泥の女王(5)
「こんなときにっ……泥の女王はどこだ⁉」
動揺したヴァイライナが叫ぶ。五つ首の巨人は大扉の奥へと後退する。
女騎士に気圧されたわけではない。月の灯火を嫌っているような仕草だった。
「っ! セイヴルティスさま、謁見の間の奥にまだ扉がっ」
女騎士が焦りながらも部屋の奥を指さす。僕らも視線を向ける。
聖王城の謁見の間を質素にしたような空間の左奥。そこに扉があった。
鮮血のように赤々とした色の扉。
きらびやかな紋様が、精巧な掘り細工でかたどられている。
朽ちた館には似つかわしくない清潔さが、妙な異物感を際立たせている。
まるで、貴き存在へと続く道だと主張しているかのように。
あからさますぎて、いっそ罠に見えてしまう。
「月海の巫女よ。星護りよ。頼みがある」
長旅で銀髪の輝きを失ったセイヴが、僕とアージェの目を見て言った。
「五つ首の巨人はオレたちが足止めする。キミたちは、あの扉の先に行け。もしそこに泥の女王がいたのなら……キミたちに、すべてを委ねる」
「……この場から灯火が消えたら、あいつが手に負えなくなるぞ」
セイヴもヴァイライナも、聖防騎士たちも信頼する剣士ではある。
けれど相手は、殴打で体を真っ二つにしてくるほどの怪物。
一秒に満たない判断を間違えるだけで、彼らは命を手放しかねない。
「愚問だ。キミたちに比べれば、今のオレの命なんぞ安いと言ったろ」
「……おまえにとってはそうかもしれないが、転水の都の人たちにとっては」
口元に伸びてきた彼の手のひらに、言葉をさえぎられる。
「覚えておけ勇者たち。これは覚悟じゃない。このオレの、生涯最大の賭けだ」
僕の返答は待たず、第二王子が騎士剣を手に、大扉の先へと飛び込んだ。
「あなたたちは聖防国に残された最後の刃。絶対に生きて帰るのよ!」
ヴァイライナも逡巡すらせず、セイヴと巨人を挟み込むようにして走った。
五つ首の巨人が二人を捕捉し、両手を振るいはじめる。触れられれば命ごと体を潰される巨腕。二人ともそれを寸前で避け、汗を散らせる。
それを見た聖防騎士たちも一斉に駆ける。
敵の目もつられ、僕らへの視線が途切れる。
「……っ、行くぞアージェ!」
「で、でもセイヴさんたちが!」
「迷ってたら全員が死ぬ!」
願杖を持つアージェの空いた手を取り、無理やり引っぱって走り出す。横目で、敵の背に刺した剣を引き抜こうとした騎士が、巨腕に潰される姿が見えた。
鎧は真綿のような軽さでひしゃげていた。地面を、赤い絨毯のように広がる体液と残骸が汚す。鼻の奥に絡まる粘ついた血の臭いは、人の死の匂いそのもの。
「月海の巫女に、白の女神の加護があらんことを‼」
聖防騎士がまた一人、五つ首の巨人へと突撃していく。
走り続け、視線が切れてから二秒後。
金属と水袋が、地面で叩き潰されるような音がした。
無力な絶望感に蝕まれるなか、部屋左奥に着く。鮮血のように赤い扉へと手をかける。鍵はかかっていなかった。引く力が勢いあまり、体をつんのめさせる。
アージェの呼吸が若干荒い。
それでも、気付いていないふりをして引っぱり、扉の先に踏み入れる。
「セイヴっ! 死にかけるくらいなら、こっちに逃げ込んでこいよ!」
扉は開けっぱなしにし、謁見の間へと叫んだ。
もしもの場合、セイヴたちも意地を捨てて逃げやすくなるようにと。
「セイヴさんたちが巨人を抑えないと、広間のほうの騎士さんたちも……」
「っ、分かってる!」
分かっていなかった答えを指摘されて、つい怒鳴り返してしまった。
セイヴや自分たちだけ助かろうとしていた己の浅はかさに、思わず嫌悪する。
僕はいつもそうだ。自分の目に映っていないところへの考えが及ばない。カッコいい英雄に憧れながらも、この手や目が届くところまでしか意識できない。
だけどアージェは違う。アージェはちゃんと世界を救おうとしている。
見えない、知らない、触れられない人まで、常に正しく救おうとしている。
そんな月海の巫女に、何度も打ちひしがれてきた。
そんなアージェを、何度も誇らしいと思ってきた。
「行こう、リア。きっとこの先だよ」
先に歩き出したアージェの柔らかな手に引っぱられる。
いつの間にか、立ち位置が逆転している。
「大丈夫。きっと大丈夫だから。行こうリア。私たち、行かなくちゃ」
アージェは今、すべての命運が自分に委ねられていると分かっている。
この瞬間、彼らの命の灯火を預かっていると、僕以上に分かっている。
「……ああ、行こう」
赤い扉の先には、純白の絨毯が敷かれていた。
ほこり臭くもない。壁や天井も朽ちていない。聖王城と見紛うほど場違いに整った装い。予感はかえって確信に変わる。
この美麗に保たれた通路自体が、その先にいる存在を明示している。
むしろ癪に思えた。驕りと慢心を見せつけられているようで。
真っ白な絨毯を過剰に踏みにじり、汚しながら走っていく。
まもなく、黒い扉が見えてきた。清潔な空間に溶け込まぬ黒塗りの扉。
灯火の光すらも反射しない暗黒色が不気味に映る。
「……開けるぞ、アージェ」
「……うん。開けてリア」
黒扉の手すりを捻る。慎重に引いて開く。
視覚の情報よりも先に、鼻が異臭を嗅ぎ分けた。
黒い匂い。そうとしか形容できない重苦しい臭気が、鼻孔に突き刺さる。
室内は広く、明るく、汚らしかった。
真っ黒に汚れた絨毯の切れ端があたりに散らばっている。
壁面にはたいまつが等間隔で焚かれている。調度品の類いはほとんどない。より正確に言えば、棚や机や椅子、絵や壺だったものの残骸だけが散らばっている。
そのなかで唯一、形を成しているものが。
王座のように豪奢な腰掛と、そこに座る者の姿。
「ふむ。五つ首は愚図じゃのう。よもや虫ケラに夜這いされるとは、クックク」
血のように赤く長い髪。ひと目で人外と分かる、黒い眼球と赤い瞳孔。
夜の闇を切り取ったような漆黒のドレスからは、真っ白な首筋や肩、胸元がのぞき見える。ドレスの下側は前後非対称な作り。前の布が短く、後ろの布が長い。
艶やかに伸びた両足が、腰掛に座りながらコツコツと、蠱惑的な足音を鳴らす。
見たことがある。思い出せる。記憶と寸分違わず相手を一致できる。
「久しいのう浅ましき僭称者よ。小娘の分際で、予の屋敷を荒らしに来おったか」
「あなたが私たちにくれた時間、ようやく返しにきました」
「なら礼をせい不調法者。ついでに命も貢がせてくれようぞ、ククッ」
小ばかにしてくる悪意ある口調。心が一瞬でささくれ立つ。
「泥の女王。おまえは今日ここで討つ……姉さんの名誉にかけて」
「ねえさん? まさかと思うが貴様、あのとき小娘らといた愚鈍な小僧か」
「っ、黙れ」
威嚇するように外套を翻す。腰に提げた星鉄の鋭刃を怒りのままに抜く。
切っ先を顔めがけて突き立ててやると、泥の女王は嘲笑した。
「そうかそうか。あのときの金色女の血縁か。あやつは興が乗る女じゃったのう」
頭に血が上る。飛び出しそうになる体をアージェにつかまれる。
泥の女王は豪奢な腰掛から立ち上がり、胸元からなにかを取り出した。
「丁寧にいたぶるのは至極悦楽じゃった。あの女、死の際まで見ものじゃったぞ」
穢れた白い二本指が、鉄細工のような物体をはさんでいる。
黒焦げてひしゃげているが、よく見知ったもの。
「あれは、ネイルさんの……っ」
鋭刃と同じ星鉄で作られたという、月のように青白い真円のブローチ。
月海の巫女を守り抜いた星護りの姉さんが、大事に身に着けていたもの。
泥の女王はそれを白い指ではさみ、弄ぶように見せつけてくる。
「すまんのう。あやつを血の一滴も残さず食ろうてしもうて。クク、クックク!」
「貴様……貴様ああぁぁあっ‼」
「よい。寝るのも飽いたところじゃ。久方ぶりの生き袋狩り、存分に楽しませい」
アージェにつかまれた右腕を振りきる。策もなしに真正面から肉薄する。
その身を切り裂き、引き裂き、悪を煮詰めた血を一滴残らず焼いてやるために。
「ここで死ね! 泥の女王ッ!」
「ふむ。無礼なうえに能無しか。姉と違い、興になりそうにない俗物じゃの」
大上段から腕力任せに、星鉄の鋭刃を振り落とす。感情のままの一撃は、水を斬るような手応えでするりと避けられた。代わりに腰掛を叩き割る。
「リア、下がって!」
背後からアージェの声。すぐさま背中が心地よい光に包まれる。年々磨きをかけてきた全力の月の灯火は、彼女の頭二つ分よりも大きく膨張している。
「賢しらめが。うとましいものを予に向けるな」
泥の女王が赤髪と黒ドレスを振り乱しながら、遠間のアージェをにらみつける。残念だが、月の灯火は女王を嫌がらせるも、効いている様子はない。
予想はしていた。昔も未熟な灯火だったとはいえ、大玉荒野でも効果は見られなかった。それでも、一縷の望みくらいは持っていたのに。
灯火を浴びてもなお動きを鈍らせない泥の女王を目の当たりにし、唇を噛む。
「我は月海の民が月海の巫女。我が盟約に従い、月との約定を果たします」
「軽薄な戯れ言を。贄は贄らしく死して馳走になれい、小娘」
「……私の使命は、あなたたち汚泥を一掃することです」
「クックク! よう言った。生きたまま食い殺す」




