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第15話 終わらないはずのものが、終わりに触れる

 早く目覚めた朝、エルネアは昨日の選択が残した揺らぎを抱えたまま学園へ向かう。リリアの「約束は守らなければならないのか」という問いに、悪役令嬢として正しく終わる誓いすら揺らぎ始める。黒薔薇は崩壊ではなく形を変え、分からないまま隣にいられる関係を静かに肯定し始めていた。

 翌朝、私は珍しく目覚ましより先に目を覚ました。

 眠りが浅かったわけではない。嫌な夢を見た記憶もない。ただ、ふと意識が浮かび、そのまま自然に目が開いた。

 起きる理由が先にあったのではなく、目覚めたあとに理由を探している。そういう朝は、あまり多くない。


 私はそのまま天井を見て、少しだけ考える。

 昨日のこと。書庫へ行く予定を捨てたこと。リリアと一緒に帰ったこと。そして、あの言葉。

 思い返そうとしなくても、順番に浮かんでくる時点で、きっと私の中で昨日は想像以上に大きな位置を占めていた。


 ――無理に、笑わなくてもいい。

 あれは、正しい助言だったのか。

 それとも、ただ感情が先に出ただけの、整理されていない言葉だったのか。


 判断はつかない。

 助言として見れば曖昧だし、正解として差し出せるほど整ってもいない。けれど、間違いだったとも言い切れない。

 そうやって結論の出ないまま残っていること自体が、少し前までの私にはあまりなかった感覚だった。


 つかないまま、私は起き上がる。

 考えてから動くのではなく、動きながら考えを引きずっている。順番が逆だ。

 それでも、今の私はその逆転を以前ほど強く異常とは思わなかった。


 ミナがすぐに気づき、カーテンを開けた。

 差し込んだ朝の光はいつも通りで、部屋の中の空気も特に変わらない。変わっていないものが目の前にあるほど、自分の内側の違和感だけが妙に浮き上がる。

 そういう朝だった。


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう」

「本日は、いつもより少しだけ早いですね」

「そうみたいね」

「何かございましたか?」

「特には」


 そう答えながら、私は自分でも少しだけ違和感を覚える。

 特に何もない。確かに、具体的な事件があったわけではない。今日すぐに処理しなければならない問題が新しく増えたわけでもない。

 それなのに、どこか落ち着かない。その落ち着かなさが、理由のないまま残っている。


 理由がはっきりしないまま、準備を整えて屋敷を出る。

 鏡の中の自分は普段と変わらない。姿勢も、表情も、外側だけ見ればいつも通りだ。

 だからこそ、見えない部分の揺れだけが自分にはよく分かった。


 馬車の中でも、考えはまとまらなかった。

 整理しようとすればできるはずなのに、今日は思考がどこか一点に定まらない。ただ、昨日の言葉だけが薄く残り続けている。

 意識して追っているわけではないのに、ふとした拍子に同じ場所へ戻ってしまう。


 ――無理に、笑わなくてもいい。

 その言葉は、リリアに向けたものだったはずだ。

 けれど今朝の私には、あれが自分自身にも向けられているように思えた。


 学園に着く。

 教室へ入る。

 いつも通りの光景。いつも通りの空気。机の並びも、生徒たちのざわめきも、何も変わっていない。


 そして。


「おはようございます、エルネア様」


 いつも通りの声。

 リリアが、こちらを見て笑っている。

 その姿は見慣れたものになりつつあるのに、今日はそこで少しだけ足が止まりそうになった。


 ……いや。

 よく見ると、少しだけ違った。

 笑っている。けれど、昨日までのように表面を先に整えた笑い方ではない。


 少しだけ、力が抜けている。

 無理に形を作っていない分、表情の揺れがそのまま残っている。

 それは目立つほど大きな違いではなかったが、昨日の言葉を知っている私には十分に分かる変化だった。


「おはよう」

 私は返す。


「今日は早いですね」

「あなたもでしょう」

「たまたまです」

「そう」


 短いやり取り。

 だが、どこか柔らかい。いつもと同じ形のはずなのに、言葉の間に余計な緊張がない。

 距離そのものは変わっていないはずなのに、そこに流れる空気だけが少し違っていた。


 授業が始まる。

 終わる。

 何も問題は起きない。目立った衝突も、騒ぎも、割り込んでくる事件もない。


 それなのに。

 私は何度か、リリアの方を見ていた。

 何かを待っているわけではない。ただ、確認するように。観測するように。


 ――これは、カイエルの癖だ。

 そんなことを思って、少しだけ苦笑する。

 相手の変化を拾い、自分の中で意味を測る。そういう見方が、知らないうちに少し移っている気がした。


 自分でも分かる。

 私は、変わっている。

 そして、その変化を完全には否定していない。むしろ、どこかで受け入れ始めている。


 昼休み。

 今日は自然と、中庭へ足が向いた。

 理由はない。だが、迷いもなかった。そこへ行くことに説明を必要としなかった時点で、少し前とは違っている。


 ベンチに座ると、すぐにルーカスが現れた。

 タイミングが良すぎて、もはや偶然として処理するのも少し苦しい。

 けれど本人は気にした様子もなく、いつも通り軽い顔をしている。


「やっぱりここに来るんだ」

「たまたまよ」

「たまたまにしては、よく会うね」

「あなたが来ているだけでしょう」

「それもある」


 あっさり認める。

 変わらない。

 この男は、本当に変わらない。軽さも、距離感も、踏み込み方も、最初からずっと同じままだ。


「今日はどう?」

 ルーカスが聞く。

「何が」

「調子」

「普通よ」

「普通、ね」


 少しだけ笑う。

 問われた意味は曖昧だが、曖昧なままでも成立する会話になっている。

 以前なら、そういう輪郭のぼやけた問いは扱いづらいと感じていたはずなのに。


「それっていい感じ?」

「どういう意味かしら」

「無理してない感じ」


 昨日と同じことを言われる。

 でも、少しだけ違う。昨日はその言葉に引っかかった。今日は、その引っかかりが少し浅い。

 たぶん、自分でも同じことを薄く思っていたからだ。


「……そうかもしれないわね」

 私は言う。


 自然に。

 否定せずに。

 その答えが出た瞬間、自分でも少しだけ驚いたが、引っ込めたいとは思わなかった。


 ルーカスが少しだけ驚いた顔をした。

 こちらが認めると思っていなかったのだろう。

 その反応が少しだけ可笑しくて、私は無駄に表情を動かさないように意識する。


「素直だ」

「何か問題でも?」

「いや、いいと思う」

「軽いわね」

「軽くていいんだよ」


 その言葉に、私は少しだけ考える。

 軽くていい。昨日も聞いた気がする。軽いことを、私はずっと価値の低いものとして扱ってきた。

 けれど今は、その軽さが必ずしも雑さではないのだと、少しずつ思い始めている。


 そして。

 完全には否定できない自分がいる。

 その事実を、もう無視しなくなっていた。


「エルネア様」


 声がして、振り向く。

 リリアだった。少しだけ息を弾ませている。

 こちらを探していたのだろうと、考えるより先に分かる。


「また来たのね」

「はい」

「探してた?」

「ちょっとだけ」


 その言い方が、妙に柔らかい。

 探していたことを隠すわけでも、大げさに言うわけでもなく、ただそのまま置いてくる。

 以前の私なら、その自然さを危ういと思ったかもしれない。今は、そこまで強くは思わない。


 私は小さく頷く。

 断る必要も、立たせたままにしておく理由もない。

 そう判断したというより、そうするのが自然に感じられた。


「座りなさい」

「いいんですか?」

「立っている方が目立つわ」


 理由はそれで十分だ。

 少なくとも、口に出す理由としては。

 リリアは素直に座る。少しだけ距離が近い。でも、今日はそれを気にしなかった。


「今日、ちょっと楽でした」

 リリアが言う。

「何が」

「笑うの」


 その言葉に、私は少しだけ目を細める。

 昨日の会話と、確かに繋がっている。

 あの一言が、少なくとも彼女の中では何かの支えになったらしい。


「そう」

「昨日の、効きました」


 あの言葉。

 無理に、笑わなくてもいい。

 それが、ここに繋がっている。そう思うと、少しだけ不思議だった。


「……それは良かったわね」

 私は言う。


 それ以上の言葉は、出てこなかった。

 だが、それで十分だった気がした。下手に整えた言葉を足すより、この短さの方が今は自然だった。

 伝わるべきものは、たぶんもう伝わっている。


「エルネア様」

 リリアが続ける。

「一つ、聞いてもいいですか」

「内容によるわ」

「約束って、守らなきゃいけないですか?」


 唐突な問いだった。

 だが、意味は分かる。

 言葉そのものより、その奥にあるものの方が先に見えた。


「場合によるわ」

 私は答える。

「守るべきものもあれば、そうでないものもある」

「じゃあ」


 リリアは少しだけ考える。

 問いを重ねる前の、その短い間が珍しく慎重だった。

 この質問が彼女にとってただの雑談ではないことが、それだけで分かった。


「守らなくてもいい約束って、ありますか?」


 その言葉に、私は一瞬だけ黙る。

 守らなくてもいい約束。そんなものは、本来存在しない。

 約束は守るものだ。それが前提だ。少なくとも、つい最近までの私は迷わずそう言えた。


 でも。

 今の私は、それを完全には言い切れない。

 約束という形をしているだけで、実際には自分を縛るためだけに残っているものもあるのではないか。そんな考えが、もう頭の中に入ってきている。


「……あるかもしれないわね」

 私は言う。


 自分でも驚くくらい、自然に出た。

 考え抜いた答えではない。だが、嘘でもない。

 それが一番厄介だった。


「例えば」

 私は続ける。

「自分を縛るだけの約束とか」

「縛るだけ」


「守ることで、何も残らないなら」

 私は言う。

「無理に守る必要はないでしょう」


 言葉が、出てくる。

 予定していないのに。考えていないのに。

 それでも自然に出てくるということは、もうどこかでその考えを自分の中に置き始めているのだろう。


 リリアはそれを聞いて、小さく頷く。

 すぐに納得するというより、胸の中で一度受け取っているような頷き方だった。

 それを見て、私は自分が不用意なことを言ったのか、必要なことを言ったのか、まだ判断できない。


「じゃあ」

 彼女は言う。

「エルネア様の約束は、どっちですか?」


 その問いに、私は止まる。

 私の約束。

 ――悪役令嬢として、正しく終わる。


 それは。

 守るべきものか。

 それとも、自分を縛るだけのものか。


 問いとして並べられた瞬間、どちらにも即答できない自分がいた。

 以前なら、迷わず前者を選んでいたはずなのに。

 今は、その断言ができない。


「……まだ分からないわ」

 私は答える。


 それが、正直な答えだった。

 分からないままでいることに、まだ少し抵抗はある。

 けれど、嘘の答えを置くよりはましだと思う程度には、私は変わっていた。


 リリアは少しだけ笑う。

 からかうような笑いではない。

 ただ、こちらの言葉をそのまま受け取って、少しだけ安心した顔だった。


「じゃあ、一緒ですね」

「何が」

「分からないってこと」


 その言葉に、私は小さく息を吐く。

 同じ。

 またその単語。けれど、今日はその響きが以前よりやわらかい。


 嫌ではない。

 むしろ、少しだけ安心する。

 分からないものを一人で抱えているのではない、と、そんなふうに感じてしまう自分がいる。


 ルーカスがその様子を見て、軽く笑った。

 最初からずっと聞いていたのだろうが、口を挟むタイミングを測っていたらしい。

 そういうところだけ妙に上手い。


「いいね、それ」

「何が」

「分からない同士」

「適当なことを言わないで」

「適当じゃないよ」


 彼は肩をすくめる。

 軽さは変わらない。

 でも、その軽さの中にある言葉は、前ほど空疎には聞こえなくなっていた。


「分からないままでも、隣にいられるってことだから」


 その言葉に、私は一瞬だけ黙る。

 そして、リリアを見る。

 隣にいる。同じではない。分かりきってもいない。けれど、ここにいる。


 それは事実だった。

 理屈で先に整えた関係ではない。

 それでも、今この場に存在している以上、否定だけではもう処理できない。


「……そうね」

 私は小さく言う。


 その言葉は。

 今までより、少しだけ軽かった。

 少しだけ。自由だった。


 私は自分のケースに視線を落とす。

 黒薔薇。

 ひびは、さらに広がっている。


 だが。

 その形は、どこか整っていた。

 複数の線が交差しながら、それでも崩れずに保たれている。


 まるで。

 壊れているのではなく。

 形を変えているみたいに。


 私はそのひびを見つめる。

 守らなくてもいい約束。分からないままの関係。それでも、隣にいられること。

 その考えが、少しずつ現実になり始めている。


 そのことを。

 私は、もう否定できなかった。


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