。ただただ俺は、その甘い蜜を、飲み干したくて。


「リ、リーア……? あなたなにを、っつぅ⁉」

 俺は、ヴァイライナの手首にむしゃぶりついた。

 そこから流れる赤い血に、しゃぶりついていた。


 かぎ爪による少々の刺傷では流血が少なかった。葡萄酒の瓶底を舐め取るように舌をねじ込ませ、残りの一滴を吸い出すように浅ましく口づける。


 自分ではどうにもならない体を、意識だけが冷静に見下ろしている。さながら俺は、ひざまずきながら聖女の肢体を舐め回す、色欲を拗らせた変質者だった。


『やり、おったなァァ……! 月光のみならず、血でも灼くか下種どもがァ‼』

 左腕が苦悶する。泥女が叫んでいる。

『今に見ておれ! 死を望むぶり返しを味わうのは貴様じゃ小ぞ……――』

 情けない恨み言を最後に、泥女の声が途切れた。無性に心地いい。


 ときおり漏れ聞こえるヴァイライナの扇情的な声は、やけに淫靡に聞こえた。後ろめたい快感が、薄汚れた快楽を煽り立ててくる。

 そうしてこの体は、彼女の手首を、その血だけを欲してしゃぶり続けた。

 星護りの高潔さなどみじんもなかった。俺は、無様で醜悪な獣だった。


「――……リーア。リーア」

 数分か。あるいは数刻か。

 時の感覚も分からなくなるくらい、夢中で血をしゃぶっていた。

 その間も冷静だった意識が、ようやく体の支配を取り返し、彼女を突き飛ばす。


 二人の距離が開く。立ったまま踏みとどまったヴァイライナに、惨めに尻もちをついたままの姿で視線を向ける。彼女の手首は出血し続けていた。粘ついた唾液と混ざって垂れる赤い一筋が、おぞましい汚辱を物語っている。


 それ以上は顔を上げられず、背けた。ヴァイライナの顔を見るのが怖かった。

 かすかに見えた表情には、恥辱でも憎悪でもなく、哀れみが浮かんでいた。


「……あのとき、セイヴルティスさまが凶行に及ぶだなんて、思ってもみなかったの。私は今でも、あの場で動けなかったことを、後悔し続けている」


 コツコツと、彼女が近づいてくる。聞きたくない懺悔が、頭上から降り注いでくる。先に醜態をさらしていなければ殴って殺してやりたかった。


「彼は泥の女王を討滅した英雄になったわ。王太子の座を危うくした第一王子を焚きつけて、前聖王を弑逆させ、王座に着いた。そこが私の限界だった」


 本来は懺悔される側であるはずの聖女が、死人のなり損ないに悔いてくる。

 泥女のようにあざ笑ってやりたい。でも汚い口を開けない。


「私は、あなたたちの最期を胸中にとどめた。聖防騎士の誇りが汚れても、彼の栄光を望んでしまった。でも、ダメだったの。耐えられなくなったのよ。五年前に祖母のツテで白の教会に逃げ込んだわ。今はもう、聖王の真実を知っているのは私だけ。いつ消されてもおかしくないの……もちろん、あなたにもだけど」


 俺もアージェも、ヴァイライナにはよくしてもらった。

 もし彼女が、やつの意思よりも己の潔癖さを優先する女性だったのなら。俺たちは一緒に旅をして、飯を食らって、笑いながら眠る間柄にはならなかった。


「〝聖王には苦言を呈せない〟か。昔と違えてない」

「……よく覚えてるわね。もう十七年の前に言ったことなのに」

「俺にとっちゃ、ひと月前の記憶だ」

 ようやく見上げられた彼女の顔が、聖女にしては人間くさい憫笑を浮かべる。


「そう。リーアは本当に生き返…………いえ。今の私が知る必要はないわね」

 その言葉は遠慮ではなく、俺との関わりを拒絶する意思表明に聞こえた。

 ヴァイライナにとって俺たちはもう、捨てるべき世俗でしかないのだろう。


「リーア。教えてほしいのは一つだけ」

「なんだ」

「セイヴルティスに復讐するつもり?」

「聞いてどうする」

「……そんなことをすれば、アージェルが悲しむわ」


 出血の止まらない傷口を逆なでるがごとく、イラつかせる返答だ。

 自分の言葉で止めようとしてくれたほうがまだマシだった。


「おまえがアージェを語るな」

 吐き捨ててやると、ヴァイライナは「……それもそうね」とつぶやいた。


「現聖王の統治で、聖防国の国力はかつてないほどに豊かに高まったわ。近年は汚泥魔が活性化しているけれど、戦地では死傷者の数が目に見えて減っている。彼は今や、善にして聖なる王の呼び名にふさわしい存在になった」


 聞いて呆れる称号だ。呼んだやつら全員を害したくなる。


「あなたの体、普通でないわ。背丈もまるで未開森林で初めて会ったころのよう」

「死人が返ったんだ。安い代償だ」

「……そんな体で戦い続けるの? 聖防騎士の壁は厚いわよ」

「おまえは殺されといて淑やかに仲直りできるのか? さすがお上品な聖女だ」


 どうせ失うものも守るものもない命だ。底なしの盤面に投じるのはたやすい。

 あいつを殺すまで保たせる。そこまで持てば十分なのだから。


「今、聖王を弑逆したのなら。聖防国の人々はきっと、あなたを許さないわ」

「だから思いとどまれって?」

「そういう、わけじゃないけれど……その……」

「殺されたから殺す。それだけだ。勝手にそれ以上の意味をこじつけるな」

「…………」


 ヴァイライナが閉口して黙りこくる。いくら説法を得意とする聖職者でも、自らが罪の側に立てば、口先も軽快にはならないらしい。


「変わったわね、リーア」

「変えられたんだよ。おまえらに」

「……そうね。ごめんなさい。私の無力がそうさせたのね」


 体中の傷や痛みは消えていないが、どこか重しがなくなった体で起立する。

 反対に、ヴァイライナが俺の眼前でひざまずき、目線を上げて言った。


「私は、あなたの復讐に賛同できない。卑怯な私は、あなたの死を願ってしまう」

 正直な言葉だ。かえって彼女らしい。

「だけどリーア。あなたがどんな思いでも、生きていてくれて、ありがとう」

 純粋な感謝は、そっぽを向いて流した。


「こっちも一つ教えろ。あいつの娘はなんだ? グリンと一緒に襲われた」

「エリゼティス第一姫に会ったの? 彼女は……ええ。聖防国の月海の巫女よ」

「……どのツラさげて」

「聖王が、今は亡き月海の民を継承するとして、その名と星鉄の鋭刃を与えたの」


「どこまで俺たちを馬鹿にすれば、気が済むんだか」

 笑わせる。一方的な言い分の継承など、暴力や侵略とさして違いがない。


 歩くくらいならできそうになった両足で、教会の出口へと向かう。本来はここに隠れて休息するつもりだったが、これ以上はこいつと関わり合いたくない。


「もう行くの? 一夜くらいなら匿ってあげてもいいのよ」

 それだけでも立派な重罪だろうに。昔から甘い女だ。

 もし匿ってもらっても、命はとられずとも捕縛くらいはしてくるだろうが。


「それに……いいの? 私を殺さなくて」

 真摯な疑問は、いっそ殺してほしいという願望じみていた。


 殺意はあった。殺すつもりだった。だけど、先ほど彼女の前でさらした醜態のせいか、思いはすっかりかき消えてしまった。

 そうだ。醜態だ。俺はなぜヴァイライナの血を求めた。人の血を飲むなど禁忌の行いだ。今さらながら吐き気を催すが、これ以上の醜態はさらしたくない。


 逃げるように歩き出そうとしたとき、教会の木扉が乱暴に開け放たれた。

 入ってきたのは二人の若い男女。いずれも国家兵団の槍と鎧で武装していた。


「聖女さまご無事ですか! 周辺に騎士殺しの叛徒が……ま、まさか貴様⁉」

 騎士殺しとは。また盛ってくれる。老若の男二人を気絶させただけだってのに。


 ヒステリックに意気込んだ女兵士が槍を掲げた。

 隣に立つ愚鈍そうな男兵士も、ひと呼吸の遅れで槍を向けてくる。

 二人とも、ブルブル震える穂先で実力が推し量れる。買えるのは気迫だけだ。


「二人とも。この者は手練れです。私は大丈夫ですから、ここは退きなさい」

 ヴァイライナが譲歩させるように、緊迫感を緩和させる。


「さあ下がって。ミトもパルチも」

「で、ですが聖女さま!」「教会だけは絶対にやらせねえぞ!」

 ミト。パルチ。その名には覚えがある。


 ぶしつけに面持ちを眺める。ああやっぱり。分かる。覚えがある。

 二人とも、ここの孤児院にいた女児と男児だ。立派な大人になっている。


 彼女らのほうは俺には気付かない。姿形はそれほど変わっていないはずだけれども。再会のあいさつは、幼少期を見守った兄貴分へと槍を向けるばかり。


「歓迎ばかりで、うれしくなる」

 こちらを警戒して槍を向けてくる二人を無視して、礼拝堂の奥へと踵を返す。


 一転して対面したヴァイライナは死を覚悟したのか、身をギュッと縮めた。

 勇敢な聖防騎士には似つかわしくない、か弱い聖女のような反応。

 彼女の誇りだった剣を拾って盗み、すれ違いざまに伝えた。


「さよならヴァイライナ。もう二度とその顔を見せるな」


 むき身の騎士剣を、雑に縛っただけの剣帯に収める。そのまま過去を置き去りにして礼拝堂の右奥へと駆ける。いつかアージェと一緒にくぐった扉を乱暴に蹴りつけると、古びた木製扉は勢いよく開き、ちょうつがいを破損させた。


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