13.嫌な予感がした
入れ替わり生活初日の放課後を無事に迎えた雪は、まず初めに保健室に足を運んだ。
祭はやはり貧血だったらしく、様子を見に行くと冷房の効いた快適な空間の真っ白なベッドの上で気持ちよさそうにぐっすりと眠っていた。養護教諭の中田梨香子が、だいぶ顔色も良くなってるし起きて調子が良さそうなら帰宅させる、と言ったので雪はほっと胸をなでおろして保健室を後にした。
このままいつものように図書室によって読書をするか、帰宅して母と一緒にゆっくりお菓子作りでもできればいいのだが、もちろんそういうわけにはいかなかった。昼休みを終えてもなお向けられる柊からの疑いの眼差しに、雪は可能な限り普段の祭と変わらぬ形で一日を終えなければという思いにかられていた。
今の自分は『小松原雪』ではなく、『五十嵐祭』なのである。
そして祭は女子テニス部の部長であり、大のテニス好きである。それは万人の知るところであり、よほどの理由があっても部活を休まないように思えるほどであった。
期待できないことは承知の上で、空を見上げた。
憎らしいくらいにテニス日和である。
こっちの都合なんて微塵も顧みず、一面の青にのうのうと浮かんでいる太陽を雪は少し恨めしく思った。
今の自分が『五十嵐祭』であるならば、このまま帰宅するわけにはいかない。
とはいえ、雪にテニスの実力は備わっていない。桜にも言われていたことではあったが、体は祭のものではあってもコントロールするのはあくまで雪の脳である。走ったり飛び跳ねたり、普段から雪も行うような単純な動作であれば、いつもの祭に近いことができるのだが、昼休みのように慣れていない動きを上手くこなすのは無理なのだ。あくまで一流になったのは身体能力だけである。テニス経験などとんとない雪にはサーブもボレーもストロークも素人同然のことしかできない。それは五時限目の体育の授業でもよくわかった。
だが、雪にはきちんと算段がある。
腕力も脚力も持久力も柔軟性もこの体には備わっている。今の雪は短距離を走るのも長距離を走るのもいつもより早く駆け抜けられるし、いつもより高くジャンプすることだってできる。いつもならできっこないY字バランスだってもしかするとできる、かもしれない。
幸いなことに五時限目の女子の体育はテニスで、軟弱な己の体を見事に使いこなす祭に指導してもらい、ばたついたものではあるがお遊び程度のラリーなら多少なりとも続けられるようになった。女子テニス部の練習は自由なものらしく、メニューはほとんど自分で決めて問題ないらしい。後輩への指示出しは副部長の鶴岡志保が率先してくれると祭は言っていた。ならば、軽いラリーでお茶を濁した後、何か理由をつけて筋トレや走り込みの基礎練習に取り組んでしまえば、柊にはあたかも祭がいつも通り部活動に励んでいるように見えるのではないかと雪は考えたのだ。
元気系の女子が賑わう部室の雰囲気は雪には少し慣れなかった。見覚えも名前も知らない女の子たちから元気良くかけられる挨拶に雪はどうにか笑顔を作って返し、祭がいつも愛用しているテニスウェアに着替えると、陽光の落ちるテニスコートへと出た。
まだ人の少ないコートの外周を軽く走ったあと、隅の方で入念にストレッチを行う。体がリラックスしてくると、頭の中をいろんなことが駆け巡っていく。いつもより指先が遠くまで伸びる長座前屈をしながら、雪は思いふけった。
結局入れ替わった事実を隠すのに精一杯で、祭が言ったような柊との仲を縮めるチャンスにはなかなか持っていけずにいる。
やっぱり無理があるんじゃないだろうか。
相変わらず柊とは目を合わせられないし、近い距離にこられるとビクついたり反射的に距離をとってしまう。祭の体になったとはいえ、やはり自分のこの思考である限り柊と自然に接することはできないのだ。
そう考えたところで、貧血に陥った己の体を前のめりな姿勢で背負う柊の姿が頭に浮かび上がった。
思わず身体中が熱を持つ。
自分の体があんなにべったりと柊の体に密着するところを目撃することになるとは思いもしなかった。汗臭いなどと思われはしなかっただろうか。気が動転するあまり苦しんでいる祭には申し訳ないことをしたとは思うが、ああせずにはいられなかった。
足をほぼ180度に近い状態に開いて、雪は開脚前屈に移る。
柊の背中に抱きつくように自分の体がくっついていた。胸は形が崩れるくらいに柊の背中に押しつけられていたし、露出した腿に柊の手があった。それもクラスメイトが取り囲む中でだ。あまりの恥ずかしさに目の前の光景を直視することができなかった。
だけど、柊が保健室まで背負っていってくれたことは素直に嬉しかった。柊が駆けつけてきた時、そのことを心のどこかで期待している自分がいたんだと思う。だからあの時の自分の体に、この人格が宿っていなかったことは、ほっとする一方で残念でもあった。
右、左と終えて、真正面に上体を折り曲げる。お腹がピタッと地面にくっついた。地熱がゆっくりとテニスウェアの繊維を伝い、じんわりと熱を感じる。
柊の背中もこんな風に温かいのだろうか。本当は自分も柊に触れたいのだ。こんな風にピタッと柊の背中に我が身をあずけてみたいと思う気持ちだってある。自分は柊の彼女であり、柊のことが好
「まつりー」
いきなり背後から柊の声がした。
「な、な、な、な、なに?」
雪は慌てて立ち上がると、体を反転させて柊の方を向きなおり、数歩後ずさって背中をフェンスに軽くぶつけた。
「……なに慌ててんだよ」
こちらを見る柊の目が細くなる。
「べ、べつに! なんでもないよ」
雪の目はあからさまに泳いでいた。
柊はその様子をしばらく伺った後、軽いため息を一つ吐き、
「清隆が混合ダブルスしようって。鶴岡さんにも声かけといたから、アップ終わったら向こうのコートに集合な」
なにか言う暇も与えてくれずに、先に指定のコートへと向かってしまった。
こんごうダブルス。
なんだろう、と思った。
頭の中で変換していく。
今号、金剛、混合……
嫌な予感がした。
「五十嵐っー! いくぞー! 今日も容赦しねぇからなー!」
ネットを挟んで対峙している清隆がラケットをこちらに向けて、威勢のいい声を張り上げてくる。
こんなことさせられるなんて聞いていない。
自分は女子部員と軽くラリーを打ち合い、柊がそれを確認したあと基礎練習に励むのが予定していたシナリオだったはずだ。それがなぜ180センチを超える巨漢の男と対峙しているのか。何かの間違いだと思う。きっとこれは夢の中なのだ。実は六時限目の授業で居眠りをしてしまって、放課後の部活動をどう乗り切ろうかと考えている潜在意識が不安だけを拾い上げてしまった結果生み出された夢なのだ。きっとそうだ。
雪が現実逃避をはかる中、清隆は無情にもボールを天に向かってゆっくりと掲げあげ、体を弓なりにしならせた。
こないでほしい、容赦してくれ、フォルトになれ、ボールを打った瞬間に清隆のラケットが真っ二つに折れてくれればいい、目の前にあるネットがバレーボールくらいの高さまで上がってほしい、今すぐにどしゃぶりの雨を降らせてください。お願い神様。
今さら逃げ出すわけにもいかず、雪は天に祈るより他なかった。
宙に舞い上がったボールを、容赦なく振り下ろされたラケットが打ち抜く。
ものすごい音がした。
こないわけがなく、容赦のかけらも見せず、フォルトになってもくれず、清隆のラケットはボールを打ち抜いてもなお健在であり、目の前にあるネットは微動だにせず、雲ひとつない青空に太陽が罪のない顔をこちらに向けて浮かんでいた。
神様は無慈悲だ。
雪がそう思うと同時に、弾丸のような勢いで放たれたボールがサービスエリアにバウンドして跳ね上がってくる。左右の目は確実にその軌道を捉えて雪の脳へと伝えたが、なにひとつ反応を返すことができなかった。足は地面に根をはり、身動きひとつできない雪の顔の隣を、楕円型に潰れた殺人ボールが猛烈なスピードで駆け抜ける。その軌道をたどるように吹きつけた風が頰をかすめ、柑橘系の香りが漂う髪を大きく揺らせた。
雪の代わりに殺人サーブの餌食となったフェンスが背後で盛大な音を立てる。
「しゃーーー!!」
清隆が歓喜の雄叫びをあげる。
雪は顔が青ざめるのと同時に膝ががくがくと震えているのを感じた。
一歩も動けなかった。
動けるはずもなかった。
お前は『五十嵐祭』ではないのだ。
そう突きつけられた気がした。
なにひとつ戦力になれず、ストレートでワンゲーム取られたところで、柊が早々に棄権を申し出た。
「ごめんなさい……」
コートの外に出て、雪は柊にすぐに謝った。俯いて、謝ることしかできなかった。
「…………」
柊はなにも言わない。
怒っているのか、それとも……
お前、祭じゃないだろ。
その言葉が喉元まで出かかっていて、柊自身も言うべきか言わざるべきか葛藤しているのかもしれない。
不安にさらされ、上目遣いに柊のことを伺う。視線が交差してしまい、雪は慌てて目を背けた。顔が熱を帯びるのを感じる。そして、雪は思う。
自分はなにをしているのだろう。
空回りばかりして。
いつもそうなのだ。
ウジウジとやるかやらないか散々悩み、結局怖気づいてやらないことを選択し、後悔する。その後悔を糧に今度はやろうと決める。するとそれが裏目に出て、また後悔する羽目になる。どうして自分は動いてしまったのか。じっとしていれば、無難にことが過ぎたはずなのに。動いたから痛い目をみることになるのだ。なにもしなければケガをせずに済んだのに。負ったケガの痛みを無視できる強い精神力もないくせに。そして、チャレンジすることをどんどん恐れるようになる。負のスパイラルだ。
過去の後悔の数々が雪の頭の中を流れていく。
後悔に苛まれる思考の中、ぼやけたコートの緑を見つめていた。
隙だらけになっていたんだと思う。
額が自分のものではない熱を感じとっていた。
熱の正体は少しごつごつとしていた。
無数の後悔に襲われていた雪の頭が、ふと現実へと戻される。
蛍光色のボールを打ち合うラケットの小気味よい音が耳に飛び込んでくる。
ぼやけていたコートの輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。
こちらに向かって手を伸ばしている柊の姿があった。
伸びてきた手のひらが、覆い被さるようにぴったりと額にくっついていた。




