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泥の女王(6)

 泥の女王が右手を振り上げる。

 すると空中に、いつの日か見た血の槍が生まれた。

 あれは先端から石突きまで空洞になっていた。刺されれば体液まで流失する。


 女王が右手を振り下ろす。瞬間、血の槍がアージェに向かって一直線に射出される。僕はその間にアージェを助けにいく……ことは選ばず。

 赤髪の垂れる背だけを狙った。


「これしきの凶刃、届かせません!」

 高速の飛来物を前に、アージェが月海の願杖を上下逆さに持ち、ひと息に振るった。血の槍は、尖った青金の石突きに叩き落とされ、地を穿つ。


「リア、私は大丈夫だからっ」

 今日までの二年、必死に鍛錬してきた国家兵団由来の棒術。

 その守備の堅固さたるや、今や僕やセイヴにだって簡単には打ち破れない。


「ほう。脆弱に見えてようやる。愚鈍で無能な小僧とは大違いじゃ、ククッ」


 一度沸騰しきった頭は、女王の悪意ある言葉に今さら波風を立てない。

 余裕を見せつけてくる無防備な赤髪の背中に、全力で鋭刃の刺突を打ち出す。

 細身の片刃は狙い通り、人で言うところの心臓部を背後から貫こうとした。

 だが硬質な金属音が響く。切っ先が弾かれた。


「目障りじゃ小僧。貴様はお呼びでないと、これだけ言っておろうに」


 鋭刃を防いだのは、泥の女王の黒い左腕だった。白かった手先が黒く染まっている。持ち前の体色ではない。汚泥が手甲のようにまとわりつき、刃を弾いた。


「一年前か、十年前か、あるいは百年前じゃったか。貴様ら低知能な猿めがこの屋敷に大岩をぶつけてきおったが、そのときも我が泥はキズ一つつかなんだ」


 夜色のドレスと細身の腕には似合わぬ、汚泥の黒手甲が振り上げられる。手指は鋭利で歪なかぎ爪。振りも速い。捉えきれず、腹から胸を撫でられる。

 頑丈な革鎧と鉄の胸当ては、簡単に切り裂かれてしまった。

 痛みよりも先に血が吹き出る。


「ぁがっ……」

「リアっ⁉ 灯火の近くにっ‼」

 月の灯火の明かりが強まる。アージェのやつ、後先考えずに力を注いだ。


 暗がりには明かりを。人には癒やしを。汚泥には破邪を。それが月の灯火の力。

 実際、青白い光に包まれた体から痛みがかすかに引いていく。

 だけどかすかにだ。キズもふさがりきらない。灯火の治癒には時間がかかる。


「ふむ。金色女の血縁にしては血がマズい。俗な味じゃ。飲めたもんではない」


 泥の女王は僕に追い打ちもかけず、かぎ爪の先端を淫らにひと舐めしていた。

 血を舐める仕草はなまめかしく映るが、心境は怖気がはるかに上回る。


「リア、ここは引こう。流血が多すぎるわ」

「平気だ。それよりアージェ、あれをやる。灯火をよこせ」

「っ、無茶よ。その傷で動いたらっ」

「いいから。僕たちは、成すべきを成すんだろ」

「……無茶しないでね」

「アージェもな。接近戦はいったんナシにしろ。僕が言うまで絶対に近づくな」


 泥の女王があざけ笑うなか、アージェが月海の願杖を静粛に掲げる。杖の先端には月の灯火。僕は星鉄の鋭刃を持ち上げる。丸い光球に、片刃剣を突き刺す。

 灯火は破裂したり、消えたりすることもなく、鋭刃を静かに受け入れた。ゆっくりと引き抜くと、鋭刃の刀身はうっすらとした青白い光をまとっていた。


「ほう。月に刃を貫くか。諧謔じゃのう。やはり下種の子らは風情に欠けよる」


 胸と腹を裂かれた痛みは消えていない。血は地面にポタポタと垂れ落ちていく。

 直視すると寒気に襲われそうな傷は、今は見ない。感じないふりで押し通す。


「言ってろ汚泥魔。月の灯火をまとった鋭刃、汚れた女王になど防げるものか」


 アージェに目線を送る。力強くうなずかれ、全力で駆けた。

 泥の女王に正面から近づく。間合いに入り、灯火の力を付与した鋭刃を下から切り上げた。人ならば避けづらい下半身攻撃。足下まで伸びる黒ドレスも体の動きを阻害し、うまくは防げないはず。

 そうした願望にも似た予測は、人外の女王には通用しない。


「眠いわ小僧。そのようなもの当たらねばただの木片よ」


 切り上げの一撃は、黒手甲をまとった左腕で撫でるようにしてはね除けられた。

 刀身が流れる。反動を両手で制する。強引な返す刃で、逆胴を薙ぐ。

 それも黒手甲の前腕に止められた。小虫をあしらうような身動きで防がれる。


「予の寝所は色気がなくてのう。せいぜい赤々と染め上げてくりゃれ」


 連撃で機先を制せず、泥の女王の反撃を許す。

 左手の黒手甲が真正面から伸びてくる。高速のかぎ爪で、僕の頭を貫こうとしてくる。女王の膂力は底知れない。中途半端に受けるべきではない。


 瞬時に、みっともなく体を崩した。地面に転げて避ける。打った背中が呼吸を止めた。間髪入れず、かぎ爪の引っかき。鋭刃の腹で受ける。やはり腕力が普通の女性のそれではない。追撃の貫手は地を転がって回避する。


 立ち上がろうとすると、細い足で腹を蹴られた。

 尋常ではない威力。腹部が圧迫される。内臓が潰れたかと思った。

 痛い。息が吸えない。だけど体は動かす。でなければ黒い爪に胸を貫かれる。


 鋭刃で突く。弾かれる。爪の斬撃を避けた隙を、いたぶるような殴打に絡め取られる。大男に殴られても味わえそうにない痛打の衝撃に、思考が砕ける。


「げはっ……⁉」

「そろそろ飽いたぞ。破裂せい小僧」


 泥の女王が左手を上げる。黒手甲の五指を広げて、手のひらを僕のほうへと向けてくる。次の瞬間、敵の左手から不可視の暴風が生じた。あのときの衝撃波だ。

 僕は全身を襲われ、小石のように飛ばされるしかなかった。


「あっ、がぁっ……」「リアっ⁉」


 体が割れたような感覚。痛みを飛び越えている。手足がマヒして動かない。

 後ろに控えさせたアージェの悲鳴。今の僕はそれほどの惨状なのだろう。

 遠くの灯火はわずかな癒やしを与えてくる。だが負傷の蓄積は拭われない。


「ほう、まだ裂けぬか。玩具にしては頑丈じゃ」

 倒れ伏せていると、脇腹をぞんざいに蹴られた。

 身体も視界も回転しながら吹き飛ぶ。


 そこから追いつかれて蹴られる。無様に転がる。

 どうにか立ち上がっては、頭を地に叩きつけられるを繰り返す。

 遊戯のような一方的な加虐。瀕死で食らいつくが、足蹴にされ続ける。


「か、はっ……ぁが……」「リ、リアぁぁ‼」

「不細工な蹴鞠よのう。さっさと破裂せい生き袋めが」


 そう言いつつも泥の女王は笑っている。残虐を簡単には終わらせず、楽しみ続ける。かぎ爪で致命を狙うことなく、素手の右手で殴り、足で蹴る。ただただ痛めつけてくる。頭や顔、胸や腹から飛び散る僕の血を浴びるたびに、愉快そうに手指を舐めている。血の味か。悦の味か。甘美に歪んだ表情で見下される。


「ふぅ。久方の遊興じゃった。もうよい能無し。はよ惨めに死ぬがよい」


 鋭刃を杖代わりに起き上がる。右肩を正面から蹴り飛ばされる。また背中から倒れ伏せる。泥の女王は僕の胸を右足で踏みつけ、地面に縫いつける。もがいても動けない。大槌で叩きつけられているかのよう。白く細い足はビクともしない。


 四肢に力が入りきらない。痛みで異常に震えていた肉体も痙攣が止まった。

 呼吸もしづらい。物理的な圧迫で胸元を押し潰されている。意識も薄れてくる。


「安心せえ。小娘は生きたまま食ろうてやる。肉付きは悪そうじゃがな、ククッ」

 泥の女王が背後を振り返る。黒い眼球に浮かぶ赤い瞳孔が収縮している。

 視線の先には、月海の頑杖を握ってたたずむ、アージェがいる。


「奥ゆかしい小娘じゃ。男の窮地にあって動かず無言とはの。愛いぞ、卑怯者め」


 アージェは動かず、全身で力んでいる。口も開かず、涙目でジッとしている。

 僕が殴り飛ばされ、蹴飛ばされ、部屋中を転げ回り、踏みつけられながらも。

 ずっと、この瞬間だけを待ちわびていた。


「……終わるのは……おまえのほうだ泥の女王ッッ‼」


 余裕が傲慢を生み、傲慢が慢心に変わり、慢心が油断へと腐りきったこのとき。

 どれだけいたぶられても手放さなかった、月の灯火をまとう鋭刃を、倒れ伏しながらも一心不乱に突き上げた。

 細長い刃はまっすぐに伸び上がり、黒ドレスに包まれた女王の胸を刺し貫く。


「月の光に灼かれろ、汚泥魔ッ!」

 胸元を貫いた泥の女王が、僕を足で踏みつけたまま、驚愕する。

「き、貴様、貴様ァ……」

 怒りと憎しみの表情。血も流さぬ体を貫く鋭刃が、手応えを伝えてくるなか。

「予の装束が破れたではないか」


 鋭刃に刺された女王は依然として、冷たい無表情で僕を見下した。次いで、僕を踏みつけにしていた右足を高く上げる。それが鉄槌のように肩へと落とされる。


「ぁぐぁっ!」

「油断とでも思うたか? 死人になる者の乾坤一擲は、どれも滑稽で笑えよる」


 右肩の感覚が消えた。骨や腱が完全に壊されたのか、まるで動かない。

 押し寄せる激痛。思考が壊死していくなか、口は反射で絶叫を漏らす。

 刺突後も握りしめていた鋭刃の柄を、動かなくなった手が自然と手放す。


「つまらぬ児戯じゃ。予を穢した不敬の罪業、輪廻の先で贖い苦しむがよい」


 女王が、胸に刺さる鋭刃を乱暴に抜き取った。

 触れるもおぞましい汚物とばかりに、部屋の隅に投げ捨てられる。

 胸の中心部には黒々した穿孔の傷痕。それを右手でひと撫でし、鼻で笑う。


「貴様は食う気にもならん。我が屋敷を彩る家具として、地べたに散らばってろ」

 女王の顔から興味関心が消える。

 踏みつけにしている僕に、左手の黒手甲を向けてくる。


「リアっ⁉ リアぁぁぁ‼」

 ずっと動かずにいたアージェが、怒りの形相で走ってくる。

 無力な相手としたか、女王は一瞥もせず僕にかぎ爪の五指を広げる。不可視の暴風の動き。僕は五体をバラバラにちぎり飛ばされて死ぬ……はずだったが。

 女王の黒い手指はピクつくばかりで、暴風を吐き出さない。


「……っ。もう出ぬか。いまだ予の体を蝕むとは、あの女。大した古傷よ」

 泥の女王が苦々しく嘆息し、目を合わせてくる。

「冥府で金色女に遭うたら伝えよ。貴様の血肉、なかなかに美味じゃったぞとの」


 忌々しい笑みを見せつけてきた泥の女王が、動く。感覚なき肩から、白い右足が離され、また高くに持ち上げられる。僕の体はもう動かせない。

 勢いよく踏み潰されれば、その白い足が肉体のどこかを貫通する。


 死の間際。僕は女王の妖艶な顔も、陶器のような細足も見ず、胸元だけを見つめていた。灯火をまとった鋭刃は、汚泥魔の長にささやかな穴を穿つだけだった。けれど……泥の女王の胸にはまだ、貫通した傷が残ってる。


「やれぇッ、アージェぇぇぇえッ‼」


 僕が呼ぶよりも早く、アージェは泥の女王の背後に迫っていた。

 そして両腕を一振り。

 赤髪の女王が振り向く寸前、背中にできた黒い空洞に、月海の願杖を押し当て。


「月の灯火よ! 零れて我らを照らし給えッッ‼」


 願杖の先端。水宝玉の先に月の灯火が生じる。

 だが、ほのかにしか視認できない。

 青白い光球は、杖の先端ではなく、泥の女王の〝体内〟に生じた。

 黒い穿孔から、木漏れ日のような光がこぼれている。


「⁉ 小娘っ貴様、ァ、ァグァッ!」


 泥の女王は、月の灯火で照らしたところで通用しない。それは三年前に分かっていた。研ぎ澄ませた灯火に望みをかける手もあった。でも、僕らは必殺の一撃をよりどころにしたかった。

 だから、灼くなら泥の女王の内側――体内から灯火で灼く。


「聖なる月明かりで滅びなさい、泥の女王ッ!」


 僕自身も、灯火をまとわせた鋭刃も、すべては女王の目を引くためのオトリ。

 アージェが棒術を習ってきたのも、すべてはこのときのため。

 すべては、女王を体内から灼き尽くすために。


「ふざ、け、るなッ。下劣な僭称、者がァァア‼」


 本来はアージェに奇襲させる予定だった。僕に意識を集め、その間にアージェが鋭利に尖らせた杖の柄で背を刺し貫き、灯火をねじ込む想定であった。

 だが、泥の女王が強すぎた。アージェに戦わせるべきではなかった。


 僕も半死半生だ。女王が油断してくれなければ、胸を鋭刃で貫くことなどできなかった。先ほどの不可視の暴風もそう。放射されていたなら僕は死んでいた。

 ただただ、窮地の連続を幸運に救われ続けただけの死闘だった。

 でも……それでもだ。


「あガッ、がが、グガッッガァッ」

 泥の女王の胸元から青白い光があふれる。

 黒いドレスも白い体も徐々に焼失していく。

 体の欠損が広がるたび、体内からあふれ出す灯火の輝きが増していく。


「あグガ、ギャ、ガ――――」

 苦しみ悶える泥の女王の全身が、徐々に灼け消えていく。胸が灼け、腹が灼け、手足が灼けて消える。灼け広がった灯火は最後に、頭部を消した。


 姿形が見えなくなると、悲鳴も聞こえなくなった。

 静寂のなか、血だらけの僕と、アージェの荒い呼吸だけが聞こえる。


「アージェよくやっ……っぅぅぁ……」

「リア‼ 待って今すぐ月海の灯火をっ」


 稀代の月海の巫女さまは、泥の女王を討ったことに喜ぶより、星護りの安否に焦った。灯火が急いで灯される。全力直後で余力もないのか、手ほどの大きさだ。


「……右腕は、ダメかもな……動かないや」

 唯一動く左腕だけで起き上がろうとするも、上体がグラつく。

「動いちゃダメ。私に寄りかかって」


 アージェに力強く抱きかかえられる。青髪も巫女服も汗でジットリ湿っている。

 だけどイヤな感じはしない。こっちは汗どころか、顔も体も血まみれだし。


「死んじゃダメだよ。絶対にダメ。絶対ダメだから」

「大丈夫、だって、ゲホッ……痛くて、死にそう、だけど……死ぬ気は、ないよ」

「痛いだけでもダメなんだからっ」


 彼女の上体に背中をあずけ、小さな説教と灯火を受けながら、視線を配る。

 泥の女王がいた場所には赤髪の一本も残っていない。ただ真っ黒な汚泥が揺れ動いている。その横に、すこしだけ黒焦げた星鉄のブローチが落ちている。


「アージェ、そのブローチを……」


 死に体の今、手を伸ばせそうにない。代わりに巫女をアゴで使おうとするも。

 アージェは顔を伏せ、葉っぱ色の目を閉じて、必死に灯火に祈り続けるばかり。

 肩から流れ落ちてきた海色の一本髪に、血まみれの顔をくすぐられる。除ける力もないが。必死になってくれているアージェを見ていると、急に笑えてきて。

 生きていることに、感謝したくなった。


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