11.おまたせ
習慣とは、恐ろしいものである。
今朝、雪はお昼に食べる弁当の支度をしようと朝の六時半に目を覚ました。目覚めたばかりの意識は見慣れない天井と家の配置を見事に素通りし、洗面台で顔を洗い鏡の向こうに映った姿とにらめっこをして、ようやく昼の弁当の支度をする必要も六時半に起きる必要もなかったことに気がついた。寝直す気にもなれず、雪はテニス雑誌が占領している勉強机の隅のアパルトヘイトの一画のような狭いスペースで、使用形跡のない綺麗な参考書を開き時間を潰した。
そして、いつも通り八時になる五分ほど前に家を出てしまった。祭がいつも遅刻ぎりぎりにやってくることは周知の事実であったはずなのに。そのせいで朝から早々(そうそう)に柊に訝しむ目で見られ、いたたまれなくなり教室を飛び出して一番近いトイレの個室で鐘が鳴るぎりぎりまでやり過ごすことになった。戻ってくると見事なまでの平常運転をしている祭の姿に、雪はますます不安にかられた。きつく言うわけにもいかず、やんわりと釘を刺しておいたが、自分の不慣れな金槌の振るいかたでどの程度の効果があったかははなはだ疑問の残るところである。そんな調子の祭と柊を二人っきりにすることに不安を感じ、勇気を出してどうにか昼食に混ざることはできた。さすがに週末のデートまで首をつっこむわけにはいかないのだろうけど……
木陰が落ちるいつものベンチに座り、美咲が作ってくれた弁当箱を膝に乗せ、雪がぼんやりと考えにふけっていると、柊がパンの袋をいくつか抱えて近づいてきた。
「おまたせ」
「う、ううん……ゆ、雪は?」
「トイレいくから、先に行っててくれって」
ジャムパンの包装を破って、柊が遠慮のない距離にどかっと腰を下ろす。肩が触れそうになる。思わず距離をとった。
それを見た柊が怪訝な顔をこちらに向ける。ねめつけるような視線を頰の辺りに感じる。雪は居心地の悪さを感じながら弁当箱の包みの紐を解き、何気ない風を装って箸をおかずにのばしはじめる。その様子をじーっと見た後、柊はようやく視線を前に戻してジャムパンを一口かじり、
「祭、俺になんか隠してるだろ?」
雪は卵焼きをつかみ損ねた。
「な、なにが……?」
「なんか、さっきから俺のこと避けてるし」
柊が身を乗り出すようにして、こちらに視線を向けてくる。
「そ、そ、そんなことないよ……」
雪はその視線と距離に仰け反り、頬を赤くしながら答えた。
少しの間があった。
柊の右手が顔に向かって伸びてきた。右に躱す。
疑惑の視線。
交わした方向にまた柊の手が伸びてくる。左に躱す。
柊がムキになって立ち上がる。雪も立ち上がった。
柊がこれ以上ないくらいの疑いの眼差しを向けてくる。
間違いなく怪しんでいる、と雪は思った。ここに来るまでの間に祭となにかあったのかもしれないし、釘を刺すまでの祭の行動に疑いをもっていたのかもしれない。自分も努めて祭を装ったつもりだが、果たしてどこまで自然に見えたかはわからない。やはり祭のことをよく知る幼馴染から言わせれば、色々と引っかかる部分が多かったのかもしれない。
どうしよう。
なにか手を打たなければいけない。祭はまだ現れる気配を見せないし、自分一人でフォローする方がややこしくならずに済むようにも思った。そして雪の頭の中を、昨日祭が言い放った物騒な一言がかすめていく。
ーーもしシュウが疑ってきたり、何か言いがかりつけてきたら、殴って黙らせればいいのよ!
だけど……と思う。
口の中の唾液を飲み下し、雪は逡巡する。
やれるのか?
他人を、男の子を、大好きな柊のことを、自分に殴れるのか? 生まれてこのかた誰かを殴ったこともないし、この先ずっと死ぬまで誰かを殴ることなどないと思っていた、事なかれ主義のこの自分にやれるのか?
柊の方を伺う。変わらぬ疑惑の眼差しがそこにあった。
いや、やるしかないのだ。ここまで柊にしつこくされれば、祭はきっと手か足、下手をすればその両方を出しているはずである。ここで殴らなければ、柊の中で色濃くなっている疑惑を決定的なものにしてしまうだけだ。
殴るしかない。
雪はそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと拳を握りしめる。握りこぶしを作るのなど、ジャンケンの時と年に一度行われる体力テストの握力測定の時くらいな気がした。怒りではなく恐れに震える拳をかざし、どこにぶつけようかと考えた雪は、そこでふと気付いた。
殴るということは柊に触れるということではないか。
もし自分が柊を殴って、柊に触れて、この炎天下のなか顔を真っ赤にさせて不自然に凍りついたとしたら。そうなれば、まさしくなんの言い訳もできなくなってしまう。抱えている疑念と目の前に起こった出来事を繋ぎ合わせ、何もかもを悟った柊に、逃れようのない一言を突きつけられ、どこからともなく現れた黒づくめの男たちに柊ともども取り押さえられ、スモークガラスの張られた怪しいバンに引きずり込まれ、秘密を漏らした罰として人目のつかない山奥で二人仲良く闇に葬り去られるのだ。
かといって何もしなければ、それはそれで疑惑をより黒へと傾けるだけだ。どうすればいい。考えないと。
雪は思考を振り絞る。
縋るように地面に目を落とし、そして一つの解を得た。
け、蹴るしかない。
大丈夫だ。なにも問題はない。足は靴で覆われている。祭は柊を蹴ることもよくあるし、むしろこういう形勢が柊側にある時こそ、祭は蹴りを使うことが多いように思う。なにももろにぶつける必要はないのだ。蹴りなら多少外してしまっても、それほど違和感ないはずだ。靴の先で相手を牽制する程度でもいい。とにかく、自分がいつもの祭となんら変わりないことを柊にアピールできればそれでいいのだ。
雪は覚悟を決める。
右足を後ろに振り上げ、左足を軸にし、疑惑の目を向け続けている柊に向かって、
「な、な……なんでも、ないって、い、い……言ってるでしょ!」
普段の祭からは想像もつかないようなぶつ切りの情けない怒鳴り声を投げかけ、それを見ただけで普段の祭ではないなと判断できるであろう実にぎこちのないハイキックを繰り出した。
宙で波打った靴の先が、ちょこんと柊の制服の袖に触れて止まる。その威力も見栄えもひどいものであったが、いつもより柔軟性に優れている体のコントロールを誤ったのか、振り上げた右足の高さだけが雪のイメージを大きく上回っていた。
目を見開いている柊の顔があった。
「ま、祭……お前……」
生まれて初めて目の当たりにした、という顔をしていた。
終わった、と雪の心が呟いた。
勇気を出して放った言葉も蹴りも、いつもの祭のものには到底およびもしなかった。柊の目にはなにもかもが不自然に映ったと思う。たったの一日だ。いや、正確にはまだ二十四時間すら経過していない。
やばい組織が関わっていると言っていた。
他言無用と言われていたのに。
きっと相当残酷な処刑のされ方をするに違いない。山の中に埋められるとか、海にコンクリートで固められて沈められるなんていうのはまだかわいいもので、得体の知れない実験のモルモットにでもされて苦しみながら惨めに生涯を終えることになるかもしれない。教室で大人しく一人弁当を食べていればよかったのだ。ノコノコとついてきて決定的な証拠を見せつけて。墓穴を掘るとはまさにこのことではないか。
雪が後悔に駆られるなか、柊がゆっくりと続く言葉を口にする。
「パ、パンツ……見えてるぞ」
「……………………………………………………………………え?」
中庭の背景に溶け込んでいたはずのセミの鳴き声が、音を大にして雪の意識に飛び込んでくる。
祭がいつもインナーパンツを着用していることは知っていたはずなのに。祭のスカートを履いた時、その丈の短さに心許なさを感じたはずなのに。インナーパンツを履き忘れないようにしなければいけないと思ったはずなのに。
習慣とは、かくも恐ろしいものである。
インナーパンツを着用した記憶が頭のどこをひっくり返してもない。
どこまでも青の広がる空に、ぎらつく太陽が浮かんでいる。
木陰の落ちる場所とはいえ、汗が頰を伝うのはおかしいことではない。
ないのだが、その頰を伝う汗が異常なまでに冷たかった。
記憶だけがすっぽりと抜け落ちていればいいのにと思った。
そう願って、雪は視線をゆっくりと下げる。
心許ないと思っていた短いスカートがあられもなく捲れあがり、見えてはいけないはずのピンクの布地が白昼の下に堂々と顔を見せていた。唯一、イメージを上回った右足の高さが皮肉にしかなっていなかった。力を失い、よろよろとおぼつかない調子で右足が地面にゆっくりと着地する。それと同時に柊は反射的に防御の姿勢をとった。きっと、祭なら柊の頭の中からピンク色という概念そのものが消し飛ぶまで殴り続けたんじゃないかと思う。そう思い至ったが、これ以上祭を装う気力など雪には残されていなかった。
上本くんにパンツを見られた。
その言葉が雪の思考にまとわりついて離れない。思考はもはや五感から受け取る情報に対してなんら反応を返さず、読み取り専用のものと化していた。
上本くんにパンツを見られた。
思い描いた拳が伸びてこなくて呆けた顔でこちらを見つめる柊の姿があった。
上本くんにパンツを見られた。
猛スピードで駆けてくる誰かの足音が耳に飛び込んでくる。
上本くんにパンツを見られた。
慣れ親しんだ己の姿があんぱんと紙パックの牛乳を握りしめ、見事な飛び蹴りとともに視界にフェードインしてきた。
上本くんにパンツを見られた。
くの字に折れ曲がる柊とジャムパンが空を舞っていた。
上本くんにパンツを見られた。
止めなければいけないのに、どうすることもできなかった。思考は五感が伝える全ての情報を垂れ流し、まとわりついた言葉が縦横無尽に駆けている。
上本くんにパンツを見られた。




