第1話
「おい。起きろ。着いたぞ」
聞き慣れない声に、意識が引き戻された。
反射的に身を起こそうとして、視界が暗いことに気づく。
心臓が跳ねた。
布が、目のまわりにきつく巻かれている。
車の揺れは、もう止まっていた。
出発前に目隠しをされた。
そのまま車に乗せられた。
そこまでは覚えている。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
考えようとするほど、頭の奥がぼんやりする。
「動けるなら立て。フラつくなら言え」
腕を掴まれた。
強くはない。
だが、逆らえない力だった。
促されるまま、車内から降りる。
靴底が砂利を踏んだ。
冷えた外気が肌に貼りつく。
街中の排気とは違う、山に近い匂いがした。
数歩進んだところで、足元の感触が変わった。
砂利ではない。
固い床。
背後で鉄の扉が閉まる音がした。
空気が一段、乾く。
次に聞こえたのは、自分と、腕を引く男の足音だった。
通路を進む。
何度か曲がる。
もう、方向も距離も分からない。
瞼の裏に、少し光を感じた。
薬品のようなアルコール臭が、鼻の奥で濃くなる。
スリッパの音が近づいてきた。
「こちらへ。ゆっくりでいい」
落ち着いた声だった。
言葉の運びだけが、やけに整っている。
腕を掴んでいた男が、手を離す。
「先生、頼みます」
背後から男の声がした。
「ええ。問題ないですよ」
そこで一度、身体を止められた。
目隠しが外される。
光が目の中へ押し寄せた。
思わず目を細める。
「ゆっくりでいい。座ってね」
目の前に丸椅子があった。
その奥で、初老の男が椅子に腰かけている。
白衣の袖が、机の端にかかっていた。
壁は白く、パソコンの画面だけが薄く光っている。
銀色のトレイには、細い器具が揃えて置かれていた。
何の部屋かより先に、そこだけが妙に整って見えた。
「篠原翔馬くん。名前は合ってるね」
初老の男の声は落ち着いていて、よく通った。
「体調は。気分が悪いとかは?」
「……大丈夫、です」
「そう。それじゃ、少し見るよ」
肩に指が当たった。
「痛む?」
「……はい」
即答だった。
医者は軽く頷く。
「だよね。投げるほう?」
答えるより先に、紙コップが差し出された。
「それ飲んだら喉を見るから。口を開けてね。あー、でいい」
慌てて飲み干す。
喉の奥に、薄い苦みだけが残った。
言われるまま口を開ける。
「はい、次は……」
流れが止まらない。
胸に聴診器を当てられる。
身長を測られる。
体重計に乗せられる。
視力を見られる。
腕を出すと、採血の針が入った。
銀色のトレイの上に、使い終えた器具が一つずつ増えていく。
手順だけが、淡々と進んでいった。
「身体は強い。問題は肩」
「……治るんですか」
医者は一拍置いた。
「“戻す”ことはできるよ」
腕を取られる。
「じゃあ、もう一回。ばんざい」
持ち上げられた。
肩の奥にあった引っかかりが、ふっと抜ける。
もう一度、腕が上がった。
「ほら」
医者は軽く笑った。
「若いからね。一年くらい、すぐだよ」
言い切って、次の器具へ手を伸ばす。
わずかに間が空いた。
「ちゃんと効いてるね。驚くほどじゃない。ここじゃ普通……」
「それじゃ向かうぞ」
別の声が重なった。
医者は肩をすくめる。
「無理はするなよ」
その直後、布がまた顔に戻された。
続けて、耳に重みがかかる。
ヘッドホンだった。
「ここから先は守秘義務だ」
声が遠ざかる。
また、歩かされる。
目隠しとヘッドホンで、距離も時間も測れない。
途中で床の感触が変わった。
最初は硬く、次に靴底へざらつきが混じる。
しばらくして、身体がわずかに前へ傾いた。
上下の感覚まで曖昧になる。
一度止まり、また進む。
やがて、湿気に埃が混じった。
近くない場所から、人の気配だけが押してくる。
ヘッドホンが外された。
続けて、目隠しが取られる。
簡素な事務所だった。
窓の外は薄暗い。
重機の影だけが見える。
目の前には、飾り気のないテーブルがあった。
男が書類の端を揃える。
黒い箱は、その横に置かれていた。
ガラスの灰皿だけが、天井の光を返している。
向かいのソファに、黒服の男が座っている。
出発前に見た運転手とは違う。
スーツを着ているが、肩幅が広く、首も太い。
無表情だった。
視線だけが、こちらを測っている。
その隣に、坊主頭の作業着の男がいた。
眉を下げているのに、何度も隣の黒服を気にしていた。
「……黒川や。よろしくな」
「座れ」
黒服の男に促され、翔馬は腰を下ろした。
「契約書だ。確認したらサインしろ」
男が書類を翔馬の前へずらす。
翔馬はそれを掴み、目を通した。
細かい文字が並んでいる。
借金の返済、労務、管理、違約金。
知っている言葉だけが、ところどころに混じっている。
「分からんことがあったら……」
「――黒川」
短く制され、作業着の男は口を閉じた。
黒服の男が、静かに続ける。
「ここに来たのも、外で借金こさえたのも、全部お前が選んだ」
淡々とした声だった。
説教に似ているが、熱はない。
翔馬は書類に目を落とす。
文字が滑って、頭に入ってこない。
「中に入ってからも同じだ。全部自己責任だ」
男は書類を掴み、机の上でめくった。
指先で一箇所を示す。
「ここだ」
翔馬は転がっていたペンを持つ。
顎で示される。
名前を書いた。
直後、腕を掴まれた。
手首に何かが嵌められる。
黒い端末だった。
「金のやりとりと、位置だ」
「……それって」
男の眉間に皺が寄った。
「あのなぁ、勘違いするなよ」
声が低くなる。
「お前は、もう客じゃない」
男が横を見た。
「黒川」
名前を呼ばれ、黒川が慌てて立ち上がる。
「ほな、いこか……」
黒川が先に歩き出した。
翔馬も立つ。
床は均一だった。
足音は、ほとんど返らない。
合板の壁に沿って進む。
プレハブの廊下を抜けると、空気が変わった。
外は、工事現場のような場所だった。
資材が積み上げられている。
発電機の音が遠くで唸っていた。
黒川は、パイプ組みの仮設壁に沿って進んだ。
鉄柱の上の照明が、目に刺さる。
光を避けた先で、角に据えられた黒いレンズだけがこちらを向いていた。
金属と油の臭いが漂ってくる。
前方に、コンテナの扉が見えた。
角に置かれたパイプ椅子から、警備員が立ち上がる。
プロテクターを着け、腰には棒を下げていた。
「身体をひらけ」
黒川が腕の端末を見せる。
すぐに機械音が鳴った。
警備員は棒で黒川の身体をなぞり、顎で扉を示した。
重い鍵が外れる音がした。
翔馬も、黒川の真似をする。
腕を出し、身体を開く。
棒が身体の表面をなぞる。
端末が鳴る。
もう一度、鍵の開く音。
重い扉が開いた。
黒川が中へ入る。
翔馬も一歩、踏み出した。
背後で扉が閉まる。
音が、背中で止まった。
暗いコンテナの奥に、別の景色があった。
波トタンの壁が、細い路地の両側に続いていた。
その奥に、低い長屋が並んでいる。
埃を含んだ湿気が、顔に近づく。
建物と建物のあいだには紐が張られ、タオルや作業着が干されていた。
干された布から、汗と洗剤の乾いた匂いが落ちていた。
黒川が歩調を落とした。
「わしは、面倒見ることになった班長の黒川や。よろしくな」
翔馬は頷くしかなかった。
黒川は一つの戸口の前で足を止めた。
建て付けの悪そうなガラス戸を左手で支えながら開ける。
「ここが、わしらの城やな。靴は適当に並べておけよ」
小さな土間に上がる。
土間の脇に、ロッカーが並んでいた。
靴を置く場所だけが、床の端に空いている。
黒川はその先の扉を開ける。
暗い玄関に、部屋の灯りが漏れた。
「遅かったな、黒川のおっさん。新入りか?」
奥の部屋で、畳んだ布団を丸めてもたれていた男が立ち上がった。
「おう。翔馬、こいつは甲斐や。そこで本読んどるのが三枝や」
部屋の奥。
木製のガラス窓を少し開け、風に当たるように壁にもたれた男が本から顔を上げた。
笑顔を浮かべる。
「はじめまして。三枝です」
丁寧な声だった。
「樋渡は?」
黒川が訊く。
甲斐は顔をしかめ、押入れを顎で示した。
黒川は部屋の扉の横にある押入れへ向かった。
襖をすっと開ける。
下段に、男が縮こまっていた。
目を見開いたまま、前を見ている。
何も言わない。
「ちょっと変わってるけど、樋渡やで」
黒川はそれ以上触れず、襖を半分閉めた。
「あと、安田っておっちゃんがおる。今日は仕事や」
そう言ってから、黒川は翔馬を見る。
「今日はもう少ししたら休め。布団はそこの棚が空いとるで、その下に敷いて寝るんや。それがお前の持ちもんや」
翔馬は頷いた。
壁には、等間隔に棚が付けられている。
その下に段ボール箱が一つ置かれていた。
翔馬は箱を開ける。
畳まれた作業着と、薄いタオルが入っていた。
端に、名前のない歯ブラシも一本ある。
翔馬は蓋を戻した。
部屋の空気が、少しずつ身体にまとわりついてくる。
遠くの作業音に笑い声が混じり、古い換気扇の音が低く重なっていた。
それは途切れずに続いていた。
翔馬は割り当てられた棚の下に腰を下ろす。
背中を壁につけた。
静かに目を閉じる。
眠気は来ない。
目を閉じても、音は途切れなかった。
この街は、まだ起きている。




