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そこは暗かった。
膝に置いたおのれの指先が見えぬほど暗く、そして湿っていた。
そこが一体何処なのか、彼女には全く見当がつかなかった。
――ついたところで出られるとは思えんが……。
ひんやりした石の壁に頭をもたれ、少女は軽く嘆息をもらす。
ふいに、彼女の手を誰かが掴んだ。
「……レイ」
「メイリン、どうかしたのか?」
共に連れてこられた東国の少女は、わずかに首を振ってレイの肩に頭を預けた。
「不安なの。しばらくこうさせていて」
小さな声が震えている。
レイは黙って、彼女の細い手を握った。
肌身から伝わるあたたかさとは、なんと心強いものだろう。
その手を握り返し、メイリンが囁いた。
「わたしたち、一体どうなるの……?」
「心配しなくていい。何があっても必ず私が守るから。今頃きっと、ディーンたちがここを突き止めてくれているはずだ。もう少しの辛抱だよ」
レイは、自分に言い聞かせるようにそう口にした。
「大丈夫……きっと大丈夫だよ」
大丈夫。九曜もギガースもいる。ディーンは必ず助けに来る。
メイリンは、レイの肩口に顔を埋めた。
「……恐い。わたし恐いわ」
「必ず助かる。そう信じるんだ」
励ますレイの声が、洞窟のごとく暗く広い室内にひっそりと響く。
それは、同じくそこに集められた数百人の女たち全員の胸に、かすかな希望となって残された。
*
オファリスの中央神殿が昼の刻の鐘を鳴らす頃。
郊外の一軒の空き家では、昨日に引き続き、奇妙な一団が集まっていた。
国籍不明の容貌をもつ、剣術遣いの少年。
巌のごとく巨体の妖魔狩人の男。
武人の雰囲気をまとう、秀麗な法術師の青年。
そして、氷山の青さを帯びた白き妖魔の仔猫。
普通ならばけして顔を合わせることもないような彼らは、どこからか拾ってきたテーブルと椅子を運び入れてやや部屋らしくなった一間で、少し遅めの昼食を仲良く囲んでいた。
その場の話題は、当然ながら例の失踪事件である。
椅子の座面で無作法に足を組んだディーンは、青年が調達してきた高価な白パンをかじりつつ、共に持ってきた書類に目を通した。
「地震についても調べてきたんだな」
「ああ。どこまで事件と関連があるかは確証がないが」
言い、シェスは、ひとり高い台に上って山盛りの腸詰肉を見下ろす仔猫に顔を向けた。
「君たちはどうしていたんだ?」
「僕とギガースはちょっと飛んで、震源地の辺りを見てきたんだ」
簡単に言うが、震源地はティシス海上。空を航行する天翔船に乗ったとでもいうような言い方に、シェスが青い目を見開いた。
「ちょっと飛ぶ?」
「俺は飛べないので、九曜に乗せてもらったというほうが正しいが」
レオノイスに関した古文書を手にし、ギガースが言い添える。
シェスは、九曜が獅子の時の姿も、翼を持つということも知らない。大人の手のひらに乗るほどの仔猫と、その十倍はあろうかという巨漢を見比べ、付き合いの浅い法術師の青年は、ますます分からない顔になった。
が、妖魔が嘘をつかないのは有名な事実である。
その相手を追求しても仕方ないと感じたのか、青年は肩をすくめて質問を変えた。
「結界は張られていなかったのか?」
「それを聞くのは野暮ってもんでしょ。大丈夫。僕はディーンと違って、見つかるような間抜けなことはないから」
脂のついた口元をぺろりと舐め、底知れぬ魔力を秘める魔性が事もなげに言う。
「それで、なにか様子は掴めたのか?」
「僕にはさっぱり」
仔猫の言葉に、シェスは赤銅色の男に眼差しを移した。
九曜の隣に座るギガースが、葡萄酒で湿らせてから口を開く。
「上空から視ただけなので何とも言えんが……海底の一部へ何かが収束されているという印象を受けた」
天眼で視えるのは明確な光景ではなく、抽象的な概念だ。言葉にはしにくい。
「収束というのは、魔力のようなものか?」
「いや。力というより、意志だ。強烈な円環状の――」
「円環状? 何かの物の形なの?」
九曜の問いに、ギガースは首を横に振った。
「非常に強い利己主義だ。おのれに始まりおのれに終わる――」
「……ウロボロス」
何かを思い出したように、シェスが呟く。
「なんだそれは?」
「ウロボロスとは、おのれを喰らう蛇。永続する死と再生の象徴だ。同時に、レオノイスの国章でもある」
シェスの説明に、天眼を持つ男が深々と頷いた。
「俺の眼には、間違いなくあそこがこの事件の中心だと視えた」
断定された言葉に含まれた強い不安感――。
それは、これからの不吉な未来を暗示しているように、彼らには思えた。
「なあ、シェス。ちょっと聞きたいんだけど」
難しい顔で資料に目を落としたまま、ディーンが声をかける。
「シュワルゼのやつ、三年前に一度謹慎を受けてるみたいだけど、何をやらかしたんだ?」
「ああ。ある異教団体との接触が告発されたんだが、証拠が上がらずに不起訴となったのだ。その関連で謹慎処分となった」
「それって〝聖浄派〟?」
「そうだ。当時は大変な騒ぎだったからな。かなりの数のリューン貴族の名が挙がったらしい。帝都貴族に血縁をもつ者もいて、結局うやむやに決着をつけたようだが、全容が明らかにされればこの国はガタガタになるところだ」
「そうか。そんなにすごかったんだな」
呟いて、ディーンは考え込む素振りを見せた。
「一口に光明神教っていっても、宗派は分かれるだろう。その団体の何が一体そんなに問題だったんだ?」
「解散命令の主な理由は、神への冒涜ということらしい。彼らは修練することで普通の人でも能力が得られ、永遠の美が約束されるという教義で、若い少女を中心に信者を集めていたようだ。実際は痲薬を使ったいかさまだったらしいが」
「痲薬ね……。強制解散の後、追放される前に教主は逃亡したみたいだけど?」
「ああ。逃げた先も素性も一切不明。分かっていることは、それが女魔術師で、大変な美貌の主だということだけだ」
「へえ。一度拝んでみたいな」
正直な感想に、シェスが薄く笑う。
「やめておいたほうが良いと思うぞ。信者へは滅多に顔をみせなかったようだが、一度会うと男も女も骨抜きになったという話だ。潜入させた捜査員の累計が過去最多で、八割が寝返ったという不名誉な記録もあるほどだ」
「うーん、見たいような見たくないような」
「彼女には参謀役の男がいる。いわゆる情夫だな。こちらの素性は割れている。自称科学者のギデオン・メリアデス」
「科学者?!」
「自然現象を研究して、その謎を論理的に解明しようとする連中だ。もっともこいつは胡散臭くて、十代で学位をとったほど優秀なのだが、社交界にも出入りして詐欺まがいのことも――」
「今、何と言った?」
二人に比べて格段に口数の少ない妖魔狩人の男が、突然会話に入った。
「科学者のことか?」
「名を……メリアデスと言わなかったか」
「ああ」
「その名をどこかで見たぞ」
見たと言うのは、天眼を使ってのことではないらしい。
ギガースは、机に平積みにされているシェスが捜査局から持ち出してきた本を漁りはじめ、一冊の古びた小冊子を二人に差し出した。
目にした途端、シェスが蒼白になった。奪うように冊子を手に取る彼に、一同が驚く。
「どうした?」
「やつは……レオノイスと繋がっている」
苦く吐き捨てられた言葉に、室内の空気が止まった。
冊子の名は[失われし大陸への探訪] ――ギディアス・トリストラム・メリアデス著。
統一世界黎明期、勇敢王ルーク皇帝の治世に光石の発見による飛躍的な天翔船の発達に伴い、世界の果てにまで及ぶ開拓が行なわれた時に記された本である。
時化のため中断されるまでのわずか五日間のレオノイス発掘の様子を克明に描いた記録は極めて貴重であり、原書は帝都が誇る最大図書宮殿[水晶宮]に保管されているという。
その正確な複写本である冊子をディーンは傍らから覗きこんだ。
「親戚か?」
「名前からみて直系の先祖だろうな。〝ギデオン〟は〝ギディアス〟を現代風にした名前だ」
「まさか本人じゃないだろうな?」
「八百年前だぞ。さすがに死んでいてくれねば困る」
皮肉に返すが、シェスの眼の色は昏い。
「まさか教団の目的は、すべてこのためにあったというのか……?」
「教主たちの、というべきだろうぜ。教団の設立はいつだ?」
「五年前だが、それ以前から画策をしていたのだろうな。教団をつくるにはそれなりの元手が必要だ」
「教団の解散が三年前。そして信者の少女たちの失踪。その一月後に最初の地震が起こっている――話は通るな」
ディーンが戦闘的な笑みを湛えた。対して、シェスの面持ちは険しさを増す。
「三年前? だとすると、この範囲内で起こった未解決の行方不明事件を総計すると、失踪した少女たちの数は……」
今度は自分の手帳を繰り、重い息を吐いた。
「失踪した信者五百十七名を加えると、千人以上にのぼるぞ」
「千人?」
「千人だと? なぜまた少女たちばかりそんなに攫う必要があるのだ?」
驚いて声を上げるディーンに続いて、ギガースも思わず呟きを口にする。ふと、隣で考え込んでいる仔猫に気がついた。
「どうかしたか、九曜?」
「――うん。ちょっと思い出したことがあって」
長命な魔性がめずらしく、歯切れ悪く言い出す。
「古代の呪法に、召還の呪というのがあるんだ。込み入ったやり方だし、禁呪としてもう滅びちゃったと思うんだけど……それを使うと異なる次元の魔性を喚び出して、どんな願いでも叶えられるんだよ。もちろん使役にすることもできるわけだけど」
「それがどうだというのだ?」
「うん。その呪法を行なうには、穢れない処女の血が不可欠だと言われているんだ」
その発言が孕む事実の重さに、その場に痛いほどの沈黙が下りる。
「それが千人分集まると、いったいどうなるんだ?」
ディーンの問いに、九曜は身も凍るような笑みを浮かべた。
「どんな高次の魔性でも、喚び出すことが可能だよ」
*
「やりっ。どんぴしゃだぜ!」
夕の鐘と共に急速に日が落ちゆく時刻。ひっそりと明かりが灯される荒家に、状況の緊迫感をかき消すような陽気さで、外出していた少年が戻ってきた。
同じく帰ったばかりの青年が、右手の紙の束を振ってみせる。
「こっちもだ」
ディーンは、テーブルに集まる仲間の輪に加わると、荒い息のまま矢継ぎ早に告げた。
「やっぱりラルサ市の失踪も、帰る途中屋敷の人に呼び止められて、ばらけたところを襲われたそうだ。カルエドラ市のほうはまた聞きになるんではっきりしないが、同じように口実を作って一人になったところで消えている。リューンの高官がからんでいるのは間違いないな」
手酌で注いだ葡萄酒をあおって、ようやく呼吸を整える。
「シュワルゼを引っさらってくるか?」
「いや。叩いてもたいして埃は出んだろう。三年前の告発の時も口を割らなかったやつだ。やつに割いている時間はない」
捜査員のような口振りで、シェスは言い切った。ディーンは二杯目に口をつけて、
「俺思うんだけどさ、シュワルゼにしろ教団に関係したとされるやつらは皆、宗教心だけじゃなくて、もっと別の理由で動いてたんじゃないのか?」
「別の理由?」
「脅し、さ。五百人からなる忠実な信者の少女たち、それに痲薬ときたらこれはもう――」
「売春か!」
シェスが声を荒げた。ディーンが皮肉に笑う。
「大正解。……すごいぞ。売春組織としてお偉方から金を巻き上げ、同時に教団の地位も確立できる。教団の解散も実は脅しに身を食い尽くされそうになった連中の仕業じゃないのか?」
「そこまでは何とも言えんが……これは、別件として捜査局に一言言っておいたほうがいいかもしれんな」
頭が痛いといった顔で、シェスが額に拳を当てる。
まさかここまで話が広がるとは思ってもみなかった九曜は、その様子に苦笑した。
――これは、事件が解決した後も大変そうだなあ。
他人事ながら、思わず憐憫の情をもよおす。
苦手な法術師ではあるが、精力的で活力に満ちた彼のような人間は、嫌いなほうではない。
シェスは、気持ちを切り替えるように茶色の頭を振り、黒髪の少年に問いかける。
「曲技団の様子はどうだ?」
「だいぶ落ち着いてたよ。花形の一人が攫われたってことで、逆に評判になってたみたいだ」
「何が幸いするかわからんな」
「ああ。また別のお偉方からお呼びがかかって、ソンファが困ってたけど」
「今は応じぬほうがよいだろう」
「俺もそう言っておいた。――で、これからどうする?」
簡潔なその問いが、少女たちの救出を指しているのは明白だった。
しばし沈思して、シェスが尋ねた。
「可能性として聞きたい。この先を帝都に委ねる気はないか?」
「馬鹿言うなよ。あいつらのやり方じゃ、いくら待っても解決しないぜ」
「だが、九曜の魔力でも追跡不能。妖魔狩人の天眼をもっても覗ききらぬ結界をもつとなれば、内側から仕掛けるしかあるまい」
「囮、か――」
「そうだ。優秀な聖騎士の女性が帝都にいる。彼女であれば間違いなく敵の本陣へ乗り込め、一網打尽にできるだろう」
「どのくらいかかる?」
「一日か二日か……」
青年の返答を、ディーンは鼻先で一蹴した。
「やつらは前回失敗して焦っているはずだぞ。そんな悠長なことができるか」
「囮はばれたら元も子もない。準備は万全を期さねばならん」
冷静なシェスの言葉に、突然ディーンが激しく怒鳴った。
「その一日が命取りになるかもしれないんだぞ!!」
シェスは一瞬反論を忘れた。
怒鳴られたことよりも、初めて見る少年の必死な形相に驚く。
「……悪い。つい感情的になっちまった」
唇を噛み、ディーンが謝った。
本心をごまかすのに慣れたその横顔に強い不安の色を見出し、シェスは犯人逮捕に集中していた自分に気がついた。
犯人は憎い。だが、それ以上に攫われた少女たちの無事は何より代えがたいものだったのに。
ふいに鮮やかに妹の顔を思い出し、シェスはやりきれない気持ちになった。息をついて、
「分かった。この件は君たちに任せよう」
「いいのか? 失敗すれば、あんたも一緒に地獄へ道連れだぞ」
「どちらかというと地獄行きは遠慮したいが、それもまた仕方なかろう。あの世でたっぷりと恨み言を言わせてもらう」
その返事に、東国の少年は軽く肩をすくめた。
「やれやれ。また命懸けか」
「また? 以前に同じような経験でも?」
レイとのやり取りを思い出した九曜とギガースが、ぷっと吹き出した。
ディーンが、そうそのとおりと真面目に頷く。
一人事情を知らないシェスは、怪訝な顔をして彼らを見つめていた。




