ここ、無料なんですよね?
第97話 ここ、無料なんですよね?
前書き
話は、人から人へ伝わるうちに少しずつ形を変える。
「現金を持っていなかった三人に、店の人が先に食事をさせた」
それが、
「お腹を空かせた子どもに無料で食事を出した店」
になり、
さらに、
「子どもなら無料で食べられる店」
になる。
そして最後には、とんでもない解釈をする者も現れる。
*
黒田鉄平が横浜へ来て、半年ほどになる。
それでも鉄平は、いまだに自分の住んでいる場所と「横浜」という言葉がうまく結びついていなかった。
群馬にいた頃、横浜と聞いて思い浮かべていたのは海だった。
港。
大きな観覧車。
テレビや映画に出てくる夜景。
洒落た店の並ぶ通りを、都会の人間が歩いている。
実際に住んでみると、そういう横浜も確かにあった。
だが、それだけではなかった。
地下鉄の駅から地上へ出れば車の多い幹線道路があり、そこから一本入ると景色が急に変わる。古いマンションと新しいマンションが隣り合い、その間に昔からありそうな理髪店やクリーニング店が残っている。自転車が何台も並ぶスーパーがあり、少し歩けば町中華があり、さらに先へ行けば川沿いへ出る。
蒔田から吉野町へ向かう一帯。
鉄平が今暮らしているのは、その辺りだった。
「……これも横浜なんだよな」
誰に言うでもなく呟く。
平日の午後。
鉄平はスマートフォンを片手に、細い道を歩いていた。
画面には、昨夜から何度も見かけた投稿のスクリーンショットが表示されている。
元の投稿そのものは、すでに削除されていた。
だがスクリーンショットは残った。
さらに別の誰かが文章を付けて転載し、それをまた別の誰かが紹介している。
鉄平が見ているものには、
『お腹を空かせた学生に無料でご飯を食べさせた横浜の食堂』
と書かれていた。
「ここか?」
鉄平が立ち止まる。
店先に自転車が二台。
小さな看板。
派手さのない入口。
そこに「日だまり」と書かれている。
「……普通の飯屋じゃん」
もっと何か、福祉施設のような場所を想像していた。
鉄平はもう一度スマートフォンを見る。
『子どもたちに食事を提供』
視線を自分の身体へ落とした。
身長は百九十センチ近い。
肩幅も広い。
高校へ入ってからさらに身体が大きくなり、初対面の相手に大学生と間違われる程度ならまだいい。以前、引っ越し業者の手伝いに来た人と間違われたこともある。
髪は短い。
眉は太い。
制服を着崩す癖があり、今日は学校帰りなのでシャツの裾も半分出ている。
どう見えるかはともかく、年齢は十七歳だった。
「……俺、子どもだよな」
鉄平は一人で頷いた。
そして何の疑問もない顔で、日だまりの扉を開けた。
*
「ちわーっす」
店内に低い声が響いた。
恵子が顔を上げる。
「いらっしゃ――」
言葉が一瞬止まった。
大きい。
最初に浮かんだのはそれだった。
入口に立っている男――と恵子が思った人物は、入口の上枠に頭が届きそうなほど背が高い。学生鞄らしきものを肩に掛けているが、体格だけならどう見ても成人男性だった。
敦も奥の席から顔を上げた。
昨日の騒ぎを受け、今日は午後から日だまりに来ていた。
「……でか」
思わず声に出た。
「聞こえてますよ」
「あ、すみません」
鉄平は気にした様子もなく店内を見回した。
「ここっすよね?」
恵子が聞き返す。
「何が?」
「子ども、飯タダの店」
店内が静かになった。
敦は目を閉じた。
来た。
昨日、前原たちと話していた時から、いつかこういう勘違いをする人間が来るのではないかと思っていた。
まさか翌日とは思わなかった。
「違います」
恵子は即答した。
「え?」
「うちは普通の食堂です」
「でもSNSに」
「違います」
「子どもにタダで」
「事情があった子たちに、先に食べてもらったの」
「同じじゃないんすか?」
「全然違う」
鉄平は首を傾げた。
「俺、子どもなんすけど」
敦が鉄平を見る。
恵子も見る。
厨房から神谷まで顔を出した。
「……あなた、何歳?」
「十七っす」
「嘘」
「何で!?」
「ごめん」
「ひどくないっすか!?」
鉄平は財布から学生証を取り出した。
「ほら!」
なぜか自慢げに差し出す。
敦が受け取った。
「黒田鉄平……高校二年」
「だから言ったじゃないっすか」
「本当だ……」
「本当だって何すか!」
厨房から神谷の笑い声が聞こえた。
鉄平は学生証を取り返す。
「俺まだ未成年っすよ。子どもっす」
「それと無料は別の話なの」
恵子が言う。
「えー」
「えー、じゃない」
「じゃあチャーハン大盛り」
「九百円」
「金取んの!?」
「飯屋だからね!」
敦は耐えられず吹き出した。
「笑いました?」
「ごめん」
「俺、群馬から来たばっかなんすよ。都会怖ぇわ」
「群馬でも飯屋は金取るでしょ」
「取りますね」
「じゃあ横浜関係ないじゃない!」
*
鉄平は結局、九百円を払ってチャーハン大盛りを注文した。
しかも先払いした。
「金、あるんじゃない」
恵子が言う。
「ありますよ」
「じゃあ何で無料で食べようとしたの」
「タダならタダの方がよくないっすか?」
「……ものすごく素直ね、あなた」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
鉄平は席へ座った。
ちょうどそこへ前原が入ってきた。
「おう」
「ヨシさん」
敦が呼ぶ。
前原は鉄平を見た。
鉄平も前原を見る。
二人の視線が合う。
「……」
「……」
前原が敦に聞いた。
「誰だ、こいつ」
「高校生です」
「嘘つけ」
「また!?」
鉄平が立ち上がった。
「俺、高二っすよ!」
「座れ。でけぇんだよ」
「身長は関係ないでしょ!」
「何センチだ」
「百八十九」
「でけぇじゃねぇか」
「だから何なんすか!」
敦が笑いを堪える。
「黒田鉄平君。十七歳です」
「何しに来た」
「タダ飯食いに」
「敦さん! 言い方!」
「間違ってないじゃん」
「間違ってねぇけど!」
前原が事情を聞き、鉄平を見た。
「金あんのか」
「あります」
「払ったのか」
「払いました」
「じゃあ客だ」
「ほら!」
「ただし無料じゃねぇ」
「そこだけ厳しくないっすか?」
「飯屋だからな」
*
問題は、鉄平だけではなかった。
その日の昼から午後にかけて、似たような問い合わせが何件も来た。
「子どもは無料なんですよね?」
電話口でそう聞く人。
「寄付されたレトルトって、もらえるんですか?」
直接訪ねてくる人。
「余ってる食品があるなら、少し持って帰ってもいいですか」
買い物袋を持参してくる人までいた。
恵子はそのたびに説明した。
日だまりは無料食堂ではない。
昨日の三人は、食事を注文したあとで現金が足りないことに気づき、店側が後払いで構わないと判断しただけだ。
寄付された食品も、自由に持ち帰るために置いているわけではない。
そして今は、新しい寄付そのものも受け付けていない。
「ネットには無料って」
「ネットを書いた人に言ってください」
「でも、せっかく来たんだから」
「普通にご飯なら食べられますよ」
「お金いるんですよね?」
「食堂なので」
電話を切った恵子が、受話器を置く。
「何なのよ、もう!」
前原が新聞から顔を上げた。
「昨日までただの飯屋だったよな?」
「そうよ」
「昨日の夜に無料食堂になって」
「うん」
「今日には食料配給所か」
「そうみたい」
敦が感心したように言う。
「SNSってすごいですね」
「感心すんな!」
*
「ジモティーみたいになってますね」
神谷が言った。
「何だそれ」
前原が聞く。
「地元で物を譲ったりするサービスですよ」
「ここは違ぇだろ」
「違います」
「なら玄関に書いとけ」
「『ジモティーではありません』って?」
「余計意味分かんねぇだろ!」
鉄平はチャーハンを食べながら笑っていた。
「ここ面白いっすね」
「お前は食ったら帰れ」
「客に冷たくないっすか?」
「タダ飯狙って来た奴だろ」
「ちゃんと九百円払ったじゃないっすか」
鉄平の皿は、もうほとんど空だった。
大盛りだったはずだが、十分も経っていない。
神谷が呆れる。
「よく食べるねえ」
「部活やってた時はもっと食ってました」
「今は?」
「辞めました」
「何部?」
「柔道」
敦が納得した。
「ああ」
「何すか、その『やっぱり』みたいなの」
「いや、似合うなって」
「まあ、それはよく言われます」
鉄平は最後の一口を食べた。
「ごっそーさん。普通にうまかったっす」
恵子が睨む。
「普通には余計」
「じゃあ、めっちゃうまかったっす」
「よろしい」
*
鉄平が帰ったあとも、店には何人か新しい客が来た。
その中にはSNSを見て、普通に食事をして帰る人もいた。
近所にこんな店があるとは知らなかったと言う人もいた。
だから、全部が迷惑というわけではない。
夕方近くになって、母親らしい女性が小学生くらいの男の子を連れて入ってきた。
「すみません」
「はい」
「ここ、子どもは無料って聞いたんですけど」
恵子と敦が一瞬、顔を見合わせた。
またか。
「ごめんなさい。そういうお店ではないんです」
「え?」
「SNSで話題になった子たちは、ちょっと事情があっただけで」
「でも、子どもに食べさせてくれるって」
「事情があるなら、お話は聞きます」
女性の顔が変わった。
「……事情って?」
「もし困っていることがあるなら、という意味です」
「何か証明しないと駄目ですか?」
恵子は首を振った。
「そんなものはいりません」
「収入とか?」
「聞いてません」
女性は少し黙った。
隣にいる男の子が、店内のメニューを見ている。
「今日は普通に食べに来ただけなら、普通のお客さんとして食べてもらえます」
恵子が言った。
「もし今日、お金のことで困っているなら、それはそれで話しましょう」
女性はバッグを握った。
「……今日は払えます」
「じゃあ、それでいいじゃない」
恵子はメニューを渡した。
「何食べる?」
男の子が母親を見る。
「カレー」
「じゃあカレー一つ」
「お母さんは?」
「私はいいです」
恵子は一瞬だけ女性を見た。
何も聞かなかった。
「じゃあカレー一つね」
神谷が厨房へ入る。
敦は、そのやり取りを黙って見ていた。
無料か、有料か。
支援する側か、される側か。
線を一本引けば簡単なのかもしれない。
だが、目の前にいる人間は、その線の上に綺麗には並んでくれない。
*
日が傾き始めた頃。
鉄平が戻ってきた。
「忘れ物?」
敦が聞く。
「違います」
「また腹減った?」
「そこまで燃費悪くねぇっすよ」
「じゃあ何?」
鉄平はさっきとは違い、入口で少し迷っていた。
「……あの」
「うん」
「ここって、飯以外の話も聞くんすよね」
敦は鉄平を見る。
昨日、蒼にも同じようなことを聞かれた。
「話によるけど、聞くよ」
「別に俺じゃないんすけど」
「うん」
「……いや、マジで俺じゃないっすよ?」
「まだ何も言ってないよ」
「そうっすけど」
鉄平は店内を見る。
前原は奥にいる。
恵子は食器を片付けている。
「群馬にいるダチなんすけど」
敦は椅子を引いた。
「座る?」
「……はい」
鉄平が座る。
百八十九センチの身体が収まると、普通の椅子がやけに小さく見えた。
「そいつ、学校辞めたんすよ」
「うん」
「俺がこっち来てからなんで、詳しく知らなかったんすけど」
「うん」
「親ともずっと揉めてて」
鉄平はテーブルの木目を見ている。
「昨日、別のダチから聞いたんすけど、家にも帰ってねぇらしくて」
敦の表情が変わる。
「いつから?」
「二日……いや、今日で三日かも」
「連絡は?」
「俺から送っても既読つかないっす」
「その友達、何歳?」
「十七。同い年」
「今どこにいるか分かる?」
「分かんないっす」
敦は少し考えた。
「最後に誰かと連絡取ったのは?」
「たぶん群馬のダチ。でも、そいつも昨日から返ってこないって」
「家の人は?」
「知らないっす。俺、そいつの親の連絡先知らないし」
「そっか」
鉄平が顔を上げた。
「こういうのって、警察とかっすか」
「場合による」
「でも、家出しただけかもしれない」
「そうかもしれない」
「大げさにして、そいつが怒ったら」
「それもあるね」
敦は否定しなかった。
「ただ、三日くらい誰とも連絡が取れてなくて、居場所も分からないなら、ちょっと心配ではある」
「……ですよね」
「俺一人で決めない方がいいと思う」
「誰かに言うんすか」
「まず鉄平に話してからにする」
「俺に?」
「友達のことを話してくれたのは鉄平だから」
鉄平は黙った。
しばらくして、
「……それ、昨日の中学生にも言ったんすか」
と聞いた。
「何で知ってるの?」
「SNS」
「そこまで書かれてる!?」
「いや、それは書かれてないっす」
「びっくりした……」
鉄平が初めて少し笑った。
*
敦は前原に声をかけた。
鉄平の了承を取ってから、分かっている範囲だけを話した。
「群馬か」
前原が言う。
「はい」
「家出かもしれねぇし、何かあったのかもしれねぇ」
「そうです」
「こっちから直接どうこうできる距離でもねぇな」
鉄平が聞いた。
「じゃあ、どうすれば」
「知ってる奴に聞く」
「誰?」
「そういう時に、どこへ繋げばいいか知ってる奴だ」
敦が言った。
「佐伯さんに相談してみようと思う」
「役所?」
「そう」
「群馬のことでも?」
「全部分かるとは限らない。でも、どこへ聞けばいいか一緒に考えることはできる」
鉄平は少し考えてから頷いた。
「お願いします」
前原が鉄平を見る。
「お前、最初何しに来たんだっけ」
「それ今いります?」
「タダ飯だろ」
「違いますよ!」
「違わねぇだろ」
「結果的に九百円払ったじゃないっすか!」
「結果的にな」
鉄平が頭を掻いた。
「……SNSでここ見なかったら、来てないっすけどね」
その一言で、前原は何も言わなくなった。
*
閉店前。
入口には昨日作った紙がまだ貼られている。
『直接の寄付については、現在受け取りを停止しています』
『店内での無断撮影はご遠慮ください』
『利用者についてのお問い合わせにはお答えできません』
その下に、恵子が今日、一行だけ書き足した。
『当店は「子ども無料」の食堂ではありません』
前原がそれを見る。
「これで分かるか?」
「分かってほしい」
神谷が言う。
「『寄付品の無料配布も行っていません』も入れます?」
「入れて」
「ジモティーではありません、は?」
「入れない!」
敦が笑う。
そこへ鉄平が横から口を挟んだ。
「でも俺、最初それ系だと思いましたよ」
「お前のせいで書き足したんだからね!」
「俺だけじゃないっしょ?」
「最初はあんた!」
「記念すべき一号っすね」
「喜ぶな!」
店の中に笑い声が広がった。
鉄平はそのまま帰るのかと思ったが、入口で振り返った。
「敦さん」
「ん?」
「また来ていいっすか」
「いいよ」
「九百円持って?」
「それは持ってきて」
「PayPayは?」
恵子が厨房から叫んだ。
「使えないって言ってるでしょ!」
「マジかー!」
鉄平は笑いながら外へ出た。
夕方の道を、大きな背中が歩いていく。
群馬から横浜へ来て半年。
この街にまだ馴染み切れていない十七歳。
最初は無料のチャーハン目当てだった。
それでも扉を開けた。
そして一度帰ったあと、友達のことが気になって、もう一度その扉を開けた。
入口なんて、それくらいでいいのかもしれない。
敦はそう思った。
困っている人が、最初から正しい言葉を選んでやって来るとは限らない。
「助けてください」と言える人ばかりでもない。
「ここ、無料なんですよね?」
そんな間の抜けた一言から始まることだってある。
それでも、話の続きを聞いてみなければ、その人が何を抱えて扉を開けたのかは分からない。
敦は入口の紙を見た。
そして、恵子が書き足した一文の下へ、小さく余白が残っていることに気づいた。
そこには昨日から変わらず、最後の一行があった。
『困った時は、まず声をかけてください。一緒に考えます。』
無料ではない。
何でもできるわけでもない。
それでも、話をするための椅子くらいなら、まだ空いている。
⸻
後書き
第97話でした。
SNSで広がった情報は、早くも少しずつ別のものへ変わっていました。
「現金を持っていなかった三人に、先に食事をしてもらった店」が、「子どもなら無料で食べられる店」になり、さらに「寄付された食料を無料でもらえる場所」になっていく。
今回は少しコミカルに描きましたが、日だまりにとっては大事な問題でもあります。
困っている人に食事を出すことと、無条件で無料配布を行うことは同じではありません。
だからといって、困っていることを証明させたり、「本当に困っている人」かどうかを店側が簡単に決めたりすることもしたくない。
恵子たちは、その間で少しずつ自分たちなりの線を探しています。
そして新しく登場した黒田鉄平。
群馬から横浜へ来て半年の、高校二年生、十七歳。
見た目はとても高校生には見えません。
第一声は「子どもタダなんすよね?」でした。
しかも普通にお金を持っていました。
ただ、彼が本当に持ってきたものは、空腹ではなく、連絡が取れなくなった群馬の友人への心配だったようです。
日だまりへ来る理由は、一つでなくてもいい。
次回は、鉄平の友人について敦たちが「横浜から何ができるのか」を考えながら、SNS騒動のあとに残ったものも少しずつ整理していきます。




