12.ごめんなさい
やっぱり祭はどこか体の調子が良くないんだと思う。
炎天下のグランドで五時限目を終えた柊は、昇降口に向かう汗臭い男子の群れの後ろで、一人昼休みの出来事を反芻していた。
顔が赤くなっていたし、弁当に伸ばす箸の動きはいつもより緩慢だったし、殴られる覚悟で強引に額へとのばした手を避けたのはともかくとして、ありえなくらいに弱々しいキックをしてきたかと思ったら、スカートの裾が派手に舞って、その先にピンク色が広がっていた。
深く思い出す。
チラッ、などではなく、モロだった。
布地の中心よりやや上の辺りに小さくてかわいらしいリボンが付いているのを確認した。あいつがあんなかわいらしい下着を履いているとは思いもしなかった。私服の時はスカートを履かないし、制服の時は下着の上になにかを必ず身に着けていた。背中が透けているのは気づいていないのか気にしていないのかは分からないが、短絡的に下だけ隠せばいいと思っている辺りが祭らしくはある。
だから祭の下着はブラウス越しに薄っすらと透けるブラジャーの色だけで、パンツになどお目にかかったことがなかった。
そいつがいきなり目の前に、姿を現したのだ。きっとあの時の自分の視線はピンク色にクギ付けになっていたに違いない。彼女のいる身でいけないことだとは理解しているつもりだ。だが、本能が一秒でも長くそれを凝視して目に焼き付けろと訴えてきた。
だから現場を目撃した雪に思いっきり飛び蹴りを食らわされ、ピンク色の記憶がこの頭から消し飛ぶくらいに殴り続けられても仕方がなかったんだと思う。やっぱり雪はずっと妬いていたのだ。なんともかわいい話ではないか。雪のパンチとキックは、慣れてなどいないはずなのになかなか良いものを持っていたが、腕力とキレに裏打ちされた祭のそれに常日頃さらされている自分にはそれほど堪えはしなかった。むしろ自分を好いているがゆえの裏返しが、あの一撃一撃にこもっているのかと思うと、それがあんなに大人しくて弱々しい雪がたまりかねてしていることなのかと思うと、どこか愛おしいものを感じずにはいられない。だから殴られて少し喜んでいる自分は決してMの気があるわけではないはずだ、と柊は己に言い聞かせた。
そう結論づけて、柊は影の落ちる昇降口に吸い込まれていく。照りつけている陽射しが途絶え、汗を吸ったシャツに張り付かれた不快な肌に冷やされた空気が心地よく触れる。下駄箱が並んでいる薄暗い空間で、一陣の生徒達のざわつく声が聞こえてきた。
2−Dの下駄箱前に置かれた古びたすのこを取り囲むように人だかりができている。周囲を取り囲んでいるのは柊と同じく体操着を着ている女子生徒が大半で、それを遠巻きに男子が様子を伺っていた。
柊はほんの少し野次馬根性を出して、人だかりの中心に目を向けた。
ぐったりと下駄箱に背をあずけ、しゃがみこんでいる体操着姿の雪とその隣でおろおろと狼狽えている同じく体操着姿の祭がいた。柊は慌てて人だかりを左右にかき分け、二人に駆け寄る。
「お、おい、小松原、大丈夫か!? 祭、どしたんだ!?」
「あ……た、たぶん、貧血起こしたんだと」
さっきの授業、女子はテニスをしていた。気温が最も高くなる午後一番の炎天下にさらされて、か弱い雪が貧血を起こすのも無理はないように思う。
「そういえば小松原さん、さっきの授業すっごい張り切ってたもんね」
「ね。それにあんなにテニス上手だったなんて知らなかった」
「私、職員室行って先生呼んでくるね!」
柊の後ろで話しはじめた女子の一人がその言葉とともに、職員室に向かって廊下をかけていく。
いつもなら我先にといわん勢いで、誰かがそんなことを言い出す前に雪を運んでいきそうなものなのに。そう思って祭に目を向けた。
祭もこちらを見ていた。運ぶのを手伝え、ということなのかもしれないと思ったが、祭はすぐに視線を逸らしてしまった。雪を運ぼうとする素振りはみせず、頰が少し赤い。
やっぱりこいつ、風邪だろうなと柊は思う。
だが、それよりも今は目の前で苦しんでいる雪だ。手をこまねいて見ているだけでいいのか、という思いが頭をよぎる。
この調子だと祭には期待できそうもない。そうとなれば、保健室に抱えあげて連れて行くのは彼氏である自分の役目だと思う。だけど、雪に本当に触れていいのか。昼休み雪には散々パンチもキックもお見舞いされた。肌だって触れ合った。だがそれでなにが解決したのだ。こちらからは一切触れていないではないか。今日起こった出来事だけで何をもって大丈夫、などといえるのだ。それに抱きかかえるともなれば、べったりくっつくことになるのだ。霞む意識の中で雪が自分のことを認識していたとしたら。その先はどうなるかなんてわからない。なにもリスクを負ってまで自分が運ぶ必要はないじゃないか。このまま黙って待っていれば、知らせを聞きつけて職員室から駆けつけた教師が対応してくれる。
そう思い至ったところで、なにもかもを見透かしたかのような問いかけを、もう一人の自分が投げてきた。
もし目の前に倒れているのが祭だったら、お前は迷わず抱え上げて一目散に保健室まで運んでいくんじゃないのか。『幼馴染』などという肩書きが、まるでその役目を全うする正当な権利であるかのように主張し、なんの躊躇もせずに保健室に連れて行って祭を介抱するんじゃないのか。そのくせ、現実に目の前で倒れている『彼女』に対しては堂々(どうどう)たる権利を放棄して、いつものように言い訳を並べて、雪に近づけないのは仕方のないことだと逃げて、祭のことばかり心配して、祭のことなら身を粉にして、祭のことならなんでも知った風な顔をして、そんなことだから雪は隠していた嫉妬に揺れる炎を激しく燃え上がらせたのだ。
そいつは留まることなく、続ける。
それにこのまま放っておけば雪は職員室からやってくる、むさくるしい中年男性教諭の手によって保健室に担ぎ込まれるのだ。かわいい雪の体操着から露出している張りのある白い肌を、脂ぎった手で撫でまわすように抱え上げ、教師という職権を武器に無抵抗の雪の柔らかな腿や胸をこれを好機にとまさぐるかもしれない。それでお前はいいというのか。それでお前の彼女は納得すると思うのか。ならばそこで指をくわえて事の成り行きを見守っていろ、この臆病者!
ピシャリと言い放って、そいつは消えた。
驚いた。
同時にふつふつと湧き上がるものを柊は感じた。
雪は勇気を出して、意思を行動に示してくれたではないか。触れれば固まる呪縛と立ち向かい、怒りを形にして、その想いを自分にぶつけてくれたではないか。殻を破って不器用ながらも自らを変えようとしてくれている雪に対して、この状況下でいつも通りに臆病風に吹かれ、立ち上がらずして己のなにが男か。なにが彼氏か。
柊は開いていた両の手を握りしめ、力を込める。腕を滴り落ちた汗が、古びたすのこに染み込んで溶けた。
どこか調子が良くないであろう祭が、隣で狼狽えている。
職員室に向かった女子の足音が、どんどん遠くなっていく。
異常なまでの汗を流し、しゃがみ込んで息を切らしている雪がいた。
臆病風に吹かれていていいはずがない。
「お……俺が小松原を保健室に連れていく」
震えないように注意を払って声を口にする。膝はほんの少し震えていた。
「そ、そうだね、上本くん彼氏なんだし連れてってあげなよ」
「うんうん、その方が小松原さんも嬉しいと思うよ」
この非常事態にありながら、周囲から向けられる視線が好奇のものに変わるのを柊は感じとる。
人だかりを見かけた時、なにか面白いものが見れるだろうかなどと無責任な期待を抱いた数分前の自分を呪い、その戒めの矛先が今の自分に向いているような気がした。
馬鹿野郎。今一番しんどい思いをしているのは誰だ。目の前の雪だろう。
揺らぐ心に叱咤が飛んできた。
焚きつけられた柊は、下駄箱に背をあずけてぐったりしている雪と対峙する。
額から大量の汗が流れ、髪の先が頰にべったりと張り付いていた。前髪がかかって表情は読み取れないが、頰の色が青白く、唇の色は紫になり、息づかいも荒い。
ゆっくりと雪の華奢な肩に手をかける。
その瞬間、柊の手を爽快感のある気体の感触が襲い掛かった。なにごとかと視線を旋回させる。
隣で顔を真っ赤にさせた祭が、清涼スプレーを雪の上半身に向けて噴射していた。
「お、お前何やってんだよ!?」
「えと、そ、その……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
理由は告げず祭は謝罪の言葉を連発しながら、雪の身体中にスプレーを噴射し続ける。
「謝るならやめろよ!」
こいつはいきなり何をしているのか。熱のあまり普段から緩んでいる頭のネジが何本か抜け落ちたのではないかと思う。
柊は気を取り直して再び雪と対峙する。祭が顔を赤くしたまま、あわあわと先ほどまでよりも激しく狼狽えながら、不安そうな目を頰に投げかけてくる。無視して、雪の頭に手を回した。少し抱きかかえ上げてから、いくら雪が小柄で軽いとはいえ保健室までの距離を乗り切る腕力が自分には備わっていないことに気づき、柊は雪を一旦すのこの上へと下ろす。その要領の悪さに周囲を取り巻いている視線が好奇のものから、一気に不安へと変わった。
柊はその視線を一身に受けながら、どうにか雪のことを背負いあげた。
女の子の香りと柔らかな感触に包み込まれる。
肩越しになだれおちてくる雪の髪の先が柊の鼻をくすぐり、髪に染み込んで残っていたリンスの匂いが鼻腔をくすぐった。
雪の腿の柔らかさとすべすべの肌が、手のひらを覆う。
力の抜け切った雪が自分の背中に全身をあずけている。
背中に押し付けられるように存在している雪のバストの感触が柊の理性を崩壊させようと襲い掛かってくる。体操着の布二枚越しに雪が身につけている下着の感触があった。それでもなお感じとれる雪の胸の柔らかさに、思考がとろけそうになる。こんなにも柔らかい部分が人間の体に存在することを初めて知った。いくつかのクッションを挟んでこれだ。もし服も下着も取っ払って直接触れようものなら、一体どんな感触がするのか。マシュマロなど目ではないと思う。こうなると何もかもが性的なものに感じられてしまう。雪が耳元で発する荒い息づかいがやけに色っぽく感じられた。雪の頰を伝って首筋に流れ落ちてくる汗も、汗を大量に吸い込んだ雪の体操着の感触も、なんだかいやらしいもののように感じてくる。
なにをしている、それではむさくるしい中年男性教諭となにもかわらないではないか。一刻も早く苦しんでいる雪を保健室に連れて行って、介抱してやれこの愚か者。
愚息は事態を顧みずにいきり立とうとし、柊は崩壊の進む理性でねじ伏せようと立ち向かう。が、思春期の欲望の前に理性は劣勢であった。
柊は不自然に前のめりになりながら、周囲に悟られないようにと真顔をつくろい、
「祭、小松原が貧血起こしたってことと、次の授業に俺が遅れるかもしれないってこと言っといてくれ」
顔を真っ赤にさせて頰を両手で覆い隠している祭に伝え、斜め45度の姿勢を保ったまま、可能な限りの急ぎ足で保健室のある北棟校舎へと向かった。




