表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第4話

 帰り道のことは、ところどころ抜けていた。


 荷物の精算をした。


 端末は見なかった。


 精算所を出て、翔馬はそのまま歩いていた。


 肩のあたりに、まだ重みが残っている。


 担いでいた袋は、もうない。


 それでも、肩に食い込んだ跡だけが残っていた。


 背中を、強く叩かれた。


「おら。初給料だな」


 甲斐の声だった。


 翔馬は顔を上げる。


 先を歩いていた甲斐が、顎で翔馬の腕を示した。


 翔馬は、手首の端末を見た。


 数字が出ている。


「こ、こんなに稼げるんですか」


 語尾が、少し浮いた。


 その声に、甲斐が振り返った。


「なに言ってんだ。お前、契約書ちゃんと読んでねーな」


 甲斐は戻ってきて、翔馬の手首を掴んだ。


 端末の数字を指で弾く。


「それは、お前の借金額だ」


 翔馬は数字を見た。


 もう一度、見る。


 頭の奥で、あの虫の形が戻ってくる。


 長すぎる前脚があった。


 体液が、殻の隙間に滲んでいた。


 切り取った部位の感触だけが、手袋の内側に残っている。


「……増えてます」


 声が、喉に引っかかった。


「なんで……」


 甲斐はため息をつき、翔馬の肩に腕を回した。


「飯食うにも、寝るにも、この作業着にも金はかかる」


 甲斐は、作業着の肩を軽く払った。


「外じゃねぇんだぞ。気張れや」


 声が少し低くなる。


「怪我するぞ」


 その言葉で、斧の音が耳の奥で鳴った。


 肩に残っていた重みが、別の硬さに変わった。


 翔馬は、また歩き出した。


 足だけが前に出る。


 コンテナの列。


 人の流れ。


 肩には、まだ袋の重さだけが残っている。


 誰かの肩に当たらないよう、身体をずらす。


 気づいた時には、長屋に戻っていた。


 作業着は汚れたままだった。


 上着だけをかけ、そのまま布団を敷く。


 横になる。


 玄関の方で、ガラス戸が開いた。


「悪いな。色々片付けてたら遅なった」


 黒川の声だった。


「飯行こうや」


 畳の上で、何人かが立ち上がる音がした。


 黒川は、敷かれた布団の方を見る。


「あいつ、大丈夫か」


「飯行くぞ。おい」


 甲斐の足音が近づく。


 その途中で、三枝の声がした。


「初日ですから」


 甲斐の足音が止まる。


「今は、少し一人にしておきましょう」


 黒川は、布団の膨らみをもう一度見た。


 肩が少し下がった。


「……そうやな」


 それから、少し声を張った。


「翔馬。腹減ったら、長屋の奥の食堂に来いや」


 誰かが戸を開ける。


 足音が、ひとつずつ部屋から離れていく。


 返事は、していない。


 人のいなくなった暗い部屋で、翔馬は布団の中に丸くなった。


 布団には、染みついた臭いがある。


 自分の汗の臭いの方が、近かった。


 目を閉じる。


 眠気が来るのを、ただ待った。


 押入れの方から、声がした。


 襖の奥だった。


「……こわかった?」


 すぐには、動けなかった。


 布団の中で、肩から背中までが固まっていく。


 斧の刺さった胴体が、目の前に浮かんだ。


 頬を、体液の飛沫が掠めた。


 足元で、長い脚だけがもがいている。


 翔馬は、布団の端を握った。


 布が指の中で寄った。


 布団を跳ねのけ、起き上がった。


 そのまま押入れへ歩み寄り、襖に手をかける。


 鋭い音を立て、襖が開いた。


 中を見る。


 少しずつ、暗さに目が慣れていく。


 押入れの中で、樋渡は膝を抱えていた。


 最初に見た夜と同じ姿勢のまま、口角だけが上がっている。


 翔馬の拳に力が入った。


 目が合う。


 逸らすのが、遅れた。


「……どうかしてるだろ」


「俺を狙ってやっただろ。一歩間違えば、殺してたろ!」


 樋渡は答えない。


 そのままこちらを見ている。


「同じ班だろ。仲間じゃねぇのかよ!」


 翔馬は身体を屈め、一歩近づく。


 押入れの中段へ手をかけた。


 樋渡の口角がわずかに下がる。


「……近いんだよ」


 低く、短い声だった。


 汗で湿っていた背中が、一気に冷えた。


 一歩踏み込むだけの距離だった。


 軸足へ力が入る。


 玄関の方から、ガラス戸の開く音がした。


 部屋の灯りが点く。


 部屋の入口に、安田が立っていた。


「どうかしました? 外まで聞こえてましたよ」


 安田の視線が、翔馬の前で止まった。


 何も言わず、翔馬と樋渡の間へ入った。


 腰を屈め、翔馬と目線の高さを合わせる。


「翔馬さん。落ち着いてください」


 安田は、翔馬の方を見ていた。


「同室の人に、そんな顔するもんじゃないですよ」


 翔馬は一瞬、目を見開いた。


 安田は、樋渡を見なかった。


 翔馬は視線を外し、安田のいない側へ身体を引いた。


 自分の場所へ戻る。


 視界の端で、樋渡が正面へ顔を戻すのが見えた。


 膝を抱えたまま、前を向いていた。


 翔馬は布団に戻り、顔を伏せた。


 布団の中で、鼓動だけが速くなっていく。


 その脈が、枕を通して伝わってくる。


 しばらくして、玄関の方から足音が聞こえた。


 翔馬は布団を握り、さらに身体を縮こませる。


 安田の声がする。


 三人の足音が、部屋の前で止まった。


 誰も何も言わない。


 畳を踏む音が、ひとつずつ離れていく。


 押入れの方で、襖がかすかに鳴った。


 翔馬は布団の端を握ったまま、息を吐けなかった。


 部屋の灯りが、薄い布越しに残っている。


 布団の端は、握った形のままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ