第3話
黒川が前を歩きながら言った。
「なんや。えらい肩に力入っとるな」
振り返りもしない。
声だけが軽い。
「今日は初日やからな。翔馬が慣れるための軽い仕事にしとる。力抜けや」
黒川の背中の向こうから、ゲート前の男が戻ってきた。
担がれていた袋。
そこから滴っていた液体。
暗い通路の先に、空間が少しだけ開けていた。
天井は低く、湿った空気が肌にまとわりつく。
作業着の下で、シャツが背中に張りついていた。
その不快感だけが、はっきりしている。
奥までは見えず、壁だけが薄く浮いていた。
足元へ落ちた水音が、すぐ近くで止まった。
翔馬は息を吸った。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
甲斐が前に出た。
「まぁ、後ろで見てろ。すぐ終わる」
軽口のまま、武器を構える。
翔馬は甲斐の向いた先を追った。
前方から突き出した二本の脚だけが、異様に長い。
節ごとに折れ曲がり、地面を探るように伸び縮みしていた。
その奥に、節くれ立った胴体があった。
殻の隙間から、鈍い光沢の体液が滲んでいた。
動きは鈍い。
だが、前脚だけが不釣り合いに速い。
甲斐が踏み込んだ。
迷いなく、叩き潰す。
鈍い音が通路に響いた。
翔馬の肩に、また力が入る。
長い脚がひしゃげる。
胴体が地面に着く。
倒れたそれは、痙攣しながらも、壊れた機械のように前脚を動かしていた。
「ほら」
甲斐が、切り落とした部位を差し出した。
翔馬は反射的に手を引く。
受け取れなかったそれが、目の前に落ちた。
水気を含んだ音がした。
それはまだ脈を打っていた。
長い前脚の根元から、繊維のようなものがはみ出している。
細かい砂をつけたまま、不自然に蠢いていた。
甲斐が鼻で笑う。
黒川が、素手でそれを拾い上げた。
翔馬の目元へ差し出す。
「よう見とき。これが、わしらの稼ぎや」
黒川はそれを、肩に担いだ袋に放り込んだ。
三枝は別の個体の節に刃を入れていた。
樋渡は外した手斧を拾い、腰に戻している。
翔馬は、手の中の武器を見た。
重い。
握り直しても、持ち方が定まらない。
バットなら、いくらでも振ってきた。
けれど、手の中の重さは違った。
マウンドよりも近い距離で、何をどう振ればいいのか分からない。
「いるぞ」
甲斐が顎で示した。
次の一体が現れた。
同じ形で、前脚だけが長すぎる。
甲斐はもう前へ出ていた。
それも叩き潰す。
その脇で、もう一体の前脚が伸びた。
声は出ない。
息だけが漏れた。
三枝が割って入る。
無駄のない動きで、その一体も仕留めた。
「まだ無理に動こうとしなくてもいいですよ」
穏やかな声だった。
だが、距離は詰めない。
三枝の肩越しに、樋渡が歩いていく。
樋渡が、壁に向かって手斧を投げる。
金属音。
少し遅れて、鈍い音が地面に響く。
翔馬は視線を向けた。
前脚の付け根を、正確に捉えていた。
だが、一撃では止まらない。
樋渡は腰のもう一本を抜く。
そのまま距離を詰めた。
踏み込む。
淡々と、胴体を割った。
「道具を、軽々しく手放すな」
黒川が言う。
樋渡へ向けた言葉だった。
翔馬の手の中で、武器の先が少し下がった。
その瞬間だった。
天井から、何かが落ちてくる。
長い前脚が、先に視界へ入った。
反射的に首だけが引く。
身体も動かそうとする。
だが、足が床に貼りついていた。
喉の奥で、息だけが止まった。
前脚の先が、顔のすぐ横を掠めた。
袖口に、細い濡れた線がついた。
その瞬間、風を切る音が聞こえた。
目の前を、質量のあるものが横切る。
視界が一瞬、切れた。
落下してきた胴体が、足元のすぐ先で崩れた。
胴体に突き刺さった斧が、体液に濡れていた。
翔馬は目を離せなかった。
「油断したら、死ぬで」
背後で、黒川の声が低く落ちた。
「樋渡。そういう動き、前に出てやるもんちゃうで」
黒川は、斧を拾う樋渡の方へ向かっていく。
舌打ちが聞こえた。
翔馬が振り返る。
甲斐は口を開かなかった。
その場に立ったまま、膝だけが笑った。
「……おい」
甲斐が吐き捨てるように言った。
「入る前に言っただろ。無理なら、無理って言えって」
翔馬は顔を上げられない。
「威勢がいいのは体格だけかよ」
甲斐は肩をすくめ、黒川を見る。
「なぁ、おっさん。今日はもうこいつ無理だろ」
黒川は少し黙る。
「……せやな」
翔馬の顔が、少し上がった。
「今日はもう、前には出んでええ。わしの後ろ、ついとき」
それからは、黙って歩いた。
何だか分からない部位を手渡される。
汚れた手袋から、腕に体液が伝ってくる。
袋へ入れる。
触感にも、もう反応しなかった。
帰れない。
続行だった。
翔馬は、黒川の背中を見失わないよう歩く。
声をかけられれば頷く。
それだけだった。
やがて、引き返す合図が出た。
来た道は、もう分からない。
あとどれくらいで出られるのかも分からないまま、脚を動かす。
左右の肩へ、袋が食い込んでいた。
足音が増えていた。
気づいた時には、前方から別の班が来ていた。
先頭を歩く男。
その周囲を囲むように、作業着ではない男たちがついていた。
歩幅が揃っている。
誰も、その男より前には出ない。
「邪魔だ。どけ」
低い声だった。
肩がぶつかる。
脚がよろめいた。
ぶつかった肩の感触だけが残った。
顔を上げようとした瞬間、黒川が無言で翔馬の腕を引く。
翔馬は立ち止まった。
その男たちは、もう通り過ぎていた。
甲斐は目を逸らしていた。
三枝は何も言わない。
樋渡は前だけを見ていた。
「ほな、戻るで」
黒川の声。
翔馬は答えられない。
ただ、歩いた。
明日も、ここに来る。




