穢れた凶刃(1)
暗い木々がざわめく。
大木の根の横で、狩猟者たちの眼にかすかな光源が反射している。
『ほれほれ、どうした小僧。相も変わらず愚鈍じゃなあ。獣に殺されるだけぞ』
「……黙れッ」
廃貴族城塞と聖防国の中間地にあたる場所。人里から離れた森林の奥。
夜まで体を休ませていると、たき火に誘われた洞窟狼に囲まれていた。
『こやつらの餌になるつもりか? 予に情けない最期を見せてくれるなよ、クク』
「黙れと言ってるッ!」
不快な雑音が左腕から伝わってくる。機敏に働かぬ思考が汚染されていく。
わずらわしい。思いきって足を止める。
隙と見たか洞窟狼が一匹、俺の首めがけて噛みついてきた。
鋭利な牙が閉じられる寸前、身を守るために左腕を差し出す。
瞬発力で咬合する洞窟狼の牙が、腕の柔らかな肉体に刺さる――こともなく。はじき返した。狼の立派な牙は無残に折れている。
左前腕を瞬時に覆った、黒い手甲のせいで。
『怨敵の助力なくばその左腕、噛み砕かれたぞ? 実に惨めで滑稽な男じゃの』
「切り落とすぞ泥女ッ‼」
牙が欠けて飛びのいた狼の茶色い腹に、ボロボロに刃こぼれした直剣を乱暴に突き刺す。ガリガリガリと、嫌悪しかない手応え。錆びて欠けた刀身がノコギリのように獣肉を侵し、無残に破壊する。
追い打ちの隙に、残り二匹の洞窟狼が左右に分かれて飛びかかってくる。右の狼には、力任せに抜き、血肉をへばりつかせた直剣を叩き下ろす。頭蓋を砕いた。
左の狼は、喉奥を黒手甲で殴りつけて振り抜く。そのまま脳天から地に叩きつける。それで洞窟狼たちはみな、ピクリとも動かなくなった。
「ハァ、ハァ…………チッ」
呼吸を整える。左腕を狼の口から引き抜く。
道中で拾った短刀で、皮と肉を切りつける。
獲物の処理は丁寧なやり方も知っている。だが今は必要ない。内臓を傷つけながら腹肉を雑に切り取る。血まみれの肉を木片で貫き、たき火で炙る。
残りの死骸は三匹とも、目先にある林の窪地へと投げ捨てた。そのうち、血の滴る肉に引かれた獣にでも群がられ、骨身にでもなっているだろう。
『大した美食家じゃ。予の夕餉に差し出したものなら、不敬の極みで即刻処刑ぞ』
「その前におまえが死ね」
左腕が煽ってくる。うっとうしい女の声で。
それも、俺にしか聞こえない声で。
十日ほど前、廃貴族城塞の近くの塔にいた兵と話したとき、確信を得た。
『哀れよのう。予の家来に襲われ、野生動物にも嫌われ、次は人間か。クックク』
返事はしない。無視だ。返事する意味などない。
肉の焼ける音が、邪魔な女の声よりも大きくなるまで、まだ時間がかかる。
『小僧よ。かの国に着けば、みなが殺しにかかってくるじゃろうに』
「…………」
『先の村で言われたろう。貴様の仇敵は今や、かの国の王じゃとな。クククッ!』
右手で、黒手甲の消えた左腕の手首を力いっぱい握る。
そうしても耳障りな声は消えず、痛いのも自分だけだった。
あの日、アージェとともに殺された日。
僕の体はセイヴに打たれ、斬られ、刻まれ、穴だらけにされて捨てられた。
意識は消えた。自我も消えた。確かに死んだ。死んで当たり前の負傷だった。
なのに、今から十五日ほど前のこと。両目を開けていた。
急に目が覚めた。そうとしか言いようのないほど明確に、パッと意識が戻った。
起きた直後は息苦しかった。しばらくは息を吸い込み、吐くことしかできなかった。思考も泥にまみれたように働かなかった。体調の回復には三日を要した。
意識が輪郭を取り戻したとき、最初に思い浮かべたのは、アージェのことだ。
彼女は、僕の腕のなかで死んだ。
ハッとした。もしかしたらって思った。一縷の望みであたりを見回した。
当然、アージェはいなかった。目覚めるどころか死体もない。誰もいない場所。
その場所には覚えがあった。泥の女王と戦った部屋。廃貴族城塞の最奥だった。
部屋の雰囲気に違いはない。ただ、なぜだか荒廃が進んでいるように映った。
おぼろげな意識のなか、自分の体を見下ろした。
僕は衣服をなにも身に着けていなかった。
身長や手足がわずかに縮んでいるように思えた。
目の端で、前髪の変化にも気付いた。
小麦色だったはずの髪色が真っ黒に染まっていた。
力任せに数本抜くと、右側頭部だけはもとのままの小麦色。
しかし、そこ以外の毛髪が、汚らしい黒色に変わっていた。
『ようやっと起きよったか愚鈍めが。もう七千の夜を越えてしもうたぞ』
突然、体の内から声がした。憎悪と恐怖が沸き立った。
忘れもしない、泥の女王の声だった。
周囲を見渡すが誰もいない。女王の声は明らかに、己の左腕から聞こえていた。
『ここまで難儀したぞ。予も僭称の小娘に灼かれ、死にかけじゃったからな』
「なん、だ。どう、なって。おまえ、仕業か、泥の女王」
『ふむ。命をつなぎ止めた礼もなしか。愚か者は生まれ変わっても愚か者じゃな』
「ふざ、けるな。どういう、こと。なんで僕、僕はだっ、あのとき、死んで」
あんな重傷だったんだ。治療もなしに生存するなんてあり得えない。
むしろ、いっそ、アージェを追って死ぬべきだった。
『小僧の死体に予が取りついた。貴様が見逃した予のかけらでな』
「取り、ついた? まさか、僕は、まさ……汚泥、魔に……?」
『半々じゃな。貴様はもう人でもない。さりとて予の眷属にもなれん。ただただ半端に動くだけの、不出来で不細工な肉袋じゃ』
途端に体中をかきむしり、血を一滴残らず流しきりたくなった。その姿をせせら笑う左腕を、壊さんばかりに地に叩きつけた。剣があれば切断していた。
二度目の殴打のときだった。左手が二の腕まで黒い汚泥に覆われ、固い地面に弾かれた。それはどう見ても、泥の女王がまとっていた、かぎ爪の黒手甲だった。
『自害は構わん。むしろ去ね下等種が。自我なき死体は支配するのに好都合じゃ』
「なん、だと」
『とはいえ、力も戻らん身じゃがな。しばらくは宿り木として好きにせえ』
今さら、なにを好きにしろというのか。こいつの言を信じるのなら、僕とアージェが死んでから七千の夜……十数年は経っていることになる。
そんな長い間、死体同然であった者にできることなんて。
『クックク。あるじゃろ。小娘を殺したあやつ、くびり殺したくないのか?』
「っっ……セイ、ヴ……!」
瞬間、怒りで目がくらむ。
なにかドス黒い感情のような奔流が、体内を巡って過熱する。
「あいつ……アージェを……殺して」
『そうじゃ。なればどうする』
「……そう、か……殺し、返せる、のか……」
『クッ……クックック! さすが蒙昧じゃ。死してなお酔狂でよいのう!』
おぼつく体で立ち上がろうとする。
床につけた手のひらは、地面の温度より冷たく感じた。まるで死体だ。
まあ、それでいい。今さら温もりを求めようとは思わない。
あいつがどうなっていようと知るものか。
僕が……俺が、成すべきことに変わりはない。
「アージェ、仇、討って、やる…………セイヴ、殺して、やる……」
『よい、よいぞ。予の飽きを、世の悪しきを正して存分に潤せい』
「勝手に、俺に、意味をつける、な。俺は、ただ殺し、て、死なせる、だけだ」
泥の女王に寄生された影響か。手足どころか全身が錯覚ではなく縮んでいた。
体感の誤差に頭が混乱する。十数年と死んでいた体も感覚が鈍く、動きも悪い。
死に体で女王の部屋を出ていく。
道中、館内には五つ首の巨人も汚泥魔兵の姿も見当たらなかった。
床に染みついた暗褐色の黒ずみだけが、人のいた証を刻んでいた。
入口に向かう通路ではいくつかの部屋を物色した。
そこで白骨死体から、黒い服と古い直剣を剥ぎ取った。
廃貴族城塞からは半日かけて出た。外には汚泥魔はおらず、遠くには記憶にない監視塔が目に入った。
塔に近づくと国家兵に見つかった。会話中、泥の女王は悪し様に声を発した。
だが、女王の声は彼には届いていなかった。
数日ほど歩き、僻地の寂れた村で住民と話したときも同じだった。
この厄介に優越しきった悪徳の声は、本当に、俺にしか聞こえないようだった。
ついでにその村では、老いた男の話に、腹の底から笑わされた。
「そりゃそうですよ。セイヴルティスさまつったら、聖防国の聖王ですからね」
セイヴは聖王になっていた。アージェを殺しておいて、笑える話だ。
しかも、月海の巫女は〝星護りの手で殺された〟らしい。そんな裏切りの星護りは第二王子にも反逆し、結果、王子さまの正義の刃で断たれたのだとか。
勝手に着せられた汚名は近年、聖王の寛大な御心によって赦免されたという。
ただし、転水の都では今でも、星護りは老若男女に毛嫌いされる悪漢とのこと。
「俺がアージェを殺したって、笑えるな。人の死体までずいぶんと弄んでくれる」
『それが貴様ら、品なき下種どもの常じゃろうに』
「黙れ泥女が。勝手にしゃべるな」
『おお怖い怖い。けなげな予のご主人さまは器が小さいのう、クックク』
まあいい。聖王だろうが立派に生きてくれているようなら、それに越したことはない。そのほうが殺すときにすがすがしい、だなんて。
泥の女王に汚染されているかもしれない思考は、純粋な気持ちで、そう思った。




