↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
94/105

前原という名前

第94話 前原という名前


前書き


名前を変えたからといって、過去が消えるわけではない。


したことも、されたことも、なくならない。


それでも、自分がこれから何と呼ばれて生きるのか。


それくらいは、自分で選んでもいいのかもしれない。


木島正義が「前原正義」になるまでには、少し時間がかかった。


⸻


 村瀬亮介が退院したあと、正義は一度だけ会った。


 病院ではなかった。


 駅から離れた小さな喫茶店だった。


 村瀬から連絡が来たわけではない。退院後に必要だった未払い分の金をどう渡すか確認したところ、共通の知人を通して、


「直接でもいい」


 と返事が来た。


 正義は封筒を持って行った。


 中身は、村瀬が働いた分の金だった。


 見舞金でも、口止め料でもない。


 少なくとも正義は、そう分けたかった。


「これ」


 テーブルの上に封筒を置く。


 村瀬は中身をその場では確認しなかった。


「ありがとうございます」


「足りなかったら言え」


「はい」


 以前より痩せて見えた。


 頭の傷は髪に隠れていたが、頬にはまだ薄く痣が残っている。


「身体は」


「だいぶ」


「仕事は?」


「探してます」


「……そうか」


 会話が続かない。


 以前なら正義が仕事を振れば、それで話は済んだ。


 今はもう、その関係ではなかった。


「村瀬」


「はい」


「悪かった」


 村瀬は正義を見た。


「病院でも聞きました」


「分かってる」


「……」


「だからって、もう一回言ったらどうにかなるとも思ってねぇ」


 正義はテーブルの端を見た。


「俺が大丈夫だって言った」


「はい」


「確認したつもりだった」


「はい」


「でも、間違ってた」


 村瀬はしばらく黙っていた。


「木島さん」


「何だ」


「俺、もう戻らないです」


「ああ」


「倉庫にも」


「分かってる」


「連絡もしないと思います」


 正義は一瞬だけ言葉を失った。


 それでも、


「分かった」


 と答えた。


「何かあったら連絡しろ」とは言わなかった。


「困ったら戻ってこい」とも言わなかった。


 それを言えば優しいように聞こえる。


 だが村瀬が今、正義との関係そのものから離れようとしているなら、出口に立って呼び戻す言葉になるかもしれなかった。


「じゃあな」


 正義はそれだけ言った。


 村瀬は頭を下げた。


「失礼します」


 それが最後だった。


 少なくとも、前原正義が知る限りでは。


         *


 仕事を減らし始めると、意外なことが起きた。


 暇になった。


 正義は、それに困った。


 朝から倉庫へ行く日を減らした。


 夜の呼び出しも断るようになった。


 電話が鳴っても、全部には出なかった。


 すると、一日の中に何もない時間が生まれた。


 何をすればいいのか分からなかった。


 駅前を歩いた。


 パチンコ屋へ入った。


 喫茶店で時間を潰した。


 昼過ぎに部屋へ戻っても、まだ外は明るかった。


「……長ぇな」


 畳の上に寝転び、天井を見る。


 こんなに一日が長いとは知らなかった。


 今までなら、誰かから電話が来た。


 何かを運んだ。


 人を集めた。


 揉め事があれば出ていった。


 それをしないと、自分が急に空っぽになったように感じた。


 数日後。


 正義は坂口のところへ行った。


 坂口はすでに運送会社で働いていた。


 作業着姿だった。


「何だ、その顔」


「どの顔だよ」


「暇そうな顔」


「顔で分かんのかよ」


「分かる」


 坂口は笑った。


「仕事減らしたんだって?」


「誰から聞いた」


「いろいろ」


「相変わらず耳だけは早ぇな」


「で?」


「何が」


「どうすんだ」


「知らん」


「考えてねぇのか」


「考えてるから来たんだよ」


 坂口は少し驚いた顔をした。


「お前が人に相談するとはな」


「帰るぞ」


「待て待て」


 坂口は自動販売機で缶コーヒーを二本買った。


「うち来るか?」


「ここ?」


「最初は荷物の積み下ろしだ。給料は安い」


「知ってる」


「朝早い」


「それも聞いた」


「今までみたいな金は入らんぞ」


「……」


「履歴書もいる」


「履歴書?」


「普通の会社だからな」


「面倒くせぇ」


「じゃあ帰れ」


「誰もやらねぇとは言ってねぇだろ!」


 坂口が笑った。


 正義は缶コーヒーを受け取った。


 その日、初めて履歴書を買った。


         *


 現在。


 須賀の三日間の短期勤務は、二日目に入っていた。


 朝七時。


 敦は自分のスマートフォンを見た。


 電話はしない。


 約束どおりだった。


 七時十分。


 まだ見た。


 七時二十分。


 また見た。


「電話しねぇなら置け」


 前原が言った。


「見てるだけです」


「何が変わるんだ」


「メッセージ来るかもしれないじゃないですか」


「来たら音鳴るだろ」


「マナーモードです」


「解除しろ」


「それはそれでうるさいです」


「面倒くせぇな、お前!」


 隼人が味噌汁を飲みながら笑った。


「敦さん、俺が仕事始めた時もそんな感じだったんですか」


「そんな感じじゃないよ」


「嘘つけ」


 前原が即答した。


「ヨシさん!」


「最初の一週間、帰る時間気にしてただろ」


「だって心配だったから」


「隼人、聞いたか。お前信用されてなかったぞ」


「違いますって!」


 隼人は笑いながら茶碗を置いた。


「まあ、俺も最初は毎日、帰る前にここへ連絡してましたからね」


「そうだったっけ」


「してましたよ」


「忘れてた」


「そんなもんですよ」


 隼人は立ち上がった。


「じゃあ行ってきます」


「おう」


「行ってらっしゃい」


 扉が閉まる。


 敦はスマートフォンを伏せた。


 七時四十二分。


 須賀から連絡はなかった。


 たぶん、もう仕事へ向かっている。


 それでいい。


         *


 正義の履歴書は、なかなか完成しなかった。


 学歴を書く。


 止まる。


 職歴を書く。


 もっと止まる。


「これ、どう書くんだよ」


「そのまま書けるところはそのまま書け」


 坂口が言った。


「書けねぇところは?」


「嘘つくな」


「じゃあ空白だらけになるぞ」


「全部埋めなきゃいけねぇ決まりはねぇ」


「落ちるだろ」


「落ちるかもな」


「お前、俺を働かせたいのか働かせたくねぇのか、どっちだよ」


「俺が採るわけじゃねぇ」


 正義は苛立ちながらボールペンを置いた。


「馬鹿らしくなってきた」


「じゃあやめるか」


 正義は坂口を睨んだ。


「……書く」


「なら書け」


 結局、その会社には採用された。


 坂口の口利きがまったくなかったわけではない。


 だが、正義も面接を受けた。


 過去について聞かれた。


 言えることは言った。


 言えないことを綺麗な経歴に作り替えることはしなかった。


「朝六時半に来れるか」


「来れる」


「荷物は重いぞ」


「慣れてる」


「長く続けられるか」


 そこで正義は止まった。


「……分からん」


 面接した男が眉を上げた。


「分からん?」


「やってみねぇと」


「普通、そこは続けますって言うもんだぞ」


「じゃあ聞くなよ」


「お前、面接でその口の利き方やめろ」


 隣にいた坂口が頭を抱えた。


 面接した男は、しばらく正義を見てから笑った。


「明後日から来い」


「いいのかよ」


「坂口よりは働きそうだ」


「おい!」


 坂口が声を上げた。


 正義は久しぶりに腹の底から笑った。


         *


 新しい仕事では、誰も正義を「木島さん」と呼ばなかった。


「木島」


 それだけだった。


 年上の作業員から、


「木島、そっち持て」


 と言われる。


「木島、それ違う」


 と注意される。


「木島、休憩入れ」


 と指示される。


 最初は腹が立った。


 以前なら、自分が人へ指示を出していた。


 ここでは一番下に近い。


 誰も正義の過去を知らない。


 誰も怖がらない。


 誰も「木島さんに聞けばいい」と言わない。


 それが、不思議だった。


 そして。


 少しだけ楽だった。


 失敗すれば怒られた。


 時間になれば仕事が終わった。


 家に帰れば、電話が鳴らない夜もあった。


 初めて給料を受け取った時、正義は封筒をしばらく見ていた。


 十五歳の時と同じだった。


 働いた分。


 ただ、それだけの金。


 金額は以前より少なかった。


 それでも正義は、その封筒を捨てずに長く持っていた。


         *


 須賀の二日目が終わった。


 午後四時半。


 今日はメッセージが来なかった。


 敦は気にしながらも、電話をしなかった。


 午後五時。


 来ない。


 五時半。


 来ない。


「……」


「岡野」


「はい」


「気になるなら送れよ」


「でも、必要なら連絡してって言ったし」


「じゃあ待て」


「どっちですか」


「お前が決めろって昨日も言っただろ」


「それ難しいんですよ」


「知らんがな」


 敦はスマートフォンを置いた。


 六時十分。


 玄関が開いた。


「こんばんは」


 須賀だった。


「え?」


 敦が立ち上がる。


「来たの?」


「はい」


「何かあった?」


「いや」


 須賀は靴を脱いだ。


「ご飯、あります?」


 前原が台所から顔を出した。


「ある」


「食べていいですか」


「聞く前に手洗え」


「はい」


 須賀が洗面所へ向かう。


 敦はその背中を見送った。


「何もなかったみたいですね」


「飯食いに来ただけだろ」


「連絡なかったから」


「来ただろ」


「そうですけど」


 須賀が戻ってきた。


「今日どうだった?」


 敦が聞く。


「疲れました」


「何した?」


「棚から商品集めるやつ。最初、場所全然分からなくて」


「怒られた?」


「教えてもらいました」


「そっか」


「あと、一回違う箱持っていきました」


「大丈夫だった?」


「戻しました」


 須賀は椅子へ座った。


「明日、三日目です」


「うん」


「終わったら、続けるか聞かれるかもしれないって」


「どうする?」


「まだ決めてません」


「分かった」


 敦はそれ以上聞かなかった。


 前原がご飯をよそった。


「食え」


「ありがとうございます」


「明日も仕事なら、食ったら早く帰れ」


「はい」


「泊まってくとか言うなよ」


「言いませんよ」


 須賀が笑った。


 自分の部屋がある。


 帰る場所がある。


 だからここへ飯を食べに来て、また帰る。


 その当たり前の往復が、敦には少し嬉しかった。


         *


 木島正義が「前原」という姓を意識したのは、新しい会社で働き始めてしばらく経った頃だった。


 役所で書類を取った時だった。


 戸籍に記された名前。


 木島正義。


 父親の姓だった。


 酒を飲んでは暴れた父。


 母がいなくなったあと、家の中をさらに荒らした男。


 最後には警察沙汰になり、正義が青葉園へ入るきっかけになった。


 その名前を、正義はずっと使ってきた。


 嫌いだった。


 だが同時に、もう自分の名前でもあった。


 裏の仕事で呼ばれていたのも木島。


 坂口が呼んだのも木島。


 石田が頼ったのも木島。


 村瀬が、


「木島さんが大丈夫って言ったから」


 と言ったのも、その名前だった。


 名前を変えれば、それらが消える。


 そんな気がして。


 正義はしばらく、そのままにしていた。


 ある夜、坂口と飯を食べていた時だった。


「お前、前原って覚えてるか」


 坂口が唐突に言った。


「何が」


「おふくろさんの旧姓」


 正義の箸が止まった。


「……何でお前が知ってんだ」


「昔、お前が酔って喋った」


「覚えてねぇ」


「俺は覚えてる」


「忘れろ」


「無理だ」


 正義は飯を口へ運んだ。


「前原、か」


「そう言ってた」


「母親とは会ってねぇぞ」


「知ってる」


「探してもねぇ」


「それも知ってる」


「じゃあ何だよ」


「別に。名前変えたいって言ってたから」


 正義が顔を上げた。


「言ってねぇ」


「この前言ってた」


「いつ」


「『木島って呼ばれるの飽きた』って」


「それを名前変えたいって意味に取るな」


 坂口は笑った。


「でも、変えたいんだろ」


 正義は答えなかった。


         *


 それから何か月も考えた。


 母に会いたいわけではなかった。


 母を許したわけでもない。


 自分を置いていなくなったことを、なかったことにするつもりもない。


 ただ。


 木島という姓を一生使い続ける義務もない。


 そう思うようになった。


 成人してから、必要な手続きを調べた。


 思ったより簡単ではなかった。


 書類を集めた。


 事情を書いた。


 待った。


 その過程で何度も、


 ――こんなことして何になる。


 と思った。


 過去は変わらない。


 村瀬の怪我も消えない。


 石田がいなくなったことも変わらない。


 父親との記憶も。


 母親がいなくなったことも。


 青葉園で過ごした時間も。


 何一つ消えない。


 それでも。


 手続きを終え、新しい名前が書かれた書類を受け取った。


 前原正義。


 正義は長い間、その四文字を見ていた。


「……変な感じだな」


 誰に言うでもなく呟いた。


         *


 坂口に最初に見せた。


「お」


 坂口が書類を見る。


「前原正義」


「笑うなよ」


「笑ってねぇよ」


「顔が笑ってる」


「似合わねぇなと思って」


「ぶっ飛ばすぞ」


「木島よりはいい」


「どっちだよ」


 坂口は書類を返した。


「おふくろさんには?」


「言ってねぇ」


「そうか」


「許可も取ってねぇ」


「取る必要あるのか」


「知らん」


 正義は書類を折った。


「別に、母親のところへ戻ったわけじゃねぇ」


「ああ」


「俺が使うって決めただけだ」


「そうか」


「それだけ」


 坂口は頷いた。


「じゃあ、前原」


 正義が顔をしかめた。


「何だよ」


「呼んでみただけ」


「気持ち悪ぃな」


「前原」


「やめろ」


「正義」


「それはもっとやめろ!」


 坂口が笑った。


 正義も最後には笑った。


         *


 現在。


 三日目の夕方。


 須賀から敦へ電話が来た。


『終わりました』


「お疲れさま」


『はい』


「どうだった?」


『向こうから、もう少し続けてみないかって言われました』


 敦は椅子から身体を起こした。


「そうなんだ」


『はい』


「須賀は?」


 電話の向こうで少し間があった。


『まだ返事してません』


「うん」


『明日の昼まで待ってもらいました』


「そっか」


『岡野さん』


「ん?」


『どうしたらいいですか』


 敦はすぐには答えなかった。


「続けたい?」


『……分からないです』


「嫌だった?」


『嫌ではなかったです』


「できそう?」


『三日ならできました』


「じゃあ、何が引っかかってる?」


 須賀はしばらく黙った。


『朝です』


「朝?」


『今は九時からだったけど、続けるなら早い日もあるって』


「何時?」


『七時半の日があるって言われました』


「今の部屋から?」


『始発のバスなら、ぎりぎりです』


 敦は以前見た求人票を思い出した。


「それ、向こうに言った?」


『まだです』


「じゃあ、それを聞いてから決めてもいいんじゃない?」


『何て聞けばいいですか』


「そのままでいいと思う。今の住まいだと七時半はぎりぎりだから、毎回なのか、時間を相談できる日があるのか」


『そんなこと言っていいんですか』


「聞くのはいいんじゃない?」


『断られたら』


「その時、また考えよう」


 須賀は黙った。


『岡野さんは、続けた方がいいと思いますか』


 敦は答えかけて、止まった。


 仕事が見つかった。


 三日間できた。


 向こうから続けてほしいと言われた。


 だったら続けた方がいい。


 そう言いたくなる。


 けれど。


「俺が働くわけじゃないから」


 敦は言った。


『はい』


「俺は、須賀が三日行けたのはすごいと思ってる。でも、その先を決めるのは須賀だよ」


『……はい』


「条件を聞くの、一緒に考えることならできる」


『分かりました』


「今日、こっち来る?」


『今日は、自分の部屋に帰ります』


「うん」


『ちょっと一人で考えてみます』


「分かった」


『明日、連絡します』


「待ってる」


 電話が切れた。


 敦はスマートフォンを置いた。


 前原が向かいに座っていた。


「何ですか」


「別に」


「聞いてたでしょ」


「聞こえたんだよ」


「どう思います?」


「俺に聞くな」


「冷たいなあ」


「須賀にも同じこと言っただろ。お前が働くわけじゃねぇって」


「はい」


「俺も働かねぇ」


「それはそうですけど」


 前原は少し笑った。


「三日行った。それで向こうから続けろって言われた。十分だろ」


「まだ決まってないですよ」


「決まらなくてもだ」


 敦は前原を見る。


「三日前までは、電話一本かけるのも怖がってたんだろ」


「はい」


「もう自分で返事を待ってもらって、自分の部屋に帰って考えてる」


 前原は椅子にもたれた。


「それでいいじゃねぇか」


 敦は少し笑った。


「ヨシさん、たまにいいこと言いますね」


「たまにって何だ!」


         *


 夜。


 前原は古い書類の入った箱を開けていた。


 敦が覗き込む。


「また昔のものですか」


「ああ」


 青葉園の写真。


 古い手帳。


 運送会社で使っていた作業手帳。


 その間に、一枚の古い紙が挟まっていた。


 前原正義。


 新しい名前で働き始めた頃のものだった。


「ヨシさん」


「何だ」


「名前変えた時、人生変わった感じしました?」


 前原は紙を見た。


「全然」


「全然?」


「ああ。次の日も朝早ぇし、荷物は重いし、給料は安かった」


「夢がないなあ」


「名前変えたくらいで荷物軽くなったら苦労しねぇよ」


 敦は笑った。


「でも」


 前原が続ける。


「呼ばれた時は、ちょっと変だったな」


「前原って?」


「ああ」


「嬉しかった?」


「分からん」


「またそれですか」


「本当に分かんねぇんだよ」


 前原は紙を箱へ戻した。


「ただ、自分で選んだ名前が一個くらいあってもいいと思った」


 敦は頷いた。


 前原は箱を閉じた。


 木島正義だった時間は消えない。


 前原正義になったから、別の人間になったわけでもない。


 ただ、その先を何と呼ばれて歩くのか。


 それだけは、自分で選んだ。


 廊下の向こうからグエンが声を上げた。


「ヨシ!」


「何だ!」


「タカイ、トコ、トドカナイ!」


「お前、俺より背ぇ高いだろ!」


「オク!」


「何が奥なんだよ!」


 前原が立ち上がる。


 敦もついていった。


 台所では、グエンが棚の奥へ手を伸ばしている。


「これ!」


「鍋か?」


「ウン!」


「何でそんな奥に入れた!」


「ヨシ!」


「俺かよ!」


 敦が笑う。


「ヨシさん、頼られてますよ」


「こんなことで頼るな!」


「断ります?」


 前原は一瞬止まった。


「……取る」


「取るんだ」


「俺が入れたらしいからな!」


 三人で棚の中を覗き込んだ。


 結局、奥にあったのは鍋ではなく、蓋だけだった。


「ナベ、ナイ!」


「知らねぇよ!」


 事務所に笑い声が響いた。


 前原という名前で生き始めて、何十年も経った。


 その名前を呼ぶ人間は、昔とはずいぶん変わった。


 坂口もいる。


 川本もいる。


 敦も、隼人も、翔太もいる。


 そしてグエンだけは、名字ではなく今日も、


「ヨシ!」


 と呼ぶ。


「呼び捨てにすんな!」


「ヨシ!」


「聞けよ!」


 敦はまた笑った。


 名前を変えても、人生は急には変わらない。


 けれど、その名前を呼ぶ人たちは、少しずつ変わっていく。


 たぶん、それでいい。


⸻


後書き


第94話でした。


今回は、木島正義が裏社会から距離を取り、普通の仕事へ移り、そして「前原正義」という名前を選ぶまでを描きました。


前原という姓は、母方の姓です。


ただし、母親との再会や和解を意味するものではありません。母親を許したから選んだわけでも、父親との過去を消すためでもありません。


木島として生きてきた時間も、そこで行ったことも消えない。


その上で、これから自分が何と呼ばれて生きるかを、自分で選びました。


また、村瀬との最後の場面では、前原は「困ったら戻ってこい」とは言いませんでした。


優しい言葉であっても、相手が自分との関係から離れようとしている時には、引き止める言葉になることがあります。


現在では、須賀が三日間の短期勤務を終えました。


勤務先からは継続を打診されましたが、まだ決めていません。


早朝勤務という現実的な問題もあります。


仕事が見つかったから終わりではなく、生活と続けられる条件なのかを自分で確認してから決める。


須賀は「続けるかどうか」まで、自分で選ぼうとしています。


次回は少し空気を変えます。


前原の過去を何話か続けてきましたが、物語は再び現在の日常へ。


ある日の午後、敦たちの前に現れるのは、深刻な相談を抱えた誰か――ではありません。


財布に現金をほとんど持っていない、三人の中学生。


そして最初の一言は、


「ここ、PayPay使えます?」


です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。