PayPay、使えますか?
第95話 PayPay、使えますか?
前書き
困っている人は、いつも「困っています」という顔をしてやって来るわけではない。
友達と笑っていることもあるし、スマートフォンを見ながらくだらない話をしていることもある。ただ腹が減って、たまたま入った店で、ちょっとした失敗をすることもある。
その日の始まりは、相談でも、助けを求める言葉でもなかった。
「ここ、PayPay使えます?」
それだけだった。
*
火曜日の午後四時を少し回った頃、敦は「日だまり」の隅の席で、佐伯から渡された資料を読んでいた。
青少年相談、生活相談、就労支援、緊急時の一時的な居場所。窓口の名称と電話番号、受付時間が小さな文字で並んでいる。
必要な資料なのは分かる。
だが三枚目まで読んだところで、敦は眉間を押さえた。
「……これ、分かりにくいな」
「何が?」
カウンターの向こうから佐々木恵子が聞いた。
「この一覧です」
「見せて」
敦が差し出すと、恵子は老眼鏡を掛けた。
「青少年相談、生活相談、女性相談、就労相談……」
「相談ばっかりなんですよ」
「相談窓口の一覧なんだから当たり前でしょ」
「いや、そうなんですけど」
「何が不満なの?」
「本当に困ってる時にこれ渡されて、自分がどこへ行けばいいか分かるのかなって」
恵子は紙へ目を戻した。
「分からないでしょうね」
「ですよね」
「だから岡野君みたいな人が間にいるんじゃないの?」
「俺も分からないから勉強してるんです」
「あら駄目じゃない」
「今から覚えるんです!」
厨房から神谷直人の笑い声がした。
「佐々木さん、岡野君をいじめないでください」
「いじめてないわよ。育ててるの」
「勝手に育てないでください」
「じゃあコーヒー代払って」
「育ててください」
「安いわねえ」
神谷がまた笑った。
平日の「日だまり」は静かだった。昼の客は引き、夕食にはまだ早い。窓際では近所の老人が新聞を広げ、奥の席では買い物帰りらしい女性二人が話をしている。
敦がここにいるのも、誰かの相談を受けるためではない。
最近は事務所だけでなく、日だまりや市の窓口、佐伯のいる相談先など、いくつかの場所を行き来することが増えていた。何か起きてから慌てるのではなく、どこで何ができるのかくらいは知っておきたかった。
須賀からの連絡も、まだない。
三日間の短期勤務を終え、勤務先からは継続を打診された。ただ、通常勤務になると朝七時半からの日もあるらしい。
須賀は今日、自分で会社に勤務時間を相談すると言っていた。
敦からは連絡していない。
気になってはいる。
かなり気になっている。
だが、待つことにした。
その時、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
神谷が声をかける。
三人の少年が入ってきた。
一人は黒いパーカーに細身のパンツ。髪は少し長めで、入るなり店内を見回している。
もう一人は紺色の薄手の上着。三人の中では一番静かで、入口近くのメニューを立ち止まって眺めた。
最後の一人は少し体格がいい。スポーツブランドのバッグを肩から下げている。
制服ではない。
敦には中学生にも高校生にも見えた。
「ここじゃね?」
黒いパーカーの少年が言った。
「たぶん」
紺色の上着の少年が答える。
「腹減った」
三人目が言った。
「お前、さっきからそれしか言ってないじゃん」
「減ってんだから仕方ないだろ」
「今日部活なかっただろ」
「部活なかったら腹減らないのかよ」
三人は入口近くのテーブルに座った。
神谷が水を運ぶ。
「決まったら呼んでね」
「はい」
黒いパーカーの少年がメニューを開いた。
「チャーハンあるじゃん」
「俺それ」
体格のいい少年が即答した。
「早ぇよ、大和」
「もう決めた」
「蒼は?」
「……俺もそれでいい」
「お前ら、メニュー見る気ないだろ」
「じゃあ陸斗だけ三十分悩めば」
「嫌だよ」
結局、三人ともチャーハンになった。
大和だけ大盛りだった。
注文を取った神谷が厨房へ戻ると、三人はそれぞれスマートフォンを出した。
動画。
ゲーム。
学校の教師の話。
誰かのSNS。
内容は敦の耳にも断片的に入ってきたが、特に気に留めるようなものではなかった。
どこにでもいそうな三人だった。
*
十五分ほどして、チャーハンが運ばれた。
「うわ、でか」
「大和のヤバくない?」
「これ普通盛りも結構あるじゃん」
「いただきます」
「お前もう食ってるし!」
店内に笑い声が響いた。
恵子がカウンターから三人を見る。
「よく食べるわねえ」
神谷が厨房へ戻りながら笑った。
「若いですからね」
「岡野君も食べる?」
「何で俺までそっちに入るんですか」
「さっきから紙しか食べてないみたいな顔してるから」
「どんな顔ですか」
敦も笑った。
三人の皿は見る間に減っていった。
特に大和は早い。
「お前ちゃんと噛めよ」
「噛んでる」
「三回くらいしか噛んでないだろ」
「数えたのかよ」
「高校行ったら絶対太るぞ」
蒼が言った。
「高校行っただけで太るの?」
「お前、部活続けないって言ってんじゃん」
「まだ決めてねぇし」
陸斗が口を挟んだ。
「俺の高校の食堂来いよ。唐揚げ多いぞ」
「外部の中学生が入れるわけねぇだろ」
「あとちょっとじゃん。お前ら二人も来年高校生だろ」
敦はそこで初めて、三人の年頃をおおよそ理解した。
一人はもう高校生。
二人は中学三年らしい。
それだけだった。
どこの学校かまでは知らないし、聞く必要もなかった。
「陸斗のとこは行かねぇ」
大和が言った。
「何でだよ」
「制服ダサい」
「お前受からねぇから安心しろ」
「喧嘩売ってんの?」
「事実」
「蒼、こいつ殴っていい?」
「店の中ではやめて」
「外ならいいのかよ!」
また三人が笑う。
その時だった。
蒼がふとレジの方を見た。
何かを探すように目を動かす。
「……なあ」
「何?」
「ここ、PayPay使える?」
三人の手が止まった。
「え?」
蒼がスマートフォンを持ち上げる。
「ステッカーないけど」
陸斗もレジを見る。
「あれ?」
大和はスプーンを持ったまま固まった。
「……現金だけとか?」
「いや、まさか」
「こういう店、普通にあるだろ」
「先に見ろよ!」
「陸斗も見てねぇじゃん!」
「俺、お前が金あるって言うから!」
「それ大和だろ!」
三人の声が急に小さくなった。
敦も資料から顔を上げた。
陸斗が立ち上がり、レジへ向かった。
「あの、すみません」
「はい?」
恵子が顔を上げる。
「ここ……PayPay使えます?」
「ごめんね。うち現金だけなのよ」
「カードは?」
「それも駄目」
「……マジか」
陸斗は席へ戻った。
「現金だけ」
「俺、三百円」
蒼が財布を開く。
「俺、百八十円」
陸斗も確認した。
二人が大和を見る。
「……」
「大和」
「待て」
「いくら?」
大和は財布を開いた。
「……五十二円」
「何で大盛り頼んだんだよ!」
「あると思ってたんだよ!」
「何が!」
「金!」
「ないじゃん!」
「PayPayにはある!」
「ここで使えねぇんだよ!」
大和が財布を逆さにすると、十円玉と一円玉が何枚かテーブルへ落ちた。
三人合わせて五百三十二円。
チャーハン三皿には足りない。
「コンビニで下ろせる?」
「俺のPayPay残高、銀行からじゃない」
「俺も」
「親に連絡する?」
「いや……」
陸斗が嫌そうな顔をした。
「絶対笑われる」
「うちも怒られる」
大和が言う。
「何で?」
「だから現金持っとけって朝言われた」
「言われてんじゃん!」
「忘れたんだよ!」
「俺も家に現金置いてきた」
蒼が財布を閉じる。
その会話を聞いて、敦は少しだけ安心した。
同時に、自分が一瞬でも別の事情を考えたことに気づく。
親に連絡したくない。
その一言だけで、家庭に問題があると決めることはできない。
怒られるのが嫌。
笑われるのが嫌。
ただそれだけのことだってある。
「どうする?」
蒼が言った。
「……言うしかないだろ」
陸斗が立ち上がった。
今度はさっきより足取りが重い。
「あの」
恵子が顔を上げる。
「どうしたの?」
「俺ら……」
陸斗は財布を見せた。
「現金、足りなくて」
「うん」
「PayPayにはあるんですけど」
「うん」
「食べる前なら……その、注文取り消せたと思うんですけど」
恵子が三人の皿を見る。
すでに半分以上なくなっている。
「今返されても困るわねえ」
「ですよね……」
「食べかけだし」
「ですよね……」
陸斗の肩が落ちた。
「すみません」
「じゃあ、まず食べなさい」
「え?」
「冷めるから」
「いや、でも」
「もう半分食べたんでしょう?」
「はい」
「なら残りも食べなさい」
「でも、お金」
「それは食べたあとで考えればいい」
陸斗は戸惑った。
「俺ら、そのまま逃げるかもしれないですよ」
「そうね」
「いいんですか?」
「よくはないわよ」
「ですよね」
「でもね」
恵子は三人を見る。
「チャーハン三皿のために、あなたたちを商店街の端まで追いかけ回すほど私も若くないの」
厨房から神谷が顔を出した。
「今日は食べていきな」
「……」
「払える時に持ってくればいいよ」
「住所とか書かなくていいんですか」
「今はいらない」
「学校とか」
「聞かないよ」
陸斗は余計に困った顔になった。
「何でそこまで」
「冷めるから」
恵子がもう一度言った。
その時。
ぐううう、と妙に立派な音がした。
全員が大和を見る。
「……俺じゃない」
「お前だろ!」
「違う!」
「まだ腹減ってんのかよ!」
「大盛り半分食ってるだろ!」
「だから俺じゃないって!」
恵子が笑った。
「ほら。まだ食べられるみたいだから」
「椅子です!」
大和が言った。
「椅子が腹鳴らすか!」
陸斗が吹き出した。
蒼まで笑った。
張りつめていたものが、そこで少しだけほどけた。
三人は席へ戻った。
「……いただきます」
今度はさっきより少し小さな声だった。
*
食べ終わった三人は、すぐには帰らなかった。
「何か手伝います」
陸斗が神谷へ言った。
「いいよ」
「いや、でも」
「食事代の代わり?」
「まあ……そういう感じです」
「だったら、やらなくていい」
「え?」
神谷は布巾を置いた。
「君たちに働いてもらうつもりで食べてもらったわけじゃないから」
三人が顔を見合わせる。
「でも、何もしないで帰るの気まずくね?」
大和が小声で言った。
「気まずい」
蒼も答えた。
「俺も嫌だな」
陸斗が少し考え、もう一度神谷を見る。
「じゃあ、お金の代わりじゃなくて」
「うん」
「普通にちょっと手伝うのは?」
「普通に?」
「椅子戻したり、テーブル拭いたり」
神谷は少し考えたあと、笑った。
「じゃあ十分だけお願いしようかな」
「十分?」
「それ以上やったら、本当にアルバイトみたいになるから」
「俺、高一なんでバイトできますよ」
陸斗が言った。
「そういう話じゃない」
「ですよね」
「こいつら中三だから無理です」
「学校によるだろ!」
大和が抗議する。
「お前はまず受験勉強しろ」
「今その話する!?」
結局、三人は空いたテーブルを拭き、椅子を揃えた。
大和が布巾を絞りすぎて床へ水を飛ばす。
「お前、仕事増やしてんじゃん!」
「すみません!」
「だから働かせてないって」
神谷が笑う。
蒼は一番丁寧だった。
調味料を元の位置へ戻し、テーブルの端まで拭く。
十分経つ前に神谷が手を叩いた。
「はい、終わり」
「まだできますよ」
「今日はここまで」
「でも」
「次は客として来て」
陸斗が財布を持ち上げた。
「明日、三人分持ってきます」
「無理に明日じゃなくていいよ」
「いや、持ってきます」
「じゃあ待ってる」
大和が言った。
「俺もちゃんと出すからな」
「五十二円じゃなくて?」
「PayPayにはあるって言ってんだろ!」
「ここじゃ使えないけどな」
「それもういいわ!」
三人が笑った。
敦は少し離れたところから見ていた。
彼らが高校一年と中学三年だということは分かった。
それ以上のことは、ほとんど知らない。
家がどこなのか。
親が何をしているのか。
どこの学校なのか。
それでよかった。
今日は、現金を持たずに飯を食べてしまった三人。
それだけで帰ってもいい。
*
入口まで来たところで、蒼が立ち止まった。
「陸斗、大和。先行ってて」
「何?」
「すぐ行く」
「置いてくぞ」
「いいよ」
二人が店の外へ出る。
蒼は少し迷ってから、敦の方を見た。
「すみません」
「俺?」
「はい」
敦は資料を閉じた。
「どうした?」
「岡野さん、ですよね」
「そうだけど」
「さっき店の人が呼んでたから」
「ああ」
蒼は一度、店内を見回した。
「ここって」
そこで少し言葉を探した。
「飯食う以外でも来ていいんですか」
敦は蒼を見る。
「来ていいよ」
思ったより自然に答えが出た。
「何も頼まなくても?」
「ずっと満席なのに一人で四人席を占領するとかは困るけど」
蒼が少し笑った。
「それはしません」
「なら大丈夫」
「……相談とかも?」
「俺でよければ話は聞ける」
敦はそこで一つ付け足した。
「ただ、俺じゃ分からないこともある。その時は詳しい人に相談するかもしれない」
蒼の表情がわずかに硬くなった。
「誰かに言うってことですか」
「勝手には言わないよ」
「……」
「誰かに聞いた方がいいと思ったら、先に君に話す」
「俺に?」
「うん」
蒼は少し意外そうだった。
「名前、覚えてたんですね」
「二人が何回も蒼って呼んでたから」
「ああ」
敦は少し迷った。
「今日は、何か話したい?」
蒼は首を振った。
「今日は大丈夫です」
「そっか」
敦はそれ以上聞かなかった。
今日は。
その言葉だけは耳に残った。
だが、続きを聞くのは敦ではない。
話すかどうかを決めるのは蒼だ。
「じゃあ、また」
「はい」
蒼は店を出た。
「遅ぇよ!」
外から陸斗の声がする。
「何話してたん?」
大和が聞く。
「別に」
「怪しい」
「うるさい」
三人の声が遠ざかる。
大和が何か言い、陸斗が笑う。
蒼の笑い声も混じった。
そのまま三人は角を曲がり、見えなくなった。
*
「岡野君」
恵子に呼ばれ、敦は振り返った。
「はい」
「今の子、何かあった?」
「分かりません」
「そう」
「飯食う以外でも来ていいかって聞かれました」
神谷が厨房から顔を出す。
「何て答えた?」
「来ていいって」
「うん」
「……勝手に言ってよかったですか」
恵子が呆れた顔をした。
「言ったあとで聞くの?」
「今、ちょっと不安になって」
「いいわよ」
「よかった」
「ただし、何でもできる場所みたいには言わないでね」
「はい」
「泊められるわけじゃないし、お金を貸せるわけでもない。専門家でもない」
「そこは分かってます」
「ならいい」
神谷が頷いた。
「来て座って、話をするくらいならね」
敦はテーブルに置いた資料を見る。
青少年相談。
生活相談。
就労相談。
電話番号。
受付時間。
どれも必要なものだ。
だが、その紙を開くより前に、
「ここに来ていいですか」
と聞ける場所も必要なのかもしれない。
*
その日の夜。
陸斗は自分の部屋で、机に向かっていた。
教科書は開いている。
だが勉強はしていなかった。
スマートフォンの写真フォルダを開く。
今日のチャーハン。
大和の大盛り。
水の入ったコップ。
テーブルの端。
三人の顔は写っていない。
「これ、ちょっと面白いな」
短い文章を打った。
『今日3人で飯食いに行って、食ってる途中で現金しか使えないことに気づいた』
『所持金3人合わせて532円』
『詰んだと思ったら店の人が「冷めるから食べな」って言ってくれた』
『明日ちゃんと払いに行きます』
写真を一枚添えた。
投稿。
数分後。
蒼からメッセージが来た。
『これ載せた?』
『載せた』
『店大丈夫?』
『名前出してない』
『場所分からない?』
『これで分かる?』
少しして、大和が投稿へ返信した。
『腹鳴ったの俺です』
陸斗は吹き出した。
『それ世界に報告する必要ある?』
蒼も返信する。
『ガチです。俺ら3人いました』
『蒼まで乗るなよw』
最初は三人だけの冗談だった。
だが、通知の数が増えていく。
十。
三十。
百。
千。
「え?」
陸斗は画面を更新した。
表示回数が一万を超えている。
「何で?」
さらに増える。
陸斗はスクリーンショットを撮り、二人へ送った。
『18906』
大和から即座に返ってくる。
『俺の腹が2万人に知られた』
『チャーハンの話だろ』
『ほぼ俺の腹だろ』
蒼からは違う返信が来た。
『笑ってる場合?』
陸斗は投稿へ戻った。
『いい店だな』
『こういう大人がいるの嬉しい』
『ちゃんと払いに行くんだぞ』
『場所どこ?』
『近所なら食べに行きたい』
『寄付できないかな』
知らない人からの言葉が次々に並ぶ。
嬉しい言葉が多かった。
陸斗も最初は嬉しかった。
自分たちが助けてもらった店を褒めてもらっている。
悪い気はしない。
だが。
『背景で場所分かるかも』
その書き込みを見つけた。
陸斗の指が止まった。
写真を拡大する。
チャーハン。
テーブル。
奥の壁。
端に少しだけ写った掲示物。
「……これで?」
蒼から、もう一度メッセージが来た。
『消した方がよくない?』
陸斗はすぐには返せなかった。
*
同じ頃。
敦のスマートフォンにもメッセージが届いた。
須賀だった。
『会社に聞きました』
続けてもう一通。
『7時半の日は週に1回か2回くらいで、難しい日は9時からでも相談できるそうです』
敦は思わず身体を起こした。
さらに、
『続けてみようと思います』
と届いた。
敦はしばらく画面を見ていた。
何と返すか考える。
『よかった』
と打った。
消した。
『頑張れ』
それも消した。
最後に、
『了解。明日からも気をつけて』
とだけ送った。
数秒後。
『はい』
と返ってきた。
敦はスマートフォンを伏せた。
須賀が自分で聞いた。
自分で条件を確認した。
自分で決めた。
それで十分だった。
その夜、敦はまだ知らなかった。
昼間、「日だまり」でチャーハンを食べていた三人の何気ない投稿が、翌朝には何十万人もの目に触れることになる。
そして、誰かを助けたいと思う気持ちも、たくさん集まれば、それを受け止める場所の形を変えてしまうことがある。
善意だからこそ、断りにくい。
好意だからこそ、扱い方を考えなければならない。
そのことを、敦たちは翌朝から知ることになる。
⸻
後書き
第95話でした。
今回は、高校一年の陸斗と、中学三年の蒼、大和という三人が「日だまり」にやって来ました。
三人は最初から相談者として登場したわけではありません。
ただ腹が減って、三人で店に入り、チャーハンを注文した。
そして食べ始めてから、手元にあるのがほとんどキャッシュレス決済の残高だけで、この店では現金しか使えないことに気づいた。
それだけの出来事です。
敦たちも最初から三人の年齢や学校を知っていたわけではありません。食事中の何気ない会話から、陸斗が高校一年生、蒼と大和が中学三年生だと分かりました。
そして今回、もう一つ大切にしたかったのが、蒼の「今日は大丈夫です」という言葉です。
敦はそこに少し引っかかりましたが、理由を聞いていません。
何か事情があるのかもしれない。
本当に何もないのかもしれない。
今の段階では、まだ分かりません。
話すかどうかは蒼が決めることです。
【このエピソードについて】
今回の「現金をほとんど持っていない子どもたちが、食事を注文したあとでPayPayが使えないことに気づく」というエピソードには、着想のきっかけになった実際の出来事があります。
お腹を空かせた中学生たちが食事に立ち寄ったものの、手元の決済手段がPayPayで、お店では使うことができず困ってしまった。そして、その事情を知ったお店の方が、まず子どもたちに食事をさせた――という出来事を知りました。
この話を知った時、とても良い出来事だと感じました。
「お金がないなら食べられない」で終わらせるのではなく、まず目の前のお腹を空かせた子どもたちに食べてもらう。
その姿勢が、『WAY HOME』でこれまで描いてきた、
「事情を聞くより先に、まず飯を食う」
という部分にも通じるものがあると感じ、このエピソードの着想の一つとして取り入れました。
もちろん、本作は実際の出来事をそのまま物語化したものではありません。
登場人物、年齢、場所、会話、三人の関係、その後に起きる出来事などは、物語に合わせてフィクションとして再構成しています。
そして、ここからはさらに、
「もし、この出来事がSNSで予想以上に広まり、多くの善意が一つの小さな場所へ押し寄せたら、何が起きるのか」
という『WAY HOME』独自の展開へ進んでいきます。
元になった出来事をご存じの方なら、今回のお話を読んで「あの話がきっかけかな?」と思われたかもしれません。
とても温かく、良い出来事だと感じたからこそ、本作でも大切に扱いたいと思い、今回、着想元について書かせていただきました。
次回、第96話。
「善意が押し寄せた朝」
陸斗が目を覚ました時、昨夜の投稿は、もう三人だけの話ではなくなっています。




