穢れた凶刃(2)
何日もかけて、森沿いに潜んで歩き続けた。
聖防国にたどり着いたのは二十八日後。夕暮れ前のことだった。
人の領域に近づくにつれ、整備された街道上には人も町も増えていった。今の時勢で俺を認識できる者は一人もいなかった。でも潜まない理由にはならない。
ここまでの道中で、身体の問題も見えてきた。
今の変質した体は瞬発力こそあれど、持続力に欠けていた。
鍛え方や衰え方というよりも〝出来〟の問題なのだろう。
水や食料を欲するのは三日に一回。少量を取り込むだけで飢餓とは無縁だった。
極めつけは血だ。肉体を切ると、赤い血と黒い液が交わることなく混在して流れ出てきた。どうやら俺は、本当に人ではなくなったらしい。
『それでどうする小僧。忍び込む術はあるのか』
どれだけ無視しても減らない口は聞き流す。
遠くの茂みから、目的地周辺を観察し続ける。
雄大な城。外壁に設けた大城門。そこに続く大橋から人や馬車が飲まれていく。
聖防国の外周は深い堀に囲まれている。水源は、南の断崖天壁から流れ落ちてくる雨水だ。堀の水は底近くの洞穴に流れ込み、日の光を浴びず月海へ運ばれる。
聖防国に入る道はただ一つ。堀にかかる白石の大橋のみ。途上の大城門には憲兵が構える。憲兵には今も、国が鋳造した鉄製の入城札の確認作業があった。門の前でごちゃごちゃ言い合いっているのが遠目で把握できた。
死ぬまでに身に着けていた物はなにも持っていない。かいくぐる手段が必要だった。大城門の先も、城下街たる転水の都。町の中心をまっすぐ進めば、城門の先に聖王城。そこに殺すべきクズがいても、道中の障害は少なくない。
『なんじゃ。立ち往生か。粗末な知性はこれだから』
「黙れ」
時間が経つごとに日が傾き、落ちていく。
大城門は日が沈むと同時に閉められるはず。
閉門後の夜間帯も都に入ることはできる。それには憲兵所での手続きが必要だ。
だから忍び込むならその前。憲兵の監視下を目の前ですり抜けるべき。
そのための手段も……やっと来た。ようやく目当ての存在が見つかった。
「泥女。これからいっさい話しかけるな」
『なぜじゃ? 予の美声は小僧以外に聞こえんじゃろうに』
「殺したくなるから黙れと言ってる」
『クックク。まったく。擦れた若者とはこうもかわいげがないか』
茂みを迂回する。街道に身をさらし、大橋までの道を自然体で歩く。
橋の上は意外と視界が広い。身のこなしで憲兵に不信感を与えてはならない。
目標は……ちょうど隣り合った。数刻ほど外で張って探していた御用商隊の幌馬車。金のプレートを提げた彼らは、検品を免れる特権が与えられている。
それだけに、潜り込む先としてはうってつけだった。
不自然さを気取られない歩調で、じっくりと御用商隊の幌馬車に近づく。御者台には若い御者と恰幅のいい男。稼いでいるのだろう。男商人は脂ぎっている。馬の左右には武装探検者が二人。御用商隊が護衛を引き連れるのは商人の常識だ。
そして、国に入れぬ身となった者が、彼らの馬車に潜り込もうとするのも外れ者の常識だ。昔よく聞いた犯罪を、まさか自分でやるはめになるとは。
「……最近は平和なんだな。どいつも気が抜けてる」
時勢のせいか、商人も護衛も目的地を前に、警戒心が緩んでいる。
好都合だ。馬車の背面に取りつく。音を立てないよう幌の向こう側を探る。
荷台に人はいない。物言わぬ物品だけがほどよく詰め込まれている。
『大した逸品がないのう。これが予への貢物なら処刑ぞ』
美麗な油絵。純白な絹地。新鮮な果物。
泥女の肥えた目にはどれも雑品に見えるらしい。
声を出せないせいで悪態を返すのを諦めながら、すばやく忍び込む。
荷物をずらし、念のため隠れ場所を整える。そのうち馬車は大橋に進入した。白石畳の凹凸。車輪から振動が伝わってくる。街道とは別物のなめらかさ。
しばらくして車を引く森馬が止まった。
外からは、御用商人と憲兵の話し声が聞こえてきた。
もし不測の事態になったら、半殺しで蹴散らすか。転水の都を駆けるとしよう。
どうせ長居はしない。目的だけ果たせばこんな場所、二度と来るつもりはない。
意志を簡単に割りきれたのは、もうこの国になじむつもりがないからだろう。
想定通り、幌馬車の内部は検品されることなく、移動もすぐに再開された。幌一枚を隔てた外から雑音が聞こえてくる。大通りに入った。脱出はまだしない。
まもなく馬車が左折した。幸い〝最良の左折〟だった。
住民のにぎわいも徐々に遠ざかっていく。
続けて右折の気配。曲がる瞬間を見計らい、馬車の後ろから飛び出る。建物が生んだ死角のおかげで商隊には気付かれない。周囲も無人で不審がられない。
『ずいぶんと手ぬるいの。低能な社会が透けて見えよる』
感想は同じだが同意はしない。これまで付添人ぶってきたが、こいつは泥の女王だ。村を滅ぼし、家族を殺し、アージェの死因を作った。そして今や俺の死体に取りつく寄生虫でもある。
仲良く迎合する気はない。事が済めば、左腕ごと切って落として殺してやる。
「上層区も、雰囲気が変わったか」
周辺は予想通り、貴族や資産家、城勤めの高官が住む、静けさ漂う上層民区域だった。大通りの十字路を右折した先の下層民区域だと、人が多くて面倒だった。
といっても、御用商人があちら側に行くことなどまずないが。
日は落ちきって夕闇。人けのない道で、無臭の高価な植物油のランプが煌々と照っている。石畳の道は清潔。屋敷の作りもいい。上層区らしさそのもの。
ただ、本当に十数年と経ったのだろう。ところどころが記憶と違っている。ほんのすこしの変化を補正するために、転水の都ですごしていたころを思い返す。
深い眠りから目覚めた直後は、自分が百年も千年も止まっていた感覚があった。
けれど、最後の記憶の直前は、俺がこの都でアージェとすごしていた日々。
ふとした思い出が、在りし日の郷愁を誘ってくる。
それを露悪な意志で拒絶し、無理やり封じ込めた。
『小僧、今から城に忍び込むつもりか』
「ああ」
話しかけるなと言った相手に、つい反応してしまった。
思い出に浸っていたせいで、心に隙があったか。
『風情のない男じゃ。手早く殺すだけでは感興もないぞ』
「おまえを楽しませるつもりなんてない。いいから口を閉じろ。殺すぞ泥女」
『ほほ、気の立った男児は怖いのう、怖いのう。クックク』
嘲笑が鼻につく。相手をするだけ気に触ってくるやつだ。
黒ずんだローブを頭に被る。
視線を張り巡らし、上層区の奥のほうへと歩いていく。
このあたりは敷地が広い。人は少ないが、警邏は多い。
そこは注意すべきだったのだが。
三本目の小道を忍び足で抜けたときだった。後ろから声をかけられてしまった。
「そこのやつ。止まれ。貴様、上層区の住民ではないだろ」
「……チッ」
一日中、動き続けた弊害か。集中力も削げていたのを自覚していなかった。
「怪しい風体だな。ローブを脱げ。顔を見せろ」
後ろを振り向く。
偉そうな壮年の聖防騎士と、付き人であろう若手騎士が立っている。
大通りと下層民区域は国家兵の警邏だが、こちら側は今でも聖防騎士の領分か。
「聞こえないのか。早くしろ。場合によっては」
「……これでいいですか」
指示には素直に従う。ローブをずらし、汚い黒髪が多くなった頭をさらけ出す。
森の湖に反射する自分の顔を見たときは、記憶とそう違いはなかったが。
もはや十七年も前の存在だ。月海の巫女の添え物を覚えている者もいないはず。
「ふむ……貴様、もしや先日、廃貴族城塞にいたか」
だから、壮年騎士の推理に思わず動揺してしまった。
「……いえ。なぜですか?」
返しの一言が、状況を決定的に悪化させた。
「カーク、捕縛の準備だ。こいつはウソをついた。黒と金の二色髪。黒ずくめの姿で帯剣。監視塔員の最後の報告にあった調書の人物だ。詰め所に連行する」
壮年の聖防騎士は問答の暇もくれず、銀鎧の腰から騎士剣を抜いた。
話しぶりからして、塔で会った兵士に報告されてしまっていたらしい。
国家兵なら気にも止めない情報だろうに。相応の働きができる騎士だったか。
「汚泥魔の再侵攻が叫ばれるなか、まともな神経の者なら敵地に近づく者などまずいない。それに武装探検者ですら都での帯剣が許されぬ今、自ら先んじて許可証を出さぬ者は、賢き良民以外のなにかだ」
聖防国民は武装できなくなったのか。ここにきて世情のズレが足を引っぱる。
言い逃れの余地も潰された。どうする。倒すか、逃げるか。
『クックク。小僧はやはり、そうやって勇んで苦しむツラがよう似合う』
内なる敵の享楽には反応せず、判断を下す。
壮年騎士が若い相棒に目を向けた瞬間、男の脇に回り、装甲の薄い膝裏を蹴って崩した。背後に控えていた若手騎士が怒声とともに抜剣する。接敵まで遠い。即座にボロボロの直剣を引き抜く。目を見開く壮年騎士の側頭部を柄頭で殴る。
意識を刈れたか。男が昏倒して倒れ伏す。銀鎧の甲高い転倒音が周囲に響く。
直後、若手騎士が踏み込んできた。俺の左側面から刺突を飛ばしてくる。
「泥女ッ!」
『小僧。いくら寛大な予でも、そろそろ侮蔑の呼び名は許さんぞ』
冷えた口調で忠告してきた泥女だが、こちらの要求には無言で応えた。銀色の騎士剣の突きが迫るなか、左腕を上げて差し出す。骨肉を貫かれる心配はしない。
接触時、硬く軽い金属音が鳴った。相手の騎士剣が欠けた。
突如として発現した、黒手甲の硬度でだ。
手応えが予想外だったのか、若手騎士は反動で後ろに倒れた。地面に尻もちをつく。経験の浅さがうかがえる。若手の奇怪機狩りより柔軟性がない。
慌てて起き上がろうとしてくる横顔を、無遠慮に蹴りつけた。
青年はその一撃で意識を失ってくれた。
「チッ、こいつらを隠せる場所がない」
周囲に人影はないが、騎士を路上に放置はマズい。
急いで陰った路地へと二人を引きずる。
こうなった以上、城への侵入には時間をかけられない。即刻終わらせよう。
すぐに立ち去る前に、若手の騎士剣を拾った。腰の剣帯も切って奪う。
刃こぼれの醜い直剣は拷問には優秀だが、戦闘で使うには心もとない。
セイヴに苦痛を与えるには最適だが、現実的に考えてこの場に捨てていく。
「泥女。合図したら、いつでも力を出せるようにしておけ」
『予の忠告を聞いておらんかったか? その名で呼ぶは永劫の死ぞ』
「黙れ間抜けが。今すぐ殺されたいか」
奪った騎士剣を左肩に押し当てる。
汚泥の黒手甲は肩口まで伸びてこないと、もう把握している。
左腕を切ったところで泥女が死ぬかは分からない。むしろ俺が死にかねないが。
『かよわき絶世の美女を奴隷扱いとは、まっこと酷い男よのう。クックク』
声色はわざとらしく媚びている。どうせお遊びだ。
こいつは理解している。自分の優位さを。
俺の命を握る、優越の立場であることを。
事実、泥女が能力を行使していなければ、俺はこれまでにも何度か死んでいた。姉さんを殺した敵の力を頼る。そのことに精神を苛むが、まだ利用すべき。
利用するだけ利用して、今度こそ殺してやる。
「そこの黒髪の男っ! 今すぐ騎士剣から手を放し、両手を上げさないっ!」
粗雑な剣帯を外し、聖防騎士から奪った剣帯を腰に結んでいるときだった。
視線を向ける。上層区の路上。
そこに、軽装の銀鎧をガチャガチャと下品に鳴らす、うるさい少女がいた。




