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泥の女王(7)

「――二人とも無事かッ!」


 入口扉のほう。大きな声と足音が聞こえてきた。セイヴとヴァイライナだ。

 第二王子は銀髪を血で濡らしている。流血した脇腹を手で押さえている。

 長髪の女騎士は左足を引きずっている。歩くのもツラいのか、扉にもたれかかっている。どちらも流血と裂傷ばかり。今の僕よりは健康そうだが。


「五つ首の巨人が急に消えた。全滅の危機だったが、まさか泥の女王を……?」

「ああ。ちょうどな……」


 力ない僕の返事に、セイヴが両目を固く閉じる。

 感極まる様子。両の拳も強く握られている。


「ッッッ――――そうか。やってくれたのか。たった二人で」

「違う。みんなだ。みんながいなければ、できなかったよ」

「それでもだ。感謝する。月海の巫女と、その星護りよ。キミらは英雄だ」

 セイヴが口角を上げる。ついつられて僕も笑ってしまった。


 扉の前には、泥の女王に放り捨てられた星鉄の鋭刃が落ちていた。それに気付いた彼は、痛ましい体を折り曲げながら、敬意ある手つきで拾ってくれる。


「ヴァイライナさん。ほかの騎士さんたちは」

「……すまないアージェル。セイヴルティスさまと私以外は、みな……」

「……そう、ですか」

「すまない。アージェルが苛まれると分かっていたが、これしか方法がなかった」

「いえ、ありがとうございます。お二人が無事なだけで、うれしく思います」


 ズルズルと近寄ってくるセイヴと違い、安堵したヴァイライナが入口でくずおれた。アージェが「大変っ」と立ち上がろうとするも、僕と女騎士を見比べる。

 どちらを優先すべきか。苦々しい選択に苛まれている顔だ。

 まったく、アージェらしい。

 仕方ない。こんなにも小さな灯火だ。みんなで肩を寄せて浴びよう。


 寒気と吐き気がまとわりつくなか、激痛を噛み殺し、アージェの肩を借りて立ち上がる。ヴァイライナのところまで十数歩ほど。今の僕にはけっこうな長旅だ。


「あっ、アージェわるい。そこに姉さんのブローチが――」

 拾い忘れたブローチに目を向けると、違和感は瞬時にやってきた。


 姉のブローチはあった。でも、その横で揺れていた黒い汚泥の粘体がない。どこかに消えた。泥の女王は倒した。残った汚泥は死骸みたいなもの……のはずだ。

 そのはずだが、怖気が走る。

 もしかしたらあれは、灼ききっておかないといけない残骸だったのではと。


「…………アージェ待て。泥の女王の死骸が消えてる」

「なっ⁉ どういう意味だリーア⁉」


 鋭刃を杖代わりにするセイヴが歩を速める。剣先が痛むからやめてほしい。

 アージェとヴァイライナは息を殺した。僕と同じく、部屋一帯を見回している。

 粘つく黒い汚泥。どこにも見当たらない。なぜか、その事実に焦らされる。

 もしも……もしもだ。まだ泥の女王が生き残ってしまっていたのなら。


「アージェ、僕のそばから離れるな」

「うん、リアも――――」


 言葉を言い切る前に、アージェの体がビクンと揺れた。

 続けて、僕の体も生理反応で揺れた。

 氷のように冷たい。体内に気持ちの悪い異物感。目線を下げる。

 アージェの胸からなにかが生えている。鮮やかな血で濡れたそれが、彼女の胸を貫通している。そのまま僕の腹にも刺さっている。


 キレイな真紅に染まっているそれは、僕の、星鉄の鋭刃に見えた。


「すまない。アージェル、リーア」


 顔を上げる。セイヴが謝罪した。

 彼の手は星鉄の鋭刃を握り、僕ら二人を刺していた。

 ゴプッ。アージェが精気に欠ける顔で血を吐いた。目を合わせると、悲しそうに笑った。僕を安心させるためだけの笑顔が、無性に悲しく感じた。


「なん、だ。なに、してる、セイヴ……っぅぅぅ⁉」

「すまない。キミたちは悪くない。すべてはオレの責任だ。許せとも言わない」


 鋭刃が丁寧に引き抜かれる。アージェの全身がビクつく。目がうつろだ。

 セイヴが鋭刃を振り上げる。やめろと言う暇もなく、振り落とされる。

 視界に鮮血が舞う。僕の顔にもピチャッと付着する。

 アージェの背中が、海色の一本髪と緑色の外套ごと切りつけられた。


「はぐっ……リ、ア……」

「アージェ? アージェ、大丈夫か……?」

 大丈夫なわけないだろう。分かりきっている自分に憎悪が湧く。


 抱き寄せようとしたアージェの身体から力が抜ける。

 膝から崩れ、地面に倒れようとしている。

 ダメだ。倒れるな。倒れたらもう動けなくなる。思考が現実を放棄する。

 アージェの姿がどうしようもなく悲しくて、涙が出てきた。

 僕は唯一動かせる左腕だけで、彼女を必死に抱きかかえた。


「ネイルが生きていたなら、こんな過ち、考えもしなかった」

 セイヴが、なにかを決意しているような顔つきでつぶやく。

 ふざけるな。黙れ。どの面下げて。


「ネイルさえいれば、オレは気ままで愚かな第二王子としてでも生きていけた。求婚したんだ。はぐらかされたけどな。彼女さえいれば、それでよかったんだ」


 それ以上しゃべるな。姉さんの名を口にするな。

 理不尽への抵抗が痛覚を黙らせる。だが体は動かず、血を垂れ流す。


「だがネイルは死んだ。キミたちを救ったからだ。それも決してキミたちのせいではなかったのだろう。それは分かる。そういうやつだったから。だが、恨みが消えてくれない。リーアもアージェルも死んでもほしいほど嫌いじゃない。むしろ弟妹のように思ってきた。しかし、だけど」


 遠くのヴァイライナは口を開き、呆然としている。共謀じゃないのか。だったら動け。さっさと駆けつけろ。なにしてるゲス女が。

 早くしろ。早く、この男を殺せ。


「キミたちを見るたび、ネイルの姿を思い出し、後悔と憎悪が押し寄せる。だけどオレはキミたちが好きだ。だからネイルが願って託した未来と、キミたちが成し遂げようとしたことには敬意を表した。それも今、やっと終わった」


 こいつ、なに言ってるんだろ。体の痛みがなくても理解できそうにない。


「オレは、オレの身勝手で英雄たちを殺す。キミたちの命を私怨で奪う以上、キミたちが背負うべきだった聖防国の未来も救済してみせる。それがオレの一生の贖罪だ。オマエたちの命、背負わせてくれ」


 銀髪の王子が今一度、星鉄の鋭刃を振り上げた。

 それよりもアージェを見つめていたかった。

 アージェの顔が冷たい。呼吸もか細い。力ない腕で、僕を抱き返してくる。

 必死にすがりついてくるのではなく、懸命に、僕を守ろうとするように。


「月海の、巫女は、ね」

「しゃべるなアージェ。大丈夫だから。大丈夫だから」

 アージェが葉っぱ色の目を向けてくる。僕への焦点はなかなか合わない。


「月海の、巫女は、星送りの、緑炎で、夜の月に、誘われる、の。だから、私がもし死んじゃっても、ね…………ずっと、ずっと、月海から、眺めて、るから」


 汚物が鋭刃を振るう。アージェの背がまた切り裂かれる。

 彼女の体は、最後の力を振り絞るように大きく震えた。


「私、ずっと、見てるよ。月海で、見守ってる。だからリア。生きて、リア」

「待っ、待ってアージェ。ダメだ、ダメだダメだアージェ。アージェっ」


 アージェの体が沈んだ。心を失った肉体は軽くならず、物体のような重さだけが増えた。瀕死の体と左腕では支えきれず、無様にも汚い地面に落としてしまう。


 何度も声をかけた。必死に体を揺さぶった。アージェは動かないし、話さない。

 大好きなその顔はもう、凪いだ海のようにとろけることはなかった。


「リーア。すまないが、彼女のあとを追ってくれ」

 平然とした声。耳が汚れされる。反射的に目を向けると、そいつは。

 鮮血を浴びながら、この世で一番殺すにふさわしい、悲哀の表情をしていた。


「殺したいくせに、ずっと一緒にいたのか」

「そうだ。こういう……オレだけに都合のいい瞬間がこないことを願っていた」

 さっきから。殺したいのか殺したくないのか。

 言い訳めいた独りよがりな主張は、狂ってるようにしか聞こえない。


「姉さんは確かに、僕らのせいで死んだ。だけど命をつないでくれた」

「分かってるさ。それでも許せないオレの狭量を恨め」

「僕だけでよかった。アージェには、殺される理由なんて一つもなかった」

「ダメだ。片方を殺されたキミたちが、オレを許すわけがない」

 月海の巫女を殺めた嫌悪の肉塊が、巫女を守るための片刃剣を振り上げる。


「セっ……セイヴルティスさまっ、やめ、おやめくださいッッ‼」

 動かぬ足で、女騎士が虫のように地面を這いずってくる。それにも目をくれず。

 セイヴは緩慢な刺突で一回、二回、三回と。僕の心臓近くを貫いた。


「……強者ほど仕留めるときは念入りに。それが油断に殺されない術だ」


 喉から吐血がこみ上げる。口からあふれる。手足に力が伝わらなくなる。

 意識が薄れる。体が生をつかみ止めるのをやめた感覚が分かる。


「これは、ネイルに贈ったものだった……返事を、くれる予定だったんだがな」

 星鉄のブローチが汚い手で拾われる。

 返せ。返せ。言いたい言葉はもう声にならない。


「オレはもう、あの薄汚い雌猫にあてがわれた政略道具だ。ネイルに見られないことだけが救いだな。あいつならきっと、悪し様なオレを叱ってくれただろうに」

 意味不明な言い分と、被害者ぶった顔。


「すべて、すまなかった。オレを許さないでいい」

 最後の気力を振り絞り、別れの言葉を吐き出した。

「しね」


 体を再び異物で刺された、気がした。

 もう体感では分からないが、終わったのは分かった。


 視界が暗黒に塗り潰されていく。暗く、暗く、暗くなるごとに痛みが消える。

 いっそ心地のよい感覚もかき消え、赤く黒い憎悪の熱だけが残留し。

 それも消える。泡のように消えてゆく。

 僕が僕でなくなる寸前、手向けのように伝わってきたのは。


『クックク。嗤える座興じゃ。下種な生物は永久に下種のままじゃのう』

 尊い残り火を穢してくる雑音は、最期にしてはとても不快だった。




聖王歴【七四一年】

   聖防国、第二王子セイヴルティス=フィルドサークが、泥の女王を討滅。

   同日、聖防国周辺の汚泥魔が消滅。廃貴族城塞にのみ残存勢力を確認。

   月海の巫女アージェル=シースフィアが、星護りの裏切りにより逝去。

   狂乱した星護りは敵地にて叛徒化。第二王子により討ち取られる。


聖王歴【七四二年】

   第二王子の第一姫が生誕。母体であった王子妃は難産の末に逝去。

   聖防国周辺で汚泥魔の出現報告が増加。廃貴族城塞で大軍を確認。

   奇怪機の攻勢が強まる。勢力間の均衡が崩壊。軍務従事者の死傷数が増加。

   北西方面軍を率いる第一王子の指揮機能不全が発覚。元老院が審議を開始。


聖王歴【七四四年】

   拘留中の第一王子が聖王を弑逆。逃亡の末、第二王子により捕縛。

   第一王子が聖王城地下の獄中にて、衛兵とともに自死。動機は不明。

   王の空席に第二王子が即位。聖王セイヴルティス=フィルドサークが即位。


聖王歴【七四五年】

   亡き月海の巫女に、聖王が祝詞を捧げる。叛徒たる星護りへの赦免も宣言。

   聖防国が月海の民への永遠の友好を誓う。転水の都で友好の証が築かれる。


聖王歴【七五十年】

   汚泥魔の勢力圏が拡大。新東領地を廃棄。廃貴族城塞の監視態勢を再強化。

   奇怪機の攻勢が鈍化。防衛力の減少に伴い、北西方面軍の一時解体を決定。


聖王歴【七五十八年】

   廃貴族城塞周辺の監視塔にて、不審な人物が発見される。




「おい、そこの貴様。こんなところでなにしてる」

「――――」


 泥の女王が現聖王に討たれて十七年。

 一時は鳴りを潜めていた汚泥魔の勢力は年々強まっていた。

 後手を踏んだ聖防国は、廃貴族城塞周辺に建てた監視塔の廃棄を決定する。


 一昔前、国家兵団の監視塔員は、聖防国で最も過酷な閑職と呼ばれていた。彼らは城塞周辺の汚泥魔に動きがあれば、全力の早馬による知らせが急務となる。

 監視塔員に求められたのは、的確な判断と卓越した騎乗能力。

 該当者の多くも、国家兵団のなかで選りすぐりの中堅層とされていた。


 それだけに、この十七年間。国家兵を志す者の多くは先達たちに、「落ちこぼれるか、上層部に上り詰めるか、森馬に嫌われるか。でなければご機嫌な僻地にご招待だ」などと平等に自虐されてきた。

 兵団の人事担当たちは志望者との溝は埋められず。

 長らく、運用面に支障をきたすほどの個人感情と軋轢を生んできた。


「おい、貴様だ貴様。早く止まれ」

「――――」


 ここにいる監視要員もまた、運が悪いことに、そこそこの才覚があった。

 そのせいで怠惰と危険しかない僻地に落とされた。

 数名の同僚とは、呪われた日々を嘆くのが火酒のつまみになった。


 そうした呪いの日々も、ようやく終わる。

 汚泥魔聖緑の危険が高まったことで監視塔の破棄が決まったのだ。


 国としては今こそ必要な機能でも、汚泥魔の支配領域での勤務命令など人でなしの所業。生還不可能、ゆえに早馬も不可能。そうした反対意見が、積もりに積もった暦年の反対陣営から集まった影響で、民意に屈して破棄が決まった。

 聖防国にとっては不幸な事情だが、今昔の監視要員らにとっては念願の勝利だ。


「このあたりには村もないってのに。もしや新東領地に送られた罪人か?」

「――――」


 この日、彼は同僚に貧乏くじを引かされた。監視塔員の最後の任務として、一人で撤収作業をさせられるはめになった。自らを束縛していた石の塔にお別れのツバを吐きかけ、荷物もろとも愛しの国に帰ろうとしていたときだった。

 監視塔の目の前で、不審な人物を目撃してしまった。


「おい聞こえてないのか? 止まらないと」

「――――」


 不審者が足を止める。

 兵士としては落ちこぼれではない監視塔員が、警戒しながら見定める。


 相手はとにかく黒い。頭頂から足先まで、全身を黒い外套で覆っている。

 黒い布地、というわけでもない。汚れて黒ずんだだけの、古すぎる布きれだ。

 体格的に男性だろうか。雰囲気的には、少年と青年の中間といったところ。


 わずかに見える頭部も黒い髪。黒髪もまた汚れのせいか、艶もなく不潔な印象を与える。ただ、右側頭部の耳元だけは、素朴な小麦色の髪だった。

 そこだけしゃれて染色しているのか。逆に全体を黒染めしているのか。

 少なくとも生来的な染髪には見えない。聖防国でもあまり見ない風体だった。


「なぜこんな場所にいる。答えろ。さもなくば」

「――狩りを、してます」

「狩り? 廃貴族城塞の足下でか?」


 森の動物を狩猟するにも、こんな東北の敵地まで来て行う理由はそうそうない。

 よって監視塔員はもっと怪しむ……ことが本来ならできた男なのだが。


 今日は愛しの帰国日だ。

 迷い込んだなら、そういうこともあるだろうと。無意識で事なかれを優先した。


「狩りならもっと聖防国の近くでやれ」

「――そうですね。そのつもりです」


 会話中の身動きで、黒外套に隠された青年の目鼻がのぞき見える。

 幼さを感じるが、うちのおてんば次女なら好みそうだ。監視塔員は思った。

 しかし目が。光を反射せぬ夜のような目が、どうにも危ない気配を匂わせる。


「まあいい。分かったなら早く行け。できれば街道を避けろ。森外れの村を頼れ」

「――ええ。ありがとう」

「礼はいいさ。俺も仕事だ。今日で最後だがな」

「――それでもありがとう。久々に、人と話した」

「ぁん?」


 監視塔員の気の抜けた返事に答えることもなく、黒い青年は立ち去った。

 動く者が見当たらない曇天の平野。監視塔員はなんとなしに彼の背中を眺める。

 すると、黒外套の腰元から剣帯と柄が飛び出していることに気付いた。

 彼は帯剣していた。


 普段ならもっと怪しめた監視塔員だが、僻地からの脱出に浮かれて思考を切る。

 帰ったら兵団に報告だけしておこう。それでここでの仕事は終わりだ。


「俺も娘の顔を見に帰るか。あばよクソ溜めの塔。おまえも気ぃつけて帰れよ!」

 監視塔員の大声は、すでに遠ざかった青年にも聞こえていた。

 けれども。


『クックク。小僧、あやつを殺して馬を奪ったほうが足早だったろうに』

 返事をした、古風な女の声は、黒い青年にしか聞こえていない。


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