帰る場所じゃなくても
第100話 帰る場所じゃなくても
昼を少し過ぎたころだった。
日だまりの台所で、敦は大きな鍋の蓋を開けた。
湯気が、眼鏡を白く曇らせる。
「……見えん」
「そりゃそうだろ」
テーブルの向こうから木戸が言った。
敦は眼鏡を外し、シャツの裾で拭いた。
「今日、何人くらい来ますかね」
「知らん」
「昨日は七人でしたよ」
「じゃあ七人分作っとけ」
「八人来たら?」
「薄めろ」
「ひどいなあ」
そんな会話をしているところへ、玄関の戸が開いた。
「こんちはー」
最初に入ってきたのは陸斗だった。
その後ろから蒼。
少し遅れて大和が入ってくる。
「お前ら三人セットなの?」
敦が言うと、
「違いますよ」
陸斗が即答した。
「たまたま駅で会っただけです」
「三人とも?」
「三人とも」
「それをセットっていうんじゃないの」
木戸が言った。
大和が笑った。
少し前までなら、この三人が同じ部屋にいるだけでも、もう少し空気が硬かった気がする。
今は勝手に冷蔵庫を開けようとして、
「おい」
と木戸に怒られるくらいには馴染んでいる。
「何か飲み物ない?」
「あるけど勝手に開けんな」
「すいません」
陸斗が冷蔵庫を閉めた。
その横を、もう一人の少年が通った。
以前、一度ここを離れた少年だった。
戻ってきてからも、まだあまり喋らない。
敦たちも、無理には聞かなかった。
少年は流し台に自分のコップを置くと、そのまま窓際の椅子に座った。
蒼がちらっと見る。
それだけだった。
話しかけもしない。
避けもしない。
それでいい。
敦は、そう思った。
*
夕方。
前原が戻ってきた。
「おう」
「おかえりなさい」
敦が言うと、前原が靴を脱ぎながら顔を上げた。
「俺ん家じゃねえぞ」
「知ってますよ」
「じゃあなんで、おかえりなんだよ」
「なんとなく」
「変な奴だな」
前原はそう言いながら、中へ入った。
テーブルの上には、スーパーで買ってきた総菜と、敦が作った汁物が並んでいる。
「今日は多いな」
「陸斗たちが来てるんで」
「あいつらまたいんのか」
奥から声がした。
「聞こえてますよー」
「聞こえるように言ってんだよ」
前原は笑って、それから木戸の横に座った。
敦が少し声を落とす。
「……祐介の件ですけど」
「ああ」
前原の顔から笑いが消えた。
木戸もこちらを見る。
「鉄平から連絡ありました?」
「昼にあった」
「どうでした?」
「まだ高崎だ」
敦は黙って続きを待った。
「祐介本人とは話せたらしい」
「帰ってくるって?」
「そこまでは言ってねえ」
前原は煙草を取り出しかけて、部屋の中を見回した。
子どもが何人もいる。
そのまま箱をポケットへ戻した。
「ただな」
「はい」
「母親には、高崎にいるって伝えていいってよ」
敦は小さく息を吐いた。
「それだけでも……」
「ああ」
大きい。
居場所すら知らせたくない状態から、一歩だけ動いた。
けれど敦は、
「じゃあ迎えに行きましょう」
とは言わなかった。
前原も言わない。
木戸が訊いた。
「鉄平は?」
「焦ってる」
「でしょうね」
「迎えに行けば全部終わると思ってんだろ」
前原はテーブルに肘をついた。
「若えからな」
「鉄平も心配なんでしょう」
敦が言う。
「分かってるよ」
前原は答えた。
「だから止めんのが大人だろ」
敦は前原を見る。
「本人が帰るって言ってねえのに、居場所分かったからって押しかけたら、また逃げるかもしれねえ」
「……ですね」
「高崎にいる。連絡は取れる。とりあえず今日はそれでいい」
前原はそこで話を切った。
敦には、それが妙に前原らしく思えた。
助けることと、連れ戻すことは同じではない。
*
「飯できたぞー」
敦が声をかけた。
ぞろぞろと人が集まってくる。
「今日なに?」
「豚汁」
「また?」
「“また”って言うな」
「この前も豚汁じゃなかった?」
「具が違います」
「それ別料理になる?」
「なる」
「ならねえだろ」
木戸が言った。
陸斗が鍋を覗き込む。
「肉少なくない?」
「人数増えたからです」
「薄めた?」
「薄めてません!」
大和が笑う。
蒼は黙って茶碗を並べていた。
そこへ玄関が開いた。
「こんばんは」
須賀だった。
「あれ?」
敦が時計を見る。
「今日仕事じゃなかったんですか?」
「仕事帰りです」
「倉庫?」
「はい」
須賀は上着を脱ぎながら、疲れた顔で笑った。
「明日も早いんで、ちょっとだけ」
「飯は?」
「……あります?」
「ありますよ」
「じゃあ食べます」
「即答じゃん」
陸斗が言った。
「腹減ってんだよ」
須賀が返した。
敦は新しい茶碗を一つ出した。
特別なことは何もなかった。
誰かが戻ってきたわけでもない。
問題が解決したわけでもない。
祐介はまだ高崎にいる。
鉄平はまだ迷っている。
須賀は明日も朝から仕事だ。
陸斗たちにも、それぞれ帰ればそれぞれの生活がある。
ここにいる少年だって、いつまた出ていくか分からない。
それでも。
「詰めて」
「え?」
「須賀さん座れないから」
「あ、こっち空いてる」
「椅子もう一個持ってくるわ」
「そこ狭いって」
「大丈夫、大丈夫」
テーブルの周りで、人が少しずつ場所を空ける。
誰か一人のために。
ほんの少しずつ。
敦は鍋から豚汁をよそった。
須賀の前に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
須賀が箸を取った。
「いただきます」
すると、なぜか周りもつられて、
「いただきます」
と言った。
前原だけが少し遅れて箸を持った。
敦は空いた場所に腰を下ろす。
窓の外では、もう日が落ちていた。
この場所が、みんなの家なのかと聞かれたら。
たぶん違う。
帰る家がある人もいる。
帰りたくない家がある人もいる。
どこにも帰れない人もいる。
明日には、ここからいなくなる人だっている。
だから敦は、最近こう思う。
帰る場所じゃなくてもいいのかもしれない。
腹が減ったとき。
困ったとき。
誰とも喋りたくないとき。
なんとなく誰かのいるところに行きたくなったとき。
そのとき、
――あそこ行くか。
そう思い出せる場所なら。
それで十分なのかもしれない。
「敦」
「はい?」
前原が鍋を指した。
「もうねえのか」
「あ」
空だった。
「だから言ったじゃないですか。人数分からないって」
「薄めりゃよかったじゃねえか」
「木戸さんと同じこと言わないでくださいよ」
「水足せ、水」
「嫌ですよ!」
笑い声が上がった。
百回目の夜も、
日だまりは、いつも通りだった。




