第5話
外はまだ薄暗く、天井の奥で換気扇の音がしていた。
同じ音で、止まらない。
翔馬は布団の中で目を開けていた。
指先だけが遅れて動き、布の感触が指に残った。
「起きてるな」
近くで声がした。
返事をしようとしたが、喉が動かなかった。
「……おい」
換気扇の音だけが残った。
畳を擦る音が、近づいてくる。
「そのまま転がってる気か」
翔馬は返事の代わりに、布団をまくって肘をついた。
布団の足元で、甲斐がしゃがんでいた。
翔馬と目が合うと、甲斐はすぐに立ち上がった。
部屋から出て、振り返る。
「おい。荷物持て。ついて来い」
顔に何かが当たった。
翔馬は反射的にそれを払う。
足元に、薄いタオルが落ちた。
「それも持ってこい」
部屋には、それぞれの布団が畳んであるだけだった。
少し遅れて身体を起こし、作業着を掴んで羽織る。
昨日のままだ。
乾いているはずなのに、臭いが残っている。
布団を畳み、外に出る。
「ひでぇ顔だな。ついてこい」
甲斐は顎を振って、前に進んでいく。
翔馬は顔を伏せたまま、その背中を小走りで追った。
「昨日シャワー浴びてねぇだろ。くせぇんだよ」
甲斐は、狭い路地の奥を指した。
アルミの枠を組んだ細長い建物が、簡易トイレの列の奥にあった。
「ほら。ここだ」
甲斐がアルミドアを開ける。
翔馬が中を覗くと、すぐ足元に靴箱があり、細長いすのこが奥まで続いていた。
狭い通路の先で、カーテンが脱衣場を仕切っている。
さらに奥に、シャワー室が並んでいた。
翔馬は靴を脱ぎ、すぐそばの半開きになったカーテンを開ける。
小さな棚が置いてある。
奥の開いたシャワー室には、機械から伸びるシャワーノズルがかかっていた。
「時間制だ。端末をあそこにかざせ。五分も出ねぇからな」
翔馬はカーテンを閉めて、棚に荷物を置いた。
濡れたすのこで靴下が湿る。
服を脱ぎ、言われた通りに端末をかざす。
短い電子音が鳴る。
次の瞬間、勢いよく冷たい水が落ちてきた。
手がシャワーノズルへ伸びる。
肩に冷水が当たり、首から背中へ流れた。
息が止まる。
外から、笑い声が聞こえた。
遠い。
「最初は全部そうだ」
甲斐の声が、壁越しに届く。
冷水はまだ続いていた。
指先が痺れる。
しばらくして、ぬるさが混じり、ようやく湯になった。
棚の液体ソープを手に取り、身体を洗う。
濁った泡が、排水口に吸われていった。
五分も経たず、水は止まった。
シャワー室の中で身体を拭く。
拭いた場所から、冷えていく。
脱衣場で作業着に着替える。
鏡の前で、足が止まった。
映った顔と目が合う前に、逸らした。
「おい! 食堂行くぞ!」
外から声が飛ぶ。
「ぼさっとしてると混みやがる」
甲斐は、もう歩き出していた。
路地を抜ける途中、翔馬は前だけを見て歩いた。
甲斐が横目を向ける。
「……アイツ、やべぇだろ」
翔馬は答えなかった。
「俺も樋渡は好きじゃねぇ」
翔馬は顔を上げた。
「あの人も、自分みたいに借金でここに来たんですか」
甲斐は少しだけ顔を向けた。
「借金だけが理由の奴ばっかじゃねぇ」
すぐに前を見る。
「けどな、ここじゃ過去を聞くのは御法度だ」
翔馬は顔を伏せた。
「アイツには関わるな」
甲斐はそれだけ言って先へ進み、二人は無言のまま歩いた。
路地を抜けると、匂いが変わった。
油と、湯気。
「夜、なんも食ってねぇだろ」
「今日も潜る。食えるだけ食っとけ」
鉄骨に帆布を張ったテント倉庫があり、まくり上げられた入口から甲斐が中に入っていく。
食堂は混んでいた。
長机には作業着姿の男たちが並び、箸の音だけが続いていた。
甲斐の後ろでトレーを受け取り、盛り付けられた器を順に乗せる。
空いた席を探していると、甲斐が顎を軽く上げた。
示された先に、黒川たちがいた。
長机の端を占め、黙って食べている。
翔馬は、甲斐の隣へ腰を下ろした。
黒川は顔を上げて、翔馬の方を向いた。
「飯、食えるなら回せるな」
樋渡の姿が視界に入る。
翔馬は、目を逸らした。
三枝の箸が止まる。
「当面、同じ班です」
食事を終え、トレーを返す。
再びコンテナ街へ向かうと、湯気の匂いは外で薄れた。
貸し倉庫の前で、装備が配られる。
翔馬も、防具を受け取った。
重い。
金属の冷たさが指に残り、留め具に手間取る。
無言で甲斐が手を伸ばし、直した。
「ほら」
黒川が振り返る。
「甲斐。今日は翔馬、頼むで」
「分かってる」
甲斐は翔馬の胸元の留め具を指で弾いた。
「今日は後ろだ。荷物持って、獲物捌いてろ」
翔馬は頷く。
「前に出なくていいんですか」
「出んな。邪魔だ」
三枝が、防具の紐を整えながら言った。
「焦らなくていいですよ。分け前は等分ですし」
翔馬は顔を上げた。
三枝の手は、防具の紐にかかったままだった。
「最初は皆、そんな感じです」
甲斐が鼻を鳴らす。
「死なれたら面倒なんだよ」
それから、翔馬の肩を軽く叩いた。
「後ろにいろ」
甲斐の声が、少し落ちる。
「……アイツには近づくなよ」
甲斐の視線の先で、樋渡が防具をつけていた。
「それじゃあ、行くで」
黒川が前に出る。
樋渡は、列の端へ入った。
翔馬は、黒川の背中を見る。
足が前に出た。
防具の留め具が、歩くたびに小さく鳴った。
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