第2話
金属が擦れる音が続いていた。
床を引きずる靴底の音。
少し遅れて、どこかで湯が沸く音。
翔馬は目を開ける前に、部屋の臭いを思い出した。
湿った畳の匂いが、古い布団の中まで入り込んでいた。
寝具の肌触りは、まだ身体に馴染まない。
目を開け、体を起こした。
自分以外の布団は、もうきれいに畳まれていた。
空いた布団の跡だけが、畳に残っている。
黒川はすでに起きて、荷物を整理していた。
「起きたか。その作業着に着替えて、朝飯すませたら行くで」
それだけ言って、菓子パンと缶コーヒーを差し出してくる。
翔馬は受け取った。
慌てて布団を畳む。
畳み方が合っているのかも分からない。
棚の下に置かれていた作業着を引っ張り出す。
初めて袖を通す生地には、まだ糊の残る硬さがあった。
指に引っかかる。
ファスナーを少し上げると、カビ臭さが鼻についた。
壁にもたれていた甲斐が、菓子パンの袋を破った。
口元まで持っていきかけて、翔馬を見る。
「ほらよ」
もう一つ、菓子パンが飛んできた。
「腹になんか入れとけ。空っぽだと、すぐへばるぞ」
翔馬は受け止める。
返事より先に袋の端を掴み、菓子パンを缶コーヒーで流し込んだ。
「それ食べ終わったら行くで」
黒川が立ち上がり、部屋を出ていく。
甲斐もそれに続いた。
翔馬は慌てて後を追う。
歩き出してから、口を開いた。
「あの、三枝さんと……押入れの人は?」
黒川は振り返らずに答える。
「あいつらは、先に食堂や」
甲斐が小さく鼻を鳴らした。
「朝から一緒に行動したいタイプじゃないだろ」
それだけ言って、歩調を緩めない。
外はまだ薄暗い。
路地には、もう人影があった。
同じ作業着姿の人間が、言葉も交わさず、同じ方向へ流れていく。
誰も立ち止まらない。
足音だけが重なり、一定の間隔で続いていた。
翔馬はその流れに遅れないよう、無言で歩いた。
路地を抜けると、空気が変わった。
金属の擦れる音。
低く押し殺した声。
油と鉄の匂い。
鼻の奥に、昨日の通路が戻ってくる。
前には、コンテナが並んでいた。
積み上げられた箱の隙間に、細い通路が走っている。
奥では、人の動く気配だけが途切れない。
作業着姿の人間が、通路の奥まで続いていた。
腰には刃物が下がり、背中に長物を背負った者もいる。
手元で、分解されたままの武器を抱えている者もいた。
どれも布には包まれていなかった。
翔馬は黒川の背中を追った。
コンテナに囲まれた通路を、さらに奥へ進んでいく。
黒川が足を止めた。
「安田はん」
コンテナを改造した作業場だった。
手前には、簡素な店のようなカウンターがある。
その奥を格子が仕切り、中から眩しい光が漏れていた。
鉄の焼ける臭いもした。
黙々と作業していた男が、機械を止める。
片手に溶接面を持ったまま、こちらへ来た。
「初めまして。同室の安田です」
顔のところどころが、煤で黒ずんでいた。
安田は笑ったまま、溶接面を脇に抱え直す。
「道具の整備をしてます。必要があれば声をかけてください」
それだけ言うと、安田はまた作業に戻った。
作業台の上には、ゴツゴツとした棘の付いた棍棒が置かれていた。
黒川について歩き出すと、コンテナ同士の間隔はだんだん狭くなっていった。
貸し倉庫に挟まれた通路を進んだ。
頭上から、人の気配がした。
見上げると、足場が組まれている。
誰かが上を歩くたび、砂がかすかに落ちてきた。
脇に逸れる通路が増える。
コンテナの側面には、ペンキで数字が書かれていた。
翔馬たちは、仮設の鉄板階段を上がる。
足場の上を進んだ。
「……ここや」
黒川が足を止める。
貸し倉庫の前に、樋渡が座っていた。
こちらを見るでもなく、前を向いている。
少し遅れて、三枝が合流した。
黒川は番号式の錠前を外し、中へ入った。
倉庫の中で、装備が手渡される。
「わしらの商売道具や。大事に扱うんやで」
受け取った瞬間、手首が下がった。
思ったよりも重い。
甲斐は自分の留め具を先に締めた。
金具が短く鳴る。
「ほら、さっさとつけちまえ」
三枝は何も言わない。
準備を整えながら、翔馬の様子を見ている。
黒川だけが、いつも通りの調子で言った。
「そのうち、慣れるわ」
装備の重さは変わらない。
ただ、その重みだけが腕に残り続けていた。
コンテナ街の広い通りを奥へ進むにつれ、音が変わっていく。
人の声が遠のく。
金属音も薄れる。
砂利を踏む音だけが、足元で大きくなった。
積まれたコンテナの隙間が、前方に見えた。
その先に、柵と鉄骨で組まれたゲートがあった。
その向こうは暗い。
奥行きが分からない。
足を止めたのは、翔馬だけだった。
装備の重さが、急に腕に食い込む。
結び目が手首に当たり、留め具が少し遅れて鳴った。
肩に当たる硬い部分まで、身体へ戻ってくる。
呼吸が浅くなった。
戻ってくる人間たちが、横を通り過ぎていく。
刃の先に、乾いた赤黒い跡がある。
担がれた袋の口から、何かが滲んでいた。
誰も、それを気に留めない。
「……大丈夫か?」
黒川が振り返り、翔馬の肩に手を置いた。
甲斐が、少しだけ口元を歪める。
「無理なら言っとけよ。荷物になるより、まだマシだ」
三枝が一歩後ろで言った。
「大丈夫です。呼吸を整えてください」
三枝の声が背中に触れた。
列は、もう半歩先に進んでいた。
前を見る。
ゲートの向こうは暗く、奥が見えない。
足が、前に出ない。
それでも列は動く。
背中を押されるように、前へ進む。
翔馬は、ゲートをくぐった。




