帰らないという連絡
第99話 帰らないという連絡
前書き
「無事だった」と「解決した」は、同じではない。
連絡がつけば安心はできる。けれど、その人が帰りたくないと言った時、次に考えなければならないことが始まる。
*
翌朝六時五十二分。
敦は、枕元で震えたスマートフォンに起こされた。
画面を見る。
黒田鉄平。
「……早いな」
昨日、連絡先を交換したばかりだった。
メッセージには写真が一枚添付されている。
何かと思って開くと、コンビニのおにぎり二つと紙パックの牛乳が写っていた。
その下に、
『祐介、朝飯食ってるみたいっす』
とある。
敦はしばらく画面を見た。
それから、
『よかった』
とだけ返した。
すぐ既読がついた。
『あと』
続けて届く。
『母ちゃんとは連絡取ったらしいっす』
『でも家には帰らないって』
敦の指が止まった。
昨日、祐介から届いた「生きてる」という一言。
寝る場所はある。
飯も食っている。
一人ではない。
母親になら連絡してもいい。
そこまでは分かった。
そして今朝、もう一つ分かった。
帰らない。
敦は少し考えてから、
『学校終わってから話す?』
と送った。
『行きます』
返事は早かった。
その直後、もう一通来た。
『日だまり今日も金いります?』
敦は目を閉じた。
『いる』
『ですよね』
*
朝九時過ぎ。
事務所では、須賀が求人票を広げていた。
「今のところ辞めるわけじゃないんですけど」
「うん」
「田辺さんじゃないですよ」
「分かってるよ」
敦は笑った。
最近、倉庫の話がいくつも重なっている。
隼人の職場。
須賀の新しい職場。
前原の昔の倉庫。
少し油断すると、誰がどこで働いているのか分からなくなりそうだった。
須賀は今の倉庫で仕事を続けることにしていた。
ただ、まだ三日間の試用を終えたばかりに近い。
早出は週に一、二回程度。難しい日は九時からにできないか相談できる。
そこまで確認して、「続けてみる」と決めた。
今日持ってきたのは求人票ではなく、会社から渡された勤務予定表だった。
「来週、火曜だけ七時半です」
「行けそう?」
「始発の次なら、たぶん」
「たぶん?」
「乗り換え一回です。六時十二分のバス」
「起きられそう?」
須賀は考えた。
「……それが問題です」
「俺、起こさないよ」
「まだ何も言ってないです」
「顔に書いてある」
須賀が少し笑った。
「一回、自分でやってみます」
「うん」
「無理だったら、また考えます」
「それでいいと思う」
横で新聞を読んでいた前原が口を挟む。
「目覚まし三つ買え」
「三つも?」
「一個止めて寝るだろ」
「二個目も止めます」
「じゃあ五つだ」
「増えてるじゃないですか」
敦が笑う。
須賀も笑った。
以前なら、「起きられないかもしれない」というだけで仕事そのものを諦めていたかもしれない。
あるいは逆に、絶対にできると言い張って、失敗してから消えていたかもしれない。
今は違う。
一回やってみる。
無理なら相談する。
それだけのことを、須賀は自分で言えるようになっていた。
「じゃ、行きます」
「今日は仕事?」
「十一時からです」
「気をつけて」
「はい」
須賀は勤務予定表を畳み、自分の鞄へ入れた。
事務所に置いていかなかった。
それを見て、敦は少しだけ嬉しくなった。
*
午後四時半。
日だまりへ行くと、昨日までの騒ぎが嘘のように落ち着いていた。
電話は鳴っていない。
段ボール箱も増えていない。
店先でスマートフォンを構えている人もいない。
「終わりましたね」
敦が言うと、恵子は首を振った。
「甘い」
「え?」
「今日、朝から三人来た」
「何しに?」
「無料の食料」
「まだいるんだ……」
「一人なんて大きいエコバッグ持ってたわよ」
神谷が厨房から言う。
「米がもらえると思ったらしいです」
「どこから米が出てきたんです?」
「昨日の寄付の話でしょうね」
情報というものは、訂正より間違いの方が長生きするらしい。
恵子がカウンターを拭きながら言った。
「でも昨日よりは全然マシ。普通のお客さんがほとんど」
「例の中学生くらいの子は?」
昨日、店の混雑を見て帰ってしまった少年。
敦は気になっていた。
「まだ」
「そうですか」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「はい」
敦はそれ以上言わなかった。
その子にはその子の時間がある。
日だまりが待っていれば、必ず戻ってくるわけでもない。
それでも、来た時に座れる席は残しておく。
今はそれでいい。
入口の扉が開いた。
「ちわーっす」
「来た」
恵子が言った。
「何すか、その反応」
黒田鉄平だった。
昨日と同じ制服姿。
相変わらず大きい。
ただし今日は、店へ入るなり財布を出した。
「千円あります」
恵子が目を丸くする。
「成長したわね」
「俺、犬か何かっすか?」
「昨日よりは賢くなった」
「ひどくない!?」
「何食べる?」
「今日は生姜焼き」
「普通盛り?」
「大盛り」
「九百五十円」
「高っ!」
「帰る?」
「食います」
鉄平は千円札を渡した。
「お釣り五十円ね」
「Pay――」
「言ったら追い出すよ」
「何も言ってないっす!」
*
食事が来るまでの間に、敦は祐介のことを聞いた。
「朝のあと、何か来た?」
「昼に一回」
「何て?」
「これ」
鉄平がスマートフォンを見せる。
画面には祐介とのやり取りがあった。
『母ちゃんとは話した』
『親父には言わないでって言った』
『しばらく帰らない』
そのあとに鉄平が、
『どこいんの』
と送っている。
返事は、
『まだ言えない』
だった。
「聞いたんだ」
「聞きますよ、そりゃ」
「まあね」
「でも、それ以上は聞いてないっす」
「そっか」
鉄平はスマートフォンを伏せた。
「母ちゃんからも連絡来ました」
「鉄平に?」
「慎吾から番号聞いたみたいで」
「何て?」
「祐介と連絡取れた、ありがとうって」
「うん」
「それと……」
鉄平が少し言いにくそうにする。
「俺に、居場所知らないかって」
「何て答えた?」
「知らないって」
「本当に知らない?」
「知らないっす」
「なら、それでいい」
「でも」
鉄平は眉を寄せた。
「もし祐介から場所教えてもらったら、どうすりゃいいんすか」
敦はすぐには答えなかった。
昨日までなら、佐伯に聞いてみようと言って終わったかもしれない。
だが鉄平が聞いているのは、制度の話だけではない。
友達から秘密を預かった時、自分はどうすればいいのか。
「それは、場所によると思う」
「場所?」
「たとえば危ないところにいるって分かったら、鉄平だけで抱えない方がいい」
「危ないって?」
「外で寝てるとか、知らない大人のところにいるとか、怪我してるとか」
「うん」
「逆に、安全なところにいて、本人が今すぐ家族に知られたくない理由があるなら、いきなり全部伝える前に、どうするか考える時間は取れるかもしれない」
「……難しくないっすか?」
「難しい」
「そこは即答なんだ」
「だって難しいもん」
鉄平が笑った。
「だから、一人で決めなくていいよ」
「敦さんも一緒に?」
「必要なら」
「ヨシさんも?」
「内容による」
奥から前原の声が飛んだ。
「勝手に俺を入れんな」
「聞こえてたんすか!」
「お前の声で聞こえねぇ方がおかしいんだよ」
*
生姜焼きが運ばれてきた。
鉄平は一口食べて、
「うま」
と呟いた。
「今日は『普通に』付けないのね」
恵子が言う。
「学習しました」
「本当に成長したわね」
「だから犬扱いすんなって!」
鉄平が食べ始めてしばらくした頃、入口の扉が少しだけ開いた。
敦はそちらを見た。
昨日の少年だった。
混雑した店内を見て、そのまま帰ってしまった子。
今日は一人だった。
年齢は十三、十四歳くらいに見える。
制服ではない。
薄いパーカーに黒いズボン。
入口から店内を覗き、敦と目が合うと、一瞬身体を固くした。
敦は立ち上がらなかった。
「いらっしゃい」
恵子も普段と同じ声だった。
少年は入口に立ったまま聞いた。
「……今日、混んでないですか」
「今は大丈夫」
「SNSの人、いない?」
敦と恵子が顔を見合わせた。
「たぶん、いないよ」
敦が答えた。
「撮ってる人も?」
「撮影は断ってる」
少年はしばらく迷ってから、中へ入った。
「いつもの?」
恵子が聞く。
「……うん」
少年は奥の端の席へ座った。
敦はそれを見て、胸の奥に小さなものが戻ってくるのを感じた。
名前も知らない。
何度か一人で来て、食べて帰る。
それだけの少年だった。
だが昨日、日だまりが「話題の店」になったことで、彼は扉を開けられなかった。
今日は戻ってきた。
ただ、それだけだった。
鉄平が小声で聞く。
「あいつも無料?」
「違う」
「ですよね」
「何で全部無料だと思うの」
「もう思ってないっすよ」
鉄平は生姜焼きを食べながら少年をちらりと見た。
「じゃあ、普通の客?」
「そう」
「ふーん」
敦は少し警戒した。
何か聞くのかと思った。
だが鉄平は、
「俺と同じじゃん」
と言って、また食べ始めた。
敦は思わず笑った。
「何すか」
「いや、何でもない」
*
その日の夕方、陸斗、蒼、大和の三人もやって来た。
「こんにちは」
最初に入ってきた陸斗が、店内を見回す。
「今日は普通だ」
「普通じゃなかった原因の一人が何言ってんの」
恵子が返す。
「すみません……」
陸斗が縮こまる。
その後ろから大和が入った。
「腹減った」
「あなたはいつもそれね」
「成長期なんで」
鉄平が反応した。
「分かる」
大和も鉄平を見る。
「……でか」
「お前まで!?」
三人が一斉に鉄平を見る。
鉄平は生姜焼き定食の最後の一口を食べていた。
「何だよ」
陸斗が聞く。
「店の人ですか?」
「何でだよ!」
「いや、なんか……」
蒼が続ける。
「店長っぽい」
「高校生だよ!」
三人の動きが止まった。
「え?」
「高二」
大和が真顔で言った。
「嘘でしょ」
「お前、中学生だろ!?」
「中三です」
「中三に疑われた!」
恵子が腹を抱えて笑った。
敦も耐えられなかった。
鉄平は学生証を出した。
「ほら!」
陸斗が見る。
「マジだ」
「何で俺、毎回本人確認されんの?」
蒼が学生証と鉄平の顔を交互に見る。
「……写真より今の方が老けてますね」
「お前が一番ひどいわ!」
その騒ぎを、奥の少年がちらりと見た。
ほんの少しだけ口元が動いたように、敦には見えた。
*
陸斗たちは、昨日の投稿について改めて謝った。
「削除したんですけど、まだ転載残ってて」
「それはもう仕方ないよ」
敦が言う。
「店、大丈夫ですか」
「今日はだいぶ落ち着いた」
「俺、何かした方が」
「しなくていい」
「でも」
「陸斗」
敦は遮った。
「昨日も言ったけど、全部お前のせいにしたら話が簡単すぎる」
陸斗が黙る。
「投稿したことから始まったのは確か。でも、文章を変えて広げたのは別の人たちだし、勝手に撮りに来たのも別の人。寄付しようとした人も、それぞれ自分で決めて来た」
「はい」
「だから、陸斗が全部背負う話じゃない」
前原が奥から言った。
「ガキ一人に六十万人分の責任背負わせんな」
大和が手を挙げる。
「六十万は俺の腹です」
「お前は黙ってろ」
「はい」
鉄平が吹き出した。
「何それ」
「説明すると長いっす」
大和が答える。
「お前も敬語なんだ」
「年上なんで」
「ちゃんと高校生って認めてくれた!」
「学生証見たんで」
「学生証なかったら!?」
「ちょっと……」
「何だよ!」
*
夕方の店内は、久しぶりに騒がしかった。
ただし昨日の騒がしさとは違った。
誰かが撮影しているわけではない。
寄付を置きに来る人もいない。
店の場所を確かめるためだけに覗く人もいない。
普通に食事をする人がいて、くだらない話をする高校生がいて、中学生がいて、一人で静かに食べる少年がいる。
恵子は注文を取り、神谷は厨房で鍋を振る。
敦は空いた皿を下げた。
前原は何をするでもなく奥に座っていた。
鉄平のスマートフォンが震えた。
鉄平がすぐに画面を見る。
敦も気づいたが、何も聞かなかった。
「祐介っす」
鉄平の方から言った。
「うん」
「……場所、教えてきた」
敦の手が止まる。
「どこ?」
鉄平は画面を見た。
そして少し困った顔をした。
「高崎にいるって」
「具体的な場所は?」
「そこまでは」
「誰と?」
「中学ん時の先輩のところ」
「その先輩は何歳?」
「……二十歳」
敦は椅子を引いた。
「鉄平。ちょっと座ろうか」
「ヤバいっすか?」
「まだ分からない」
「母ちゃんに言った方がいい?」
敦は少し考えた。
「まず祐介に聞こう」
「何を?」
「その先輩のところにいることを、お母さんへ伝えていいか」
「高崎ってことも?」
「それも」
鉄平は頷いた。
メッセージを打つ。
『母ちゃんに、高崎にいるって言っていい?』
既読。
返事。
『高崎まではいい』
もう一通。
『先輩のことは言わないで』
鉄平が敦を見る。
「どうします?」
敦は画面を見た。
「今すぐ答えを出さなくていい」
「でも」
「鉄平が秘密を抱えることになるから、それも含めて考えよう」
前原がこちらへ来た。
「何だ」
敦が事情を話す。
前原は鉄平に聞いた。
「その先輩、お前知ってんのか」
「顔は知ってます。悪い人では……」
鉄平が止まる。
「分かんねぇか」
「はい」
「なら『大丈夫』とも『危ねぇ』とも決めんな」
「はい」
敦は佐伯へ連絡することを提案した。
鉄平は頷いた。
今度は昨日のように、「お願いします」ではなかった。
「俺も話していいっすか」
と聞いた。
「もちろん」
敦は答えた。
*
閉店間際。
奥に座っていた少年が会計を済ませた。
「ごちそうさま」
「はい。またね」
恵子が答える。
少年は入口まで行き、そこで一度振り返った。
「……明日も、SNSの人来ますか」
「分からない」
恵子は正直に言った。
「でも、撮影はさせないよ」
「うん」
「普通にご飯食べに来ればいい」
少年は小さく頷いた。
扉が閉まる。
敦はその背中を見送った。
「戻ってきましたね」
「うん」
恵子が答えた。
「よかった」
「そうね」
それだけだった。
名前を聞こうとはしなかった。
なぜ一人で来るのかも。
家で食事をしているのかも。
日だまりへ来る理由も。
話したくなれば、いつか話すかもしれない。
何も話さないまま、ただ飯を食べに来るだけかもしれない。
それでもいい。
*
鉄平は帰り際、陸斗たちと一緒になった。
「どっち帰るんすか?」
陸斗が聞く。
「地下鉄」
「俺らも途中まで一緒です」
「じゃあ行くか」
四人が店を出る。
大和が鉄平の隣に並んだ。
「何センチですか?」
「百八十九」
「すげえ」
「お前もでかくなりそうじゃん」
「まだ百七十三です」
「中三なら伸びるだろ」
「百九十いけますかね」
「牛乳飲め」
「それ本当ですか?」
「知らん」
「適当じゃないですか」
声が遠ざかっていく。
敦は入口に立って、その後ろ姿を見た。
昨日まで、互いの名前すら知らなかった四人だった。
そのうち三人はPayPayが使えると思って店へ入り、現金が足りなくなった。
もう一人は、無料で食べられると思って店へ入った。
どちらも、始まりとしてはずいぶん間が抜けている。
けれど今は、同じ道を歩いて帰っている。
前原が後ろから言った。
「お前、また見送ってんのか」
「別にいいでしょ」
「寒くなるぞ」
「まだ九月ですよ」
「夜は冷える」
「ヨシさん、じいちゃんみたいですね」
「誰がじいちゃんだ」
「年齢的には――」
「敦」
「はい」
「それ以上言ったら晩飯抜きな」
「権力の使い方間違ってますよ」
敦は笑って店内へ戻った。
テーブルには、誰かが使ったコップがまだ四つ残っていた。
それを一つずつ重ねて、流しへ運ぶ。
祐介のことは、まだ終わっていない。
須賀の仕事も、始まったばかりだ。
隼人と父親のことも、答えが出たわけではない。
田島美穂が今後どうするのかも、敦は知らない。
今日戻ってきた少年については、名前さえ知らない。
解決していないことばかりだった。
それでも以前の敦なら、何かを「解決」できなければ、自分は役に立っていないと思ったかもしれない。
今は少し違う。
話を聞く。
分からないことは、分からないと言う。
自分だけで決められないことは、知っている人に繋ぐ。
そして本人が決めるまで、勝手にその先を埋めない。
できることは、思っていたより地味だった。
けれど、たぶんそれでいい。
厨房から恵子の声が飛んできた。
「敦君!」
「はい?」
「鉄平君、お釣り忘れてる!」
「え?」
カウンターを見る。
五十円玉が一枚。
敦は思わず笑った。
「明日来るんじゃないですか」
「何で?」
「五十円取りに」
前原が鼻で笑う。
「それじゃ電車賃の方が高ぇだろ」
「でも鉄平ですよ?」
前原は少し考えた。
「……来そうだな」
翌日。
黒田鉄平は、本当に五十円を取りに来た。
⸻
後書き
第99話でした。
祐介から連絡は来ましたが、今回は「無事だったので一件落着」にはしませんでした。
十七歳の本人が「家には帰りたくない」と意思を示した以上、その言葉も無視できません。一方で未成年であり、滞在先が本当に安全なのかも確認していく必要があります。
鉄平たちは、その間に立つことになります。
また、SNS騒動で一度日だまりから離れてしまった少年も戻ってきました。彼については、まだ名前すら出していません。日だまりに来る人全員が、自分の事情を説明する必要はないからです。
そして陸斗、蒼、大和と鉄平も初対面。
十五歳、十五歳、十四歳、十七歳。
なのに一番高校生に見えないのが高校二年生の鉄平です。
次は第100話。
ここまで来たので、少し特別な回にしたいと思います。




