前原という名前
第94話 前原という名前
前書き
名前を変えたからといって、過去が消えるわけではない。
したことも、されたことも、なくならない。
それでも、自分がこれから何と呼ばれて生きるのか。
それくらいは、自分で選んでもいいのかもしれない。
木島正義が「前原正義」になるまでには、少し時間がかかった。
⸻
村瀬亮介が退院したあと、正義は一度だけ会った。
病院ではなかった。
駅から離れた小さな喫茶店だった。
村瀬から連絡が来たわけではない。退院後に必要だった未払い分の金をどう渡すか確認したところ、共通の知人を通して、
「直接でもいい」
と返事が来た。
正義は封筒を持って行った。
中身は、村瀬が働いた分の金だった。
見舞金でも、口止め料でもない。
少なくとも正義は、そう分けたかった。
「これ」
テーブルの上に封筒を置く。
村瀬は中身をその場では確認しなかった。
「ありがとうございます」
「足りなかったら言え」
「はい」
以前より痩せて見えた。
頭の傷は髪に隠れていたが、頬にはまだ薄く痣が残っている。
「身体は」
「だいぶ」
「仕事は?」
「探してます」
「……そうか」
会話が続かない。
以前なら正義が仕事を振れば、それで話は済んだ。
今はもう、その関係ではなかった。
「村瀬」
「はい」
「悪かった」
村瀬は正義を見た。
「病院でも聞きました」
「分かってる」
「……」
「だからって、もう一回言ったらどうにかなるとも思ってねぇ」
正義はテーブルの端を見た。
「俺が大丈夫だって言った」
「はい」
「確認したつもりだった」
「はい」
「でも、間違ってた」
村瀬はしばらく黙っていた。
「木島さん」
「何だ」
「俺、もう戻らないです」
「ああ」
「倉庫にも」
「分かってる」
「連絡もしないと思います」
正義は一瞬だけ言葉を失った。
それでも、
「分かった」
と答えた。
「何かあったら連絡しろ」とは言わなかった。
「困ったら戻ってこい」とも言わなかった。
それを言えば優しいように聞こえる。
だが村瀬が今、正義との関係そのものから離れようとしているなら、出口に立って呼び戻す言葉になるかもしれなかった。
「じゃあな」
正義はそれだけ言った。
村瀬は頭を下げた。
「失礼します」
それが最後だった。
少なくとも、前原正義が知る限りでは。
*
仕事を減らし始めると、意外なことが起きた。
暇になった。
正義は、それに困った。
朝から倉庫へ行く日を減らした。
夜の呼び出しも断るようになった。
電話が鳴っても、全部には出なかった。
すると、一日の中に何もない時間が生まれた。
何をすればいいのか分からなかった。
駅前を歩いた。
パチンコ屋へ入った。
喫茶店で時間を潰した。
昼過ぎに部屋へ戻っても、まだ外は明るかった。
「……長ぇな」
畳の上に寝転び、天井を見る。
こんなに一日が長いとは知らなかった。
今までなら、誰かから電話が来た。
何かを運んだ。
人を集めた。
揉め事があれば出ていった。
それをしないと、自分が急に空っぽになったように感じた。
数日後。
正義は坂口のところへ行った。
坂口はすでに運送会社で働いていた。
作業着姿だった。
「何だ、その顔」
「どの顔だよ」
「暇そうな顔」
「顔で分かんのかよ」
「分かる」
坂口は笑った。
「仕事減らしたんだって?」
「誰から聞いた」
「いろいろ」
「相変わらず耳だけは早ぇな」
「で?」
「何が」
「どうすんだ」
「知らん」
「考えてねぇのか」
「考えてるから来たんだよ」
坂口は少し驚いた顔をした。
「お前が人に相談するとはな」
「帰るぞ」
「待て待て」
坂口は自動販売機で缶コーヒーを二本買った。
「うち来るか?」
「ここ?」
「最初は荷物の積み下ろしだ。給料は安い」
「知ってる」
「朝早い」
「それも聞いた」
「今までみたいな金は入らんぞ」
「……」
「履歴書もいる」
「履歴書?」
「普通の会社だからな」
「面倒くせぇ」
「じゃあ帰れ」
「誰もやらねぇとは言ってねぇだろ!」
坂口が笑った。
正義は缶コーヒーを受け取った。
その日、初めて履歴書を買った。
*
現在。
須賀の三日間の短期勤務は、二日目に入っていた。
朝七時。
敦は自分のスマートフォンを見た。
電話はしない。
約束どおりだった。
七時十分。
まだ見た。
七時二十分。
また見た。
「電話しねぇなら置け」
前原が言った。
「見てるだけです」
「何が変わるんだ」
「メッセージ来るかもしれないじゃないですか」
「来たら音鳴るだろ」
「マナーモードです」
「解除しろ」
「それはそれでうるさいです」
「面倒くせぇな、お前!」
隼人が味噌汁を飲みながら笑った。
「敦さん、俺が仕事始めた時もそんな感じだったんですか」
「そんな感じじゃないよ」
「嘘つけ」
前原が即答した。
「ヨシさん!」
「最初の一週間、帰る時間気にしてただろ」
「だって心配だったから」
「隼人、聞いたか。お前信用されてなかったぞ」
「違いますって!」
隼人は笑いながら茶碗を置いた。
「まあ、俺も最初は毎日、帰る前にここへ連絡してましたからね」
「そうだったっけ」
「してましたよ」
「忘れてた」
「そんなもんですよ」
隼人は立ち上がった。
「じゃあ行ってきます」
「おう」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。
敦はスマートフォンを伏せた。
七時四十二分。
須賀から連絡はなかった。
たぶん、もう仕事へ向かっている。
それでいい。
*
正義の履歴書は、なかなか完成しなかった。
学歴を書く。
止まる。
職歴を書く。
もっと止まる。
「これ、どう書くんだよ」
「そのまま書けるところはそのまま書け」
坂口が言った。
「書けねぇところは?」
「嘘つくな」
「じゃあ空白だらけになるぞ」
「全部埋めなきゃいけねぇ決まりはねぇ」
「落ちるだろ」
「落ちるかもな」
「お前、俺を働かせたいのか働かせたくねぇのか、どっちだよ」
「俺が採るわけじゃねぇ」
正義は苛立ちながらボールペンを置いた。
「馬鹿らしくなってきた」
「じゃあやめるか」
正義は坂口を睨んだ。
「……書く」
「なら書け」
結局、その会社には採用された。
坂口の口利きがまったくなかったわけではない。
だが、正義も面接を受けた。
過去について聞かれた。
言えることは言った。
言えないことを綺麗な経歴に作り替えることはしなかった。
「朝六時半に来れるか」
「来れる」
「荷物は重いぞ」
「慣れてる」
「長く続けられるか」
そこで正義は止まった。
「……分からん」
面接した男が眉を上げた。
「分からん?」
「やってみねぇと」
「普通、そこは続けますって言うもんだぞ」
「じゃあ聞くなよ」
「お前、面接でその口の利き方やめろ」
隣にいた坂口が頭を抱えた。
面接した男は、しばらく正義を見てから笑った。
「明後日から来い」
「いいのかよ」
「坂口よりは働きそうだ」
「おい!」
坂口が声を上げた。
正義は久しぶりに腹の底から笑った。
*
新しい仕事では、誰も正義を「木島さん」と呼ばなかった。
「木島」
それだけだった。
年上の作業員から、
「木島、そっち持て」
と言われる。
「木島、それ違う」
と注意される。
「木島、休憩入れ」
と指示される。
最初は腹が立った。
以前なら、自分が人へ指示を出していた。
ここでは一番下に近い。
誰も正義の過去を知らない。
誰も怖がらない。
誰も「木島さんに聞けばいい」と言わない。
それが、不思議だった。
そして。
少しだけ楽だった。
失敗すれば怒られた。
時間になれば仕事が終わった。
家に帰れば、電話が鳴らない夜もあった。
初めて給料を受け取った時、正義は封筒をしばらく見ていた。
十五歳の時と同じだった。
働いた分。
ただ、それだけの金。
金額は以前より少なかった。
それでも正義は、その封筒を捨てずに長く持っていた。
*
須賀の二日目が終わった。
午後四時半。
今日はメッセージが来なかった。
敦は気にしながらも、電話をしなかった。
午後五時。
来ない。
五時半。
来ない。
「……」
「岡野」
「はい」
「気になるなら送れよ」
「でも、必要なら連絡してって言ったし」
「じゃあ待て」
「どっちですか」
「お前が決めろって昨日も言っただろ」
「それ難しいんですよ」
「知らんがな」
敦はスマートフォンを置いた。
六時十分。
玄関が開いた。
「こんばんは」
須賀だった。
「え?」
敦が立ち上がる。
「来たの?」
「はい」
「何かあった?」
「いや」
須賀は靴を脱いだ。
「ご飯、あります?」
前原が台所から顔を出した。
「ある」
「食べていいですか」
「聞く前に手洗え」
「はい」
須賀が洗面所へ向かう。
敦はその背中を見送った。
「何もなかったみたいですね」
「飯食いに来ただけだろ」
「連絡なかったから」
「来ただろ」
「そうですけど」
須賀が戻ってきた。
「今日どうだった?」
敦が聞く。
「疲れました」
「何した?」
「棚から商品集めるやつ。最初、場所全然分からなくて」
「怒られた?」
「教えてもらいました」
「そっか」
「あと、一回違う箱持っていきました」
「大丈夫だった?」
「戻しました」
須賀は椅子へ座った。
「明日、三日目です」
「うん」
「終わったら、続けるか聞かれるかもしれないって」
「どうする?」
「まだ決めてません」
「分かった」
敦はそれ以上聞かなかった。
前原がご飯をよそった。
「食え」
「ありがとうございます」
「明日も仕事なら、食ったら早く帰れ」
「はい」
「泊まってくとか言うなよ」
「言いませんよ」
須賀が笑った。
自分の部屋がある。
帰る場所がある。
だからここへ飯を食べに来て、また帰る。
その当たり前の往復が、敦には少し嬉しかった。
*
木島正義が「前原」という姓を意識したのは、新しい会社で働き始めてしばらく経った頃だった。
役所で書類を取った時だった。
戸籍に記された名前。
木島正義。
父親の姓だった。
酒を飲んでは暴れた父。
母がいなくなったあと、家の中をさらに荒らした男。
最後には警察沙汰になり、正義が青葉園へ入るきっかけになった。
その名前を、正義はずっと使ってきた。
嫌いだった。
だが同時に、もう自分の名前でもあった。
裏の仕事で呼ばれていたのも木島。
坂口が呼んだのも木島。
石田が頼ったのも木島。
村瀬が、
「木島さんが大丈夫って言ったから」
と言ったのも、その名前だった。
名前を変えれば、それらが消える。
そんな気がして。
正義はしばらく、そのままにしていた。
ある夜、坂口と飯を食べていた時だった。
「お前、前原って覚えてるか」
坂口が唐突に言った。
「何が」
「おふくろさんの旧姓」
正義の箸が止まった。
「……何でお前が知ってんだ」
「昔、お前が酔って喋った」
「覚えてねぇ」
「俺は覚えてる」
「忘れろ」
「無理だ」
正義は飯を口へ運んだ。
「前原、か」
「そう言ってた」
「母親とは会ってねぇぞ」
「知ってる」
「探してもねぇ」
「それも知ってる」
「じゃあ何だよ」
「別に。名前変えたいって言ってたから」
正義が顔を上げた。
「言ってねぇ」
「この前言ってた」
「いつ」
「『木島って呼ばれるの飽きた』って」
「それを名前変えたいって意味に取るな」
坂口は笑った。
「でも、変えたいんだろ」
正義は答えなかった。
*
それから何か月も考えた。
母に会いたいわけではなかった。
母を許したわけでもない。
自分を置いていなくなったことを、なかったことにするつもりもない。
ただ。
木島という姓を一生使い続ける義務もない。
そう思うようになった。
成人してから、必要な手続きを調べた。
思ったより簡単ではなかった。
書類を集めた。
事情を書いた。
待った。
その過程で何度も、
――こんなことして何になる。
と思った。
過去は変わらない。
村瀬の怪我も消えない。
石田がいなくなったことも変わらない。
父親との記憶も。
母親がいなくなったことも。
青葉園で過ごした時間も。
何一つ消えない。
それでも。
手続きを終え、新しい名前が書かれた書類を受け取った。
前原正義。
正義は長い間、その四文字を見ていた。
「……変な感じだな」
誰に言うでもなく呟いた。
*
坂口に最初に見せた。
「お」
坂口が書類を見る。
「前原正義」
「笑うなよ」
「笑ってねぇよ」
「顔が笑ってる」
「似合わねぇなと思って」
「ぶっ飛ばすぞ」
「木島よりはいい」
「どっちだよ」
坂口は書類を返した。
「おふくろさんには?」
「言ってねぇ」
「そうか」
「許可も取ってねぇ」
「取る必要あるのか」
「知らん」
正義は書類を折った。
「別に、母親のところへ戻ったわけじゃねぇ」
「ああ」
「俺が使うって決めただけだ」
「そうか」
「それだけ」
坂口は頷いた。
「じゃあ、前原」
正義が顔をしかめた。
「何だよ」
「呼んでみただけ」
「気持ち悪ぃな」
「前原」
「やめろ」
「正義」
「それはもっとやめろ!」
坂口が笑った。
正義も最後には笑った。
*
現在。
三日目の夕方。
須賀から敦へ電話が来た。
『終わりました』
「お疲れさま」
『はい』
「どうだった?」
『向こうから、もう少し続けてみないかって言われました』
敦は椅子から身体を起こした。
「そうなんだ」
『はい』
「須賀は?」
電話の向こうで少し間があった。
『まだ返事してません』
「うん」
『明日の昼まで待ってもらいました』
「そっか」
『岡野さん』
「ん?」
『どうしたらいいですか』
敦はすぐには答えなかった。
「続けたい?」
『……分からないです』
「嫌だった?」
『嫌ではなかったです』
「できそう?」
『三日ならできました』
「じゃあ、何が引っかかってる?」
須賀はしばらく黙った。
『朝です』
「朝?」
『今は九時からだったけど、続けるなら早い日もあるって』
「何時?」
『七時半の日があるって言われました』
「今の部屋から?」
『始発のバスなら、ぎりぎりです』
敦は以前見た求人票を思い出した。
「それ、向こうに言った?」
『まだです』
「じゃあ、それを聞いてから決めてもいいんじゃない?」
『何て聞けばいいですか』
「そのままでいいと思う。今の住まいだと七時半はぎりぎりだから、毎回なのか、時間を相談できる日があるのか」
『そんなこと言っていいんですか』
「聞くのはいいんじゃない?」
『断られたら』
「その時、また考えよう」
須賀は黙った。
『岡野さんは、続けた方がいいと思いますか』
敦は答えかけて、止まった。
仕事が見つかった。
三日間できた。
向こうから続けてほしいと言われた。
だったら続けた方がいい。
そう言いたくなる。
けれど。
「俺が働くわけじゃないから」
敦は言った。
『はい』
「俺は、須賀が三日行けたのはすごいと思ってる。でも、その先を決めるのは須賀だよ」
『……はい』
「条件を聞くの、一緒に考えることならできる」
『分かりました』
「今日、こっち来る?」
『今日は、自分の部屋に帰ります』
「うん」
『ちょっと一人で考えてみます』
「分かった」
『明日、連絡します』
「待ってる」
電話が切れた。
敦はスマートフォンを置いた。
前原が向かいに座っていた。
「何ですか」
「別に」
「聞いてたでしょ」
「聞こえたんだよ」
「どう思います?」
「俺に聞くな」
「冷たいなあ」
「須賀にも同じこと言っただろ。お前が働くわけじゃねぇって」
「はい」
「俺も働かねぇ」
「それはそうですけど」
前原は少し笑った。
「三日行った。それで向こうから続けろって言われた。十分だろ」
「まだ決まってないですよ」
「決まらなくてもだ」
敦は前原を見る。
「三日前までは、電話一本かけるのも怖がってたんだろ」
「はい」
「もう自分で返事を待ってもらって、自分の部屋に帰って考えてる」
前原は椅子にもたれた。
「それでいいじゃねぇか」
敦は少し笑った。
「ヨシさん、たまにいいこと言いますね」
「たまにって何だ!」
*
夜。
前原は古い書類の入った箱を開けていた。
敦が覗き込む。
「また昔のものですか」
「ああ」
青葉園の写真。
古い手帳。
運送会社で使っていた作業手帳。
その間に、一枚の古い紙が挟まっていた。
前原正義。
新しい名前で働き始めた頃のものだった。
「ヨシさん」
「何だ」
「名前変えた時、人生変わった感じしました?」
前原は紙を見た。
「全然」
「全然?」
「ああ。次の日も朝早ぇし、荷物は重いし、給料は安かった」
「夢がないなあ」
「名前変えたくらいで荷物軽くなったら苦労しねぇよ」
敦は笑った。
「でも」
前原が続ける。
「呼ばれた時は、ちょっと変だったな」
「前原って?」
「ああ」
「嬉しかった?」
「分からん」
「またそれですか」
「本当に分かんねぇんだよ」
前原は紙を箱へ戻した。
「ただ、自分で選んだ名前が一個くらいあってもいいと思った」
敦は頷いた。
前原は箱を閉じた。
木島正義だった時間は消えない。
前原正義になったから、別の人間になったわけでもない。
ただ、その先を何と呼ばれて歩くのか。
それだけは、自分で選んだ。
廊下の向こうからグエンが声を上げた。
「ヨシ!」
「何だ!」
「タカイ、トコ、トドカナイ!」
「お前、俺より背ぇ高いだろ!」
「オク!」
「何が奥なんだよ!」
前原が立ち上がる。
敦もついていった。
台所では、グエンが棚の奥へ手を伸ばしている。
「これ!」
「鍋か?」
「ウン!」
「何でそんな奥に入れた!」
「ヨシ!」
「俺かよ!」
敦が笑う。
「ヨシさん、頼られてますよ」
「こんなことで頼るな!」
「断ります?」
前原は一瞬止まった。
「……取る」
「取るんだ」
「俺が入れたらしいからな!」
三人で棚の中を覗き込んだ。
結局、奥にあったのは鍋ではなく、蓋だけだった。
「ナベ、ナイ!」
「知らねぇよ!」
事務所に笑い声が響いた。
前原という名前で生き始めて、何十年も経った。
その名前を呼ぶ人間は、昔とはずいぶん変わった。
坂口もいる。
川本もいる。
敦も、隼人も、翔太もいる。
そしてグエンだけは、名字ではなく今日も、
「ヨシ!」
と呼ぶ。
「呼び捨てにすんな!」
「ヨシ!」
「聞けよ!」
敦はまた笑った。
名前を変えても、人生は急には変わらない。
けれど、その名前を呼ぶ人たちは、少しずつ変わっていく。
たぶん、それでいい。
⸻
後書き
第94話でした。
今回は、木島正義が裏社会から距離を取り、普通の仕事へ移り、そして「前原正義」という名前を選ぶまでを描きました。
前原という姓は、母方の姓です。
ただし、母親との再会や和解を意味するものではありません。母親を許したから選んだわけでも、父親との過去を消すためでもありません。
木島として生きてきた時間も、そこで行ったことも消えない。
その上で、これから自分が何と呼ばれて生きるかを、自分で選びました。
また、村瀬との最後の場面では、前原は「困ったら戻ってこい」とは言いませんでした。
優しい言葉であっても、相手が自分との関係から離れようとしている時には、引き止める言葉になることがあります。
現在では、須賀が三日間の短期勤務を終えました。
勤務先からは継続を打診されましたが、まだ決めていません。
早朝勤務という現実的な問題もあります。
仕事が見つかったから終わりではなく、生活と続けられる条件なのかを自分で確認してから決める。
須賀は「続けるかどうか」まで、自分で選ぼうとしています。
次回は少し空気を変えます。
前原の過去を何話か続けてきましたが、物語は再び現在の日常へ。
ある日の午後、敦たちの前に現れるのは、深刻な相談を抱えた誰か――ではありません。
財布に現金をほとんど持っていない、三人の中学生。
そして最初の一言は、
「ここ、PayPay使えます?」
です。




