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第16話 静かに広がる違和感は、気づいた時には戻らない

 昨日の言葉を引きずったまま登校したエルネアは、リリアの自然な変化に触れ、自分の揺らぎも受け入れ始める。さらに「守らなくてもいい約束」という問いから、悪役令嬢として正しく終わる誓いを見直し始めた。分からないままでも隣にいられる関係を前に、黒薔薇もまた崩壊ではなく、新しい形へと静かに変わっていく。

 騒ぎは、すぐには収まらなかった。

 中庭から離れても、ざわめきは残る。校舎の中に入っても完全には消えず、どこか遠くで続いている音が、薄く耳の奥に引っかかり続けていた。

 近くで誰かが叫んでいるわけではない。それでも、空気のどこかに落ち着かなさが混ざっていて、静けさそのものが少しだけ壊れているように感じられた。


 さっきまでの日常が、そのまま戻ってくる感じはしない。

 廊下も、窓も、差し込む光も、見た目だけなら普段と何も変わらない。

 けれど中身だけが違う。上に重なっている空気だけが、もう別のものへ変わり始めている。


 ただ、形だけが似ている。

 そんな感覚だった。

 見慣れた学園のはずなのに、足を踏み入れた場所がほんの少しだけずれている。そんな種類の違和感が、さっきからずっと消えない。


「……増えてるみたいです」


 リリアが小さく言う。

 声は抑えているのに、やけにはっきり聞こえた。今の静かな廊下では、その程度の音量でも十分すぎるほど届く。

 それだけ、周囲のざわめきが遠のいていて、今この瞬間の言葉だけが妙に鮮明になっていた。


「何が」

「倒れた人」


 私は足を止める。

 聞き返さなくても、意味は分かる。中庭で見たものと、ここまで引きずってきた空気の悪さが、その答えへ自然に繋がる。

 それでも、一応確認する。断片のまま決めつけるより、相手の口から情報の形にさせた方がまだいい。


「どこで」

「中庭以外でも、って」


 短いやり取り。

 それだけでは情報としては粗い。誰が言っていたのかも、どこから回ってきた話なのかも分からない。

 けれど今は、それで十分だった。断片でも、方向性だけははっきり見えてしまう。


 広がっている。

 その認識が、すぐに形になる。

 単発ではない。局所でもない。まだ全体像は見えないが、少なくとも“中庭だけの異常”では片づかない段階に入っている。


「……そう」


 短く答える。

 それ以上は言わない。言えることがないからだ。

 状況が見えない以上、断定もできない。だが、何も起きていないと考えるには、もう材料が多すぎた。


「これ、やばいやつですよね」

 リリアが続ける。


 その言い方に、私は少しだけ目を細める。

 軽い。雑とも言える。だが、中心だけは外していない。

 輪郭は粗いのに、本質だけは妙に掴んでいる。そこが、この子の厄介なところでもあり、強いところでもあった。


「言い方は軽いけど、間違ってはいないわね」

「ちょっと軽く言わないと、怖くなりそうなので」


 そう言って、少しだけ笑う。

 その笑い方に、私は一瞬だけ視線を止める。作っているようで、昨日までほど固くはない。

 無理はしていない。でも、完全に余裕があるわけでもない。その中間で踏みとどまっている笑い方だった。


「可能性は高いわ」

 私は言う。

「原因が分からない以上、どう転ぶかも読めない」


「読めない、か……」

 リリアが小さく繰り返す。


 その言葉に、私はほんの少しだけ引っかかる。

 読めない。少し前までの私にとって、それは明確に欠点だった。排除すべき不確定要素であり、最適解を曇らせるノイズだった。

 今はまだ、そこまで単純には判断できない。ただ、以前ほど即座に否定する言葉ではなくなっている。


「少し前なら嫌な言葉だったけど」

「今は?」

「ちょっとだけ慣れてきました」


 その返答に、私はほんの少しだけ息を吐く。

 変わっているのは、私だけではない。リリアもまた、“分からない”ことをただ怖がるだけではなくなっている。

 それが良いことなのか、まだ分からない。でも少なくとも、ただ飲み込まれているわけではないらしかった。


「とりあえず」

 私は言う。

「人が多い場所は避けましょう」

「はい」


 そのまま、人気の少ない廊下へ向かう。

 歩き出すと同時に、私は思考を並べ始める。騒ぎに引っ張られているだけでは、判断の精度が落ちる。

 こういう時は、見えている事実だけを切り出して順番に置くしかない。少なくとも、それなら思考はまだ崩れない。


 倒れた。

 外傷なし。意識不明。複数人。短時間で増加。

 そこまで整理した時点で、偶発的な事故として処理するのは難しい。原因が一つか複数かはともかく、広がる前提で考えるべき段階だと分かる。


「倒れた人、何人ぐらいって言ってました?」

 リリアが聞く。


「正確な数は出ていないわ」

「でも、複数ですよね」

「ええ」


「同時に?」

「その可能性が高い」


 リリアが少し黙る。

 話の輪郭が具体的になるほど、状況の重さも増していく。彼女もそれをそのまま受け取っているのが分かった。

 軽く受け流さない。逃げない。その姿勢は、こういう時にはむしろ信頼できる。


「……それ、結構まずくないですか」


「かなりね」

 私は即答する。


「原因が一つで複数発生しているなら、広がる前提で考える必要がある」


「広がる前提……」


 言葉の重さを、リリアがそのまま受け取る。

 冗談にも慰めにも変えない。真正面から噛み砕こうとしている。

 その姿勢が、少しだけ気になる。強いのか、覚悟があるのか、それとも両方か。


「……花、ですかね」

 リリアが言う。


 私は足を緩める。

 そこへ来るのか、と一瞬だけ思う。だが、否定はできない。

 今の状況でその単語が浮かぶのは、むしろ自然だった。私自身、少し前から同じ場所に思考が戻り続けている。


「どうしてそう思うの」

「なんとなくですけど」

 彼女は少しだけケースを見る。

「さっきから、ちょっと変じゃないですか」


 私は無言でケースに触れる。

 黒薔薇。開かなくても分かる。ひびは、進んでいる。

 さっきより、確実に。ほんのわずかではあるが、見間違いと言い切るにはもう回数が多すぎた。


「……ええ」

 私は言う。

「無関係ではない可能性はある」


「ですよね」

 リリアが少しだけ声を落とす。


「なんか、嫌な感じします」


「私も同感よ」


 その言葉は、自然に出た。

 前ならもっと言い換えていたかもしれない。曖昧さを削って、別の表現へ置き換えたはずだ。

 だが今は、そうしなかった。“嫌な感じ”という輪郭の粗い感覚を、そのまま共有してもいい気がした。


「エルネア様」


 リリアがこちらを見る。

 視線の色が少し変わっている。さっきまで状況を見ていた目ではなく、今度は私自身を見ている。

 そういう切り替えができるところは、思っているよりずっと鋭い。


「顔色、ちょっと悪いです」


「そう?」

「はい、さっきから」


 即答だった。

 迷いがない。遠慮してぼかすのではなく、見えたものをそのまま口にしている。

 そういう言い方は、今の私にはむしろ助かる。飾られた心配より、まだ扱いやすい。


「問題ないわ」

「本当ですか?」


「ええ」

 私は言う。

「まだ余裕はある」


「“まだ”って言いましたね」

「言ったわね」


 少しだけ間が空く。

 リリアが小さく息を吐く。その反応は、呆れに近いが、完全に諦めているわけではない。

 私の言葉をそのまま受け取らず、引っかかった場所をちゃんと拾ってくる。その遠慮のなさが、今日は少しだけ厄介だった。


「無理しないでくださいね」

「しているつもりはないわ」


「つもりじゃなくて、実際の話です」


 少しだけ強い言い方だった。

 私は一瞬だけ、言葉に詰まる。

 “つもり”と“実際”を分けて言われると、自分の判断が急に曖昧に見えてくる。


「……そうね」

 小さく答える。


 それ以上は言えなかった。

 反論するには確信が足りない。だからといって、全面的に認めるのも違う。

 その中間で止まったまま、今はそれ以上進めなかった。


 リリアはそれ以上踏み込まない。

 ただ、隣を歩く。

 距離は変わらない。近すぎず、遠すぎず。今の私には妙にちょうどいい位置だった。


 それが、妙に落ち着く。

 こんな状況なのに。

 事態は広がっていて、自分の花まで不穏に反応しているのに、隣の気配だけは奇妙なくらい安定していた。


「ねえ」

 リリアが言う。


「はい」

「これ、止まりますかね」


 その問いに、私は少しだけ考える。

 止まるかどうか。情報は足りない。断定できる材料は何ひとつない。

 ただ、直感だけならある。嫌な方向へ進んでいるという感覚だけは、もう十分すぎるほどあった。


「分からないわ」


「正直ですね」

「情報が足りないもの」


「じゃあ、予想は?」


 リリアが続ける。

 逃がさない聞き方だ。曖昧なまま終わらせず、一歩だけ先を取ってくる。

 私は少しだけ息を吐く。今ここで誤魔化すのは、たぶん意味がない。


「……止まらないかもしれないわ」


 その言葉は、静かに落ちた。

 慰めにはならない。だが、今はそちらの方がまだ正直だった。

 希望を持たせるためにぼかすより、少し悪い方へ寄せておくべきだと判断した。


「そっか」


 リリアはそれだけ言う。

 それ以上は聞かない。ただ、その答えをそのまま受け止める。

 軽くも重くもせず、一度胸の中へ入れているような返し方だった。


「怖い?」

 私は聞く。


「……ちょっとだけ」


 少しだけ間を置いて。


「でも」


 顔を上げる。


「一人じゃないので」


 その言葉に、私は一瞬だけ黙る。

 一人じゃない。

 それは事実だ。だが、それを安心の理由として使えるかどうかは別だと思っていた。


「それ、強いわね」

「エルネア様がいるので」


 さらっと言う。

 迷いがない。

 その言い方に、少しだけ引っかかる。信頼の置き方が、あまりにも素直すぎる。


「……責任が重いわね」

「逃げないでください」

「逃げるつもりはないわ」


 短いやり取り。

 でも、妙に残る。

 冗談にしては重く、本気にしては軽い。その曖昧さが、今の状況にはむしろちょうどよかった。


 廊下の先で、またざわめきが聞こえる。

 別の場所でも、何かが起きている。

 完全には避けられない。逃げきれない。もう、そういう距離まで来ている。


「……行くわよ」

 私は言う。


「え?」

「医務室」


「確認するってことですか?」

「ええ」


 私は続ける。

「見ないまま判断するのは危険よ」


 それは理屈としては正しい。

 でも、それだけではない。見ておくべきだと、思った。

 判断のためというより、見ないまま済ませる段階はもう過ぎている。そう感じた方が先にあった。


「……分かりました」


 リリアは頷く。

「一緒に行きます」

「当然でしょう」


 二人で方向を変える。

 医務室へ。

 近づくほど、人が増える。ざわめきが濃くなる。空気そのものが少しずつ重くなる。


「結構集まってますね」

「ええ」


「入れますかね」

「無理なら外からでもいい」


 医務室の前には、すでに人だかりができていた。

 近づく前から空気の密度が違う。焦り、不安、苛立ち、そういうものが雑然と混ざって漂っている。

 誰も状況を掴めていないまま、ただ悪化だけが先に共有されている。そういう場特有の重さだった。


「やっぱり無理そうですね」

「押し合いになるのは避けたいわね」


 その中に、カイエルの姿を見つける。

 壁際。少し離れた位置。腕を組んで、動かない。

 あの立ち方は、情報の中心に入りすぎず、全体を見るための場所取りだ。いかにも彼らしい。


「……いたわね」

「本当だ」


 目だけが、周囲を見ている。

 観測している。

 だが、その視線にわずかな揺れがある。完全ではない。読み切れていない。それが分かる。


「呼びます?」

 リリアが聞く。


「いいえ」


 私は首を振る。

 向こうもこちらに気づいている。だから、わざわざこちらから動く必要はない。

 距離を詰めるより、今は向こうの反応を見る方が早い。


「向こうもこちらに気づいているはずよ」


 その言葉の直後。

 カイエルがこちらを見る。

 やはり、気づいていた。反応の速さはいつも通りだ。


「……来たのね」


 短く言う。

 余計な挨拶はない。今はそれで十分だった。

 この短さ自体が、状況の余裕のなさをよく表している。


「状況は?」

 私は聞く。


「増えています」

 彼は答える。

「同じ症状で、複数名」


「原因は」

「不明です」


 即答。

 だが、わずかに遅れた。

 それを、私は見逃さない。


 カイエルにしては珍しい一拍だった。

 答えを知らないことではなく、“知らないと認めるまで”に微かな間がある。

 そのわずかな遅れだけで、今の状況がどれだけ掴みにくいかが分かる。


「共通点は?」

「……まだ、確定できません」


 その言葉に、リリアが小さく息を飲む。

 “確定できない”。その答え自体が、今起きていることの異常さを示していた。

 カイエルが見えていない。少なくとも、整理しきれる段階にはまだ至っていない。


「カイエル様でも、ですか」

「現時点では」


 短い答え。

 だが、それだけで十分だった。

 “見えていない”。その事実そのものが、状況の異常をはっきり示している。


「……そう」


 私はそれだけ言う。

 それ以上は聞かない。意味がないからだ。

 断片を増やすより、今は流れそのものを掴む方が先だと分かっている。


 代わりに、ケースに触れる。

 黒薔薇。

 ひびは。また、少しだけ進んでいた。


「……」


 さっきより。

 確実に。

 まるで、この状況に合わせて広がっているみたいに。偶然では片づけにくいほど、歩調が揃い始めている。


「エルネア様?」

 リリアが覗き込む。


「……ええ」

 私は小さく答える。


「やっぱり、連動してる感じですか?」

「可能性はある」


 それ以上は言わない。

 でも、もう分かっている。

 これは、止まる前提で考えるものではない。少なくとも、楽観で済ませる段階はもう終わっている。


「……ねえ」

 リリアが言う。


「はい」

「これ、やっぱりやばいですよね」


「ええ」


 今度は、迷わず答えた。

 その瞬間、はっきりと理解する。

 違和感は、もう違和感じゃない。これは、“進行している現実”だ。


 そして。

 その現実は。

 もう、戻らないところまで来ている。


 私はその感覚を、そのまま受け止める。

 否定しても遅い。見ないふりをしても変わらない。

 ここから必要なのは、楽観ではなく、進行するものとして扱う視点だ。


 そして、思う。

 ――これは、ただの異常じゃない。

 何かが、始まっている。


 そうとしか、思えなかった。


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