夕凪 幽奈の怪傑賊船Ⅰ
手の震え、唇の震え、足の震え、全て武者震いではあるが。
嘆き悲しく、女神の天使と真っ向からやりあわなければいけないのだから。
死んでしまうほど心臓が痛む。善良な心に非ず。悪心を持って悪童となる。
初めての経験は誰にでもつきものであると自分に言い聞かせながらゆっくりと息を吐いて立ち上がる。
揺れる車内では片手に持ったピストルをまともに扱えるかは分からないが、天使の守護者相手に頼れるものはこれしかない。
凶器を持った犯罪者相手に突っ込んでくるような狂気持ちなら、見誤った自分の責任だろう。
走行中のバスの中で立ち上がった男に座っている人々は視線を向ける。
車内はほぼ満席状態で痛いほど目立っている。
ゆっくりと右手を正面に向けて全員が聞き逃すことのないように、それなりに声を張って宣告する。
「今からこのバスをジャックします。皆さん慌てずに座っていてください。笑えないくらい本気なので」
そういう男の口元は気色の悪いくらい笑顔だった。
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と、まあ現在進行形でバスジャックに遭っているのだが、こんなことになったのも全て隣でのほほんとバスジャック犯を見つめている少女のせいだ。
誇張なしに。
もうしばらく進展はなさそうなので回想シーンにでも入ろうかと思う。
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まだ日も昇り切っていない午前5時ジャストに部屋に響き渡ったのはバンッという扉を開放する音と、快活で無邪気な少女の声だった。
「時君!トリュフ狩りに出かけましょう!」
それと同時に掛布団を思い切り引っ張り、だらしのなく着崩れた部屋着が露わになりかけるが、反射的に掛布団の端を左手で掴む。
強制的に覚醒を促されてしまったのでほとんど目は開いていないが声の主はよく知っているし、聞こえ辛い耳でも訳の分からない事を言っているのは重々承知だ。
まだ蒸し暑い日が続いているとはいえ、お腹を冷やしたくはないので軽く引っ張り返して布団を元の位置に戻す。
方向が違うので若干の気持ち悪さはあっても眠ることに支障は出ないので気にせずに背中を幽奈に向けた。
しかし、この風に吹かれれば飛んでいく、というか飛んで行ったことのある貧弱な少女が英才教育を施された少年の力に勝てるはずもなくベッドの端に意図せずダイブする。
「眠っている場合じゃないですよー。トリュフが逃げてしまいますよー」
「一般的にイボセイヨウショウロ、ホンセイヨウショウロは夏から冬にかけて長期間にわたって収穫可能です。どうぞお一人でいってください」
「私一人で行って何かあっったらどうするつもりですか?しかもこんなコンクリートジャングルに生えてるわけがないので遠出ですよ?か弱い私では死んでしまうかもしれません。というより詳しいですね、採取の経験がおありで?」
それだったら好都合だななんて考えもよぎったが、流石にそこまで人を捨てるような考えは止めた方がいいと切り替えて倒れこんだままクドクドと言ってくる少女を見る。
視界が如何せんぼやけているので表情が読みづらいが、それでもニコニコとこちらを挑発してきている。
前言撤回した方がいいだろうか。
血が回っておらず重く感じる体をゆっくりと起こしボサボサになった髪ごと頭をかく。
いつまでも頭を乗せている少女をどけて立ち上がり、歩みを一階のリビングへと進めていく。
このクソほど長い廊下になんの意味があるのだろうかと常々疑問に思っているが、居候させてもらっている身で文句を言えないので眠気覚ましなのだと考えてすり足で。
その後ろを異常なまでにアウトドアへの意欲が高めの少女が振り向かずともわかる煩さでついてくる。
病弱キャラなら寝ててほしいものだ。
リビングの扉を開けば、テーブルの上にはいい香りをたてる朝食が規則正しく綺麗に並べられており、近くでは静かに糸目の老人がこちらに一礼をして声を発する。
「おはようございます。時さん」
「おはようございます、久場羽場さん」
笑顔で挨拶を返し、洗顔を終えてテーブルに向き直れば、食卓を囲むのしょの字すら知らないお嬢様が美味しそうに頬張っている。
頬張るとは言えども黙っていれば深窓の令嬢だ。
何かの動作を行っている時とのギャップで風邪をひいてしまいそうだが、いちいちリアクションをとっていては朝の貴重な時間を変に浪費してしまう。
浪費するのは気力だけでいい。
「本日、東京国立博物館に”全能の書”とうたわれた、スウォン・クラア著【些末な天使】の32冊目が展示されるとのことです。【些末な天使】は今まで発見されたものは本人著による偽物であったことから、今回発見された32冊目が本物である可能性への期待も高まっています…」
「もう、これ見に行かない?トリュフよりかはましなんだけど」
「いえ、貴重な体験をするためにはもっとアクティブに動かなければいけませんよ時君!それに、【些末な天使】なんて何回か見たでしょ」
【些末な天使】は何度見ても面白いものだと思ったが、幽奈にとってはどうもお気に召さないものであるらしい。
少なくとも、世紀に名を遺す奇書はトリュフに劣ったのだ。
彼女のほうがどれほど奇妙な存在なのだろうか。
そんなこんなで流されるままにバスに乗り込み、今現在に至るわけだ。
回想終わり。
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バスジャック犯は最前列の席の廊下側に座り本を読み進めている。
銃を向けられたときはひやりとしたが、今は隣に座り満面の笑みで周囲を見渡している少女が何かやらかすことがないかの方が心配だ。
首根っこを掴んで止めるつもりではあるが、もし発砲とやらかしが同時に起きればどちらか、または自身の命を捨てることになる。
バスは元の路線から外れて都内を縦横無尽に走り回っており、時折トイレ休憩のために停車している。
バスジャック犯はとても良心的(?)であり、
『トイレや補給が必要ならば言ってください。もし逃げ出したら、即刻逃げ出した人間を殺します』
逃げ出した人間を殺せるのであれば、このバスの周囲には犯人の仲間が待機しているのだろうか。
窓にはカーテンをかけるように指示があり、フロントガラスでしか景色を見ることができない。
怯えた子供が何回かぐずったりもしていたが、それに対して何も行動を起こす気配はなかった。
その段階で幽奈と小声で気づいたことだが。
この場において絶対の力を持っているであろうバスジャック犯の目的は、バスジャック自体にはないということ。
本来の目的までは分からないが、達成したときに殺されるようなことがないことを切に願おう。
こんなことになるのであれば大人しく【些末な天使】を見に行けばよかった。
どちらにせよ、座ったままの状態はエコノミークラス症候群になる可能性も否めないし……。
そんなことを考えていると、最前列の犯人が立ち上がって後方を向く。
飽きたかなと思ったのもつかの間にこちらに話し始めた。
「本も読み終わってしまったので、少しお話をしましょう」
話をするんだったらナチュラルに出した銃をしまっておいてほしいものだが。
ひじ掛けに浅く腰をかけため息を一つ吐き楽しそうな笑顔を浮かべなおし言葉を紡ぐ。
「一番後ろに座っている麗しいお嬢さん。あなたは好きな人とかっていますか?」
「お嬢さんと言われるほど歳は離れていないように見えますけど。そうですねぇ、ジョン・フォン・ノイマンは好きですよ。彼の人生において他の人間とはどのような価値をもっていたのかが気になりますね」
「それは好きな偉人というか興味のある偉人という感じですね。笑えますけど、そういうことじゃなくて、たとえば人生に多大な影響を与えた人物とか、幼少期に誘拐されたところを救ってくれた人とか」
随分と突拍子もない話題と滅多に当てはまることのないであろう例えだ。
友達に聞いて回っても、誘拐された経験のある人なんて2人いるかどうかだ。
そしておめでとう犯人君。
突拍子もなく誘拐されてた人間が目の前にいるんだよ。
「助けてくれたのは警察の方々でしたから全員を覚えているわけでも、ただ1人を尊敬しているわけでもないんですよね」
「そうなんですねえ。隣の方はどうですか?」
会話を回されても困るのだが。
回答するべきか本当に悩ましいところだ。
だが、これで無視して激高されても困るし、あくまでも冷静に。
「僕も特にいないですかねぇ。やったことは素晴らしいと思いますけど。それ以外に目が行ってしまって」
「”それ以外”というと?」
「歴史的偉人って押しつけがましいことが多くないですか?周囲の人々がです。歴史的偉人はいつだって他人が英雄にまくしたて、自己犠牲のもとになりたっているものなんですから。一周回ってかわいそうに思えてきますよ」
その解答を興味深そうに顎に手を当てて犯人は聞く。
大して面白みのない回答だと思ったが、そこまで聞き入られると恥ずかしさが数十倍にも増してしまうからやめてほしい。
と、気づかなかったがバス中央の補助席が手前5列ほど降りている。
気が動転していたのだろうか、こんな大きな変化にも気づけなかったとは。
より一層脱出が難しくなり、本当に犯人の気のままにするしかなくなった。
もとより反抗するつもりは毛頭ないが、流石に3日目くらいに突入してしまったら毛先程には考えてしまう。
銃弾が発射される前に制圧できるかは別として。
如何せん人質の数が多すぎるせいで選択肢が狭まってしまうのが状況をより複雑にしている。
仮に幽奈と二人きりであれば、それこそ些末な問題であったのだが。
「そういう貴方は誰か尊敬している偉人はいるのですか?」
色々と手練手管を編み出そうと思考を巡らせていたところで呑気な質問が隣からとばされる。
よくもまあそんな悠長に会話をしようと思えるものだ。
驚いたように目を開いた犯人だったが、しばらくして答え始めた。
「じゃ、ジャム?ああ、ジャン・ダルクとか?」
「ジャンヌ・ダルクですかね?」
「エミールなんかはなかなかに面白かった記憶があります」
「それはジャン=ジャック・ルソーですね」
ひょっとして馬鹿なのかもしれない。
変人どうしコロコロと笑っているのを見るとバスジャック中とは思えない。
そもそもの話ではあるが元の質問からも大きく外れている。
その変人もとい犯人は小型のラジオを取り出して周波数を合わせようと、機械横のダイアルをいじくる。
ノイズが収まり聞こえてきたのは国立博物館に寄贈される「些末な天使」に関するものだった。
『些末な天使が今運ばれてきました、これから大規模な展示作業が行われる予定です』
うらやましい。
何度も言うがこんな事件に巻き込まれるのであれば、1人ででも「些末な天使」を見に行った。
アナウンサーの声に耳を傾けていると、ポツリと犯人が呟く。
「うまくやってね~。博聞」
言葉とともに1発の銃弾がバスのガラス窓から飛び出す。
小さな穴から入ってくる風は緩み始めていた心には少し冷たすぎた。




