泥の女王(4)
出征から十三日目。東北方面軍は予定を違わず、廃貴族城塞へと達した。
「ヴァイ。残りの兵力は」
「ハッ。第三十九誘引小隊まで離脱。精鋭隊五十名を除き、残り約百七十名です」
視界にそびえるは、古き時代の貴族が統治していたとされる城塞都市。
汚泥まみれの黒い外壁。監視用の哨戒塔。無骨に突き出た巨大館の尖塔。前面に建つ顔役の館が本拠地であり、その裏に広大な廃墟が広がっていると聞く。
「見ての通り、貴族館の正面は汚泥魔兵だらけのようです」
「言われないでも分かるさ。うっとうしいくらいにな」
館近辺の石壁の周囲には、無数の骸骨たちがはびこっている。骸骨らは全員、暗黒のような汚泥にまみれ、体表の凹凸も泥次第。体格も不均一だ。
朝方にも関わらず夜に侵されたような光景は、目に見える異常でしかない。
「泥の女王、あるいは五つ首の巨人の発見報告は?」
「斥候隊によれば未発見です。おそらく、館内にいるものかと……」
「仕方ない。残存兵を最後の誘引に出す。踏破したぶん報奨も弾むと伝えておけ」
短く返事したヴァイライナが、残りの兵を率いる聖防騎士に伝達する。
全軍の準備が整った。開戦の口火は、銀髪をなびかせる第二王子が切る。
「ついに悪しき汚泥を払うときがきた! 全軍、聖なる使命に身を捧げよッ!」
気勢を浴びた百七十の兵が、各隊に別れて散開する。
そのまま周辺の汚泥魔兵に自ら接敵していく。
知性なき黒い死者たちは生者に群がった。見る見るうちに騎兵に誘われていく。
「精鋭討滅隊も出るぞ。我らの手に、聖防国の行く末がかかっていると知れッ!」
第二王子の奮起する。数も残り少なくなった聖防騎士と国家兵が沸き立つ。
僕は隣をうかがう。怖がりのアージェは、とても精悍な表情をしていた。
「アージェ」
「なあに」
「おまえは僕が守る。でも、危ないときは一人でも逃げろよ」
月海の巫女は、背中に垂れる海色の一本髪を揺らしながら笑んだ。
「じゃあ、そのときは私がリアを守るわ」
なんだよそれ、と怒る前にグリンに走り出され、言い返す間を失った。
月海の巫女を守る星護りが、巫女に守られてちゃ世話がない。
そんなの格好がつかない。絶対に守られてやるもんか。
「アージェルとリーアは私に続け! なにがなんでも第二王子をお守りしろ!」
精鋭隊の先頭。ヴァイライナに告げられ、セイヴの背中をすぐに追いかける。
城塞内外の汚泥魔兵は、そう時間もかからず大半が誘引されていった。
開けっぱなしの城門の先にも敵影は見えない。決死行の五十人は障害すらなく侵入を容易に成功させた。正面の貴族館まで短時間で駆け抜ける。
到着後、全員即座に森馬から飛び降りた。そして入口のくたびれた木扉に集う。
「国家兵は館内に騎馬を隠し、館内部で死守せよ。聖防騎士はオレに続け」
勇敢な第二王子が扉に手をかけ、力強く開く。
扉の奥は広々とした空間だった。五十の人間と馬が入ってもまだ余裕がある。
しかし、いくつかある通路はどれもせまい。
兵が二人並べば剣すら振れそうにない。いまだに見たことがないけれど、断崖天壁の森猫の小道もこういう道なのだろう。
もし大勢だったなら、過去の軍のように各個撃破されるのも理解できる。
「リア、今のグリンじゃ進むのは難しいかも……」
後ろから困り声。振り向くと、アージェと数人の騎士が困った顔をしていた。
その後ろでは、グリンが石造りの通路のせまさに身をよじっていた。
グリンは身動きするたびに朽ちた調度品を倒し、踏み潰し、館を壊していく。
「グリン。おまえは入口に残ってろ。森馬たちを守ってくれ」
「ギュルァーッ」
険悪に抗議してくるが、まともに動けていない。敵に出会ったら的でしかない。
「怒んなよ。馬は帰りの生命線なんだからさ。おまえに託す」
「グリン。いい子だね。またあとでね」
グリンはなおも不服そうだったが、アージェが慰めると諦めて、後退した。
聖防国では、泥の女王を倒せば汚泥魔も消える……という風説がある。
つまるところ、泥の女王自身が泥の鎖石であるという見方だ。真実かは定かではない。それにどちらに転んでも、僕らが徒歩で国に帰還するのは困難だ。
ゆえにセイヴは、帰りの足となる馬を城外ではなく城内で守った。大軍が押し寄せられない館の設計を逆手に取り、敵が集まってきても守りやすいようにと。
いずれにせよ、精鋭隊の活動時間はそう長くはないはず。
僕らの足はすでに、時間勝負の決死行に踏み入れている。
「道の奥が暗いな。月海の巫女、灯火で導けるか」
「やってみます――月の灯火よ。零れて我らを照らし給え」
アージェが月海の願杖を掲げる。水宝玉の先端に青白い光が灯る。昔とは大きさがまるで違う。人の頭よりも大きな光球が、薄暗い館内を照らし出す。
石造りの堅牢な通路の両脇には、道なりに扉が並んでいた。四十人が歩を進めるたび、先行する聖防騎士が先々の扉を開き、内部を確認していく。
扉の開閉で、堆積していたほこりが通路に舞う。
乾いた息苦しさに、何人かが顔をしかめる。
それから六つ目の扉を開いたとき、騎士たちは初めて声を荒らげた。
「汚泥魔を発見! 第二隊で対処いたします。王子殿下はどうかお先へ!」
若い聖防騎士たち四人が、すこし先の扉の奥へと突入する。
グリンと森馬を死守する国家兵は十人。残りは僕らと聖防騎士の四十人。セイヴの策では、彼らを四人ずつに分けて、さらなる足止めとして切り離していく。
泥の女王を討つための時間を稼ぐ。それが聖防騎士たちの最後の役目だった。
「アージェルもリーアも決して手を出すな。キミたちは泥の女王を討つ要だ」
「分かってる。そのためにアージェに棒術を鍛えさせたんだ」
僕とセイヴとヴァイライナの視線を受けたアージェが、静かに目を伏せる。重い使命を背負った月海の巫女は、緑の外套をなびかせながら決意の眼を開いた。
「はい。私の灯火で、泥の女王を必ず滅ぼします」
可憐だが勇ましき風体。どことなく姉さんを思い出させる。
細長い通路の先の扉で、部屋奥に潜んでいた汚泥魔兵の対処に、第三隊が別れていく。続けて進路上に汚泥魔兵が三体。避けられぬそれは聖防騎士が切り倒す。灯火に照らされた黒き骸骨たちはほとんど不動で、討伐はたやすかった。
月海の村を出てから三年。
格段に引き上がった、アージェの月海の巫女としての能力が冴えている。
「っ……広間に敵影多数。全隊止まれ」
ジリジリと進んだ先。ひときわ大きな広間を前にして、ヴァイライナが後続に停止を指示した。目に映るのは、天井まで吹き抜けの空間。中央には階段。床は黒々と汚らしい。階段周辺には、数十を超える汚泥魔兵たちの姿が見える。
現時点で、数的優位だけは敵側に覆った。
「ヴァイ。聖防国の見取り図によれば、二階正面の先が謁見の間だったな」
「はい。おそらくそこに、泥の女王がいるかと思われます」
「足止めには何隊必要だ」
「階段前と周辺通路の封鎖で五隊は必要かと……それも、死兵です」
ヴァイライナが命の数を指折りで計算する。決断はセイヴがした。
「第四隊から第九隊は後続隊を待ちつつ広間を制圧。第十隊はオレに続け」
死に抱き寄せられる役目と知ってなお、若き聖防騎士たちの目には誇りが宿る。
彼らは第二王子なら、月海の巫女なら、やってくれると信じている。
「聖防国の興亡は我らの手にあり……全員、我が背に続けっ!」
一人突出した第二王子を止める者はおらず、みなで追いかけた。汚泥魔兵もセイヴの存在に気付く。うち一体が眼球なき白骨の眼で振り向いた瞬間。
宝飾の騎士剣が一閃。セイヴが首を断ち切った。彼はすぐさま次の敵へと走る。
第二王子セイヴルティス=フィルドサークの剣術は、聖防国で三本の指に入る。僕も出会ってから先、彼との五本勝負で三勝目を上げられたことがない。
「ヴァイ、アージェル、リーアはこのまま二階まで突っ切るぞ!」
「ハッ!」
死地の恐怖のなか、長年の相棒に声をかける。
「アージェ、絶対に止まるなよっ」
「リアも周りに気をつけてっ」
月の灯火が広間全体を照らし出す。すべての汚泥魔兵の動きが例外なく鈍化していく。だが、アージェがいなくなれば元に戻る。殲滅している猶予もない。
時間的にも体力的にも、僕らはこのまま最奥に突き進むしかない。
「ここは我らが抑えます!」「第二王子、ご武運を!」「聖防国に兆しあれ!」
「月海の巫女さま、セイヴルティス第二王子をどうかお頼みいたします」
「……はいっ!」
僕ら四人と第十隊の四人を除き、二十四の騎士が広間に散らばった。
彼らの生存確率は、今から泥の女王を倒すまでの時間に比する。
アージェの身を警護しながら、絨毯の切れ端しか残っていない古びた石階段を駆け上がる。先頭では、一人の騎士が階段上の大扉を力尽くでこじ開けようと、力任せに肩からぶつかっている。
階段左右の通路にも数名の騎士が散らばる。
汚泥魔兵を近づけまいと奮闘している。
僕らが階段を上りきる寸前、大扉は騎士たちにより壊れたように押し開かれた。
同時に扉の向こう側からムワッと、錆びた空気が流れてきた。
「セイヴルティスさま! 泥の女王はこの先に――っわぇ」
扉の前で振り返った若き騎士の上半身が、なにかと衝突して、消えた。
一瞬のことだった。人の胴体ほどある巨大な手に殴られ、腰上から両断された。
「尋常ならざる巨体に五つの顔……五つ首の巨人です‼ みな警戒を‼」
ヴァイライナが叫んだ。周囲はおろか、広間一階で戦う者たちの表情も陰る。
扉の先には、家屋のように大きな図体。
この大扉も体を折り曲げないとくぐれなかっただろうに。
腕も足も大人一人分の太さがある。ぼろきれをまとった胴体はそれ以上だ。
肩の上には、五本の短い首と顔。苦痛に歪んだ壮年の男たちの顔面。
これが話に聞く、五つ首の巨人。
泥の女王を除き、汚泥魔で唯一、個体として認識される怪物だった。




